5.戦いのはじまり
由香里の母は、これから光を守っていかねばならないのに、自分の不安を消し去るために、娘を甘やかしてはならないと自らを戒め、早々に父の元へ帰っていった。
その背中は不安で痛々しいほどだったが、由香里には見えない。
「じゃ、お父さんが心配だから、お母さん帰るわよ」
まるで、娘のことなど心配してないというように、明るく言い放つ。しかし、目の見える母にとって、娘の不安そうな顔が辛くせつなかった。
それでも、母は振り向くことなく、玄関から姿を消した。
母がいなくなってからの育児は、考えていた以上に大変だった。
ベビーベッドに寝ているうちはまだよかった。
泣き出したら、そばにより、それまでは家のことができた。
全てを手で触れてこなしていくのだから、倍以上の時間が掛かる。
慌ててやれば、ものにぶつかったり落したりと、余計な時間が掛かる。
由香里は、常に『慌てない。焦らない』と自分に言い聞かせていた。
そんな毎日の中で、一番心配だったこと。
光は目が見えるの?
総太もそれが心配だったらしく、いろいろな物を目の前にちらつかせてみたが、あまり反応が見えなかった。
由香里には、『大丈夫だよ』と言ってはいるが、本当に大丈夫なのかどうか、自分でも分からないのだ。
ただ、分からないことで、むやみに由香里の不安をあおりたくなかった。
一ヶ月検診のとき、総太は由香里と共に病院にいた。
仕事もあるが、ひとりで病院へ行かせるのは不安があった。
産後一ヶ月なのだから、普通に考えれば大丈夫なのだろうが、乳母車を押して病院へ行くのがどれほど大変なことだろうと考えたのだ。
「仕事、大変なんでしょ? 休まなくてもいいのに」
車の中で由香里が言った。
最近の総太は大きな仕事を任されているらしく、帰りが遅いことも多々あるのだ。
「大丈夫だよ。大事なときにそばにいないような父親にはなりたくないからね。
それとも由香里は、オレがそばにいないほうがいいか? 早くもゴミ扱いかよ」
そう言って笑うのだ。
それは、総太の優しさ。
心配だからそばにいるといわれれば、心配させるような自分を責めるだろう。
だからこその言葉なのだ。
診察室に通され、体重や身長が書かれている紙を見ながら医師が言った。
「順調に育ってるね。奥さんは目が見えないようだけど、大変だろうねぇ。不安なことがあったら、どんどん相談に来なさい。保健所でも、育児サポートなんかもあるからね」
そう言って、パンフレットを渡してくれた。
「先生。光は、目が見えてますか?」
今日一緒に来たのは、どうしてもこの一言が聞きたかったというのもあった。
由香里のことを思って一緒に来たが、それ以上にこのことが聞きたかったのだ。
もちろん、由香里に聞いてきてくれといえばすむことかも知れない。
しかし、自分の耳で聞きたかった。そして、なによりも二人で乗り越えると決めたのだから。
この質問の結果が、どうであろうと、今この瞬間を共にいることが大事なのだ。
由香里は体を硬くした。
この質問は、自分も聞きたかったことだ。
しかし、それを総太が聞いたということは、やはり『大丈夫』といいながらも、本当は心配で仕方がなかったのだろう。
総太の手が由香里の肩に置かれた。その手は、温かく、どんなときでも守ってくれそうだった。
由香里は光をしっかりと抱きながら、医師の言葉を待った。
「目? あぁ、見えてますよ。大丈夫、見えてます」
医師はニッコリと微笑むと、力強く答えてくれた。




