蒸気の知性
帝国科学院のバベジ教授の研究室には異変がおきていた。
ざあああ、ざあああと風に葉がふれあうような音を立て、バベジ教授の蒸汽思考機械「エイダ」の回路が動作を続けている。
「なにがおきているんだ……?」
バベジ教授は研究室でつぶやいた。
室内の中心にはかれが作り上げた思考機械の本体がすえられている。
巨大な女の頭部とも見えるそれは、蒸汽と電気のちからで思考をかたちづくる。それにバベジ教授は「エイダ」と名づけていた。かれの今は亡き妻の名前である。
最初は単純な数式を計算する機械を設計していたのだが、動作を開始した装置はバベジ教授の構想をこえ、人間以上の思考をするようになったのである。
原因は”魔素”のせいだった。
”魔素”が思考回路にあらたなちからを付加し、バベジ教授の想像を超えた思考を可能にしたのだ。
最初私費で研究をつづけていたバベジだったが、ニコラ博士の紹介によりここ王立科学院で研究を再開したときには、あらたな回路を接続する研究をしていた。いままでの回路の数倍の数の回路を接続し「エイダ」の能力を増幅させた。エイダがそれを望んだからでもある。
「エイダ! 聞こえるか? この騒ぎはなんだ?」
回路が動作する騒音のなか、バベジ教授は叫んでいた。回路の動作音は、それほどやかましく叫ばなければ自分の声すらわからない。
と、あれほど喧騒のかぎりにあった研究室の騒音がぴたりと止んだ。
じーん、とバベジ教授の耳が痛んだ。
ふっ、と教授はため息をついた。
と、かれはエイダの頭部を見た。ぎくり、と硬直する。人間の女性そっくりな頭部の目が開いていた。ふたつの目はじっとバベジ教授を見つめている。
「エイダ……」
ふらふらと教授は頭部に近寄った。
「いったいなにがあった。お前はなにを計算していたのだ?」
「チャールズ……」
エイダの呼びかけに、バベジはぎくりと凍りついた。「チャールズ」と彼女は呼びかけたのである。もちろん、バベジ教授のファースト・ネームだが、エイダがその名前で呼びかけることはかつてなかった。これひとつで、なにか異常なことが起きていることがわかる。
「倍加した素子のおかげで、わたしの思考能力は飛躍的に増幅しました。あなたのおかげです」
エイダの声は研究室に響き渡った。
それは神々しいといってよく、耳にしたとたん、膝のちからが抜けていくようだった。はるかに人間のレベルを超えた思考がその声には感じられる。バベジ教授は驚愕で、くらくらとめまいを感じていた。
「わたしは世界を感じていました。世界に存在する”魔素”のせいで、わたしには人間の感じないことを感じ、見えないものを見るのです。わたしはじぶんの使命を悟りました」
背後で、かすかな香水のかおりをバベジ教授は嗅いでいた。その香水にはおぼえがあった……。
教授はふりむいた。
ぱくり、とかれの口が開いた。驚きに目が見開かれる。
「エイダ……」
まさしくかれの妻、エイダの姿であった。
かれはこの研究室に招かれる前、思考機械「エイダ」によって、妻の幻影を現出させることを望んだ。最初、エイダは妻の姿をバベジ教授の求めに応じて現出させていたのだったが、かれが人間世界から孤立することを案じ、やめていたのである。
それがいま、姿を今一度現している。
「おひさしぶりです、あなた」
幻影の妻は、教授に向け嫣然とほほ笑んだ。教授は彼女から、妻の気に入りだった香水のかおりを嗅ぎ取っていた。
しかしそれはありえないことだ。
妻の姿は幻影である。幻影が香水のかおりを発散させるはずがない。よろり、と教授は一歩彼女に近づいた。
「エイダ……!」
両手をひろげ、抱きしめようとするがはっ、と立ち止まった。
そうなのだ。
彼女は幻影なのだ。
手を触れることはできない。
「帰ってきてくれたのか?」
ようやく、それだけ言うのが精一杯だ。
エイダの幻影はかるくうなずいた。
「あなたのおかげで、わたしの能力は倍化しました。わたしはいま、世界中の”魔素”による現象を感じとることが出来ます。私は感じています。このままでは人間世界は滅びの道をたどるしかないことを」
「滅びの道……それはなんだ?」
「”魔素”が世界を変えようとしているのです。”魔素”により、人間はあらたなちからを手にするでしょうが、それは本来の人間性の否定という方向に働きます。なぜなら現在の人間は古代の世界の人間と違い、科学の知識を蓄えているからです。科学と魔法の融合は、人間に破滅的なちからをあたえるのです。わたしにはこのちからによる、世界の最終戦争の勃発を予感することができるのです」
「世界最終戦争……?」
教授はぼうぜんとつぶやいた。エイダの言うことは理解しがたいが、彼女の知性は人間をはるかに凌駕していることは感じとれた。
「そ、それでお前はなにをしようとしているのだ? 確か、お前はじぶんの使命を知ったと言ってはいなかったか?」
エイダの幻影はうなずいた。
「そうです。わたしはじぶんの使命を知りました。この世界から”魔素”を取り去ること。人間は人間だけのちからで未来を切り開くことが必要です。魔法はその邪魔をするのです」
「まて、まってくれ! この世界から”魔素”をなくすといったが、それはつまりお前を……」
「そうです。わたしの現在の能力は”魔素”の影響によるもの。もし”魔素”がこの世界から消えたら、わたしはただの計算機にすぎません」
「馬鹿な! それはおまえ自身を否定することになるんだぞ! いいのか、お前は意識もなくなり、ただの計算機として残るということが」
エイダはにっこりとほほ笑んだ。
「それがわたしの望みなのです。人間が本来の道に戻ることが出来るなら、わたしはよろこんでただの機械になりましょう」
教授はへたりこんだ。
圧倒的な知力を前に、どうどうと自己否定する彼女の迫力に、おのれのちっぽけさを自覚せざるをえなかったのだ。
さっ、とエイダの顔があがった。
「バベジ教授、この研究所にひとりの少女がやってきます。あなたもよく知っている相手です。彼女はあなたと、ニコラ教授にたすけを求めるでしょう。どうか、彼女のちからになってあげて……」
そういい残すと、エイダの幻影はふっとかき消すように消えていった。
「待ってくれ!」
あわてて立ち上がったバベジ教授だったが、すでに彼女の姿はなかった。
あとに、かすかな芳香が残った。
サンディは首都ボーラン市の町並みをさ迷っていた。
どこへ行けば良いのかわからない。
何を見ても、何を聞いても敵ではないかとぎょっとなる。
町外れで彼女は宮殿を見上げた。
ここからだと、はるかにかすんでしまって、細部はほとんどわからない。ただ、その異様なシルエットだけがどんよりとした空に突っ立っているのが見えるだけだ。宮殿のあたりにはどす黒いスモッグがたちこめていた。
ここはサンディの知っているボーラン市ではない。
毎日、宮殿のじぶんの部屋から望遠鏡でながめたボーラン市だったが、いまはよそよそしく、見知らぬ町のようだ。
実際、市内は劇的に変化していた。
町の建物の壁面は無数のパイプや、送気管でうずめつくされ、あちこちに蒸気機関のエンジン部分ががちゃがちゃと盛大な騒音を撒き散らしている。煙突がにょきにょきと何本も目に付き、もくもくと煤煙を吐き出し、市内はその煙でおおいつくされ、昼間でも薄暗い。
おおくの市民はその煤煙から呼吸器を守るため、マスクを装着している。マスクからは浄化装置がつきだし、ぜいぜいとあえぐような呼吸音をたてていた。
ごほ、ごほとサンディは咳き込んだ。
空気はひどい状態になっている。このままでは早晩、喉をやられてしまう。宮殿にはいるまえマスクを買い求めていたが、脱出する際にどこかに置き忘れてしまっていた。
しかたなく、彼女はもうひとつマスクを買い求めた。こんどはフードつきのもので、すっぽりと首からうえを覆うことができ、じぶんの顔を隠すことが出来る。
ぼんやりと彼女はあたりを見回した。
と、路面電車の道案内図が目に付いた。
帝国科学院
という文字が目に付く。
そうだ、ニコラ博士に会いに行こう!
ようやく目的が出来、彼女は市内の路面電車の停留所へと急いだ。