聖夜なんかじゃない
『フられた。ヒマ。飲みに行こう』
加菜からのメールはいやに簡潔な文面だった。
思わず漏れ出た真っ白なため息が、冬空に溶け込む。さっきまで降っていた雪は止んでいた。
達也はメールの返事を手早く打ち、携帯電話の送信ボタンを押した。
大学の時計塔は、クリスマスを祝うイルミネーションできらびやかに彩られていた。ハチ公前並みの待ち合わせスポットである時計塔は、何人もの男女でごった返している。彼らは頬を染め、今夜――クリスマスイブ――を共に過ごす、自身の片割れを待っていた。恐ろしく混雑しているにも関わらず、彼らは幾多の似たようなシルエットの中から、見間違えることなく自分の恋人を見つけ出すのだ。
加菜は、自分に恋人がいるかもしれないとは考えなかったのだろうか。
達也が苦笑いをしながら携帯電話を鞄にしまおうとした矢先、再びメールの受信音が鳴った。
『いつものお店で。七時。時間厳守』
クリスマスイブなのにいつもの店ってか。
胸の内で憎まれ口を叩くも、達也の頬は自然と緩んだ。そんな顔を他人に見せまいと、達也は黒いカシミアのマフラーを口元まで引き上げた。
チャコールグレイのダッフルコートの袖口を少し捲り、腕時計で時刻を確認する。六時半だ。今すぐ大学を出て駅に向かえば、約束の時間にはギリギリ間に合うだろう。
いつもの店、は達也たちが通う大学の最寄駅から一駅先にある。常に財政難な彼らの財布に優しい安居酒屋だ。
ザルである加菜と、気軽に飲みに行ける店はこの店ぐらいしかなかった。他の店だと酒代――特に加菜が飲んだ分の代金――が高くついて仕方がないのだ。
ちなみに、どちらが最後まで潰れずに飲めるかという勝負に敗れ、支払いを押し付けられるのはたいてい達也の方だった。
達也は足早に歩を進めながら、一年前のことを思い出していた。
じくじくと胸の奥が疼く。心の奥底、爛れた傷跡は今も塞がれることなく、滲出液を流し続けていた。加菜と言葉を交わす度、傷口の瘡蓋は幾度となく剥がされ、一向に治る気配を見せない。
最初は苦痛だと感じていた達也だったが、時とともにその痛みさえも心地よいと思うようになってしまっていた。
傷の修復と加菜、どちらを優先するのかと問われれば、達也は迷いなく加菜と答えるのだった。
一年前のクリスマスイブ、達也は加菜から別れを告げられた。
*****
出会いは大学入学前に遡る。初めて二人が言葉を交わしたのは高校二年の夏だった。
予備校の夏期講習で、達也はたまたま加菜と同じコースを取っていた。目指す大学が同じいうこともあり、二人はすぐに意気投合した。恋に落ち、交際に至るまで、さほど時間はかからなかった。
しかし、大学に入学後、二人を取り巻く環境は急変する。達也の目の前に広がっていたのは全く見たことのない、新しい世界だった。今までの、勉強と互いだけの狭い世界とは比べ物にならなかった。
達也はそれら全てに魅了され、のめり込んでいくことになる。サークル活動、アルバイト、クラスの仲間との語らい……達也の中で占める加菜の割合は減っていった。
「ゴールデンウィーク、旅行に行かない?」
「ねぇ、夏休み、海に行こうよ」
「大学の近くに新しいカフェができたんだって。週末、ランチ食べに行きたいな」
加菜の誘いに対する達也の返事は決まっていた。
「ごめん、その日は予定あるんだ」
加菜を愛していないわけではなかった。ただ、事あるごとに連絡を寄越す加菜に、達也はある種の鬱陶しさを感じ始めていた。
「クリスマスイブ、空いてる? うちで一緒にケーキ食べない?」
本当はサークルのクリスマスパーティーの方に参加したいんだけどな……。
本心ではそう思っていたのだが、加菜を蔑ろにしていることへの後ろめたさから、達也は加菜の申し出を渋々承諾した。
その時の達也は、加菜から別れを告げられるとは露ほども思っていなかった。
*****
「新しいカノジョはさぁ〜、元カノのこと忘れられない自分を受け入れてくれるんだって! そんなわけあるかっての!」
「ははっ、マジかよ」
達也は適当に相槌を打ち、空になった加菜のグラスにビールを注いだ。寂れた店内に、加菜の怒鳴り声が響く。
こんな安居酒屋でクリスマスイブを過ごす客はおらず、辛うじて店内にいるのは、手酌で日本酒を啜る中年サラリーマンくらいだった。
それにしても……機嫌、最悪じゃねぇか……。
てっきり失恋から悲嘆にくれているのだとばかり思っていたが、全くそんなことはなかった。
話を聞くと、加菜が振られたのはもう一週間も前だと言う。
同じ人を想い続ける決意、新たな恋を探す決意、自分自身を磨き上げようとする決意……。失恋から一週間、加菜の心に芽生えたのはそのどれでもなく……想いを告げた相手への怒りだった。
達也はよく味の染みた大根の煮物に箸を入れる。茶色い大根は、達也が想像していた以上に柔らかく、力を込めていないのにほろ、と崩れた。
これ以上形を崩さないよう、一口サイズに切った大根を慎重に箸で掴み、ゆっくりと口に運ぶ。達也の口の中でじゅわりと出汁の風味が広がった。
「相模達也ぁ〜! 私の話、聞いてんのかぁ〜!」
「聞いてるよ。加菜が好きだったのって、吉澤、だっけ? 確か、彼女を亡くしたばかりだったんだろ?」
酒には滅法強い加菜であるが、この日は珍しく酔いが回るのが早かった。胸元の大きく開いたクリーム色のセーター、そこから覗く素肌がほんのり甘い色に染まっている。達也は慌てて視線を逸らした。
いつもより、加菜のグラスが空になるペースが早い。
だが、こんな時は飲まなければやってい
られないのだ。達也は敢えて、酒を一息であおる加菜を止めようとはしなかった。
「あ、お姉さん、日本酒追加、熱燗でぇ。で、何だっけ……そうそう、吉澤くん! 交通事故でカノジョ亡くしたの、一月前に」
加菜はテーブルの脇を通りかかった店員に声をかけ、追加の注文を告げると、すぐさま達也に向き直った。
吉澤とは接点のなかった達也は、その辺りの事情はよく知らなかった。ただ、風の噂で吉澤――加菜の想い人だ――が恋人を失ったことは聞いていた。
「好きですって告白したのにさ、もう新しいカノジョいるんだってさ。まだ事故から一月しか経ってないんだよ⁉︎ 信じらんない!」
「お前さぁ、人の事言えねぇだろ。お前だって吉澤の心の隙を狙って告白したんじゃねぇの?」
「そうだけど……」
加菜は目の前にあるナスの浅漬けをちょいちょいと箸でつついた。しかし、食べるのを思い留まったかのように箸を置いた。
「そうでもしなきゃ……私にチャンスなんてなかったんだもん。吉澤くん、ずっとカノジョとは安泰でさ、他の女の子に見向きもしなかったんだよ」
ぽつりと加菜は呟いた。しゅん、と途端にしょげてしまう。
ちょっと言い過ぎた……か。とは言え、うまくフォローする言葉も思い浮かばず、達也は所在なさげに目を泳がせた。
会話が途絶えた絶妙のタイミングで、女店員が熱燗の乗った盆を運んでくる。盆の上には数種類の小鉢料理も乗っていて、陶器の器が触れる音がした。
お待たせしました、と店員は熱燗を達也たちのテーブルに置く。そして、満面の営業用スマイルを浮かべながら、さらに言葉を続けた。
「カップル様限定で、クリスマスサービスを行っております。こちらから一品ずつ、お好きな小鉢料理をお選び下さいませ。無料でプレゼントさせていただきます」
「わぁ、嬉しい! ありがとうございます!」
元カップルだけど、と言いかけた達也を加菜が視線で制する。それから加菜は色とりどりの小鉢を前に、どれにしようかと唸りながら悩み始めた。
小芋煮、キュウリの酢の物……そうだ、春菊のお浸しも悪くない。迷っているのは加菜だけではなく、達也も同じだった。しかし、そんな悩ましくも贅沢な時間は加菜の一声で打ち破られる。
「ほうれん草の白和えと烏賊の柔らか煮、ください!」
「おいっ⁉︎」
達也の意見はどこへやら……加菜は勝手に小鉢料理を二品選び、ほくほくとした顔で店員からそれらを受け取った。
恨めしげに見つめる達也の視線を気にも留めず、店員が去った後、加菜は達也ににじり寄った。
「カップルじゃないってバレたら、お金取られるかな……?」
加菜はそう囁くと、目元をくしゃりとさせ、笑った。
「馬鹿、こうなったら無理矢理でもカップルで通すっての。てか、お前、勝手に二品頼むなよ」
「いいじゃん。ここの白和えと柔らか煮、大好きなんだもん」
「……まぁ、俺も好きだからいいんだけど」
加菜の現金な性格は今も変わらない。
新たな恋を見つけた加菜が、自分の知らない加菜に変わっていくかもしれない。達也はそう危惧していた。だが、それも杞憂に終わったようだ。
いや、現金なのは俺の方だ。
確か、別れを告げられたのは一年前の今頃だったか……。
そんなことを思いながら、達也は小鉢の中の白和えに箸を伸ばした。
*****
「あのね、終わりにしようと思うの」
「……え?」
加菜のお気に入りの香水と同じ香りのする部屋で、達也はそう告げられた。何を、とは聞き返せなかった。
眼前のクリスマスケーキの上で、砂糖菓子のサンタクロースが達也を見て笑う。チョコレートに書かれた「メリークリスマス」の文字が遠のいた。
呆ける達也を意に介することなく、加菜は黙々とクリスマスケーキを切り分ける。加菜は少し大きめに切り分けたそれを達也に差し出した。
「ずっと前から……大学に入ってすぐくらいかな、達也とはもうダメかもって思ってたの。もっと早く切り出せばよかったね……ごめんね」
そう言うと、加菜は炬燵の中に足を突っ込み、俯いてしまった。
「なん……だよ、なんでだよ」
加菜を蔑ろにしていた自らの態度を棚に上げ、達也は加菜に詰め寄った。
あんなに思い合ってたのに……今だってちゃんと好きなのに、なぜ?
その問いかけが愚問であることに、達也は気づきもしない。
いつまでも、何があっても側にいてくれるはずだと思っていたのに――達也の甘えだった。
「達也にも友達との付き合いがあるんだって分かってる。だから、何も言わずにいたけど、やっぱり耐えられなくなっちゃった。達也に好かれてる自信がないの。それに……」
次の瞬間、加菜の口から信じられない言葉が発せられた。
「……私、達也以外に好きな人ができたの」
体から力が抜けた。達也の思考は完全に停止した。
それならば終わりにしよう、と言う勇気が達也には湧いてこなかった。まだやり直せるかもしれない、今なら間に合うかもしれない。このままで終わりたくない……!
その姑息な希望が、達也の脳を再び動かす。
「分かった。でも一つ頼みがあるんだ……俺からの、最後の」
「うん、何でも言って?」
加菜は真剣な眼差しで達也を見つめた。その目は微かに潤み、そこに映る達也の姿は歪んでいた。
「友達で、いて欲しいんだ。二人で飲みに行ったり、飯食いに行ったりさ。彼氏としてじゃなくて、友達として過ごしたい」
達也の、精一杯の懇願だった。せめてよき友人として、加菜の側にいられたら。
「加菜の恋愛だって応援する。そいつとのことは絶対邪魔はしない。だから――」
達也の言葉は勢いを失い、すぼんでいく。
だから、離れていかないでくれ。
おそらく、付き合いに口を挟まれたら、達也は加菜との関係を面倒臭く思っていただろう。しかし、いざ加菜がいなくなると思うと、足が震えた。
その時の達也は自分の行動が矛盾に満ちていること、加菜に自身の都合を押しつけていることなど思いもしなかった。いや、そこまでの考えに至る余裕を失っていた。
加菜は一瞬、目を大きく見開いた。そして困った顔で微笑む。
「分かった。友達で、いようね」
加菜は静かにフォークを取り、クリスマスケーキを口にした。
*****
達也が加菜と破局した、という噂は瞬く間に広まった。達也の広い交友関係が仇となり、「達也を振った元カノ」見たさに、加菜のいる教室までわざわざやって来る者がいるほどだった。
一方の加菜は、けろりとした表情で、毎日を変わらず過ごしているように見えた。内心では思うところがあったに違いないが、達也には加菜の心中は分からなかった。
「ていうかさ、達也くんマジ優しいのに、どうして振られんの?」
「元カノさん、さみしいから別れるって、勝手すぎない? だって達也にだって付き合いってもんがあるんだし、そういう所も理解してこその愛でしょ」
「別れても友達でいようなんて、都合よすぎ」
「それより、達也くん、今度あたしと一緒に飲みに行こうよ! すっごくお洒落な店見つけたんだ〜」
加菜という邪魔者の存在がなくなったと知るやいなや、達也を狙っていた女子が我先にと群がった。ノリもよく、友人の多い達也は女子に人気があった。
そんな彼女たちが口にするのは加菜への非難と、「みんなに優しい達也くん」を擁護する声だった。
――彼女たちにとって、加菜は格好の攻撃対象になったのだ。
おまけに、友人としての関係は解消せず、従来通り、達也と飲みに行ったり、出かけたりするときたものだ。加菜への風当たりは強くなる一方だった。
「もうその話はやめろよ。別に友達でいるくらいいいじゃねえか」
怒気のこもった口調で言い放つと、達也はその場から足早に離れた。加菜に友達でいようと言ったのは自分だと、その一言で彼女たちが黙るのは分かっていた。
しかし、妙なプライドが達也の邪魔をした。未練がましい奴だと思われたくなかった。女々しい奴だと思われたくなかった。
彼女たちは間違いなく友人であるはずなのに、なぜ自分はこんなにも取り繕っているのだろうか。なぜ本当のことが言えないのか。
――自己嫌悪で吐き気がする。
達也が彼女たちに振り返ることはなかった。
*****
「あ〜、飲みすぎた!」
店を出るなり、加菜は伸びをし、大声で叫んだ。
「加菜、お前、店の前ででかい声出すなよ」
「達也、うるさい!」
再び雪が降り始めていた。儚げなそれは、達也のマフラーに落ち、一瞬で溶ける。
達也と加菜は駅までの道を並んで歩いた。街灯が点々と灯る、閑静な住宅街の歩道で、加菜は鼻歌混じりにスキップする。毛先をゆるくカールした髪が、加菜の背中で跳ねた。
加菜の楽しげな様を見て、達也はいつも後悔するのだ。あの時、加菜をかばわなかったことを。
つまらない男のプライドなんて捨ててしまえばよかったんだ。――俺が悪者にならなきゃいけなかったんだ。
達也は唇を噛んだ。最低な自分に反吐が出る。加菜を守れなかった自分に嫌気がさす。
「加菜」
「ん〜? 何?」
自分の少し先を歩く加菜に声をかける。加菜の返事はいつも通り、呑気なものだった。
「俺、加菜が好きだ」
加菜の足が止まった。達也の方に振り返るかと思いきや、加菜は頑なに背を向けたままだった。
「お前を守ってやれなかった俺が何言ってるんだ、って思ってるんだろう? 加菜を傷つけた俺が、周りの目からお前を守ってやらなきゃいけなかったんだ……」
達也は一歩、加菜に近寄る。加菜の小さな背に語りかける。
「今度こそ、加菜を守る。だから――」
「あのね、達也。私、吉澤くんが今もまだ好きなんだ。まだ、忘れられないんだ」
「うん」
「達也の気持ちには応えられない」
そう言って、加菜は不意に振り返った。そして、頭一つ背の高い達也の瞳を覗き込んだ。
「今日ってクリスマスイブなのに、私にとっては聖夜なんかじゃないの」
ニッと八重歯を見せ、加菜が笑う。
「去年のクリスマスイブは達也と別れることになっちゃったし、今年は失恋するし。あ〜あ、今頃吉澤くん、彼女といちゃいちゃしてるんだろうな」
「ははっ、だろうな」
じゃあ、と達也は続けた。
「俺にとっても聖夜なんかじゃねえな。去年も今年も加菜にフられた」
「何それ、その女、超悪女じゃん」
加菜がぷっ、と吹き出す。つられて達也も笑い出した。ひとしきり二人は笑い転げた。
酒が入っているせいもあったが、可笑しくて仕方なかったのだ。加菜の前では素の自分をさらけ出せた。
笑い声は次第に萎み、途切れ、雪の降る音が聞こえそうなほどの静けさが訪れる。
「俺、待ってるよ。加菜が吉澤を忘れられるまで」
「……それじゃ私が、達也のことキープしてるみたいじゃない。本当の悪女じゃない」
達也は加菜の目をじっ、と見つめる。
「待ちたくて待ってるんだ。いいだろ」
加菜の目に涙が浮かぶ。その涙は零れ落ちそうで、落ちなかった。
「それに、なんで私が達也のところに戻る前提で話進んでるのよ……」
俯く加菜は、鼻声で言った。
達也は人差し指で頬をかきながら、へへ、と苦笑する。
「そう言われてみればそうだな。じゃあいいや、戻りたくないなら戻ってこなくてもいい。ただ……」
達也は両手で、加菜の冷え切った右手を包み込む。
「加菜のこと、好きでいさせてくれ」
「……馬鹿だよ、達也」
加菜の黒目がちの瞳から、涙が零れる。達也はそのまま俯いた加菜の頭を胸に引き寄せた。
「失恋したんだろ。いっぱい泣いとけよ、友達として胸貸してやる」
「馬鹿」
加菜は肩を震わせ、静かに泣いた。
抱き寄せた加菜の体からは、去年のクリスマスイブと同じ、変わらぬ香水の香りがした。




