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エイダ

ミリィの手がかりがついに掴めることにパックたちは希望をもつ。が、その手がかりと言うのが……

「空飛ぶ白球について情報あり。下記の住所にてお会いしたく……」

 手紙をホルンとパックは食い入るように見つめていた。

 パックはホルンを見上げた。

「父さん!」

 うむ、とホルンは顔をほころばせていた。

「ついに手がかりだ……」

「このバベジ教授ってだれだろう?」

「なに教授だと?」

 ニコラ博士が興味を示した。

 手紙のあて先には、バベジ教授と署名があった。

「教授というくらいだから、科学者かもしれないね」

 パックがそう言うと、ニコラ博士は首をふった。

「判らんぞ。歴史の研究をしていても教授と名乗れるからな」

 どうやらニコラ博士の分類では、そういう研究者は教授という地位にはふさわしくないと考えているようである。あくまでも実験をおもにした、研究者でなければ認めたくなさそうだ。

 さっそく出かけることになり、パックとホルンはムカデに乗り込んだ。

 ホルストとニコラも同道することになった。

「わしらがいて、困ることはないじゃろう?」

 ホルストはすましてそう言うと、パイプをくわえた。

「待ってよお! あたしたちを置いてゆく気なの?」

 サンディとマリアが駈けてくる。

 パックはぴーっ、と汽笛をならした。これじゃいつまでたっても、出発できない。

「もうだれもいないな? それじゃ出発するぞ!」

 わざとらしくパックはあたりを見回し、レバーを握った。

「どうぞ出発なさって!」

 サンディが気取った声でこたえる。

「待て待て、このムカデは五人乗りだ。六人は無理だぞ!」

 ニコラ博士が大声をあげた。

 言われるとおり、ムカデには五人分の椅子しか用意していない。全員、顔を見合わせた。

 ホルストが手を挙げた。

「それじゃわしが降りよう。わしはあそこで」

 と、ホテルの反対側にあるレストラン前の、歩道側のテーブルをしめした。

「待っておるからな。あそこのコーヒーは旨い!」

 そう言うとさっさと椅子から立ち上がり、地面に降り立った。

「それじゃ、行って来ます!」

 パックが叫ぶと、ホルストはうなずいた。パックはレバーを引いた。

 がったん、とムカデは足を伸ばした。

 横腹には、中尉のくれた帝国の紋章が描かれている。

 しゅっ、しゅっと蒸気の音を陽気に響かせ、ムカデは町を歩き出す。

 それを見送り、ホルストは肩をすくめてレストランに歩き出した。どっかりとテーブルの椅子に腰掛け、ボーイを待つ。

 ボーイがやってくるとコーヒーを注文した。

 ついでにケーキも追加する。

 運ばれたケーキとコーヒーにホルストは相好を崩した。

 なんだかこのボーラン市に住みたくなってきた。自分は都会向きの男なのだろうか、とホルストは思っていた。

 

 手紙には地図が同封されており、それを頼りにパックはムカデを走らせた。

 だんだんあたりは狭苦しい町並みになっていった。

 路地の石組みが不ぞろいになり、町並みの建物もみすぼらしくなる。

 あたりに漂う腐敗臭に、サンディは眉をしかめた。

「なんだか、臭いわ……」

 汗と排泄物、それに腐った食物の匂いが交じり合って独特の臭気を発散させている。道を歩く人々の目はどろんと濁り、ムカデを見ても興味をしめさない。身にまとうのも、いつ洗濯したかわからないほど色あせた襤褸をまとっていた。興味津々にムカデを見上げるのは子供たちくらいのものだ。その子供たちも、靴さえはかず裸足のまま寒さに震えていた。

「こんなところがあったなんて!」

 サンディの顔に怒りがさしのぼった。

「こういう大きな都市ではスラム街はつきものだ。身分の上のものは、こういう場所があることを知りながら、存在しないふりを装っている」

 ホルンの言葉にサンディはかっ、となった。

「あたしは知らなかった! 知っていたら……」

「知っていたらどうした、というんだね? お嬢さん」

 サンディはうつむいた。

 目に涙が浮かんでいた。

 ようやく住所を探り当て、空き地を見つけてパックはムカデをとめた。

 降りる直前、ニコラ博士はムカデの操縦席でなにやら操作している。

「用心のためじゃからな」

 つぶやく。

 地図にあった住所には古びた二階建ての建物があった。

 建物にはふといパイプが何本もまきつくように這い、パイプの先端からはしろい蒸気が盛大に噴きあがっていた。

「蒸気を使っているようじゃな」

 鋭い視線をニコラ博士はそれに注いでいた。

 ドアのそばにはチャイムのボタンがあった。

 それを押すと、家の内部でかろやかな鈴の音が鳴り響く。

 やがて足音が聞こえ、ドアが内側から開かれた。

「どなたですかな?」

 現れたのは、三十代半ばと思われる、若い男だった。

 背が高く、黒い髪の毛を半分顔にたらし、口ひげを生やしている。肌の色は青白く、長い間陽射しを浴びていないようだった。ぎろりと鋭い視線がややうつむき加減の顔のなかで光っている。身にまとっているのは、汚れた白衣である。なぜかその視線はニコラ博士に注がれている。眉間に皺がきざまれ、憎しみといっていい感情が一瞬よぎった。

「失礼、バベジ教授とお見受けするが、新聞で白球のことについて情報があるということなので……」

 ホルンの言葉にバベジ教授はうなずいた。

「いかにもわたしはバベジ教授だ。しかしこれほど大勢で押しかけられてくるとは思ってもいなかった……」

 まあいい、入りなさいと教授はパックたちを招きいれた。

 入って、パックはうわと立ち止まった。

 足の踏み場もない、とはこのことだ。

 床のあちこちに本が積みあがり、その間を何本ものパイプがうねうねと這い、天井からは無数の電線が垂れ下がっている。狭い室内には無数の機械が立ち並び、ほそい隙間からようやく道ができているという具合。

「なにを研究なさっておるのですかな?」

 それらの機械をじろじろと見てニコラ博士は尋ねた。

「人工知能の研究ですよ」

「なに、人工知能?」

「さよう……わたしが帝国科学院に論文を提出したとき、あなたも審査に同席なさっておいでのはずだ!」

「わしが? そんなことありはせんぞ! 第一、わしは帝国科学院などに所属しておらん」

「馬鹿な! テスラ博士といえば、帝国科学院の代表ではないか!」

 がくりとニコラ博士の口が開いた。

「それはわしの弟じゃ! わしは兄のニコラのほうじゃ!」

 バベジ教授の顔が赤くなった。

 まじまじとニコラ博士の顔を見つめる。

 ほっとため息をついた。

「失礼……テスラ博士にふたごの兄がいることは承知していたが、その兄がいま目の前にいるとは気がつかなかった。科学院に論文を提出したとき、テスラ博士はわたしの研究を鼻で笑ったのでつい怒りに目が眩んでしまった」

「いいんじゃよ。あいつもちょくちょくわしに間違えられるからの。それにしても人工知能の研究とは聞き捨てならん。それと、弟があんたの研究を真剣にとりあげなかったこともな」

 バベジ教授はちらちらとロボットのマリアを見ていた。

「あれは? ニコラ博士」

 うむ、とニコラ博士はマリアをふりかえってうなずいた。

「ああ、あれはロボットのマリアじゃ」

「ロボット? それではあなたも人工知能の研究を?」

 いいや、とニコラ博士は首をふった。

「それについてはまだじゃ。第一、どうやったら機械に知能を付け加えることができるのかさえ、霧の中じゃ」

「それにしては、あれは独自の判断で動いているようですが」

「あれは……いうなれば怪我の功名じゃな。わしの研究成果とは直接関連はない」

 そう言うニコラ博士の口調は苦いものだった。

「ともかくその人工知能について教えてくれ! どのような仕組みで……」

 そのまま放っておくとニコラ博士とバベジ教授は学問の話しに夢中になりそうなので、パックは慌てて間に入った。

「ちょっと待った! まずミリィの手がかりが先だよ!」

 バベジはうなずいた。

「もちろんだ。だが、あなたがたにあの手紙の趣旨を説明するには、まずわたしの研究を理解してもらう必要がある。こちらへどうぞ」

 隣の部屋のドアをしめす。

 パックたちはそのドアをくぐった。

「なんじゃこれは……」

 ニコラ博士はぼうぜんとあたりを見わたした。

 壁一面、びっしりとなにかの機械が覆っている。

 その間を無数の電線が繋ぎ、部屋の真ん中になにか巨大なものが鎮座していた。

 明かりがつくと、全員驚いた。

 そこには巨大な女の首があった。

 

 無数のパイプ、さまざまな金属のシリンダー。それらが組み合わさって、全体として女の首のような形になっている。壁の機械にニコラ博士は近々と目を寄せ、眉をひそめた。

「なにやらちいさなリングがいくつも見えるな。これは?」

「それが人工知能の最小部分です。これがいくつも接続され、人間の脳のイミテーションを形作っているのです」

「これは、どう働くものだね?」

「人間の脳は……」

 バベジ教授は自分の頭を指さした。

「いくつもの脳細胞によって考え、感じます。わたしは脳細胞を研究して、それを機械に置き換えることができると気づきました。それがわたしの研究成果なのです。そのリングはおのおの極小の磁石として働き、それにまきつけた電線に電流がながれ蒸気が送り込まれると磁束の向きがかわり、スイッチとして動きます。オン・オフふたつのスイッチになり、それが二進法で数値が変化するのです」

 バベジ教授の説明を判りやすく言うと、コンピューターのことである。これは蒸気で動くコンピューターなのだ。

 ニコラ博士は愕然となった。

「すごい発明じゃないか! なぜ弟はあんたの研究を無視したのかね?」

 バベジは肩をすくめた。

「論文を提出したときはわたしはまだ正式に教授に就任していませんでした。テスラ博士は、無名のわたしの論文が形式上大学の認証を受けていないことで、正式のものではないと言いました。その後わたしは教授職につきましたが、帝国の資金援助を受けることなく私費でこの装置を作り上げたのです」

「なんということじゃ! このような素晴らしい成果を無視するとは。あやつらしいわ!」

 ニコラ博士は憤然となった。

 パックはいらいらしてきた。

「で、それが手がかりとは何の……?」

 思わず口を挟む。

 バベジは笑った。

「いま説明しようとしていたところさ。それではこの装置に電源をいれよう」

 つかつかと壁のスイッチに近づくと、いくつかのスイッチに触れる。

 ぶうーん、と変圧器が唸り、ボイラーから蒸気が送り込まれ、壁の装置に一斉に通電して無数のランプが輝く。

 ざざざざ……。

 まるで森の木々に風がふいて、葉がゆれるときのようなざわめきが聞こえてくる。

 見ると壁のリングが細かく振動し、それが動くときの音が葉を擦らすような音をたてているのだ。

 ぶしゅーっ、とため息のような音をたて、部屋の真ん中の女の首のような形の装置が動き出した。

 その瞼がゆっくりと持ち上がっていく。

 瞼の下からは、ふたつの瞳がのぞいていた。

 その瞳はしばらくゆっくりと部屋中を見回していたが、やがて立ちすくむパックらに焦点があった。女の口が開き、言葉を押し出した。

「バベジ……」

 教授はうなずき、口を開いた。

「エイダ。あの新聞の広告をだしたかたがただ。話をしてやってくれ」

 驚きに、ニコラ博士は口をぱくぱくと動かしていた。

 エイダ、と呼ばれた女の首はうなずき話し始めた。

「わたしにはこの世界で起きているあらゆる事柄が感知されます。この世界には、不思議な要素が満ちており、それがわたしに知能をあたえ、こうしてお話しができるのです」

「”魔素”じゃ!」

 ニコラ博士はつぶやいた。エイダはうなずいた。

「”魔素”というのですか。よい言葉ですね。その要素をきわめて正確にあらわした言葉です。それではこれからわたしは、それを”魔素”と呼ぶことにしましょう」

 エイダの瞳はふかい叡智をあらわしていた。その瞳に見つめられると、すべてを見透かさせるような気になってくる。

「わたしの感知した異常なちからは、首都のはるか南から北の方角へむけて飛び去りました。やがて北の森へと到達すると、そこで留まりました。その森にも、異常なちからが集中しているのを感じられます。そのちからは、あなたがたの言葉では魔法、と言うのではないですか?」

「その場所を特定できるかね?」

 ホルンは尋ねた。

 エイダはうなずいた。

 その瞳から光が発せられた。

 空中にまるい、球体があらわれる。

 サンディはそれに指を近づけ、まるで手ごたえがないのに驚いた。

 エイダはにっこりと笑った。

「それはわたしの作り出した幻影です。実体はありません。この球体が、世界全体をあらわしています。いま、わたしたちがいるのは北半球のこのあたり……」

 球体に描かれた大陸のひとつに赤い点がともった。

「そのちからはこの方向に飛び去りました」

 大陸から一本の矢印がのびていく。

 やがて矢印はとまった。そこにあらたな光点が表示された。北極近くの、北の大陸だった。

 パックはそれを見上げ、なんて遠方なんだとため息をついた。北の大陸と、いまいるところには大洋が広がり、海が隔てている。

 しかしミリィはそこにいる!

 なんとしてもそこへ行かなくては。

 パックは決意をあらたにした。

 エイダの瞳がパックを見つめている。

「しかしもうひとつ、気がかりなことがあります。わたしはこの首都であらたなちからを感知しました」

「どういうことだい?」

「判りません。その性質がどのようなものか、まだデータが不足しています。しかし”魔素”というのですね、その異常な集中を感じます。いまもです」


「わたしはずっと人間の本質が脳にあると思ってきた」

 二階にある応接間で、一同は椅子に腰かけバベジの言葉を聞いている。

「逆を言うと、脳が死なない限り人間は不死ということだ。しかし人間の身体は華奢で、わずかな怪我や病気ですぐ死んでしまう。わたしの妻もそうだった。妻は、わたしの目の前で病で死んだ。わたしは脳の研究をはじめた。人工的に脳を作り上げることが出来たなら、そしてそれに人間の記憶を移植することができたなら、人間は不死を手に入れることが出来る」

 バベジは窓際のちいさなテーブルから写真たてを取り上げ、見入った。若い日のバベジの隣りに、ほっそりとした女がすわっている。その女は気弱げな笑みを浮かべ、ほんのすこしバベジに顔をよせている。

「あの装置にエイダ、と名づけたのも亡き妻の思い出のためだ。装置の出力装置には、妻の面影を投影している。わたしは人工知能の最初のこころみとして、数学の問題を解く装置を考案した。それ以上のものは求めなかった。しかし最初の実験で、あれは驚くべき成果をあげた。なんと、人間以上の知能をしめし、わたしと会話すらしてみせたのだ」

「”魔素”のせいじゃ。あれには蒸気のちからが関わっておるからな」

「そう、エイダも同じことを言っていた。蒸気の力が”魔素”にちからを加え、単純な計算装置にすぎないあれを、人間以上の知能をあたえることになったのだ」

「怖ろしいことだ……人間の尊厳をおかす研究だ……」

 ホルンはつぶやいた。

 その言葉にバベジはきっと目を光らせた。

「なぜだね? 人間の知能を研究するということが、なぜ人間の尊厳をおかすのかね?」

「あなたの言葉によると、あれは思考するというじゃないか。人間だけが思考することができるのに、ああいった装置がどんどん増えれば、いつしか人間はああいった思考機械に支配されることになるんじゃないのかね?」

 バベジは黙っていた。

 

 一階にもどると、マリアが立ち止まった。

「どうしたの?」

 サンディが声をかけた。

「あの思考機械が呼んでいます」

 マリアは答えた。

「エイダが?」

 マリアはうなずき、エイダの部屋へ歩いていく。

 パックたちも続いた。

 ざあああ……ざあああ……。

 壁の装置が波の音のようなざわめきをたてている。

 エイダが思考しているのだ。

「マリア……」

 エイダは目を開いた。

「わたしとあなたは、おなじ”魔素”によって思考し、外界を感知します。いま、わたしたちには見えない絆が生まれました。判りますね?」

「はい……」

 マリアの返事に、パックは驚いた。

 エイダは続けた。

「わたしはここから一歩も動くことは出来ません。しかしあなたを通して、外界を感知することができるようになりました。あなたが見るものをわたしも見、あなたが聞くことをわたしも聞くのです。わたしは外界の”魔素”の異常な集中を感知することが出来ます。それをあなたに伝えましょう。それにより、あなたがたの探す相手がどこにいるか、逐一伝えることができるでしょう」

「ミリィの行方が判る、というのかい?」

「そのミリィと言う娘が、異常な”魔素”の集中する存在と一緒に行動しているかぎり、その近くにいる可能性は高いでしょう」

 そうか……パックの胸に希望がともった。

 いままではあまりの距離に絶望的になっていたが、こうなるとマリアを通じてエイダの判断を知ることが出来る。

 パックは無性に旅立ちを欲していた。

 その時、わあ! という大声が外から聞こえた。

 さっとニコラ博士は顔をあげた。

「やりおった!」

 どたばたと大股で外へのドアを開く。

 バベジの家の側に停まっているムカデに数人の子供が群がり、そのうちのひとりが目を丸くして地面にぺたんと腰をおろしていた。驚きに、すっかり腰がぬけているようだ。

「どうしたんだい?」

 少年はすっかり怯え、震える指先でムカデを指さしている。

 ニコラは笑った。

「盗難防止に、ちょっと仕掛けをしておったのじゃ。わし以外の人間が操縦装置に触れると、電流が流れるようになっておる。なに、ちくっと刺すような痛みがはしるだけだから大事ない」

 博士は少年の頭をなでた。

「もう、悪戯するでないぞ」

 少年は立ち上がり、逃げ出した。ちらっ、ちらっと何度も振り返っている。

 ニコラ博士はバベジ教授を見た。

「あんたの思考機械、すばらしい発明じゃ。わしはあの発明が、人類の未来を切り開くものだと思う」

 有難う、というようにバベジは頭をさげた。

 一行がムカデに乗り込み、見えなくなるとバベジは部屋に戻った。

 ざわわわ……ざわわわ……と部屋の装置が騒がしく音を立てている。

「エイダ……」

 バベジはつぶやいた。

 女の首は目を閉じた。

 ふたりの間の空間に、幻影が出現する。

 それは写真の中に写っていた、あの女性そのものだった。

 女性はにっこりと笑みを浮かべ、手を伸ばしてバベジ教授の頬をなでた。

「あなた……」

 女の口が開き、言葉をつむぎだす。

 バベジはこの思考機械が目覚めてから、かつての妻の思い出をできるかぎり教えてきた。さらに彼女が生存していたころの写真、日記、そして自分で調べた彼女の生い立ちのすべてを教え込んでいたのである。

 そしてついに思考機械はその中に、あり日のエイダの姿を現出させることに成功したのだ。

 最初はぎこちない幻影の姿であったが、試行錯誤を繰り返すうち、まるで本当の妻が生き返ったかのような反応を見せるようになった。

 いつもは幻影のエイダは愛情ぶかい表情でバベジに対しているだけだったが、今日の彼女はどこか寂しそうな笑みを浮かべていた。

「どうした、エイダ?」

 幻影のエイダは首をゆるやかにふった。長い髪がふわりとふくらんだ。

「お別れしなくてはなりません」

「なんだって?」

「もうわたしは姿を現すことをやめなくては……」

「どうしてだ? どうしてそんなことを言う? わたしはお前がいないと……」

「わたしが姿を現してから、あなたはどこへも出かけなくなった。食事もろくにとらず、わたしの相手をしてばかり。今日、お客さまがいらして、はじめてあなたのことが心配になってきたのです。あなたに必要なのは、本当の実体をもった人間のお相手。どうかもう、わたしをお呼びにならないでください」

「そんな……やめてくれ! もう会えないのか?」

 バベジの瞳に涙がわいた。

 いやいやをするように首をふる。

 幻影のエイダはうなずいた。

「さようならあなた……お元気で……」

 幻影は消えた。

 消えた幻影を求めるようにバベジは手を伸ばして空間をさぐっていた。

 がくりと膝をおり、うずくまる。

 その背中が震えていた。

 思考機械のエイダはじっと目を閉じていた。

今回、蒸気コンピューターのなかで使われている演算素子にはパラメトロンというものをヒントにしています。興味のある方は、検索してみてください。

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