幻影
サンディは王宮で危機にあう。ギャンが登場し、彼女を誘惑するが……
「ねえ、サンディ。わかってくれるわね? あたし、あの方となんとしても結婚したいのよ。あたしに皇女の位を譲って!」
じりじりとエイラがサンディに迫ってきた。サンディは目を瞠り、あとじさった。こんなエイラははじめて見た。
「エイラ、あなた本気で言っているの?」
「本気よ! この恋はだれにも邪魔されない。たとえあなたにでも……」
彼女の表情は狂気、そのものだった。
「ねえ、エイラ。そんなことは出来ないわ。そりゃ、あたしも平民の娘になれたらいいだろうなあ、なんて夢想したことは認めるわ。でもこれはどうしようもないことなの。みんなを騙すことになるのよ!」
「それがなによ! あんたは勝手だわ! じぶんだけ外の暮らしを楽しみたいとあたしにあんたの役目を押し付けて……」
ふいにエイラは意地の悪い笑みを浮かべた。
「でももう、手遅れだけど……あなたはもう、プリンセスなんかじゃないわ!」
それはどういう意味? といいかけたサンディは口を閉ざした。
その時、部屋のドアにノックがしたのである。
はっ、とサンディとエイラは扉の方向を見た。
「失礼いたします。ご学業の時間でございます」
聞こえてきたのは中年の女の声である。
サンディの家庭教師、タビア女史の声だ。 がちゃり、と扉が開き、タビア女史のやせた顔があらわれた。
あいかわらず地味ないでたちで、黒髪をきりりと後頭部でまとめている。女史は室内に眼をやり、驚きの表情をあらわにした。
「あなたは……」
「タビアさん……あたし、戻ってきたの」
女史はサンディの顔を見てぽかん、と口を開いた。
「戻ってきた……?」
サンディはタビア女史の前に進み出た。
もう、何年も彼女の顔を見ていない気がする。彼女の学習の時間はいやでいやでしかたなかったが、いまでは懐かしさがこみあげてくる。
「ごめんなさい。勝手に城を飛び出たりして、迷惑をかけたわね」
タビア女史は無表情にサンディの顔を見つめていた。驚きの表情はすでに消えうせ、いつもの冷静そのものの態度にもどっている。
彼女は口を開いた。
「あなたはどなたですか?」
えっ、とサンディが驚く番だった。
タビア女史はさらに言葉を重ねた。
「失礼ですが、わたしにはあなたに見覚えがございません。サンドラ様のお部屋にいらしているということはご学友のおひとりなのでしょうか?」
たじたじとサンディはあとじさった。
「タビアさん、あなた……?」
そのときエイラが鋭く声をかけた。
「その娘、あたしの部屋へ無断で入ってきたのよ! きっとお父様の命を狙う、暗殺者かなにかだわ!」
タビア女史の顔が険しいものになった。
「暗殺者! なんということでしょう!」
さっとサンディの側をすり抜け、エイラの前にまわりこみ、彼女をまもるようにたちはだかった。
「曲者! 許しませんよ! 衛兵! 衛兵! すぐ来るのです!」
タビア女史の叫び声に応じ、廊下の方向からばたばたという数人の足音が聞こえてきた。
はっ、とサンディは廊下に顔をつきだした。曲がり角から人影が壁に映っているのが見えた。
逃げなくては!
なにがなにやら判らなかったが、異常なことが起きていることは感じられる。
彼女は廊下に飛び出し、走り出した。
背後からタビア女史の「曲者! 曲者!」という声が追いかけてくる。
逃げるサンディの目に涙があふれてきた。
なぜ、タビア女史はじぶんのことを知らないというのだ!
いつの間にかサンディは宮廷の奥深くへ進んでいた。衛兵たちの足音も聞こえない。どうやら振り切ることに成功したらしい。この宮殿の内部については、サンディはすみからすみまで知り尽くしている。したがって、追っ手をまくことなど彼女にとっては朝飯前のことだ。サンディはじぶんがどこにいるのか、あたりを見回した。
中庭に面したところにいることに気づき、サンディは皇帝の執務室が近いことを思い出した。
皇帝。
つまり彼女の父親である。
お父さま……。
その言葉を胸でつぶやくサンディの目に、涙があふれた。
考えてみれば、父親ともずいぶん顔を合わしていない。なにしろ実の父とはいえ、帝国の皇帝である。まわりには父を守ると称し、無数の廷臣がとりかこみ、サンディが会おうと思ってもそうは簡単にいくわけもない。
父親に会おう。
サンディは決意し、歩き出した。
執務室のドアを前に、サンディは息を吸い込んだ。
皇帝の執務室というのに、ドアは簡素な一枚板で、まるでどこかの商店のあるじが使用する部屋のようだ。
衛士の姿はない。この廊下に通じる出入り口を守っているのだ。サンディは衛士たちの目の届かない通路を知っていたので、だれにも見咎められることなく、達することができた。
手をあげ、ノックする。
おはいり、という老人の優しげな声が聞こえてきた。
ノブを掴み、サンディは歩み寄った。
はいると、デスクがひとつ窓際にあり、椅子にはひとりの老人が老眼鏡を目にかけ、なにか報告書を読みふけっているところだった。椅子の背後には窓が開け放たれ、中庭のあかるい日差しが部屋に差し込んでいる。
老人はサンディの入室の気配に気づき、顔をあげた。
痩せた顔に、整頓された目鼻立ちが品良くちまちまと収まっている。とても一国の皇帝とは思えない。どこかの図書館の司書といった雰囲気の老人である。しかし、かれこそコラル帝国の皇帝、グレゴリオ四世そのひとだった。
「きみは……」
老人はいいかけ、首をかしげた。
眼鏡をはずし、ハンカチで丁寧に拭くとふたたびかけなおす。しげしげとサンディを見つめているが、その瞳にはなんの表情もうかんでいない。
「お父さま……!」
サンディは老人に近づいた。
皇帝はぎょっとなったようだ。
「だれかね? わしには娘はサンドラひとりしかおらん。ほかに娘はおらんよ」
「まさか! ねえ、お父さま。あたしよ、サンディよ!」
老人はのけぞるようにして驚きの表情を見せた。
「知らん! わしはお前さんのような娘には知り合いはおらんぞ!」
その時、隣の部屋のドアが開き、ひとりの恰幅のいい中年の男がはいってきた。
「なんの騒ぎです?」
フーシェ内務大臣である。かれは部屋にはいるなり、サンディに気づいた。
「だれです? 見慣れない娘だが」
皇帝はすくわれたように大臣を見た。
「わしの娘だと言い張るのだ。いったいなんのことやら……」
「娘……プリンセスだと?」
そう言うと内務大臣は目を細めてサンディを見た。
「嘘をつくにもほどがある! わたしはプリンセスのサンドラ嬢をよく見知っておりますが、彼女とは似ても似つきませんぞ! おい、お前!」
最後の言葉はサンディに向けたものだった。
「いったいどこの娘だ? だいいち、どうやってこの宮廷に入り込んだ?」
サンディは真っ青になった。
内務大臣どころか、父親のグレゴリオ四世までじぶんを知らないと言う!
まるで彼女の足もとががらがらと崩れ、亀裂に飲み込まれるような気分だった。
ばたばたと数人分の足音が近づいてくる。
「曲者だ! 暗殺者かもしれん!」
「まだ若い娘だ……」
「こっちで見かけたと報告があったぞ!」
衛士たちの声が交錯している。
その声に、大臣と皇帝はサンディを見つめた。
「暗殺者……という声が聞こえたな」
フーシェ大臣がゆっくりとつぶやいた。
違う……と、サンディは首をふった。
ふたりはサンディをなんの感情もあらわさない、冷たい表情で見つめた。それは彼女を危険人物と断じる視線であった。
だんだんだん! と、執務室のドアが外部から叩かれた。
「失礼いたします! この付近にあやしい少女が侵入したという報告がありました。なにかありましたでしょうか?」
衛士の声が聞こえてくる。
フーシェ大臣は叫んだ。
「ここにいるぞ! すぐ入って来い!」
がちゃがちゃとノブをまわす音がする。
もう、サンディは留まっているわけには行かないと思った。だっ、と駆け出すとあっけにとられたフーシェの横をすり抜け、開け放たれている窓から外へ飛び出す。
窓から中庭へ。
ちらりと振り返ると、ドアが開き衛兵たちがなだれこんできたところだった。フーシェがサンディのほうを指さし、あれが曲者だと叫んでいる。
彼女はしゃにむに走り出した。
どこをどう走り回ったのだろう。
気がつくとサンディは城の上階へときていた。
しん、とあたりは静まりかえっている。
空気はひやりとして、あたりにはずっしりとした闇がわだかまっている。
奇妙だ……と、サンディは思った。
じぶんは宮殿のありとあらゆる場所をじぶんの手の平のように見知っているはずだったが、いまいるこの場所にはまるで見覚えがなかった。
外から見た宮殿の様子が思い出される。
宮殿の外見は、サンディの覚えていたそれではなくなっていた。
なにか夢の中の建物のように歪み、無数のパイプが繋がって、しろい蒸汽に包まれていた。
いまいる場所も、それによく似ている。
通路のようだが、その壁は微妙に歪み、かっちりとした直角や、平面というのがなくなっている。くねくねとした曲線が支配し、どこか植物的といった雰囲気だった。
もしここにミリィがいたら、ゴラン神聖皇国の聖堂の内部に似ていると指摘したはずである。
窓はなく、かわりに壁に松明が明かりを投げかけている。
ぞくぞくとサンディは寒気を感じていた。
そっと壁に手をやると、じっとりと湿っていた。
空気がいやに湿っぽい。
ねっとりとした湿気に、温度は高めだったが、それでもサンディには奇妙な寒気を感じていた。
用心深くサンディは歩き出した。
くねくねと動物の内臓のような通路は歩きにくく、さらに床や壁からつきだしたパイプや配管が、気をつけていないと足もとをすくわれそうになる。
前方が明るい。
ふいにサンディは広々とした場所へ出ていた。
しゅーっ……と、白い蒸汽が噴きあがり、あたりを蒙気につつんでいる。太いパイプが何本も天井から垂れ下がり、床にはいくつもの噴気孔がぽかりとうつろな穴を開いていた。
「誰だ……」
ふいの誰何にサンディははっ、と顔を上げた。
部屋の向こう側、蒸汽ににじむ向こうに玉座のような背の高い椅子がある。その椅子にも無数のパイプがつながり、盛大に蒸汽の柱をつくっていた。
その椅子に、ひとりの男が腰かけている。男は軍服を身につけ、肩にはゆったりとしたマントを羽織っていた。軍帽をまぶかにかぶり、その表情は読めない。ただ、その軍帽から金色の髪の毛が伸びているのが目にとまった。髪の毛はかなり長く、肩までおおうほどである。
すっ、と男は立ち上がった。
背の高い、痩せた身体つき。しかしひ弱さはかけらもなく、獰猛な獣の雰囲気がまとわりついていた。
軍帽のまびさしから見える顔の下半分は顎が奇妙に尖り、その唇はうすく、酷薄そうな笑いを浮かべていた。
「あなたはだれ?」
サンディの声は恐怖でささやき声になっていた。それだけ言葉を発しただけでも、彼女の全精力を振り絞る必要があった。
「ギャン少佐……」
その答えにサンディは飛び上がった。
「あなたが!」
そう……と、ギャンはうっすらとうなずいた。
「おれがレディ・サンドラ・ドゥ・アンクル・コラル・カチャイ嬢の婚約者だ」
「嘘よ!」
サンディはきっと表情をこわばらせた。
「そんなの嘘!」
くくくく……と、ギャンは笑い声をあげた。
「しかしあいにく、それは本当だ。サンドラ嬢の婚約者というのが気に食わないのなら、エイラの婚約者というのはどうだね?」
「あなたは、いったい何者なの? なぜそのことを……」
「お前は本物のサンドラ・ドゥ・アンクル・コラル・カチャイなのだな? コラル帝国皇帝のプリンセス……しかしいまはただのサンディ……」
あなたは何者! サンディの詰問は悲鳴に近かった。
にやり、とギャンは笑った。唇の端がきゅっとV字に吊りあがり、まさしく悪魔の笑みである。
ゆらり、とかれは玉座から階段を降りるとサンディに近づいた。羽織っていたマントが噴きあがる蒸気ではためいた。
ひょろりとした高みからサンディを見下ろす。
「ここに来るまで、君は信じられないことを体験したのではないかな? 君を知るはずの人々が、まるで見知らぬ人のようになる……君はここではだれにも助けを求めることはできない……」
サンディの唇はわなわなと震えていた。膝から力が抜け、座り込みそうになる。
「誰よ……あなた……」
「おれはギャン少佐……未来のコラル帝国皇帝……」
「お父さまが……」
「かれはもう、真の皇帝ではない。いまではおれの操り人形にすぎぬ。エイラことサンドラ嬢と結婚し、皇帝の座を手に入れるのがおれの望みだ。そしてお前!」
ギャンは叫ぶと指を彼女につきたてた。
「父を、そして親友を取り戻したくはないか? お前はここではひとりぼっちだ! だれひとりお前には優しい顔を見せることはなく、親しい言葉をかけることはもうないだろう。そう、おれがすべてそう手配した。それらを取り消すことの出来るのはおれだけだ! お前がうん、と言えば元に戻してやろう」
サンディは目に涙をいっぱいうかべていた。
ギャンと名乗るこの男の言うことは真実だと、こころの奥底で悟っていた。
「なにをすればいいの?」
その答えにギャンは満足そうにうなずいた。
顔をサンディにぐっと近づけ、ささやく。指をサンディの顎につけ、仰向ける。ふたりの目は近々と接近した。
「おれとの結婚だ……。婚約を承知すれば、エイラとの婚約を解消し、お前の父親や臣下の記憶を元に戻してやろう。どうだね?」
ギャンはサンディにさらに顔を近づけた。唇がサンディの唇に触れそうだ。
「おれには力がある! このコラル帝国のすべてをしたがえ、そして全世界を征服するに充分なパワーが……。おれと結婚すれば、君は世界のプリンスとなるのだ……」
ささやくギャンの唇はさらにサンディの唇に近づいた。もう、ふたりの唇は触れんばかりだ。
ぱしん、とギャンの頬が鳴った。
はっ、とかれは身を離した。
頬にサンディの手形があかく残っている。ギャンは目を見開き、頬をさすった。
「馬鹿にしないで! だれがあんたなんかに……」
うふ……、とギャンはうすく笑った。
「いいのか? もう、お前は一生父親に娘と呼ばれることはないのだぞ。どんなにお前がじぶんが本当のプリンセスだと主張しても、だれもそれを信じるものはいない。お前はひとりぼっちだ! それでいいのか?」
それでもいいのかあ……と、ギャンの声はうつろに響いた。
ギャンの目が奇妙な光をたたえた。
サンディはぽかんと口を開け、だらりと両手をたらした。その目は半眼で、ギャンを見上げる彼女の表情はどこか憧れるようなまなざしである。
一歩、二歩、サンディはギャンに近づいた。
ギャンはにたりと笑いを浮かべると、サンディを迎えるかのように両腕をひろげた。彼女を抱きしめようとしたその瞬間、はっとかれは顔を上げた。
もうもうと湧き上がる蒸汽の向こうに、ひとりの女性が姿を現した!
「誰だ、貴様!」
さっとギャンは引き下がり、腕をあげ手の平を向け、指を奇妙なかたちに折り曲げた。
「ここには奇妙なちからの凝集が感じられます……”魔素”の異常な高まり……おそらくこの建物のかたちと、注入された蒸気のパワーが組み合わさっているのでしょうね」
その女性は長い黒髪を後ろにまとめ、背中にたらしている。興味深そうにあたりを見わたし、その目がギャンを見つめる。
黒々としたおおきな瞳。
その瞳に見つめられ、ギャンは思わずたじろいでいた。
なにものも見通し、見透かすような視線。
女性はすっ、とギャンに近寄った。足もとはまるで動かさず、まるで宙を浮かんでいるようである。
ギャンの口もとがふたたび笑いを形作った。
「貴様、実体があるわけではないな? 何者だ、幻影か?」
彼女はうなずいた。よく見ると、宙に浮かぶその女性の姿はかすかに透き通り、向こうの景色が重なって見えている。
「その通り。わたしには実体はありません。この城の内部に満ちている”魔素”がこの映像を結ぶちからをあたえているのです。しかしなにも出来ないわけではありませんよ」
そう言うとさっと片手をあげた。
ふわあ……と、女性の髪の毛が持ち上がる。
ギャンは「く!」と口の中でつぶやき、一歩下がった。そしてもう一歩下がる。
女が一歩、前へ出た。
ギャンが下がる。
かれの眉間にはふかいたて皺がきざまれていた。
「下がりなさい! あなたにはこの娘はわたすわけにはいかない!」
ぐっと女は手の平をむけ、叫んだ。
ギャンは苦しそうに胸をかきむしると、よろよろと下がっていく。やがて背中が壁にあたった。
それを見て、女はサンディに向き直った。
「サンディ……目を覚ますのです」
そっとサンディの額にくちづけをした。
はっ、とサンディの目が見開かれた。
「あなたは……だれ?」
「目を覚ましましたね」
ふっ、と女性はほほ笑みをうかべた。顔を上げ、あたりを見回す。
「ここにいつまでもいてはいけません。さあ、この城を出て、逃げるのです」
「逃げるって、どこへ?」
さあ……、と女性はゆっくりと首を左右にふった。長い髪がゆれる。
「あなたにとって相談できる相手、そのようなかたに心当たりはないのですか?」
サンディはうなずいた。
「います……そういうひとが……」
「それはよかった、ではすぐそのかたのもとへ向かうのです! わたしがこの男をおさえているあいだに!」
ありがとう……とつぶやいて、サンディは広間を抜け出した。
サンディの姿が見えなくなると、女はギャンに顔を向けた。
「あなたはギャンですね。あなたのちからはいま、とても強くなりました。しかしその代償をはらわなければならないのを、あなたは知っているのですか?」
「何者だ……貴様!」
「わたしのことはどうでもいいのです。あなたはいま、とても危険な状態にあるのですよ。あなたはちからを求めた。それはかなえられた……しかし失うものもあるのです」
壁にへばりついたままギャンはあざ笑った。
「おれが失うもの? 馬鹿な! おれはなにも失ってはいない!」
女は悲しげに目をふせた。
「わからないのですか……哀れな」
ギャンはかっとなって軍帽を投げ捨てた。あらわになった額に、第三の目が女を睨んでいた。
「見ろ、このおれを! おれはだれよりも強い魔力を持っている! このちからで、おれは世界を征服するのだ……」
第三の目が開かれたことにより、ギャンの身体にあらたなちからが生まれたようだった。
ぐ、と全身をふんばるとかれは背中を壁から離した。ちからをこめ、一歩、また一歩と女に近づいていく。
「お前の正体をあかせ……」
歯を食い縛り、指を奇妙なかたちにまげ、歩いていく。
女は水のように静まりかえった表情でギャンを見つめている。
すっ、とその姿が薄れた。
ギャンは怒鳴った。
「待て! おれの質問にこたえていないぞ! お前はだれなんだ!」
ギャンの問いに答えず、女はじょじょに身体を薄れさせていった。
ふっ、と風にふきとばされるように女の姿は宙に消えた。
ぼうぜんとギャンは立ちすくんだ。
「なんだ、やつは……?」
よろよろと玉座に這い登ると、どっかりと腰をおろした。
長い時間、身動きもせずギャンはそのまま微動だにしなかった。
やがて顔をあげ、あたりを見わたした。
「?」
首をかしげる。
なにか重大な出来事がおきたような気がする。それがなにかわからないが、ひどく気になることが……。
立ち上がると床に落ちている軍帽を拾い上げ、頭に被った。
ギャンの記憶からサンディのこと、そして謎の女のことはすっかり拭い去られたように消えていた。