絵師
伯爵の言うまま留まる三人だったが、やがてこの屋敷の奇妙な謎が明らかになっていく……
翌朝、ケイのけたたましい大声にミリィは起こされた。
「ないっ! ないわっ! ああ、どうしよう……どこにも見つからない!」
なんだろう、とミリィはベッドから起き上がり、ケイの部屋へと向かった。
ドアを開けると、ケイは大騒ぎで部屋中を這いずり回り、なにかを探している。
「どうしたの?」
ミリィが声をかけると、ケイははっと顔をあげた。
「そうだ! ねえ、ミリィ。あんたの部屋にない? あたしの弓と矢筒?」
ミリィは目を丸くした。
「あの弓と矢? ラングさまから貰ったあれ?」
そうよ、とケイは泣きそうな顔になっている。
「どうしよう、目が覚めたらなくなっていたの……お館さまに頂いたエルフの宝なのに……」
どうした、とヘロヘロがやってきた。
ミリィに説明をうけ、うなずく。
「そうか……伯爵が隠したのだろう。武器を取り上げるためにな」
それを聞いてケイは目を険しくさせた。
「伯爵さまがそんなことするわけないわっ! あんた、伯爵さまを泥棒よばわりするの?」
怒りのため、声が尖っている。
へっ、とヘロヘロは肩をすくめた。
「勝手にしろ! おれはただの推察を述べただけだ。信じる、信じないはお前の自由だ」
「弓矢がなくなった、と言われるのですか?」
朝食の席で伯爵は眉をひそめた。
そんな憂い顔すら、絵になる。ミリィはひそかにそう思った。朝食の席で、伯爵は失礼、目が弱いのでと断ってわざわざ窓のない部屋にミリィたちを招待した。朝の光は、目に悪いのですと言い訳をする。しかしほかの部屋からの間接光が開け放たれたドアから入ってきて、不自由はなかった。
ふうむ、と伯爵はしばし黙った。
やがて口を開いたかれは、意外な一言を発した。
「それでケイさん。その弓矢ですが、本当にお持ちだったのですか?」
伯爵の言葉に、ケイはぽかんと口を開けた。
そんなケイの顔を見て、伯爵は柔和な笑みを浮かべた。
「わたしはあなたの仰る、弓矢を見ていないのです。ですからなくなったと仰られても……」
「で、でもあたし昨夜は背中に弓矢を背負っておりましたし、それにミリィだって……ねえ、ミリィ。あんた見ていたでしょ、あたしが弓矢を持っているところ」
ケイは必死に訴えた。ミリィは伯爵に向き直った。
「伯爵さま。あたしもケイの弓矢は見ています。それをエルフのお館さまからケイが受け取ったところも。ですから、かならずこの屋敷のなかに弓矢はあるはずです」
伯爵はうなずいた。
「わかりました。ともかく、気の済むまで屋敷中をお探しになったらよかろう。しかしこの屋敷は広い。迷子になられたら困るので、だれか付き添いをつけましょう」
「それなら……」
とミリィは口を開いた。
「そのかたに案内を頼みたいのですが」
ミリィが指さしたのは、昨夜ミリィに向かって警告した召し使いだった。
伯爵は無頓着にうなずいた。
「よろしい。それではバス。お前がこのかたがたを案内するのだ。判っているが、このかたがたの命令はわたしの命令と思って、従うのだぞ」
召し使いの名前はバスというらしい。
バスは深々と頭を下げた。
伯爵の言うとおり、屋敷は広かった。
さらに通路は複雑で、思いがけないところに曲がり道があり、袋小路もいくつもあった。
「伯爵さまがこの屋敷を何度も改築、増築を繰り返したため、わたしども知らない部屋がいくつもあります。ですから、わたしどもの案内なしではあまり出歩かないよう願います」
バスは丁寧だが、きっぱりとした口調でそう言った。ミリィはうなずいた。バスの言うとおり、とても案内なしで動き回る気にはならない。
三人はバスの案内で屋敷中を探し回った。
屋敷の部屋はいくつもあり、それらを回るうちミリィは疲れ果ててしまった。
ケイもまた、諦めの表情になっていく。
「ねえ、ミリィ。あたし、ほんとうにお館さまからあの弓矢、受け取ったのかな……? なんだか自信がなくなってきちゃった」
ミリィは大声をあげた。
「あんたまで何言うのよ! あんたがそんなこと言うと、探すかいがないじゃないの」
「御免、でもこんなに探して見つからないんじゃ、そう思うのも無理ないわ」
ヘロヘロはむっつりとミリィとケイにしたがっていた。そのヘロヘロがはじめて口を開いた。
「外へ行くにはどうすればいいのだ?」
「外? またなんでそんなこと気になるのよ」
「いいから、おれは外を見たい。おい、バス。案内しろ」
バスは頭を下げ、先にたった。
ヘロヘロの後に歩き、ミリィはいったいなにが気になるのだろうと首をひねった。
やがてバスは外に面した廊下に一行を案内した。
ヘロヘロは庭に出た。
最初に見た、あの荒廃した雰囲気はもうかけらもない。青々とした緑は涼しげな木陰を芝生に落とし、庭の水面には水草が生い茂っている。
ヘロヘロは空を見上げた。
あ!
飛ぼうとしている。
ミリィは身構えた。
ヘロヘロが逃げようと空に浮かんだら、あの鞭で防ぐつもりだった。
が、ヘロヘロの顔が歪み、ほっとため息をついた。
「思ったとおりだ。飛べん!」
え、とミリィはヘロヘロの顔を見た。
「どういうこと?」
ヘロヘロは首をふった。
「飛べないのだ。おれの魔法は封じられている」
ミリィは驚いた。
ヘロヘロはケイを見た。
「ケイ、お前はどうだ? なにか魔法が使えるか?」
「魔法?」
ケイはつぶやいてなにごとか口の中でつぶやき、指を一本立てた。
驚きに目が丸くなる。
「あたしも使えない! 光の魔法を使おうとしたんだけど……」
ミリィは呆然となっていた。
と、ぽんぽんとボールが弾みながらミリィの足もとにころがってきた。
何の気なしにそれを拾い上げると、陽気な声がした。
「やあ、すまん。そのボール、返してくれないか?」
え、と顔を上げると庭に数人の男女がたたずみ、にこにこと笑顔をむけている。みな健康そうで、若々しさにあふれている。その顔を見て、ミリィはあっ、と思った。
みな、広間にあった絵の中に描かれた男女である。服装すら同じだ。ボールを拾い上げ、それを手に近づいていく。
「やあ、有難う!」
声をかけた青年はミリィの顔をまじまじと見つめた。
「見慣れない顔だけど、もしかしたら新しいお客さんかね?」
はい、と答えると青年はにやっと笑う。
「そうか! ま、あまり長逗留するのは薦められないな。できたら、早くこの屋敷を出ることだ」
それはどういうことですか、と尋ねようとした刹那、青年の顔が恐怖に歪んだ。
「あっ! こんなこと言うつもりなかったんだ! 許してくれ……ああっ、伯爵!」
叫びながら恐怖に歪んだ顔のまま走り去った。ミリィは取り残されたほかの人々の顔を見わたした。
驚くべきことに、すべての人々が柔和な笑みを浮かべ、それまで中止された遊戯を再開している。青年の恐慌の表情など、まるで見ていなかったようだ。
ミリィの胸にじわりと恐怖が忍び込んだ。
伯爵が三人を広間に呼び、こう申し出た。
「あなたがたをお迎えした記念に、是非肖像画を描かせてもらいたい」
思いがけない伯爵の言葉に、三人は顔を見合わせた。
「あのう、肖像画ですか?」
ミリィの言葉に伯爵はうなずいた。
「さよう。もっとも描くのはわたしではない。わたしが抱えている絵師に描かせるつもりだ。腕のほうは保証する。どうかね?」
ミリィは広間に飾られた無数の額を見上げた。その視線を追って、伯爵はにっこりとほほ笑んだ。
「その通り。この屋敷を訪れた客人は、すべて記念に肖像画を描かせてもらっている。ま、わたしの感傷のようなものだ。いつまでも楽しいときをすごした記憶をあらたに思い返したいと思ってね」
ケイはミリィの袖をつかんだ。
「いいお話だわ。ねえ、ミリィ。描いてもらいましょうよ」
「ええ……」
ミリィはヘロヘロを見た。
ヘロヘロは眉をひそめ、険しい顔つきで伯爵を睨んでいる。
「どうしたの?」
ヘロヘロに顔を近づけ、ささやいた。
「いよいよだな……いよいよ、あいつが正体を現した」
「え?」
「これは罠だ! 肖像画を描かせると言うのは罠だ!」
まさか、とミリィは思った。肖像画を描かせると言うのがどうして罠なのだろう?
それでは、と伯爵は立ち上がり部屋を出て行った。いれかわり、絵師の格好をしたひとりの老人が姿を現す。ひどい年寄りで、背がまがり歩くにも苦労しているようだ。こんな年寄りがちゃんと絵を描けるのだろうか?
かれは大儀そうにイーゼルをたて、木炭を手にキャンバスに向かった。
三人のポーズを決めると、驚くべき速さで手を動かす。見る見るキャンバスに下絵が出来ていく。その顔は鬼気迫るといった形容がぴったりで、たちまち老人の顔には汗が噴き出した。
あっという間に下絵を完成させると、パレットに絵の具をたらし、筆先でかき混ぜ、色を調整する。
まるで殴り描くといった感じで老人の筆先はキャンバスを踊った。
はあっ、はあっと激しい息遣いで老人は絵を描き進めていく。汗が滴り落ち、絵の具が飛び散った。
夕日が広間を染めるころ、老人はがくりと首をたれた。
「これまでにしよう……仕上げは明日にする……」
ぶつぶつとつぶやきながら老人は足を引きずるようにして部屋を出て行った。
三人はキャンバスに駈け寄った。
「すごい! これをたったあれだけの時間で描いたなんて、信じられない」
ケイは口をぽかんと開け、絵に見入っていた。ミリィもまた老人の絵に感嘆を隠しきれなかった。またたく間、といって短い時間に、老人は三人の肖像画をほとんど仕上げていた。
背景は広間の窓辺で、三人が並んで立っている。絵を覗き込んだミリィは叫んだ。
「ケイ、あなた弓を持っているわ!」
「え?」
「これを見て!」
ミリィは指さした。
指先を追ったケイはあっ、と声をあげた。
見ると、絵の中のケイはあの弓矢を背におっている。
「今です! ケイさま、弓をおとり下さい!」
出し抜けの声に三人は顔を上げた。
いつの間に現れたのか、召し使いのバスが真剣な眼差しでケイを見ている。
「そうだ、いまこそチャンスだ! ケイ、弓を取るんだ!」
あの、庭で見かけた青年が現れ、叫んでいる。その顔は必死の表情で、かれの背後にその場にいたほかの客も勢ぞろいしていた。
バスは言葉を重ねた。
「お願いです、わたしどもを伯爵から解放してくださいっ!」
ヘロヘロが叫んだ。
「ケイっ! お前の弓はなくなっていないっ! おれを信じろっ!」
ミリィもまた天啓を受けていた。
「ケイっ! 目を閉じるのよ!」
ケイはミリィの顔を見た。途端に頷き、目を閉じる。腕が上がり、背中にまわる。目に見えない弓をとり、これまた見えない矢筒から矢をとり、つがえた。
きりきりとケイの腕が見えない弓を引き絞る。
「やめろーっ! なにをしているっ!」
広間に伯爵が入ってきた。
その顔を見て、ミリィはぞっとなった。
伯爵の端正な顔は恐怖に歪み、まるで別人のようだ。
ケイの弓先がくるりと回った。その先は伯爵の肖像画を狙っている。
その伯爵は怖ろしい顔つきのまま、物凄い勢いで走ってくる。その指先は鉤のように曲がり、顔にはてらてらと脂汗が浮かんでいた。
伯爵の声を耳にして、ケイの弓先がぐらりと揺らいだ。
「今よっ! ケイっ!」
ミリィは必死になって叫んだ。
ひょう──、とケイの見えない弓矢が放たれ、空中を飛翔した。
ぎゃああああっ!
怖ろしいほどの絶叫が伯爵の口から広間を支配した。額をかきむしり、よろよろと上体を揺らす。
あーっ、あーっと幼児のような鳴き声を上げ、伯爵は歩き回った。
がくり、と膝がおれる。
さわさわさわ……。
かすかな音が聞こえてくる。
ミリィの肌が粟立った。
伯爵の身体が崩れていく。まるで砂でできたように、伯爵の身体全体がこまかなほこりになって散っていく。
さあーっ、と開け放たれた窓辺から一陣の風が広間を吹き渡った。
その風に乗って、伯爵の身体が煙となって消えていった。あとには何も残らない。
「有難うございます……これでわたしども、解放されました……」
バスが晴れやかな笑みを浮かべている。
その顔が見る見る崩れ落ちる。伯爵と同じように、埃になって飛び散っていく。周りにいたほかの人間も、おなじように飛び散っていく。しかしかれらの顔には満足したような笑みが浮かんでいた。
あっ、とミリィはまわりを見わたした。
広間は最初に見たときと同じように荒廃していた。庭を振り返ると、やはり最初に見た荒廃が支配していた。
「絵を見て……」
ケイの声にミリィは壁を見上げた。
!
ミリィは目を瞠った。
壁を一面に飾っていた無数の絵はすべて白紙にもどっていた。豪華な額は、むなしく白地のキャンバスを飾るだけだ。
伯爵の肖像画を見上げたミリィはあっ、と声をあげた。
あの端正な青年の姿はどこにもなかった。替わりに描かれているのは、あの絵師だった。肖像画は老人の姿に変わっていたのである。その額の部分に、ケイの矢が深々と突き刺さっていた。
「おそらく伯爵は魔法が消え去る前、自分の魂を絵に封じ込める方法を編み出したのだろうな。それで屋敷を訪れる人々を絵画に封印し、その魂を支配したのだ。まず最初に自分の姿を絵に封印し、屋敷に迷い込んだ人々を幻覚で惑わし、その魂を封印した。閉じ込められた魂は、伯爵の思いのままになる運命になったのだ。あの絵師こそが、死ぬ前の伯爵の本来の姿なのだ」
ヘロヘロはミリィとケイにむかって解説した。ふたりはヘロヘロの言葉にうなずいた。
そのふたりの顔を見たヘロヘロはにたりと笑った。
「それにしてもお前たち、ひどい顔色だ。まるで何日もなにも食っていないみたいだ」
え、とふたりは顔を見合わせた。
あっ、とふたりのけぞる。
目の下には隈が出来、ほほはこけている。
ぐうーっ、きゅるるる……。
ふたりの腹が鳴っているのだ。
「ヘロヘロ……あんた……」
ミリィは恨めしげにヘロヘロを見た。ヘロヘロの頬はつややかで、充分栄養が満ち足りているように見える。むろん、エルフの携帯食料をかれだけは食べていたからだ。
ひどい脱力感と戦いながら、ミリィとケイは必死になって館から脱出した。脱出する前、伯爵の屋敷はまるでつっかえ棒が外れたように崩壊をはじめていたのである。
ごろん、ごろんと音を立て、伯爵の屋敷の石組みが崩壊していく。もうもうたる白煙が立ち上り、屋敷の柱が、天井が、そして壁が崩れ落ちた。
ようやく敷地から脱出したとき、屋敷は跡形もなかった。まるで千年間徐々に崩壊していったのが、一瞬に時が動き出したかのようだった。地面にへたりこみ、ケイはミリィにエルフの携帯食料を差し出した。無言でそれを受け取り、ミリィは口に入れた。エルフの食料が喉を通り、身体に吸収されるにつれ、彼女の身のうちにちからが満ちていく。
崩壊した屋敷を、夕日が赤く染めていた。
「それにしても、どうしてあの時だったの。召し使いのバスはほかでもあたしたちに真相を話してくれてもよかったじゃない」
ヘロヘロは首をふった。
「わからん。だが、あの時以外肖像画に日の光が差し込むことはなかった。夕日が傾き、窓を通して絵を照らすのは、この時間しかなかったのだ。おそらく日の光に肖像画のちからは封じられたのだろう」
「それじゃなぜ伯爵はカーテンを下ろさなかったの? それで簡単に防げたはずじゃない?」
「だからあくまで推測だ。たぶん、伯爵の実体は存在しないのだ。伯爵にできるのは幻覚を見せることだけで、実体のあるものに手を触れることはできないのだ。屋敷も長年、あのままで存在し、カーテンがないあの窓から同じ時刻に夕日が差し込み、その間だけ召し使いたちや、虜囚となった客たちは自由をとりもどせるのだろう」
そう……。ミリィはヘロヘロの言葉にうなずき、崩壊していく屋敷を眺めた。
それにしても、どうしてエルフの”案内棒”はこんな場所にミリィたちを導いたのだろう。あやうく命を落とすところだった。
物入れから”案内棒”を取り出し、まじまじと見つめる。
ケイがじっと見つめている。
彼女はうなずいた。
「たぶん、これがあんたの使命に必要なことだったのよ。”案内棒”の示した方向に間違いはないわ。さあ、次の場所を目指しましょう」
ミリィは立ち上がった。
ぽん、と”案内棒”を宙に放り投げる。
次回はパックの冒険が再開します。帝国の首都、ボーラン市へ向かうパックはそこでどのような冒険をするのか?お楽しみに!PS:この時代より千年前のことを書いた「封魔の剣」もよろしく!