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37.5話「お姉ちゃん」

 パリッとした真っ白に輝くシーツ。

 フワリと雲のように私の頭を受け止める枕。

 簡素だが、しっかりと造られたベッド。

 高級宿すら足元に及ばない程の清潔な空間だ。


 ベッドの隣にはリーフが小さな椅子に腰かけていた。


「やっと起きたのね、フィー。」

「・・・・・・リーフ?」


「ちょっと待ってて、温かい飲み物を貰ってくるわ。」

「・・・・・・うん。」


 リーフが静かに部屋の扉から出ていく。


 ・・・・・・ここ、どこだろう?


 ボーっと考えながら部屋の中を見渡す。

 私の寝ているベッドと同じ真っ白なベッドがいくつか並んでいるが、誰も寝ている様子は無い。

 鍵の掛けられた棚にはガラス越しに色とりどりの瓶がぎっしりと見える。

 本棚には難しそうな本が詰め込まれ、今にも溢れてしまいそうだ。

 背表紙に書いてある題名すらも意味が分からない。

 アリスなら喜ぶかもしれないが。


 そうだ、アリス・・・・・・わたしの妹は?。


 扉が開き、リーフが戻って来た。

 手に持ったカップからは湯気がゆらゆらと立っている。


「お待たせ、温かいミルクを貰って来たわ。冷ましながらゆっくり飲むのよ。」

「・・・・・・うん。」


 可愛らしい何かの動物が描かれたカップを受け取った。

 ふーふーと息を吹きかけると、ミルクの香りを含んだ風がはね返って鼻をくすぐる。

 ゆっくりとカップを傾け、少しだけ口に含んで飲み込む。

 身体の中心から溶けるようにじんわりと熱が伝わる。


「ここは?」

「学院の医務室、怪我や病気を治療するための部屋よ。」


「けが?」


 身体を確かめても傷一つないし、どこも痛いと感じない。

 病気の様な兆候も確認できない。


 そうだ、あいつらにくわれたところもきずあとひとつ―――


「ぅぐ・・・・・・っ!!」


 慌てて口を抑えるが、それは意味を為さずに喉奥から溢れたものでベッドが汚れる。

 カップも落としてしまい、中のミルクがベッドを伝って床にまで零れた。


「大丈夫、フィー!?」


 記憶が甦ってくる。

 森に充満する草木の匂い、少し湿った土の匂い、そして・・・・・・それらと混ざり合った血の匂い。


「ケホッ・・・・・・ケホッ!ぁぅ・・・・・・い、痛いっ・・・・・・いたい・・・・・・よぉ!」


 存在していない傷跡が悲鳴を上げる。


「どうしたの、どこが痛いの!?」


 肉を喰いちぎられる感覚が何度も、何度も、何度も再生される。


「どうしましたか~?」


 騒ぎを聞きつけたのか、白衣を着た私と同じ年頃の少女が部屋に入ってきた。

 伸びた前髪の隙間からは紅い瞳が覗いている。


「ど、どこかが痛いらしくて・・・・・・!」

「ふぅん・・・・・・?」


 見えない傷跡の訴えは止まず、喉の奥から再び湧き上がる感覚。

 為す術も無く翻弄されるが既に吐き出すものは無くなっており、代わりにむせ返る。


「っく・・・・・・ケホッ・・・・・・ケホッ!!」


 呼吸が乱れ、ゼィゼィと喉が啼く。


「”洗浄(クリン)”。」


 少女が私に向かって魔法を唱えた。

 吐瀉物で汚れたベッドの一帯が一瞬で綺麗になる。


「”誘眠(シープ)”。」


 もう一つの魔法で急に意識が混濁し、身体の感覚が鎮まっていく。

 リーフが慌てて倒れそうになった私の体を支えた。


「な、何をしたの?」

「弱めた眠りの魔法を掛けました。鎮静作用があります。」


 言いながら少女はテキパキと私の服を脱がして身体を調べる。


「あの・・・・・・、フィーは?」

「うん、異常はありませんね。目覚めたばかりで心と体の整理がついてなくて混乱したんでしょう。良いですか、フィーティアさん。貴女の身体はもう治っていますから、ゆっくりと心を落ち着けて下さいね。」


 少女は私の来ていた服を畳んで脇に抱え、カップを拾う。


「さて、それでは私は代えの服を持ってきますので、その間に身体を綺麗にしてあげて下さい。桶はあちらに、綺麗な布はそちらの棚に入っています。」

「え・・・・・・、もう綺麗になっているわよ?」


 少女の魔法によって、私の身体もベッドもすっかり綺麗になってしまっている。


「魔法じゃ心の垢までは落とせないんですよ。それじゃあごゆっくり。」


 少女を見送ったリーフは言われたとおりに桶と布を準備する。

 リーフが水と火の魔法を使うと小さな桶がお湯でいっぱいになった。

 お湯に布を浸して絞る。水音が部屋の中に響く。

 私は慌てて上手く動かない腕を使ってシーツで体を隠す。


「い、いいよ・・・・・・ふかなくて。」

「ふふ、今さら恥ずかしがらなくていいわよ。」


 優しく、だが容赦なくシーツを剥ぎ取られた。


「・・・・・・ぁぅ。」


 脚を閉じ、手で体を隠す。


「ほら、背中を向けて。」


 抵抗を諦め、リーフに背を向ける。


「んっ・・・・・・。」


 温かく湿った布が私の体をなぞっていく。気持ちいい。


「あ、アリス・・・・・・は?」

「貴女達本当に仲が良いわね。」


「・・・・・・?」

「あの子も目が覚めた時一番にあなたの事を心配していたわよ。勿論、ちゃんと無事よ。眠ってるあなたの側を離れなくて大変だったんだから。交代で看るようにと言ったら渋々頷いていたけど。はい、手を上げてね。」


「よかった・・・・・・。」


 手を持ち上げられ腕から脇へ、脇から脇腹へかけて布が擦っていく。少しくすぐったいのを我慢する。


「じゃ、次は前ね。」


 後ろから手が回し込まれる。


「ま、前はぁ・・・・・・ぅぅ。」


 肩から胸、お腹へと段々に降りていく。

 そしてお腹から更に下・・・・・・


「そ、そ、そこはぁぁ・・・・・・っ!」


 咄嗟に力の入らない手でリーフの手を掴む。


「治ったとは言え一応怪我人なんだから暴れないの。」

「・・・・・・ぁぅぅぅぅ。」


*****


 結局、抵抗虚しく隅々まで拭き取られてしまった。

 もの凄く恥ずかしい思いをしたが、さっぱりとした気分だ。

 少女が言っていた通り、魔法で綺麗にしただけではこんな気分にはなれなかっただろう。


「それにしても遅いわね、あの子。」


 私の着ていた病衣を持って行ったきり、少女は戻って来ない。

 リーフが白いシーツを掛けてくれた。

 老騎士の白いマントが赤く染まる場景が蘇る。


 連鎖的にあの時の記憶が、胸の奥から早くなる鼓動と共に浮上してくる。

 が、先程のように存在しない傷が痛む事はない。魔法のお陰だろうか。


「どうしたの?顔色が悪いわ。」

「う、うん・・・・・・だいじょう、ぶ。」


「じゃないわ。どう見ても。」


 リーフに後ろから抱き締められ、頭を撫でられる。

 少し冷えてしまった体にリーフの体温が伝わってくる。


「村の小さい子達がね、怖い思いをした時なんかにこうしてあげると落ち着いてくれたの。」

「わ、わたしは・・・・・・そんな・・・・・・。」


 小さい子なんかじゃ―――


「一緒よ。私にとっては貴女だって妹みたいなものだもの。」


 目を閉じてリーフに体を預ける。震えが少しだけ収まる。


「・・・・・・食べられ、ちゃったの。」

「・・・・・・ん?」


「わたしの・・・・・・手と・・・・・・足。」


 ぎゅっとリーフの腕に力が籠もった。


「なんども・・・・・・かみつかれて・・・・・・っ!ぃ、いたかった・・・・・・よぉ・・・・・・こわかったよぉ・・・・・・。」


 私は声を上げて泣いた。全てを洗い流してくれるまで。


*****


 リーフが新しい布を取り出し、涙でベトベトになった顔を綺麗に拭いてくれた。


「ねぇ、フィー。お礼を言っていなかったわね・・・・・・ありがとう。」

「・・・・・・?」


「貴女が頑張ってくれなかったら私達は多分・・・・・・ここに戻れていなかったわ。だから、ありがとう。」

「ううん、きっとアリスなら何とか・・・・・・あぅっ!」


 リーフに額を指で弾かれた。


「ダメよ、そんな事言っちゃ。・・・・・・あの子、ずっと後悔していたわ。」

「・・・・・・どうして?」


「夜中にずっと苦しそうに寝言を言っていたの。あれから日にちも立っているから今は大丈夫みたいだけれど・・・・・・。おかしいと思わない?あの子、一番年下なのよ?私達はアリスに頼り過ぎていたわ。」


 そんな事は知っている。妹はそういう子だ。今までもそうだった。


「ふふ、何を今さらって顔ね。そうね、あの子は特別な子よ。だけどもう仲間で・・・・・・と、友達じゃない。妹という感じは・・・・・・全く、これっぽっちもしないけれどね。そういう意味では、あの子の”お姉ちゃん”になれるのは貴女だけなんだと思う。だからフィー、貴女がアリスの事をしっかり見てあげて。」

「そんなの、わたしじゃ・・・・・・。」


 無理だ。

 村に居た頃だっていじめっ子から助けてくれたのはアリスだし、お菓子だって多めにくれた。

 今だって勉強を教えて貰っているのは私の方だ。

 どちらが姉か分からない、なんていつも言われていたし、私だってそう思う。


「無理な事ないわ。知ってる?あの子が”お姉ちゃん”って呼ぶのは貴女だけなのよ?」

「そんなこと・・・・・・。」


 村の一番上のラスお姉ちゃんの事だって・・・・・・、あれ?

 そういえばラス”さん”と呼んでいたっけ・・・・・・。

 ニーナの事だって最初は”さん”付で呼んでいた・・・・・・ような気がする。


「何もアリスの面倒を見ろって言ってる訳じゃないわ。そんなのは私にだって、ヒノカにだって無理だもの。頭が良いとかそんなのは関係ないのよ。貴女は無条件でアリスの”お姉ちゃん”なんだから。」


 それは・・・・・・そうなのだけれど。


 (「お姉ちゃんは私のお姉ちゃんだよ。」)


 どちらが姉か分からないと言われた時、必ずアリスが言い返していた言葉だ。

 私は――――


 コンコン。


 ノックの音に思考を遮られる。

 扉から入って来たのは先程の少女だ。


「すみません、少し遅くなりました。やはり、病衣よりこちらを持ってきて正解だったようですね。」


 私の顔を見て少女が真新しい服を差し出す。


「これ、制服・・・・・・?」


 新品の制服一式。

 あの時に着ていたものは破かれてボロボロになってしまった筈だ。


「ええ、もう寮に戻ってもらって構いませんよ。そろそろ授業も終わりますし、お友達と一緒に戻られると良いでしょう。」

「ふぅ・・・・・・、これで一安心だわ。」


「ぁ、あの・・・・・・。ありがとう・・・・・・ございました。」

「いえいえ、これも仕事ですから。出来ればもう私に掛かるような事は無いようにして下さいね。それではお大事に。」


 そう言い残して少女はさっさと帰っていってしまった。

 リーフの手伝いを断り、新しい制服に袖を通す。

 学院に来てまだ一年も経っていないのに随分と懐かしい感じがした。


 終業の鐘が鳴り響く。

 その音が止む前に勢いよく扉が開かれた。


「お姉ちゃん、目が覚めたの!?身体は大丈夫!?起きても平気なの!?」


 飛び込んできたアリスに詰め寄られる。


「もう寮に戻って良いらしいわ。良かったわね、アリス。」


 しどろもどろになる私に代わってリーフが答えた。


「そっか、良かった・・・・・・。」


 ベッドの横に置いてある丸椅子にへたり込む。


「アリスは、大丈夫だったの?」

「ジロー先生が来てくれて皆無事だよ。ありがとう、お姉ちゃん。」


「そうじゃなくて・・・・・・怪我とか、しなかった?」

「あぁ、うん。リーフが治してくれたから平気だよ。」


「怪我したの!?」

「い、いや・・・・・・だから大丈夫だよ。ちょっと引っ掻かれただけだし、もう治ってるから。」


「・・・・・・大丈夫じゃない!」


 私は恐怖に負け、涙が止まらなくなってしまった。

 もしアリスが私と同じ様な目に遭っていたらと思うと。

 もしアリスを失ってしまっていたらと思うと。

 私の胸を締め付けるのだ。涙が溢れる程に。

 私は妹の存在を確認するために抱き締めた。その小さな身体を。


「お姉ちゃん?・・・・・・ごめんね、心配かけて。」


 アリスに頭を撫でられる。

 こんな事だから、どちらが姉か分からないと言われてしまうのだろうけど。

 それでも・・・・・・。


*****


「はい、綺麗になったわ。」

「・・・・・・ぁ、ありがとう。」


 涙を拭いてくれたリーフに礼を言う。


「ごめんなさいね、フィー。貴女はちゃんと”お姉ちゃん”だったわ。余計な事を言ってしまったわね。」


 私にだけ聞こえるように小声でリーフが言った。


「・・・・・・ぇ?」

「妹の為に涙を流せるなら、それは立派な”お姉ちゃん”だと私は思うわ。」


 リーフが小さく笑う。


「そろそろ皆も集まるだろうし、それから戻りましょう。今日はご馳走ね。」

「うん、お姉ちゃんの好きな物をたくさん買ってくるよ。」


「ご馳走って聞こえたにゃ!」


 サーニャが勢いよく部屋に飛び込んでくる。


「良かった!目が覚めたんだね、フィー!」


 続いて入って来たニーナに抱きつかれる。少し苦しい。


「思ったよりも元気そうだな。大事はないか?」

「・・・・・・うん。」


 ヒノカの問いに頷いて答える。


「ょ・・・・・・よかった・・・・・・よかったですぅ・・・・・・。」


 ぽろぽろと涙を零すフラム。

 少し騒がしいがいつもの日常だ。

 私はやっと、あの夜から帰ってくる事ができたのだった。

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