3.結婚
負けたはずの朝に、思いもよらないような素敵なことが起こった。
それは、目の見えない自分に、光の見える人がプロポーズしてくれたこと。
どんなに前向きに生きていようと、健常者との恋など夢見るだけ無駄だと言い聞かせてきたのだ。
光のない自分にとっては、どんなに前向きに考えても、夢のまた夢だ。
それゆえ、安本のことも片思いの恋で終わる。それでよかったのだ。
それが、どんな女神が微笑んでくれたのか、安本の方から付き合って欲しいと言って来た。
最高に幸せだった。
怖いぐらいに幸せだった。
この幸せが、いつか粉々に壊れてしまうんじゃないかと、不安で仕方がなかった。
安本の申し出を受け、デートを重ね一年が過ぎようとした頃、給湯室でのプロポーズの返事を求められた。
「あの時の返事を聞かせて欲しい」
「あの時?」
「結婚を前提に付き合って欲しいって言ったろ」
「うん……」
「オレじゃダメか? 一年待った。ずっと、由香里だけを見てきた。オレはこれからも由香里だけを見て生きたい。由香里はどう?」
「私でいいの?」
「私で、じゃない。由香里が! いいんだ」
「私には……光が見えないよ」
「光?」
「あなたの顔も見えない。どんなに前向きに、自分にできることだけを頑張っても、一番みたいあなたの顔が見えないの」
安本は由香里の両手をとって、自分の顔を触らせた。
顔の輪郭、眉、目、鼻、口、耳。
「由香里なら分かるだろ。オレがどれほどのイケメンか」
安本は笑顔でそう言うと、「由香里の手で、オレを見ればいい」と言ったのだ。
「私の手で?」
「本当にその目で見えたら。オレをその目で見たら……。嫌いになるかも知れない。だから、その手で見てくれ。本当のオレを、由香里の手で見てくれ」
由香里は、大きく頷くと大粒の涙を流しながら、安本の胸にしがみついた。
安本の胸からは、由香里を包むように鼓動が聞こえてきた。
「聞こえる」
「なにが?」
「心臓の音」
「……由香里のためだけに、動き続けるよ」
夢のような結婚が待っていると思っていた。
しかし、現実はそんなに簡単なものではなかった。
由香里の両親に挨拶に行ったときは、両親がもろ手を挙げて賛成してくれると思っていた。
だが、意外にもこれから先のことを次々に質問された。
「この子は目が見えない。若い二人だけで生活していけるのかしら?」
母の不安。
「君が仕事に行ってる間に、生まれてきた子どもと由香里と二人で、どうやって育てていけると思うね」
父の不安。
目が見えないことなんて、大したことじゃない。
自分にできることをすればそれでいい。それが由香里なのだから。
そういって育ててくれたはずの両親が、眉を寄せたのだ。
幸せになりたい。ただ、それだけのことが許されないのか?
由香里の両親はまだよかった。それ以上に大変だったのは、安本の両親だった。
父親は憮然と口を閉ざし、母親は泣いて別れるように言ってきた。
安本の家系に目の見えない血筋を入れるつもりなのかとも言われた。
子供ができれば、その子も目が見えないかもしれない。そんなリスクを負うより、健康な女性と結婚して欲しいとも言われた。
それらは、当然の親の気持ちだった。
由香里は分かりきっていた現実に打ちのめされていた。
「やっぱり無理だよ。目の見えない私では、ご両親が納得されないわ」
安本と別れることがどれほどの苦悩か。
それでも、彼のために別れを決断するべきだと思った。
「由香里、オレは一生、お前のために生きると決めたんだ。そこには、いろんな苦難があることも承知している。覚悟はできている。その上で結婚してくれと言ったんだよ。
こんなことで諦めるくらいなら、最初からプロポーズなんてしなかったよ」
安本の優しい言葉。
由香里は涙した。それでも、自分では安本を幸せにできないのではないか。
その思いが由香里を苦しめていた。
「どうしてもわかってもらえなかったら、その時は親の承諾なしで結婚しよう」
「それは……」
「いつか分かってくれるよ。その日が来るように頑張ろう」
「由香里なら、一緒に乗り越えてくれる。オレは信じてる。オレ一人では由香里を100%幸せにできないかもしれない。だったら、由香里と二人でお互いが120%幸せにすればいいじゃないか」
結局、安本の両親が折れることなく、小さな結婚式を挙げたのだった。
今、ウエディングドレスを身にまとい、幸せと戸惑いを浮かべている由香里と夫の写真が、新居の壁に掛かっている。
由香里の目には見ることのできない写真ではあるが、二人の幸せへの最初の一歩なのだ。




