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とある真夜中のオムライス

作者: 夜乃氷空
掲載日:2026/07/08

数ある作品の中から、この物語を見つけてくださりありがとうございます。


ふとした日に食べた料理が、味だけではなく、そのときの景色や人との思い出まで一緒に残っていることがあります。


この物語に登場するオムライスも、そんな一皿であってほしいと思いながら書きました。


温かい飲み物でも片手に、ゆっくり読んでいただけたらうれしいです。


 その店には、看板がない。


 駅前のにぎやかな通りから一本外れた細い路地。昼間でも人通りは少なく、夜になれば街灯の明かりだけが静かに石畳を照らしている。


 終電を逃した帰り道。


 俺はスマートフォンの地図を何度も見返しながら歩いていた。


「……こんなところに店なんてあったっけ」


 路地の奥に、小さな明かりが見えた。


 木製の扉の横には、小さなランプ。


 窓越しに見える店内は、カウンターが六席だけ。木のぬくもりを感じる店で、どこか昔ながらの喫茶店にも似た空気が流れていた。


 腹が鳴る。


 時計を見ると、午前二時。


 コンビニで済ませようと思っていたが、気がつけば扉に手をかけていた。


 カラン、と控えめなベルが鳴る。


「いらっしゃい」


 カウンターの向こうには、五十代くらいの店主が立っていた。


 白いシャツに黒いエプロン。


 穏やかな笑顔なのに、不思議と初対面という感じがしない。


「好きな席へどうぞ」


 店内には、俺以外に客はいなかった。


 椅子に腰掛けると、店主がお冷やを置く。


「メニューは?」


 そう聞くと、店主は少し笑った。


「うちはオムライスだけなんだ」


「それだけ?」


「それだけ」


 思わず笑ってしまう。


「じゃあ、オムライスをお願いします」


「その前に一つだけ」


 店主はフライパンを手に取りながら、こちらを見た。


「今日は何があった?」


 思わず言葉に詰まる。


 料理を注文しただけなのに、そんなことを聞かれるとは思わなかった。


「別に……何も」


「そうか」


 店主はそれ以上聞かなかった。


 バターが熱せられたフライパンに落ちる。


 ジュワッという音と一緒に、甘く香ばしい香りが店いっぱいに広がった。


 刻まれた玉ねぎが透き通り、鶏肉がこんがり色づく。


 ケチャップが加わると、酸味のある香りがふわりと立ち上る。


 ご飯を炒める軽快な音。


 卵を割る音。


 菜箸で手早く混ぜられた卵液が、黄金色の波を作る。


 その一つひとつの音が、不思議なくらい心地よかった。


 気づけば、スマートフォンを見るのをやめていた。


「お待たせ」


 目の前に置かれたオムライスは、派手さなんてない。


 少し丸みを帯びた卵に、真っ赤なケチャップで一本だけ線が引かれている。


 湯気が静かに立ち上り、バターの香りが鼻をくすぐった。


 スプーンを入れると、ふわりと柔らかい卵が開く。


 一口。


 その瞬間、思わず手が止まった。


「……なんだ、これ」


 特別な高級食材なんて使っていないはずだ。


 それなのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。


 どこか懐かしい。


 昔、熱を出した日に母が作ってくれたオムライスを思い出した。


 味は違う。


 でも、あのとき感じた安心感だけは、そっくりだった。


「思い出したみたいだね」


 店主は静かにコーヒーを淹れながら言った。


「料理っていうのはね、舌だけで食べるもんじゃないんだ」


 俺はもう一口、オムライスを口へ運んだ。


 さっきまで重かった心が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。


 気づけば、皿の半分がなくなっていた。


 夢中で食べていたわけじゃない。


 一口食べるたびに、胸の奥で固く結ばれていた何かが、少しずつほどけていくようだった。


「おいしいです」


 その一言しか出てこなかった。


 店主は小さく笑う。


「ありがとう。それが一番うれしい言葉だ」


 店内には静かなジャズが流れている。


 時計の針が動く音さえ聞こえそうなほど、穏やかな時間だった。


「……今日は何があったか、聞いてもいいですか」


 さっきと逆に、俺から尋ねた。


「さっきは『別に何も』って言ったけど、本当は何かあったんだろう?」


 図星だった。


 俺は苦笑いを浮かべる。


「就職活動、全部落ちました」


 言葉にした瞬間、自分でも驚くくらいあっさり口から出た。


「第一志望も、第二志望も。その次も」


 スプーンを皿の上に置く。


「親には『次がある』って言われました。でも、友達はみんな内定が決まってて……」


 視線を落とす。


「俺だけ置いていかれてる気がして」


 店主は黙って聞いていた。


 励ましの言葉も、慰めもない。


 ただ、耳を傾けてくれる。


「料理って、不思議なんですよ」


 店主が口を開いた。


「失敗すると、すぐ分かる」


 そう言って、カウンターの向こうに置かれたフライパンを軽くなでる。


「火が強すぎれば焦げる。弱すぎれば生焼けになる」


「でも、一度失敗したからって、もう二度と作れないわけじゃない」


 店主は棚から卵を一つ取り出した。


「卵なんて毎日何個も割る。でも、うまくいかない日だってある」


 卵を軽く打ちつける。


 殻はきれいに割れ、中身が器へ滑り落ちた。


「それでも次の一個を割る」


 その言葉は、どこか料理の話だけじゃない気がした。


「君も同じじゃないかな」


 俺は何も答えられなかった。


「就職活動は、君の価値を決める試験じゃない」


 店主は笑う。


「君と会社の相性を見るための時間だ」


「相性……」


「ケチャップライスにデミグラスソースをかける店もあれば、昔ながらのケチャップだけで勝負する店もある」


 店主はオムライスを指差した。


「どっちが正解でもない」


 俺は思わず笑ってしまった。


「ずいぶん料理に例えるんですね」


「料理人だからね」


 店主も笑う。


 その笑顔につられて、俺も少しだけ肩の力が抜けた。


 最後の一口を口へ運ぶ。


 皿はきれいに空になった。


「ごちそうさまでした」


「ありがとう」


 店主は温かいお茶を差し出した。


「食べ終わった顔、入ってきたときよりずっといい」


 言われて初めて気づく。


 さっきまで頭の中を埋め尽くしていた不安が、少し遠くへ行っていた。


 何も解決していない。


 明日になれば、また就職サイトを開いて、面接を受けて、落ち込むかもしれない。


 それでも。


「もう一回、頑張ってみようかな」


 自然と、そんな言葉が口をついて出た。


 店主は満足そうにうなずいた。


「その一言が聞けたなら、今日のオムライスは大成功だ」


 会計を済ませる。


「いくらですか?」


「九百円」


 財布から千円札を一枚取り出す。


 店主は百円玉を一枚、俺の手のひらに乗せた。


「ありがとうございました」


「こちらこそ。また、お腹がすいたらおいで」


 その言葉に、俺は少し笑った。


「はい。また来ます」


 カラン。


 扉のベルが静かに鳴る。


 店を出ると、夜風が頬を撫でた。


 さっきまで肌寒く感じていた空気が、不思議と心地いい。


 見上げると、夜空には星がいくつか瞬いていた。


「……頑張るか」


 誰に言うでもなく、小さくつぶやく。


 そのまま駅へ向かって歩き始めた。


 翌朝。


 目を覚ました俺は、昨夜のオムライスが忘れられなかった。


 「また来ます」


 そう約束したんだ。


 昼過ぎ、昨日の路地へ向かう。


「この辺だったよな……」


 何度歩いても、それらしい店は見当たらない。


 ランプも。


 木の扉も。


 六席だけのカウンターも。


 そこにあったのは、シャッターの閉まった古い倉庫だけだった。


「……あれ?」


 地図を見ても、飲食店の表示はない。


 通りかかった花屋の店主に尋ねてみる。


「あの、この辺に夜だけ開くオムライスのお店ってありませんか?」


 花屋の店主は首をかしげた。


「オムライス屋? ここには何十年もそんな店はないよ」


「でも昨日……」


 言いかけて、口を閉じた。


 夢だったんだろうか。


 いや。


 ポケットに手を入れると、指先に丸い感触が触れた。


 取り出したのは、昨夜のお釣りでもらった百円玉。


 よく見ると、小さくマジックで文字が書かれている。


『また頑張ろう。』


 思わず笑みがこぼれた。


 誰が書いたのかなんて分からない。


 でも、それだけで十分だった。


 数日後。


 新しく受けた会社から、面接の案内が届いた。


 以前なら、不安ばかりが先に立っていた。


 けれど今回は少し違う。


「よし。」


 小さく拳を握る。


 落ちてもいい。


 また次の卵を割ればいい。


 あの店主の言葉が、今も胸の中で温かく湯気を立てていた。


 あれから、あの店を見つけることはできていない。


 終電を逃した夜も。


 雨の日も。


 雪の降る夜も。


 何度路地を歩いても、ランプの灯りは現れなかった。


 それでも、ときどき思う。


 今夜もどこかで、誰かが一皿のオムライスに救われているんじゃないかと。


 店主は今日も、最初の一言を変えずに尋ねている気がする。


「今日は何があった?」


 その問いかけとともに、フライパンの上ではバターが静かに溶け始める。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


オムライスは、特別に豪華な料理ではありません。


それでも、ふわふわの卵やケチャップの香りには、どこか安心できる力があるような気がします。


この物語の店が本当に存在したのか、それとも主人公が見た一夜限りの奇跡だったのか。その答えは、あえて決めませんでした。


もし皆さんにも、「忘れられない一皿」があるなら、この物語を思い出していただけたら幸いです。


また次の物語で、お会いしましょう。

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