教皇
神聖皇国の教皇が登場!
町が近づくにつれ、ケイの表情は曇っていった。
「どうしたの、ケイ? 気持ち悪いの?」
なんだか気分が悪そうだ。いまにも吐きそうな表情である。
「この匂い……たまらないわ」
匂い? ミリィには何も感じない。
「おれも感じるぞ」
ヘロヘロはひくい鼻をひくつかせた。
「エルフという種族は、人間よりも感覚が鋭敏なのだ。ひどい匂いがあの町から漂ってくるが、お前にはまだ感じないのだろう」
やがてミリィにもその匂いが感じられた。
人間の排泄物の匂いだった。
ゴラン神聖皇国の首都ということで、ミリィは壮麗な都を思い描いていたが、じっさいに見るサイデーンの町は薄汚れた、みすぼらしい集落といった印象を越えることはなかった。たしかに町の中心部にそびえる聖堂は立派だったが、その周りの人家はまるでバラック同然で、町に近づくとぷん、と異臭が漂ってくるのには閉口した。
だが、ワフーはこの匂いにまるで平気で、ミリィたちの様子に無関心であった。
たぶん、慣れているのだ。
サイデーンの家はほとんど木造か、木組みに漆喰をぬったもので、まるで中世の都市のようだった。町を歩く人々も中世の絵画から脱け出たような感じで、生気のないどろんとした目をミリィの乗った馬車に向けるのみだった。商店もぽつりぽつりと見受けられたが、路地に面したところに並べられている商品はみすぼらしい限りで、こんなので商売が成立するのかしらとミリィは疑いの目をもったくらいだった。
馬車のなかからミリィは町の様子を見ていると、二階の窓からひとりの中年の女が陶器の壷をかかえ、なにかを地面にぶちまけているのを見た。信じられないことに、それは糞便だった。ちょうど真下に通りかかった男がそれをまともに浴び、口汚く罵った。たちまち男と女の間で口論がはじまった。
「なんであんなことするの?」
ワフーは説明した。
「家の中にトイレがないからな。壷にためておいて、外に捨てるんだ」
「でも、そんなことしたら不潔じゃないの? 病気が蔓延することになるわよ」
老人は眉をあげて奇妙な顔になった。どうやら神聖皇国の住民にとって、清潔さは無縁のことらしい。
ケイは息もたえだえといった様子で、あまりの悪臭に参っているようだった。ヘロヘロも耐えているようだが、その顔には脂汗が浮かんでいる。
ようやく人家の密集した地域からはなれ、馬車は町の中心部に向かっていった。路面はむきだしの地面から石組みに変わり、馬車の車輪の音がごとごとから甲高いごろごろという石組みをかむ音へかわっていく。このあたりに来ると風向きの関係か、悪臭は漂ってこずようやくケイとヘロヘロもほっと緊張を解いた。
馬車はゆっくりと聖堂に近づいていく。
ミリィは馬車の中からその聖堂を見上げた。
確かに巨大である。まわりの人家からすると不釣合いなほどの規模を誇っている。
いくつもの尖塔がそびえ、複雑な文様がびっしりと壁面を覆っている。それは隙間というものを恐怖するかのようで、ありとあらゆる面には無意味と思われるほどの彫刻が施されていた。
全体に砂岩で出来てるようで、造られてからはそんなに時間はたっていないようだが、すでに表面には風化の徴候があらわれていた。全体から受ける印象は陰鬱そのものといったものであった。しかし聖堂を見上げるワフーの顔は歓喜にみちていた。
「どうじゃ、素晴らしいじゃろう? ハルマン教皇さまの住まう聖堂だぞ! なんだか聖なるひかりがあふれてくるようじゃないか」
ヘロヘロは皮肉そうな表情になった。
「おれの見るところ、この聖堂には人々の恨みがこめられているように思えるがな」
ワフーはきっとなってヘロヘロをにらんだ。
「なにをいう? 罰当たりなことを……なんの根拠があるというのじゃ?」
「あんな聖堂を造り上げるには、そうとうの費用と人手が必要だったのじゃないかな? いったい、その費用はだれが負担したのかな。まさか善意の寄付なんかじゃないだろう。どう考えても税金が投入されたのにちがいない。そう考えると、これを建立するための税金は相当のものだったはずだ」
それを聞いてワフーはぐっとつまった。
「だが人々はその負担に喜んで耐えたのじゃ。敬愛する教皇さまのためだからな」
そうかしら、とミリィは思った。聖なる都にしては、人々の表情には暗い、絶望だけがきざまれているように思える。
がたん、と馬車がひとゆれして停まった。
聖堂のすぐ前だった。
衛士が馬車の檻にまわり、鍵を開いた。
「出ろ」
短く命令する。
衛士たちにうながされ、ミリィたちは外へ降り立った。
すぐさま衛士たちが槍をかまえ、ゆだんなく見張る。
出る間もなく、ミリィたちは聖堂へと連れて行かれた。
入り口の、巨大な両開きの扉が開け放たれている。先行する枢機卿らの馬車は見当たらなかった。すでに聖堂のなかへと入っているのだろう。
聖堂の中は薄暗かった。
天井近くにはステンドグラスがはめ込まれ、そこから外光が導かれている。採光は室内を明るく照らすためというより、暗がりを強調するためのようであった。
内部に入った途端、ケイは不安そうな表情になった。
「なにかしら、頭痛がするわ……」
そう言ってこめかみを押さえた。
ヘロヘロを見ると、薄笑いを浮かべている。ミリィはささやいた。
「どうしたの、なにを笑っているのよ?」
「面白い……この聖堂は面白いぞ」
ヘロヘロはつぶやいた。
「なにが面白いのよ?」
あとで説明する、とヘロヘロはそっぽを向いた。そのヘロヘロの反応に、ミリィはかっと顔に血が上るのを感じた。
なんてことなの! まったく頭にくる!
むううんん……というような、ハミングが聞こえてくる。
なんだろうと見回したミリィは、聖堂の床を、頭のてっぺんをそりあげた僧侶がうつむき加減に歩きながら口の中でなにか呪文のようなものを唸りながら歩いているのを見た。僧侶はあちらこちらにいるようで、かれらが詠唱しているそれが聖堂の内部で反響しているのだった。
僧侶はそれぞれ手に一本蝋燭を持ち、その炎のゆらめきが、聖堂の内部の彫刻や柱をうかびあがらせ、複雑な影をつくりだすのだった。
ミリィたち四人は聖堂の奥深くに連行された。
目の前に壇があり、そこには巨大な玉座がしつらえられている。玉座にはひとりの老人が傲然とかまえ、炯炯とした双眸でミリィたちをにらみつけるようにしていた。
おそろしく年寄りであった。ひからびたミイラのようなその老人には、体毛というのが一本もなく、眉毛すらなかった。これが教皇であろうが、そのわりに老人の身にまとっているのは粗末な麻のローブひとつきりなのが地位には似合わず、かえって不気味である。老人の目つきは狂人のそれであった。
ワフーはすでに床に膝まづき、額を床にすりつけ震えていた。
「敬愛なる教皇……敬愛なる教皇……」
おなじことを何度も口の中でくりかえしつぶやいている。
教皇の両隣には金属の甲冑を身につけた兵士が微動だにせず、立ちつくしていた。
周りを見回すと、部屋のあちこちには重装備の兵士が武器を身につけ、油断なく見張っているのが見受けられる。これが全国民に敬愛される教皇なのか、とミリィは皮肉に思った。
いけない! いつの間にかヘロヘロの考え方に影響されたみたいだ、と彼女はわれにかえった。いまはそんなことを考えているときではない。
教皇は口を開いた。
「ゴルト枢機卿、これがおぬしが捕らえたコラル帝国のスパイかね?」
はあーっ、と最敬礼をしてゴルト、と呼ばれた枢機卿が教皇の足もとに膝まづいた。
ということは、あの枢機卿の名前はゴルトというのか。
「わたしめがすこし下調べいたしたところ、あのもののうちミリィともうす娘の話す言葉はあきらかに帝国の発音でございます。本人はそのことについてなにも証言しておりませんが、スパに間違いはございません。背後関係をあきらかにするため、首都サイデーンに連行いたしました」
うむ、と教皇はうなずいた。
じろり、と床に腹ばいになっているワフーを見る。
「この者は? どうやら最下級の僧侶のようじゃが、こやつがなんの関係があるのだ」
ゴルトは肩をすくめた。
「どうやら手違いがあったようです。わたしは娘ふたりと、あきらかに魔物とおもわれるひとりを連行するつもりだったのですが、神聖冒涜の罪で捕らえたこのワフーというものをおなじ牢屋に入れていたのですが、つい連れてきてしまいました。もっともこの者は今回の裁きに関連することはありませんので、無視なさって結構でしょう」
「そちの判断はただしい。ことは重大である。帝国が動いているということはあきらかである。その背後関係を調べるためにも、余じきじきに取り調べることにする」
教皇はミリィたちを眺めた。
ミリィもまた教皇の目を見返した。
そのとき、ミリィは教皇が肩で息をしているのに気づいた。
病気かしら、なんだか具合が悪そうだ。
ごろごろと喉の奥の痰を飲み込むと、教皇はふたたび口を開いた。
「ゴルト、おぬしはなにか余に見せたいものがあるそうだな」
「はっ、あの娘ふたりが所持していた武器でございます」
武器だと……と、教皇は興味をしめした。
はっ、とミリィとケイは顔を見合わせた。
エルフの長老からわたされたあの武器だ。
鞭と弓矢である。
枢機卿の合図で法務官のひとりがミリィとケイの鞭と弓矢をささげ持ってきた。
受け取った教皇はそれを見て眉をひそめた。
「これが武器だというのか?」
教皇は手招きした。
その手招きに応じてあらわれたのは、逞しい身体つきの戦士だった。
「ドバル。お前はわがゴラン皇国のほこる勇士である。この武器について意見をのべよ」
教皇から手渡され、ドバルと呼ばれた男はしげしげとふたりの武器をながめた。
渋面をつくり教皇に返した。
「これは武器とはいえませぬ。かたちはたしかに鞭と弓矢ですが、これで戦うことはできませぬ」
ほう、と教皇は唇を丸めた。
「それを証明して見せよ」
そう言うとふたたび鞭と弓矢をドバルに渡した。ドバルはうなずいた。
鞭をもち、ひゅっと音を鳴らしてふりまわした。
たちまち鞭はだらりと垂れ下がり、床にぺたりと先端がふれた。
「長すぎます。それになめした革ではなく、なにか毛糸のようなもので編まれております。これでは鞭としてふりまわしても、相手にダメージをあたえることはできませぬ」
つぎにドバルはケイの弓矢を手にとり、矢を番え弦をひきしぼった。
弦がひかれると弓はぐにゃりとまがった。
その弦から手が離れると、矢はほんのすこし前へ飛び、かちゃんと音を立てて床に矢羽のほうをさきにして落ちていった。
くすくすという笑い声があたりからまきおこる。教皇の警護をしている兵士たちがドバルのデモンストレーションを見て、たまらず笑い出したものだ。
「これで敵に傷をつけるのは無理でございます。どちらもまるで武器として役に立つものではございませんな」
軽蔑したようにドバルは言上した。
ミリィはケイの様子に気づいた。
ケイの表情は怒りに満ちていた。
ドバルは鞭と弓矢をぽい、と投げ棄てた。ふたつは音を立て、床にちらばる。
そのときケイの怒りが爆発した。
「それはエルフの武器よ! 資格がないものが手にとっても、役に立たないのは当たり前だわ! なによ、知ったかぶりをして……」
むう……、と教皇の眉間に怒りのしわがきざまれた。
「エルフだと……お前はじぶんがエルフの娘と申すのか?」
ずい、とケイは一歩前へ進み出た。
「そうよ、あたしはエルフの長、ラングとヨンの娘ケイ! エルフはこのような侮辱に慣れてはいません」
はっはっはっと教皇は口をあけて笑った。その口には一本の歯も残ってはいない。ぽかりとうつろな空洞だった。
「エルフなど、子供のおとぎ話ではないか。そのようなこと、本気で思っているのか」
「ちゃんとエルフは実在するわ。あたしがその証拠よ!」
ふたりのやりとりを見てワフーはあわてて立ち上がり、ケイにむかってささやいた。
「これ、何を申す。教皇さまの御前であるぞ!」
じろじろと教皇はケイの姿を見つめた。
「ふむ、たしかにお前はなみの人間ではない。その肌の色といい、その耳といいもしも本当のエルフなら……」
そのとき、教皇の目に宿ったひかりにミリィは気になるものを感じた。
なんだろう、ひどく物欲しそうな目つきである。
しずかにケイに向かって尋ねる。
「エルフというのは長生きだそうだな?」
ケイはうなずいた。
「そうよ、あたしたちエルフは長生きで有名だわ。百年以上生きるのはざらだし、千年の寿命をたもつエルフもいるわ」
「そうか……もしそちがエルフなら、お前も長命なのだろうな? いったいお前はいくつになる?」
「あたしは生まれてから二十年。もっとも魔法で眠っていた時間をくわえると千年以上ということになるけど」
教皇の目がまんまるに見開かれた。
ほそい腕をあげ、ケイに指先をつきつけた。
「この娘を捕らえよ! いいか、逃がすでないぞ!」
電撃のように教皇の命令はその場にひかえていた衛士たちに伝わった。衛士たちはすぐさまケイのまわりに殺到し、その両腕をがっしりと掴みあげる。
「なにするのよっ!」
ケイは悲鳴をあげた。
教皇はよろりと立ち上がった。
「わしは年寄りだ。かれこれ百年ちかく生きてきて、もう寿命が尽きかけているのを感じておる。だが、いま死ぬわけにはいかぬ! コラル帝国を倒すまで、わしは生きていかなければならぬ!」
ぎろりとケイをにらむ。
「そこに長命で知られるエルフの娘が現れたのは僥倖といっていい。わしはお前の血を欲する。お前の血があれば、わしはエルフの生命のちからを手に入れることが出来る!」
ケイの顔が真っ青になった。
ミリィはぞっとなった。
教皇はケイの血を抜くつもりなのだ!