一晩かけて命がけで産んだ娘を、家族は血のつながらない妹に渡した
難産の末、一晩かけて娘を産んだ。
けれど、抱く間もなく、夫と家族は赤ちゃんを篠宮真帆に渡してしまった。
夫の瀬尾直哉は娘の頬を撫でた。
「真帆、口元も鼻もお前に似てるな。名前も考えてやってよ。大きくなったら、真帆にもなついてくれるといいな」
兄の篠宮雅臣が笑った。
「何言ってるんだ。この子は真帆のかわいい娘だろ。大きくなって真帆を大事にしなかったら、俺が許さないからな」
両親まで目を潤ませていた。
「真帆は出産で体形が変わるのを気にしてたものね。これで将来も寂しくないわ」
母は真帆の腕が疲れないかと気遣っている。
私は大量に出血し、点滴につながれたまま震えていた。家族は真帆を囲んで笑い合い、こちらを見ようともしない。
どうにか直哉の服をつかんだ。
「直哉……この子、結菜って名前にしたいんだけど。どうかな?」
母の笑みが消えた。
「紬、そんなことで張り合わないで。あなたが帰ってきてから、真帆がどれだけ我慢してきたと思ってるの? いろんなものを譲ってもらったんだから、これくらいいいでしょう」
私は手を離した。
十六歳のとき、篠宮家に捜し出された。私こそが実の娘で、真帆は血のつながらない子だと聞かされた。
家に迎えられてからは、いつも真帆を優先するよう言われた。部屋も服もアクセサリーも譲り、父や母、兄に甘えることさえ遠慮した。
いつか家族として受け入れてもらえると信じていた。
それなのに、命がけで産んだ娘まで渡せと言う。
空っぽのベビーベッドを見つめ、布団を握りしめた。
体が回復したら、結菜を連れて出ていこう。
この家には、もう帰らない。
1
次に目を覚ましたときも、病室は賑やかだった。
真帆は娘を抱いてソファに座り、直哉がおもちゃであやしていた。兄は夕食の希望を聞き、両親は真帆の腕が疲れないかと心配している。
「クッキーちゃん。真帆が名前をつけてくれたんだぞ」
娘を抱かせてほしかったが、喉が乾いて声が出なかった。水を取ろうと身を起こすと、サイドテーブルから紙が落ちた。
真帆が用意した、飾りつきの命名カードだった。
名前は「クッキー」。母親の欄には「篠宮真帆」と書いてある。
病院の出生証明書には私の名前が記されている。それなのに、親戚に披露するカードでは真帆が母親になっていた。
「直哉、どうしてここに真帆の名前があるの?」
彼はカードを見た。
「紬が寝てたから、真帆が準備してくれたんだよ。親戚に見せるだけだろ? 戸籍じゃあるまいし、気にすることか?」
「でも、産んだのは私なのよ!」
直哉が眉をひそめた。
「紬が産んだのはわかってるって。でも真帆もかわいがってくれるんだから、いいじゃないか」
彼は真帆へ向き直った。
「心配しなくていい。約束したんだから、誰にも邪魔させない。紬は俺の妻だけど、だからって肩を持つつもりはないよ」
真帆は嬉しそうに娘を抱き直した。
十六歳で篠宮家に戻った日のことを思い出した。
生き別れた家族と会えたら、一度くらい抱きしめてもらえると思っていた。
けれど、兄が最初に口にしたのはこんな言葉だった。
「これが俺の妹? ずいぶんみすぼらしい格好だな。こんなことなら捜さなきゃよかった」
母は私の話し方を嫌い、父は人と目を合わせられない態度を気に入らなかった。真帆と比べられるたび、私のほうが劣っていると言われた。
真帆はいい学校に通い、ピアノや礼儀作法を習って育った。
一方、私は貧しい養家で育った。お腹いっぱい食べられて、養父に殴られずに一日を終えられれば十分だった。
篠宮家に戻ってからは必死に勉強した。
真帆よりいい成績を取れば、負けず嫌いだと責められる。似た服を着れば、嫉妬して真似していると言われた。
結菜を妊娠したときは、嬉しくて泣いてしまった。
つわりで何も食べられない日も、検診の結果を書き留め、娘が生まれる日を楽しみにしていた。
その頃、家族は急に優しくなった。
母はベビー用品を選ぶのに付き合い、兄は高価な特注家具をそろえ、子供部屋を整えてくれた。
直哉も毎晩、お腹に手を当てて絵本を読んでくれた。
娘が生まれたら、温かい家庭を築けると信じていた。
直哉はまだ、真帆がどれほどいい母親になるかを話していた。
「そんなに真帆が好きなら、二人で子供を作ればよかったじゃない」
病室が静まり返った。
兄が立ち上がり、グラスを床に叩きつけた。
2
飛び散った破片が目尻をかすめた。指で触れると血がついたが、兄は気づきもしない。
「いい加減にしろよ、紬! 真帆はお前の子供を世話してくれてるんだぞ。それなのに何てこと言うんだ! あんな環境で育ったお前に、まともな子育てができるのか? 真帆が面倒を見てくれるんだから、ありがたく思えよ!」
母も私を責めた。
「そうよ。この子だって大きくなったら、真帆みたいなお母さんがいいって言うわ。あなたは帰ってきたときから、本当に手のかかる子ね」
直哉まで失望した顔をしている。
「紬がベッドで休んでる間、誰が赤ちゃんの面倒を見てくれたと思ってるんだ? 真帆に礼も言わず、あんなことまで言うなんて。あいつはまだ独身なんだぞ。誰かに聞かれたらどうする?」
みんなの顔を眺めていると、笑いが漏れた。
「私が産んだ子を真帆に渡すのも、全部私のためってことね。私がわがままだったんだ」
直哉は少し機嫌を直した。
「産後だから今回はいいよ。真帆も疲れてるし、みんなで何か食べに行こう」
両親と兄は真帆を囲んで出ていった。
看護師が娘をベビーベッドに戻してくれて、ようやく顔をゆっくり見ることができた。
おくるみに包まれた小さな体。赤い頬に、私とよく似た目元と鼻。
そっと触れると、眠ったまま口元を緩めた。
しばらく抱いてから、ずっと連絡していなかった番号に電話をかけた。
「朔也、前にアメリカでの研究開発に誘ってくれた話、まだ有効?」
電話の向こうが数秒静かになった。
「もちろん! 紬、出産したばかりだろ? 急にどうしたんだ?」
「娘と一緒にここを離れたいの。向こうの仕事を用意してもらえる?」
鷹取朔也は少し考えてから答えた。
「三日あれば仕事と住まいは手配できる。ただ、産後すぐに長距離の飛行機には乗れないだろ。子供のパスポートも必要だし、焦るなよ」
「弁護士に相談する。体が回復したら行くわ」
「わかった。でも海外のプロジェクトは大事な仕事だからな。来てもらったら、簡単には帰さないぞ」
「うん。後悔しない」
電話を切ると、直哉が戻ってきた。
両手を背中に隠し、少しもったいぶってから白いユリの花束を差し出した。
「さっきは悪かった。出産したばかりで気持ちも不安定だろうし。真帆も花を買って仲直りしたらって言ってくれたんだ。どう、気に入った?」
強い香りが鼻を突き、慌てて花束を押し返した。
もう肌がむずむずし始めていた。
私は花粉に重いアレルギーがある。
真帆は花が大好きで、篠宮家には一年中生花が飾られていた。あの家ではアレルギーの薬が手放せなかった。
後ろから入ってきた母は、私を見るなり顔をしかめた。
「直哉さん、甘やかしすぎよ。わざわざ花を買って謝ってくれてるのに。真帆なら、ちょっと親切にされただけでもずっと覚えてるわ」
首や腕に赤い発疹が広がってきた。
説明しようとして、やめた。アレルギーのことは何度も話している。
看護師が異変に気づき、花束を外へ出して医師を呼んだ。
処置が終わると、直哉は小さな箱を取り出した。
「これもプレゼント。もう怒るなよ」
中には細かなダイヤを三日月形に並べたシルバーのネックレスが入っていた。
昔の直哉を思い出した。
篠宮家に戻ったばかりの頃、彼だけは私に優しかった。
真帆の機嫌を損ねて家を追い出された夜、雨の中で私を見つけ、自分の部屋に泊めてくれた。タオルと温かいお茶を出し、泣かなくていいと言ってくれた。
兄たちの悪ふざけで階段から突き落とされ、足を骨折したときも、救急外来まで背負っていき、治療が終わるまで付き添ってくれた。
けれど、真帆が来ると、いつも彼女のほうへ行ってしまう。
結婚後、真帆が「奥さんができたら、もう私のことなんかどうでもいいんでしょう」と泣いたことがあった。
直哉は私の目の前で答えた。
「紬にはかわいそうだから親切にしてるだけだよ。真帆と比べられるわけないだろ。俺にとって一番大事なのは、ずっとお前だよ」
今もネックレス一つで、私の機嫌が直ると思っているらしい。
そこへ真帆が入ってきた。
首には、大粒のダイヤをいくつもあしらった華やかなネックレスが輝いていた。
「紬、気に入った? 直哉と一緒に選んだんだよ。私たち、これからは二人ともママなんだもん。お祝いしなくちゃね」
直哉は真帆を見て微笑んだ。
私は銀のチェーンを指でなぞった。
あとで知ったのだが、私のネックレスは、真帆の高価なジュエリーを買ったときについてきたおまけだった。
3
朔也の対応は早かった。
翌日にはアメリカの会社から仕事の書類と住まいの案内が届き、離婚や渡航の手続きに詳しい弁護士も紹介された。
私は娘の出生届に、妊娠中から決めていた名前を書いた。
瀬尾結菜。
書類の提出は、弁護士に手配してもらうことになっていた。
診察を終えて病院のエントランスへ向かう途中、真帆と直哉の姿が目に入った。
真帆は目を赤くし、直哉の袖をつかんでいた。
「直哉、私、後悔してる。昔、直哉が私を好きだったとき、紬に譲ったりしなきゃよかった。やり直せるなら、今度こそ離したくない」
直哉は驚いたあと、嬉しそうに真帆を抱き寄せた。
「真帆、やっと言ってくれたんだな。昨日クッキーを抱いてたとき、俺も考えてた。あの子が本当に俺たち二人の娘だったら、どれだけ幸せだろうって」
私は廊下の角で足を止めた。
真帆は昔から男性に人気があり、交際相手も次々と変わった。物静かな直哉は、彼女の好みとは違っていたはずだ。
真帆が彼の胸に顔を寄せた。
「でも、直哉はもうお姉ちゃんと結婚してるんだよね。私があのとき譲らなければよかった……」
直哉は真帆の額にキスをした。
「真帆がいなきゃ、紬となんか結婚してないよ。結婚すれば、お前のそばにいられると思ったんだ」
壁に手をついた。
彼が昔してくれたことを思い出しながら、二人の会話を聞いていた。足元がふらつき、しばらく動けなかった。
やがて二人の前まで歩き、直哉の頬を思い切り叩いた。
彼が頬を押さえた。
「紬? どうしてここに?」
真帆が悲鳴を上げ、私を突き飛ばした。
出産とアレルギーで弱った体は踏ん張りが利かず、病院のエントランス脇にある池へ落ちた。
冷たい水が服に染み込む。もがいているうちに視界が暗くなり、意識が途切れた。
目を開けると集中治療室にいた。
直哉が私の手を握り、ほっとしたように笑った。
「紬、よかった。目が覚めたんだな。さっきの話は気にしないでくれよ。若い頃に好きだった相手くらい、誰にだっているだろ? 俺たちは結婚してるし、子供だって生まれた。父親としての責任は果たすから」
彼は続けた。
「昔、真帆の気持ちに応えられなかったのは俺のせいなんだ。これからは紬も、少しあいつのことを気遣ってやってくれないか?」
思わず笑ってしまった。
「父親としての責任?」
「もちろん」
「でも、結菜の母親は真帆だって、みんなで決めたんでしょう?」
直哉の笑顔が固まった。
私は手を引き抜き、顔をそむけた。
4
体調はなかなか安定しなかった。
出産時の大量出血に、重いアレルギー反応、池への転落まで重なり、ひどく衰弱していた。医師は高熱や感染症に注意しながら検査を続け、状態が落ち着いてから一般病棟へ移してくれた。
両親と兄が来たのは、ずいぶん後だった。
真帆を慰め、娘が生まれて七日目の「お七夜」に合わせた披露パーティーを準備していたらしい。取引先まで招く、篠宮家らしい催しだった。
兄は病室に入るなり私を責めた。
「真帆みたいに細い子が、お前を池に突き落とせるわけないだろ。自分で足を滑らせたのに、あいつのせいにしてるんじゃないのか? 昔からそういう小細工ばかりするよな」
母も続けた。
「元気になったら真帆に謝りなさい。あの子、怖くて一晩眠れなかったのよ。あなたはこうして病院で休んでいられるけど」
私は寒気で震え、額は熱く、言い返す力もなかった。
返事をしない私に苛立った父が肩を押したが、肌に触れた途端、手を引っ込めた。
「何だ、この熱は? 今回はずいぶん大げさだな」
母はまだ怒っていた。
「よりによって真帆がお披露目会を準備してるときに。紬、少しは家のことも考えてよ」
母はベッドの脇に腰を下ろした。
「鷹取テクノロジーズの西園寺部長は、子供の教育や育児向けの技術に関心があるんですって。真帆が頼み込んで、お披露目会に来てもらえることになったのよ。鷹取と取引ができたら、篠宮家の事業も立て直せるかもしれないんだから」
そして私をにらんだ。
「宴会は明後日よ。退院できるなら、ちゃんと来てちょうだい」
医師が口を開いた。
「患者さんはまだ非常に衰弱しています。退院できるかどうかは検査の結果で判断します。無理をさせないでください」
兄が不機嫌そうに遮った。
「これはうちの問題です。先生は治療だけしてくれれば結構です。余計なことを言うなら、病院に苦情を入れますよ」
「私の患者さんですから、安全には責任があります」
父は真帆の肩を抱いた。
「真帆があれだけ苦労して西園寺部長を招いたんだ。少しくらい体調が悪くても、努力を無駄にするわけにはいかないだろう」
すると兄が笑った。
「もういいじゃないか。結菜の世話をしてきたのは真帆なんだし、当日は真帆が抱いて出ればいい。紬が来ても邪魔になるだけだろ」
直哉も私をなだめた。
「具合が悪いなら休んでていいよ。不満があるなら、宴会が終わってから話そう。な?」
みんなは勝手に当日の予定を決めた。
真帆が結菜を抱いて登場し、兄が招待客を案内する。両親は取引先を迎え、直哉が重要な来賓を接待する。
母親の名前を真帆にしたカードまで用意していた。
私は黙って聞いていた。
退院できたら、結菜と別の住まいへ移る。朔也が紹介した弁護士が手続きを進めていて、アメリカには仕事が待っている。
真帆が近づき、私の手を握った。
「紬、パパもママも準備で忙しいんだから、心配かけないであげて。来なくてもいいと思うよ。霧峰の名士ばかり集まるし、そういう場所は苦手でしょう? 大丈夫。結菜が大きくなったら、紬もお母さんなんだって教えてあげるから」
母が満足そうにうなずいた。
「やっぱり真帆は気が利くわね。紬はああいう場に慣れてないし、来ても恥をかくだけだもの」
帰り際、兄まで言った。
「宴会の日は忙しいからな。何かあったら医者に言えよ。俺たちに電話してこないでくれ」
家族が真帆を囲んで出ていく。
廊下からは兄の興奮した声が聞こえた。
「鷹取が海外事業を広げるらしい。昔、一緒にAIモデルを開発した共同創業者まで呼び戻したんだって。あの開発責任者と知り合えたらなあ……」
直哉が笑った。
「夢みたいなこと言うなよ。瀬尾家と篠宮家が力を合わせたって、そんな人は呼べないだろ」
足音が遠ざかるのを聞き、スマートフォンに目を落とした。
その共同創業者というのは、私のことだった。
数年前、朔也と開発したAIプロジェクトが資金調達に成功した。まとまった報酬を受け取り、嬉しくて家に帰った。
けれど母は資料を見ようともしなかった。
「AI? またよくわからないことをやってるの? 真帆を見習って、ちゃんと勉強しなさい。そんなものばかり作ってないで」
私を押しのけ、父を急かした。
「早くして。今日は真帆の学生向けビジネスコンテストの表彰式なのよ。参加賞をもらえたんだから、遅れちゃ駄目でしょう」
私は資料を抱えたまま、玄関に立っていた。
それ以来、仕事の話は自分からしなくなった。会社では結婚前から使っている篠宮の名前で仕事を続けていた。
今も鷹取テクノロジーズの株式を創業時から十五パーセント保有している。会社が成長した今、その価値はかなり大きい。
お披露目会の朝、体調は少し回復していた。
検査で重い異常がないことを確認し、通院と自宅療養を続ける条件で退院が認められた。結菜を抱き、迎えの車に乗った。
まずは新しい住まいへ向かう。体調が戻り、必要な手続きを済ませたら、娘とアメリカへ渡るつもりだった。
*
同じ頃、直哉と篠宮家の人々は、高級ホテルの玄関で西園寺部長を待っていた。
数台の高級車が近づいてくる。
「来たぞ! 鷹取グループの人たちだ!」
「あれ、鷹取社長の車じゃないか? 本人が来たのか?」
西園寺拓海が降りて、後部座席のドアを開けた。
「鷹取社長、お足元にお気をつけください」
母は興奮して真帆の手を握りしめた。
「真帆、あなた、鷹取社長まで呼べたの? 独身で、こういう集まりには滅多に出ない方でしょう。もしかして、あなたに気があるんじゃない?」
真帆は驚きながらも、はにかんでみせた。
「もう、ママったら。私もご本人が来られるなんて思わなかったわ」
周囲の客たちが褒めそやした。
「真帆さんはきれいですからね。社長が来てくださるのもわかりますよ」
「篠宮さんは、いいお嬢さんをお持ちで羨ましい」
直哉も優しく真帆を見た。
「真帆は本当に魅力的ですから」
含みのある笑いが広がった。
朔也が車から降りると、真帆が駆け寄った。
「鷹取社長、初めまして。篠宮真帆と申します。西園寺部長とは私がずっとお話しさせていただいていて、本日お越しいただけて本当に……」
朔也は一歩下がった。
「紬はどこにいますか?」
真帆の笑みが固まる。
朔也は会場の命名カードを見た。
「紬が出産したと聞いて、お祝いに来たんです。本人と赤ちゃんはどこですか?」
5
真帆はどうにか笑顔を作った。
「鷹取社長、私は篠宮真帆です。西園寺部長を通じてご招待したのも私ですが、人違いではありませんか?」
さらに近づこうとすると、朔也のスタッフが前へ出た。
「お名前はわかりました。でも、私が会いたいのは紬です。彼女の出産をお祝いするために来ました」
朔也は命名カードを指さした。
「赤ちゃんを産んだのは紬ですよね? なぜ母親があなたになっているんですか?」
真帆の顔から血の気が引いた。
「紬は鷹取テクノロジーズの共同創業者で、大切なパートナーです。海外の開発プロジェクトに戻ってもらうため、何度も頼み込んだんですよ。出産のお祝いに来るのは当然でしょう」
母が声を上げた。
「紬が共同創業者だなんて! あの子にそんな能力があるはず……」
真帆の声も震えていた。
「鷹取社長、冗談ですよね? 姉は子供の頃、ろくな教育も受けていなかったんです。家に来たばかりの頃は英語だってまともに話せなくて。それなのに会社を作ったなんて」
朔也はスマートフォンで写真を見せた。
狭いオフィスで、若い朔也と紬が並んでいる。机にはパソコンと弁当の容器が積まれ、壁はモデルの構成図で埋まっていた。
「創業したばかりの頃です。資金が足りず、開発にも何度も失敗しました。コンビニのおにぎり一個買うのも迷うくらい、金がなかったんです。追い詰められて屋上に上がったこともありました」
朔也は写真を見つめた。
「そのとき紬が引き戻してくれました。徹夜でアルゴリズムを直すのにも付き合ってくれた。彼女は優秀なエンジニアです。紬がいてくれたから、今の会社があるんです」
スマートフォンをしまった。
「本人の希望で名前を公表してこなかっただけです。開発実績にも株主の記録にも、紬の名前はあります」
兄の顔が真っ赤になった。
「それだけのコネがあるなら、どうして篠宮家を助けなかったんだ? こっちは何年も経営が苦しかったのに、知らん顔してたってことか!」
朔也は兄の襟をつかみ、顔を殴った。
雅臣がよろめき、口元から血を流す。スタッフが二人の間に入り、招待客が後ずさった。
「人を馬鹿にすることしか言えないなら、黙っていてください」
朔也は兄から離れた。
「紬は何も隠してませんよ。仕事の話だってしていたはずです。あなたたちが聞こうとしなかっただけでしょう」
兄は口を押さえたまま黙っていた。
「紬は創業時から会社の株を十五パーセント持っています。少しでも彼女に関心があれば、今日初めて知る話じゃなかったでしょうね」
招待客がざわつき、母は父の腕にすがった。
その横で直哉は紬に電話をかけた。何度呼び出しても応答はなく、数日前に医師から言われたことが頭をよぎった。
「紬、今朝のメッセージにも返事してないんです。ずっと高熱が続いて、体調も悪かった。何かあったんじゃ……」
母が眉をひそめた。
「紬はそんなにひ弱じゃないわ。昔だって病気になっても自分で何とかしてたし、拗ねてるだけよ」
兄も鼻を鳴らした。
「わざと姿を消して、俺たちを心配させたいんだろ。相手にするなよ」
直哉はホテルを飛び出した。
病院へ戻ったが、病室は空だった。看護師から紬は退院したと告げられる。
テーブルには小さな箱が残されていた。
中に入っていたのは結婚指輪だった。
直哉は震える手で指輪を持ち上げ、プロポーズした日を思い出した。
紬は目を真っ赤にして泣いていた。
「直哉、こんなに私を選んでくれる人がいるなんて、思ってもみなかった。もらった優しさは、絶対に倍にして返すからね」
結婚してからの紬は、言葉どおりに尽くしてくれた。
胃の弱い直哉のために朝食を作り、バッグには胃薬を入れていた。
帰りが遅くても玄関には明かりがともり、スーツにはしわ一つなく、ネクタイやカフスボタンまで用意してくれた。
子供が欲しいと言えば妊娠の準備を始め、つわりがひどくても心配をかけまいとしていた。
直哉は指輪を握りしめた。
最初に子供が欲しいと言ったのは真帆だった。
出産で体形が変わるのは嫌だが、将来は子供が欲しい。そんな真帆の話を聞き、紬が産んで、真帆にも育児をさせればいいと思いついた。
紬には相談もしなかった。
病院を出た直哉は、行き先も決められずに立ち止まった。
紬はどこへ行くだろう。親しい友人は誰なのか。普段どこで過ごしているのか。
何も浮かばなかった。
やがて両親と兄も病院に駆けつけた。
「紬は見つかった?」
直哉は首を横に振った。
「家にも帰ってないのよ。どこへ行ったのかしら」
真帆が泣きながら直哉に抱きついた。
「どうしてお姉ちゃん、クッキーまで連れていったの? ひどいよ……」
直哉は頭を撫でなかった。
不安になった真帆が、彼の服を強くつかむ。
「直哉、お姉ちゃんも赤ちゃんもいなくなったけど、私のそばにはずっといてくれるよね?」
直哉は真帆を見下ろし、その手を静かに外した。
6
三年後、アメリカでの仕事は順調だった。
朔也はシリコンバレーで、成熟したアルゴリズム製品を持つ企業をいくつも買収した。私は開発チームを率い、技術の統合と改良を進めた。
事業は軌道に乗り、老舗のテクノロジー企業とも競争できるようになった。
現地チームだけで仕事を進められるようになっても、朔也は毎週のようにアメリカへ来た。
会議の日もあれば、結菜を遊園地へ連れていくだけの日もあった。
その日も三人で昼食を済ませ、会社へ戻ろうとしていた。
レストランを出たところで、直哉と両親に出くわした。
直哉はずいぶん痩せていた。結菜が私と朔也の手を片方ずつ握っているのを見て、唇を震わせた。
先に声を上げたのは母だった。
「紬!」
朔也は近寄らないよう手で制し、娘を抱き上げた。
「結菜、朔也パパとアイスを買いに行こうか」
「行く!」
結菜は嬉しそうに彼の首に抱きついた。
二人が離れると、父が険しい顔で迫ってきた。
「紬、どういうつもりだ! 家を出て、今度は鷹取朔也に篠宮家の事業を邪魔させるなんて! 三年間、うちが取ろうとした案件には必ずあいつが割り込んできた。何億円も利益を減らしてまで、うちを潰そうとしてるんだぞ!」
朔也からは何も聞いていなかった。利益に厳しい彼が、そこまでしていたなんて。
母が冷笑した。
「ずいぶんやるようになったものね。家ではおとなしいふりをして、外では男を使って仕返しするなんて」
直哉は私を見つめた。
「朔也が紬の情報を隠してたんだ。三年間捜して、ようやくここに住んでるってわかった。あいつが毎週アメリカに来てると気づかなかったら、一生見つけられなかったかもしれない」
朔也の去ったほうを見て、声を詰まらせた。
「なのに、俺の娘にあいつをパパって呼ばせてるのか?」
少しして深く息を吸った。
「もういい。昔のことは水に流す。クッキーを連れて日本に帰ろう。また三人で暮らせばいいじゃないか」
「娘の名前は結菜よ」
直哉が口をつぐんだ。
「クッキーが欲しいなら、真帆と子供を作ればいいでしょう。三年前から、あの子を母親にするつもりだったんだから」
直哉の顔が青ざめた。
恐る恐る手を伸ばしてくる。
「ごめん、名前を間違えた。もう間違えない。結菜だよな」
その手を避けた。
「でも、ご両親は日本にいるだろ。もう会いたくないのか? 口は悪いけど、本当は紬のことだって大事にしてるんだ。真帆と同じくらいに」
思わず笑ってしまった。
「同じくらい?」
母を見た。
「私と真帆を、本当に同じように扱ってた?」
母は少したじろいだ。
「当たり前でしょう。帰ってきてから、食べるものに困らせたことなんてあった?」
十六歳で篠宮家に戻った頃を思い出した。
「あのとき、外で過ごした十六年間がどんな暮らしだったか、一度でも聞いてくれた?」
母は黙った。
「お兄ちゃんは私が臭いって言って、物置みたいな部屋で寝ろって言った。お父さんもお母さんも止めなかった。真帆は一番広い部屋に住んで、夕飯を少し残しただけで、みんなが心配してたのに」
一息ついて続けた。
「近所の人に、家に女の子が増えたのはどうしてって聞かれたとき、何て答えたか覚えてる? 田舎の遠い親戚で、しばらく預かってるだけ、そのうち帰るって言ったのよ」
母が顔をしかめた。
「いつまで昔のことを持ち出すの?」
「そんなに私が嫌だったなら、どうして捜し出したの?」
母は当然のように言った。
「あなたは小さい頃から苦労してきたんだから、多少のことは我慢できるでしょう。真帆は違うのよ。大事に育ててきたし、繊細な子だから」
涙をこらえ、直哉を見た。
「私なら、どれだけ我慢させてもいいってこと?」
直哉は目をそらした。
「紬は強いから。でも真帆は傷つきやすいんだ。誰かがそばにいてやらないと……」
「私が我慢できるからって、何をしてもいいの?」
返事はなかった。
「もういい。結菜が待ってるから帰るね」
みんなの前を離れ、次の角を曲がると、真帆が立ちはだかった。
腕を組み、冷ややかにこちらを見ている。
「紬、今はさぞ気分がいいでしょうね」
7
私は立ち止まった。
「昔はこんなに要領がいいなんて思わなかった。仕事がうまくいってるときに姿を消して、みんなに捜させて。自分は海外でいい暮らしをして、朔也には篠宮家の仕事を邪魔させる。そうすれば誰も紬のことを忘れられないものね!」
真帆はバッグを握りしめた。
「紬がいなくなった日、直哉に聞いたの。お姉ちゃんも赤ちゃんもいなくても、ずっと私のそばにいてくれるよねって。約束してくれたのに、あとは紬を捜すことばかり。わざと足を怪我して入院しても、来てくれなかった!」
声が甲高くなった。
「パパもママも、前ほど私を気にかけなくなったの。食事のたびに紬が座ってた席を見てため息をつくから、テーブルをひっくり返したくなった!」
私は話し終えるのを待った。
「それで?」
真帆が目を見開く。
「嬉しくないの? 今はみんな紬を捜してる。私より紬のほうが大事になったんだよ?」
首を横に振った。
「今、あの人たちが誰を好きでも嫌いでも、私には関係ないよ。昔は家族に受け入れてほしくて我慢してた。でも、これからは自分の暮らしを大切にしたいの」
真帆が黙り込んだところへ、遠くから娘の声が聞こえた。
「ママ!」
朔也が結菜を抱いて歩いてくる。娘の口元にはアイスがつき、手には半分食べたコーンがあった。
笑って結菜を受け取った。
「もう、口の周りがべたべたじゃない。帰ったらママが顔を洗ってあげるね」
「やだ! 朔也パパに洗ってもらう!」
朔也は笑った。
「はいはい、今日はパパに任せて。ぴかぴかにしてあげるよ」
結菜が満足そうに朔也へ両手を伸ばした。
私たちは顔を見合わせて笑い、駐車場へ向かった。
*
少し離れたところから、直哉が三人を見つめていた。
朔也が結菜を抱き、紬が娘の口元についたアイスを拭ってやる。
あの頃の結婚生活を大切にしていれば、そこに立っていたのは自分だったかもしれない。
その夜、直哉は紬のマンションの下で待ち続けた。
翌日、日本へ戻ると、瀬尾商事の経営を外部から招いた経営者に任せた。
その後も朔也が日本へ戻ると聞けば紬の近況を探り、彼女がアメリカにいるとわかれば航空券を取った。
マンションの近くで待ったり、結菜の幼稚園に現れたりすることさえあった。
*
私は直哉に会わず、弁護士を通じて幼稚園に近づかないよう伝えた。
それでも一度、結菜が彼を見かけてしまった。
「ママ、あのおじさん、誰? ママのお友達? 朔也パパみたいに、ママのことが好きなの?」
娘の頬を撫でた。
「もう、そんなことまで気になるの? 知らないおじさんだから、気にしなくていいよ」
三年前、日本を離れてから、弁護士に離婚と結菜の親権に関する手続きを任せていた。
直哉は最初、離婚に同意しなかったが、最終的には法的な手続きを経て婚姻関係を解消し、私が結菜を養育することになった。
私は篠宮姓に戻り、結菜についても家庭裁判所の許可を得て、姓を変更する手続きを済ませた。
結菜を幼稚園に送り届けたあと、直哉がまた声をかけてきた。
「紬、いつまでこんなことを続けるつもりなんだ? 昔みたいに戻ろうよ。あの頃は幸せだっただろ?」
「幸せだったのは直哉だけよ。私がずっと我慢してたから、うまくいってるように見えただけ」
直哉は言葉を失った。
8
私は続けた。
「雨の日、直哉が傘に入れるのはいつも真帆だった。私が隣で濡れていても、気にしなかったよね」
直哉がうつむく。
「結菜を妊娠してたとき、入院したことがあった。真帆が北海道へ旅行に行きたいって言ったら、一か月も付き添って行ったでしょう。あの間、私にはほとんど電話もくれなかった」
少し間を置いた。
「そういうこと、ほかにもたくさんあるの。もう一つずつ話すのも疲れた。だから、これ以上関わらないで」
直哉は長い間黙っていた。
「ずっと真帆を愛してると思ってた。でも紬がいなくなってから、あいつを優先するのは、子供の頃からの習慣みたいなものだったんだって気づいた。本当に悪かった。何度謝れば許してくれるんだ?」
私は眉を寄せた。
「謝れば済むと思ってるの? あの頃のこと、私は忘れてないよ」
「そんなつもりじゃ……」
「でも、直哉が戻りたいと言えば、私が喜んで受け入れると思ってるんでしょう。もう帰って。二度と会いたくない」
彼は数歩下がり、何か言おうとしたが、言葉にならなかった。
私は背を向けた。
その後、数日は気分が沈んでいた。直哉に未練があるわけではなく、昔の記憶がよみがえって、なかなか落ち着けなかった。
それを聞いた朔也が、日本からアメリカへ飛んできてくれた。
「私なら大丈夫だよ。何日かすれば落ち着くのに。仕事だって忙しいでしょう?」
朔也はそばに来て、手を握った。
「紬のことだから来たんだよ。どんなに小さなことでも、つらい思いをしてるなら放っておけない」
まっすぐ私を見つめた。
「紬は、俺にとっていつだって一番大切な人だから」
どう返せばいいのかわからなかった。
子供の頃から、わがままを言うな、人に譲れ、自分で何とかしろと言われてきた。
「朔也、私、そんなにいい人じゃないよ。人付き合いは得意じゃないし、甘えるのも苦手。言いたいことがあっても返事が遅くなる。真帆はどこへ行ってもみんなに好かれるのに。昔は、私に何か足りないから誰も好きになってくれないんだと思ってた」
朔也が手を握り直した。
「俺は、そんな紬が好きなんだ」
彼は微笑んだ。
「開発がうまくいったとき、画面を見つめて目を輝かせてただろ。俺がもう駄目だと思ったときも、何も聞かずに抱きしめて、そばにいてくれた」
朔也は続けた。
「俺の好きなコーヒーも、苦手な食べ物も覚えてくれてる。仕事で問題が起きたら、解決するまで一生懸命調べる。静かな紬も、仕事に夢中な紬も、全部好きだよ」
深く息を吸った。
「紬、好きだ。これからもずっと一緒にいたい。結菜のことも大切にする。俺と付き合ってくれないか?」
大きな商談でも平然としている人なのに、額には汗が浮かんでいた。
私はその汗を拭った。
答える代わりに背伸びをして、唇にキスをした。
朔也は驚いたあと、私を抱きしめた。
9
朔也と付き合い始めてから、少しずつ新しい暮らしに慣れていった。
彼の顔色をうかがったり、好かれようとして我慢したりする必要がなくなった。
疲れたら休めるし、嫌なことは嫌だと言える。仕事で困ったときには、話を聞いて一緒に考えてくれた。
結菜のことも大切にしてくれた。
娘が病気になれば病院に付き添い、幼稚園の行事にも仕事を調整して駆けつけた。
海外事業が安定した頃、私は日本に戻って働きたいと申し出た。
あの国を離れたときは、とにかく遠くへ逃げたかった。
けれど再び日本に降り立ったとき、心は穏やかだった。
私たちは結菜と新しい家に移り、私は技術開発の仕事を続けた。
付き合い始めて五年目、朔也のプロポーズを受けた。
朔也は親しい人たちを招き、華やかな結婚式を開いてくれた。
小さなドレスを着た結菜がリングガールを務めたが、途中で朔也に手を振り、会場中が笑いに包まれた。
友人たちは何年経っても、あの日のことを話題にした。
直哉は来なかった。
ただ、結婚式の日、変わったブーケが届いた。
花びらも葉も金で作られた、精巧な細工の花束だった。
箱には「瀬尾直哉」とだけ記されている。
一目見て、スタッフに送り返してもらった。
何年も経って、私が花粉にひどいアレルギーを持っていることを思い出したらしい。
今さら気遣われても、嬉しくはなかった。
*
送り返されたブーケを受け取った直哉は、一晩中リビングに座っていた。
金色の花束を見つめながら、紬と付き合い始めた頃を思い出していた。
あの頃の彼女は、よく直哉の胸に顔をうずめ、笑いながら聞いてきた。
「直哉、本当に私のこと好き?」
最初は優しく答えていた。
「もちろん、好きだよ」
けれど、何度も尋ねられるうちに面倒になり、適当に返事をするようになった。
それでも紬は幸せそうに笑っていた。
約束を忘れても、真帆のために出かけても、あとで少し優しくすれば許してくれた。
いつの間にか、その我慢を当然のこととして受け取っていた。
やがて紬は、愛しているかと聞かなくなった。
直哉はその変化にも気づかなかった。
今、冷たい金の花びらに触れながら、当時の笑顔を思い出すと、涙が頬を伝った。
夜が明けても、同じ場所に座ったままだった。
もう友人として挨拶することさえできないだろう。
*
それ以来、直哉が私の前に姿を現すことはなかった。
篠宮家からは、ときどき連絡が来た。
会社が倒産したあと、父は頻繁に電話をかけてくるようになった。
「紬、昔は悪かったと思ってる。でも俺たちは、お前の実の親なんだぞ。年を取って困ってるのに、見捨てるつもりなのか?」
そして必ず真帆の話になる。
「真帆も今は働きに出てるんだ。あの子は小さい頃から苦労なんてしたことがないのに。かわいそうでな」
母も横から口を挟んだ。
「紬、私たちを助けたくないならそれでもいいわ。でも真帆に、条件のいい結婚相手くらい紹介してあげられない? これ以上苦労させたくないの」
二人の話を黙って聞いた。
「将来、本当に生活に困ることがあれば、法律上の義務や事情に応じて、必要な対応はするつもりです」
少し間を置いた。
「でも真帆はもう大人でしょう。これからどう暮らすかは、自分で決めることだと思う」
電話を切り、リビングへ目を向けた。
朔也が結菜の宿題を見ていた。
娘はもう小学生だが、相変わらず彼に甘えるのが好きだ。二人は計算問題をめぐって言い合いになっていた。
「朔也パパ、それ違う!」
「違わないって。もう一回、問題をちゃんと読んでごらん」
「違うもん! ママー!」
結菜が椅子から飛び降り、私に抱きついてきた。
「ママ、パパがいじめる!」
朔也まで不満そうに立ち上がった。
「ちょっと待ってくれよ。式をもう一回確認しようって言っただけなんだぞ。それなのに、パパは小学生の問題もできないのかって言うんだ」
思わず笑ってしまった。
テーブルには途中まで解いた宿題が広がり、キッチンからはスープの湯気が立っていた。
結菜は私の腰にしがみつき、朔也はまだ言い分を説明している。
娘の額にキスをして、朔也の手を取った。
昔の私は篠宮家で、いつも誰かの顔色をうかがっていた。少しでも失敗したら、また捨てられるのではないかと怖かった。
今は帰れば娘が抱きついてきて、朔也が夕食に何を食べたいか聞いてくれる。忙しい日も、私の分の温かいご飯がある。
リビングでは、まだ二人の言い合いが続いていた。
私はそんな毎日が、たまらなく好きだった。
(完)




