6.光の涙
光の目が見える。
それが何よりの喜びだった。
一歳を過ぎる頃には、由香里自信も日常のペースをつかめるようになっていた。もちろん、日々成長している光と共に手探り状態で由香里自信も成長している状態でなのだ。
ベビーベッドでおとなしく寝ていてくれたときはよかった。
しかし、つかまり立ちができるようになった頃から、持っているおもちゃをベッドの外に投げて、あうあうと声を発する。
母親を呼んでいるのだろうが、その声にこたえてそばに寄ろうとすると、床にないはずのおもちゃが転がっていて、それを踏んで自分まで転ぶということ何度もあった。
床におもちゃを投げないように、投げてもベッドから出ないようにと、ベッドの柵に紐でおもちゃを結んだりもした。
成長すればするほど、危険は増していく。
母が頻繁に様子を見に来てくれるが、そのたびに危険箇所のチェックをし、どうしたら住みよく危険がない環境になるかと知恵を絞った。
ベッドでは事足りなくなった頃には、床にベビースペースを広く取り、そこから出ないように工夫した。
総太が帰宅してから、夫と一緒に光の散らかしたスペースをきれいにするのだ。
とにかく、自分がいる場所に他の物が転がっていることが、どれほど危険なことかを、光に教え込まねばならなかった。
休日は、総太が一緒に散歩に行って遊んでくれるが、平日は自分ひとりだ。
どうしても、家の中に引きこもりがちになる。
それでも、小さな光は外に出たがった。
自分だけで、光の手をとり、杖をつきながらの散歩はリスクが多すぎた。
そんな時は、白旗を揚げざるを得なかった。
母に応援をお願いするのだ。笑って引き受けてくれた。
「見えない由香里を散歩に連れて行くのも怖かったけど、今度は見える光を散歩に連れて行くのね。この子は、由香里と違ってかなりのやんちゃだから、手ごわいわねぇ」
そう言って笑ってくれた。
光も、おばあちゃんが来れば散歩に出られるし、公園に行けるということを理解して、母が来るまでおとなしく家で遊んでくれるようになった。
光が成長していくにつれ、わがままを言わなくなってきた。
「あなた、光がとってもいい子なの」
ある時、疲れて帰宅した総太に由香里が言った。
「えー? いい子なら問題ないじゃないか」
「そうなんだけど。このくらいの年齢の子なら、もっと我がままでもいいはずだわ。それが、とっても聞き分けがよくて、公園に行ってもどのお母さんからもいい子だって言われるの」
「それのどこに問題があるんだ?」
「いい子過ぎると思わない?」
「親思いのいい子だと思うぞ」
「そうね」
負に落ちない気持ちはあったが、夫の優しい笑顔で、総太がそういうのだから、大丈夫なのだと安心したのだった。
光が小学一年生のときだった。
参観日に総太と由香里は揃って学校へ出かけていった。
幼稚園のころも、参観日や運動会。どんな催しでも夫婦で参加してきたのだ。
小学校も変わることはなかった。
今までどおり、元気な光の姿がそこにあった。
どの子よりもしっかりとした、一年生でありながら、一年生らしくない光。
そのときも、どの親からも羨ましいと言われ、由香里も総太も相好を崩したのだった。
後日、学校から帰った光は、勉強机から動こうとしなかった。
鉛筆を走らせている音がするわけでもなく、時々すすり泣くような声が聞こえてくるだけだった。
由香里は、学校で何かあったのだろうと察しはしたものの、どう接していいのか分からず、不安に駆られていた。
自分が子どもの頃、こんな時親はどうしていただろう。
思い出す過去は、霞の向こうのように記憶が遠くなってしまっている。
なだめてくれたのか、それとも気が晴れるまで泣かせていたのか。
夜になり、声を掛けるまでもなく、気がつけば寝ている光に、いつもと変わらない安堵を浮かべた。
寝静まった頃、そっと布団を覗き、顔に手を当てた。
どんなに、手に神経を集中させても、光の泣いてる理由も見えてこなければ、泣いていたはずの涙すら分からなかった。
ご飯を食べているときも、お風呂に入るときも、寝るからとパジャマに着替えたときも、多少の声の曇りはあったが、いつもと変わらぬ元気さだった。
(何をそんなに頑張ってるの? お母さんに教えて)
心の中で呟くが、光には聞こえるはずもない。
「ただいま~」
疲れた声が玄関に聞こえてきた。
できるだけ、家の心配事を話したくはないが、どうしても黙ってはいられなかった。
総太がテーブルについて、晩酌を始めた頃、温めた皿をテーブルに並べ、由香里も椅子に座った。
「何かあったの?」
浮かない顔の由香里に目を留めて、総太が聞いてきた。
聞かれなくても言っていただろう。もう、我慢の限界なのだ。
「あなたは、どうして私に何かあったと思ったの?」
聞かなくても分かっている。
総太は見ることができるのだから。
「そりゃぁ、見れば分かるよ」
「そうよね……見えれば分かるんだ」
「なにがあったの?」
ビールを傾けながら、総太が由香里を見た。
テーブルの上で、腕組みをしている格好の由香里の表情は暗く沈んでいる。
「光が、帰ってきてから、泣いてるみたいだった」
「喧嘩でもしたのか?」
「わからない。私の前では、とっても明るくて。とってもいい子なんだもの」
「そうか、心配かけまいとしてるんだな」
「でも、泣いてるのはわかるよ」
「声を上げて泣いてたのか?」
「そうじゃないけど、時々、嗚咽が聞こえてきた。ずっと、机にしがみついて、静かに泣いてた」
「そうか……。光も、それなりに頑張らなくちゃならない年齢になってきてるんだな」
「ねぇ、あなた。私には……私には、光の涙が見えないよ」
声が震えた。
これほどまでに、子供が泣いていることが自分を叩きのめすとは思わなかった。
目が見えていたらどうだったのだろう。
普通のお母さんだったら、じっと耐えている子どもに何をしてあげたのだろう。
考えれば考えるほど、幼い頃から、いい子だと言われ続けてきた光が可哀相でならない。
「何で、私は目が見えないんだろう。何で私は、光を見ることができないんだろう」
かつて、総太の顔が見たかった。
でも、手で総太を感じることで幸せを感じていた。
しかし、光を感じたくても、泣いている光に手を差し伸べることができないのだ。
それがもどかしく、悲しく、切なく胸を切り刻む。
目が見えたら。
―――私も普通のお母さんのように、光の涙を拭いてあげることができたのかもしれない。
何度もなんども、同じ思いが繰り返される。
「光が涙を見せないようにしてるのは、それなりに理由があるからだろう。
何よりも、お母さんを悲しませたくないからじゃないのか?」
「そうだね……」
分かっている。
光がそう思っていることぐらいは、察しがつく。
それよりも、光を見ることができない自分が辛いのだ。
愛するわが子を見ることができない。子どもを生み育てる中で、これほどまでに苦しいことがあるなど、誰も教えてはくれなかった。
結局、光が泣いていた理由は光の胸の中に収められ、由香里にも総太にも分からずじまいだった。
ただ一人、光の涙の理由を知っている人がいた。
「おばあちゃん。何でお母さんは目が見えないの? なんで、お母さんは杖をついて歩いているの? 何でクラスのお友達はお母さんを見て笑うの? 何で、お母さんは悪くないのに、みんなが……笑うの……?」
そう言葉を苦しそうに吐き出し、最後は涙になって流れていったのだ。




