7.強く優しく
小学三年生になった頃、光に変化が現れだした。
それまでの光は、誰にでも優しく、気遣いのできる子だった。
常に母親である由香里のそばにいて、遊びに行っても暗くなる前には帰ってきた。
言われる前に宿題をこなし、進んで手伝いをした。
由香里が買い物に行くときは、必ずついて歩き手を引いた。
重いものでも、文句を言わずに持ってくれた。
総太は、そんな光の頭をなでながら、常に言って聞かせてきた。
「お母さんは目が見えない。お父さんがいる時は、お父さんがお母さんの目になることができるが、いない時はお前がお父さんの変わりにお母さんを助けるんだ。できるか?」
幼い頃から言われ続けた言葉だ。
光は、物心ついた頃から父の期待に沿うべく頑張ってきたのだ。
どんな不満が隠れていようと、どんなにわがままを言いたくても、全てを飲み込んで、母を助けることだけに一生懸命になった。
しかし、どんなに良い子であっても、必ず通る道がある。
6月。
光が生まれて9回目の梅雨が来ていた。
「もうすぐ光の誕生日ね」
毎年、友達を呼んで誕生会をしていた。今年も同じように誕生会を開くつもりだった。
そのために、由香里はどんな料理がいいだろうかと、考え続けていた。
だから、光がいるはずの部屋で、光に声を掛けた。
「光、今年は何人お友達を呼ぶ?」
三年生になってから、二回は誕生会に呼ばれているのだ。これからも、呼ばれるだろう。
それをみこして、こちらからも呼んでおかなければならない。
光の誕生日を知っている友達が、今年は呼ばれなかったからと、その後呼ばれなくなったのでは可哀相だ。
「どんなものを作ろうか。から揚げがいいかな。どう思う?」
どんなに話しかけても光の答えが返ってこない。
由香里はじっと、様子を伺っていた。
部屋の中の空気が動けば、音がなくてもいるのが分かる。
本を読んでいるのなら、紙の音がする。
けれど、何の音もしないのだ。
「光? いるんでしょ?」
いれば返事をするはずだ。
由香里はじっと待った。
待ちながら、最近の光のことを思い出していた。
三年生になってから、どことなく変わってきている。
学校から帰ってきても、ただいまを言うことすら面倒なように部屋に入って、静かにしているのだ。
友達と遊びに行くことは相変わらずだが、帰宅時間が遅くなることもある。
お手伝いもイヤイヤやっているような気がする。
そんな光のことを総太に相談すると、笑って『反抗期だな』というだけだった。
確かに、三年生ともなれば反抗期の入り口なのかもしれない。
今まで良い子できたのだから、それなりに反抗したくもなるだろう。
しかし、見えない由香里にとって、光の変わりようが怖かった。
見えていれば、見えさえすれば、光の状態がわかるのに、見えない自分には音を頼りにするしかないのだ。
いつまで待っても、返事の返ってこない光に不安を覚え、光の部屋に入っていった。
いるような気配はあるのだが、音がしないのだ。
「光? いるんでしょ? 返事をしなさい」
「……」
「光! 返事をしなさい!」
「……お母さんは、ボクがいることが分からないの?」
小さな声だった。
暗く、曇った声だった。
母親に自分の存在が見えていないことに対する不満。
由香里は刃で切り刻まれる痛みを感じた。
(見えない母親が嫌いなの? それが、光の不満なの?)
そんな言葉が浮かぶが、それを口に出したのでは、光が可哀相だ。
由香里は努めて明るく返事を返した。
「見えないよ。見えないけど、音は誰よりも聞こえてるよ。知ってるでしょ」
「でも、ボクの呼吸すら分からないじゃないか」
息を殺すような呼吸音。
それではさすがに分からない。
「ねぇ、今年は誰を呼ぶ? どんな料理がいいかな? お母さん考えたんだけど、タコさんウインナーと、から揚げと、たまご焼きと、ケーキでどう?」
「……キャラ弁みたいなの作ってよ」
「キャラ弁?」
料理の本を見れば、それがどんなものかは分かる。
TVを見ていれば、どんなキャラクターがいるのかが分かる。
しかし、由香里には見ることができないのだ。
だから、自分が育った頃の料理を作るしかない。
「そうだよ。他のお母さんは作るよ。ボクのお母さんは、そういうのは作れないの?」
静かな批判。
(作れないよ。ごめんね……)
「そっか~。光はそういうのがいいのか。じゃぁ、おばあちゃんに頼んでみようか」
こうなれば、目の見える母に頼るほかない。由香里はとっさに母に助けを求めようと考えた。
すると、光は鋭い声で返してきた。
「お母さんが作らなかったら意味がないんだよ! 何でわかんないんだよ!」
「あ……でも、ほら。誕生にお弁当ってのもね。だから、お弁当は練習しておくから」
「作れないくせに。もういいよ! 今年は誕生日なんてやらない! 誰も呼ばないよ! 出ていって!」
そう言うと、強い力で由香里を部屋から追い出した。
ぴしゃりと閉められた扉は、由香里の心をえぐり、血を流させた。
もう、何も手につかなかった。
反抗期なのだから、仕方がないのだと自分に言い聞かせるが、どうしても悲しみから開放されない。
いつもなら、時間で部屋の電気を点けるが、今日は電気を点けることもできなかった。
暗い部屋の中にいようと、明るかろうと、由香里には何も見えないのだから、同じことだ。
そのまま時が止まったように、由香里も光も動かなかった。
ただ、時々光の悔しそうな泣き声と、呟きが聞こえてくるだけだった。
しかし、扉を閉ざした部屋の奥からの呟きは、由香里の耳には届いていなかった。
(光、ごめんね。見えなくて、ごめんね)
涙が頬を伝っては流れた。
いつの間にか、時計が七時の鐘を打ち鳴らしていた。
「ただいま~。誰もいないのか?」
そう言って、帰ってきた総太が、部屋の明かりを点けた。
「なんだ、いるんじゃないか。どうした? 酷い雨が降ってるのに、洗濯物はそのままだし、部屋は暗いし、出かけてるのかと思って心配したよ」
その声で始めて、何もしていないことに気がついた。
確かに、耳を澄ますまでもなく、外からは雨の音が聞こえてくる。
由香里は慌てて、総太にタオルを渡すと、ベランダへと急いだ。
急いで動いたために、テーブルにぶつかり、床に置かれた本につまずいてしまった。
いつもなら片付けてあるはずの本が、どうして出ているのか分からない。
それでも、転ばずにベランダへ行くと、大雨の中洗濯物を取り込みに掛かった。
行動を起こすときは、慌てずに考えながら。それが、由香里の行動パターンだ。
しかし、総太が帰ってきているのに、何もできていない焦りから、洗濯物を取り込むという行為すら思うように行かない。
見かねて、総太が手伝いに来た。
「オレがやるから、由香里は入ってなさい」
「ごめんなさい」
「びしょぬれだな。もう一度洗濯するか?」
「ええ、ごめんなさい」
「いいよ。光はどうした?」
答えられなかった。
光のことを言おうとすると、涙が先になりそうで、何も言えないのだ。
総太は、洗濯物を全て取り込むと、由香里に手渡した。
「慌てなくていいから、これを洗濯機にもっていきなさい」
「ごめんね」
「大丈夫だよ」
総太の優しい声で、余計に泣きたくなる。
そんな由香里を見ていて、何を思ったのか、総太が光の部屋の扉を勢いよくあけた。
「光! こっちにきなさい」
由香里の体が硬直する。
心臓をわしづかみにされたような痛みが走った。
「あなた、怒らないで」
そう言おうとしたとき、頬を叩く音が聞こえてきた。
由香里は何者かに、体をつかまれたように、動くことができなくなっていた。
「光! お父さんがいない時は、お父さんの変わりになれとあれほど言っていたのに、お前は何をしてるんだ! 雨の中で、洗濯物は干しっぱなしだし、お母さんは目が見えないんだから、危ないのは分かるだろ!」
「……」
「しかも、床の上に本を出しっぱなしにしてはいけないと言ってあるだろう。何で、危ないと分かっていながら、出しておくんだ!」
「あなた、やめて……やめて……」
やっと、由香里がそれだけ言うと、光の泣き声が聞こえてきた。
今まで聞いたことのない、赤ちゃんのような泣き声だった。
さすがに、そんな光の泣き声を聞いたことがなかった総太は、驚いたようで、怒声を上げるのを止めた。
「お父さんは、そうやって何でもボクにやれって言う……だけど、ボクだって、頑張ってる。でも、なんでお母さんにはボクが見えないんだ! 他のおか……お母さんは、ちゃんと見えるのに、どうしてボクのお母さんは見えないんだ……。ボクのお母さんだけ、どうして見えない……。お母さんは、何か悪いことをしたの?」
泣きながら、父にしがみつく。
そんな息子のやり場のない怒りを、驚きながらも、ぐっと受け止める総太がいた。
しばらく光の泣き声と怒りを聞いていた父は、力強く光に言って聞かせた。
「お母さんは何も悪いことなんてしていない。生まれたときから見ないのは仕方がないことなんだ」
「だって、みんなが。みんなが言うんだ。光のお母さんは、悪いことをしたから、目が見えないんだって。お母さんは生まれる前に、たくさん悪いことをしてきたから、だから見えないんだって……」
そんな苦しみを抱えていたのかと思うと、由香里はその場に座り込んでしまった。
「なんてバカな! 光。お前は自分の目で見て、お母さんが悪いことをする人だと思うか?」
光が大きく顔を左右に振った。
「そうだろう。光のお母さんは誰よりも優しくて、誰よりも光を愛してくれている。それが分かるのは光自身だろう。それなのに、お母さんのことを知らない人が、心無いでまかせを言ったからって、お前はそんな言葉にだまされるのか?」
「だって……」
総太は光をソファーに座らせると、ゆっくりと噛んで含めるように話して聞かせた。
二人の話を離れたところでぼんやりと聞きながら、由香里は考えていた。
見えるから、目で見る。
私は見えない目で、何を見てきたんだろう。
光が苦しんでいることすら気がつかずに、一体何を見ようとしてきたんだろう。
手で感じて、耳で聞いて……。
心で見ることを止めていた。
私は、一番大事な心を置いてきていたんじゃない?
光の姿を見たい。顔を見たいと思うあまりに、一番大事なものを見落としていた。
私にしか見えないものを忘れていたんだ。
そう思い至ると、いてもたってもいられず、由香里は立ち上がると声のする方へと進んでいた。
―――見えないからこそ、心を見なければいけないのに。
由香里がゆっくりと、手を差し出した。
「光……。ごめんね。お母さんが悪かったわ」
「由香里、どうした?」
総太が由香里に気がつき、光の隣に座らせた。
「あなた、私が悪かったのよ。私がちゃんと光を見ていなかったから」
「由香里はちゃんと見てるじゃないか」
「そうじゃない。心で見てなかった。だから、光の心が見えてなかったの。やっと、気がついたわ。ごめんね、光。そんなに苦しんでいたなんて、気がついてあげられなくて、ごめんね」
涙が頬を伝って流れた。
光が驚いたように由香里を見上げた。
「もう、忘れないよ。お母さんは、目が見えないけど。見えないからこそ、お母さんにしか見えないものがあるんだ。それは、心。光の心だよ」
「おかあ……さん。ごめ……んな……さい。ボク、ボク、辛かったんだ。みんな……からいろいろ……言われて、お母さんを守って……あげたかったけど、どうしていいか……分からなくなっちゃったんだ。だから……意地悪言っちゃった」
「いいの。もう、大丈夫だよ」
今まで、小さな体で必死に母を守ろうとしてきたのだ。
頑張りすぎてたんだ。
由香里は、全てを受け止めると、小さな声でこういった。
―――神様。
光を与えてくれて、ありがとう―――
fin
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
明日からは、別の作品をアップしますので、良かったら読みにきてください^^




