2.出会い
誰よりも早く会社に行くこと。
これもまた、由香里にしかできないことの一つだ。
もちろん、誰よりも早く行こうと頑張っても、由香里より早く来ている人がいるのだが。
「おはようございます」
会社に着くとノブを回す。自分が最初に到着していれば、鍵は開いていない。けれど、自分より早く来ている人がいれば、鍵は開いている。
先人がいるかどうか、そこでその日の由香里の一日が決まる。
なぜなら、誰よりも先に来れた日は、勝った気になるからだ。逆に誰かが先に来ていれば、負けた気になる。
だからと言って、何が変わるわけでもないのだが。
今日もノブを回してみた。
すると、残念なことに鍵は掛かっていなかった。
(負けたか)
そう思いながらも、負けたことも楽しくなる。
「おはようございます」
元気に挨拶すると、「おはよう!」と声が返ってきた。
「安本さんですね」
「さすがだな~。声だけで分かるんだから」
安本とは、由香里より3歳年上の先輩で、由香里に仕事を教えてくれた男性なのだ。
気さくで、とても話しやすく。この会社の中でも、女性社員に結構な人気なのだ。
だが、由香里には声はわかっても、安本がどんな顔をしているのか分からない。
今まで生きてきて、顔を見れないことのもどかしさなど感じたことがなかった。
それが安本と出会ってから、顔が見たいと痛切に思うようになっていた。
「お茶、淹れますね」
「ありがとう。お湯は沸かしておいたよ」
「気が利きますね~」
「そりゃぁ、お茶を淹れてほしかったからかな」
そう言って、快活に笑うのだ。
心配りをしながらも、決してそれを押し付けない。それが安本だ。
由香里は、なれた足取りで給湯室へと向かった。
従業員ひとりひとりが、マイカップを持っている。それを、ひとつひとつ手に取り、どれが誰のものか確認するのだ。
その中から、ひとつを探し出すと、カップをテーブルに置いた。
目の見える人なら簡単な作業でも、由香里には時間が必要だ。時間さえ掛ければ、どのカップが誰のものか、間違えることなく分かるのだ。
「よくそれでカップを間違わずに出せるね」
手に神経を集中していたところで、安本から声を掛けられた。
「どうして分かるの?」
「ひとつひとつ柄が違いますし、大きさも厚さも」
「それを全部覚えてるの?」
「そうです」
由香里はニッコリと笑った。由香里にとっては当たり前のことなのだ。
「すごいねぇ。特技だな」
「私には当たり前のことだから」
そういいながら、急須にお茶の葉を入れ、ポットのお湯を入れようとした時、安本が近寄ってきた。
「お湯は、オレが入れよう」
そう言うと、由香里の持っていた急須を取ろうとした。
「大丈夫。できます」
「できるだろうけど、やけどしたら危ないから」
「心配しないで、これで火傷しても、安本さんがいじめたなんて言わないから」
「……そうじゃないよ」
急に安本の声が真剣になって聞こえた。
由香里は、どうしたのだろうとじっと安本の気配を感じていた。
安本が深呼吸すると、由香里を見据えて言った。
「お湯はオレが入れる。一生、オレが入れ続ける」
言っている意味が分からず、返事ができないでいると、更に安本が続けてきた。
「付き合って欲しい。結婚を前提に、付き合って欲しい」
「え?……でも」
「好きな人がいるの?」
「いいえ……。そうじゃないの。だって、安本さんは……私なんか」
「なんかじゃないよ。ずっと、入社してからずっと見てきた。由香里さんしかいない。オレの嫁さんになれる人は、由香里さん以外にいないと思ってる。付き合ってください! そして、オレをしっかりと見てくれ。いや、感じてくれ。それでダメなら、諦める!」
それが、安本との出会いだった。




