15 まだ回復中なので
目覚めた静は、腕の中にある固い感触に気付き、頬を緩めた。
鞘ごと剣を一度強く抱きしめ、そして枕元の籠をえいやと引き寄せ、柔らかな毛並みに指先を埋めた。
「……おはよう、ユフィアータ」
返事なんてないと分かっているが、静はいつものように飽きずに声をかけた。
と、どうやら静の声に気づいたらしく、ヨカゼがベッドの縁に頭だけを乗せてきた。
『起きたの? 静』
「うん、おはよう。ヨカゼ」
『おはよう。とってもよく眠っていたわね』
「そうみたい」
静は剣を抱えたまま起き上がり、ヨカゼの頭をわしゃりと撫でた。
そうして、静は一度手を止めた。
『どうしたの?』
「……いや、なんでもないよ」
静は目を細めて微笑みを見せた。ヨカゼは小さく頭を傾げた。
そうしている間に、控えめにノック音が響き、扉が開かれた。
「おはようございます、静様。本当によく眠られておりましたね」
「おはよう、リーリア」
銀の台車を押しながら、リーリアが姿を見せた。そしていつもの定位置に台車を起き、その上に乗せられている白い湯気が立ち上っている盆に布を浸し、固く絞る。
「お顔、失礼しますね」
「はぁい」
濡らした布でいつものように静の顔を優しく拭いてくれる。いい加減に自分で顔を洗うというのに、体調がまだ整っていないからという理由で変わらないままだ。
それにしても、気持ちが良い。ついうっかりしていたら二度寝をしてしまいそうなほどだった。
「どうされましたか、静様」
「……いや、あったかいなぁって思って」
温度があるというだけで、ずいぶんと気持ちよさというのは変わるのだと静は初めて知った。
もう顔を拭くのが終わったのかと思い、静は瞼を開けて見やれば、リーリアは布を持ったまま静を凝視し続けていた。リーリアの肩に止まっている白い蝶のヴィラが小さく羽を困ったように動かしていた。
静はしばらくリーリアを眺めた後、そうだと思いついて剣を傍らに置く。そして軽い動きでベッドから降り立った。
ずいぶんと久しぶりに自分の足で立った瞬間、くらりと身体が傾きそうになった。けども静は構わずに足を一歩前へと進め、そのままリーリアへと腕を伸ばし、抱きしめた。
「リーリア、いつもありがとね」
わぁ、あったかい。
静はリーリアの体温を確かめるように、頑張って腕に力を入れてみるがほぼ寝て過ごしていたせいで、ほとんど力が入らなかった。けれども代わりにリーリアが強く抱きしめてくれた。
耳に届いた嗚咽に、静は困ったなぁと思いながらも、こうして抱きしめてくれることが堪らなく心地よく、ついついリーリアの首元に頭を擦り寄せた。
『ね、静。静。私も抱きしめて、静』
「うん、ちょっと待ってねぇ」
足元でくるくると歩き回るヨカゼには申し訳ないけれども、もう少しだけ静はまだ、リーリアのこの温もりを確かめたかった。
静がまた少し回復した事に、ジェイク達は泣いた。本当に泣いた。立って歩いただけで泣いた。
頭を撫で回したかったけれども、手が届きそうな距離まで近寄れただけでも良しとしてもらう。代わりにヨカゼが全員に頭をこすりつけていたので、それで我慢してもらうことにした。
しかし、問題まだは山積みだった。
ずっと眠り、そしてまともに歩けないほどの状態が続いたために静の筋力が予想以上に落ちてしまっていた。おかげで室内を一周しただけで息切れをし、ベッドに横にならなければいけないほどだった。
もちろんだが、これはほとんど食事がとれなかったという理由もある。
そう、そして問題の食事だ。
温度は分かるようになったが、味覚は未だに戻っていない。そしてあの異物感と痛みだって、ほんの少しだけマシになった程度で、さして変わりはしなかった。
さらにだ。何故かどうして、新たな問題が増えてしまったことに静は気が遠くなりそうになった。
ベッドの端に座る静の静の首元、そして額に添えていた手を離し、ルイスはまた手套を手にはめながら顔を歪めた。
「完全に発熱していますね」
「気の所為」
「であれば良かったのですが」
リーリアにも先程確認された。二度の確認は大切だが、この時ばかりは不要だと思いたかった。
ある程度回復したからこその症状なのだろう。いつも感じていた痛みだって和らいだというのに、今度はこの発熱で体が怠くて仕方がない。とは言え、動けないわけではない。
とにかく今は、体力をつけなければ話にならなかった。
その為にやはり食事は欠かせないものだ。マシにはなったとは言え、やはり拷問のようにさえ感じてしまうそれに対して、すっかり静は避けたいものになってしまっていた。
「食事ですが、食べられますか」
「……いやだ、って言ったら?」
「強制的に食べさせます」
「自分で食べます。先に水ください」
いきなり固形物から行ってはいけない。確実に吐き出すのは目に見えていたから。だからまずは液体で痛みと異物感に無理やり馴らすのがいつものやり方だった。
「っ……ぅぐっ……」
「静様」
一口。たったそれだけだと言うのに、広がる異物感。吐き戻しそうになるのに耐えながら無理矢理に飲み込めば、水の冷たさの後から刺すような痛みが後を追うように広がり、口元を押さえながら背中を丸めた。
ルイスが少しでも背中に手を添えてくれる。そんなことをしたところで何一つ変わることはないが、少しだけでも楽になったような気がした。
「ご自身で食べられますか」
「がんばる」
今日も野菜たっぷりのスープだ。美味しそうなパンも添えてある。本当に見た目は美味しそう。たぶん、絶対に美味しい。
テーブル変わりの台車の前に身体を向けて、少し気合を入れてスプーンを手に取る。そして一口分、すくい、ええいままよ、と口の中へ入れた。
一口目は耐えた。二口目も、なんとか耐えた。三口目で、手が震えてうまくスプーンが持てなくなった。
すかさず、ルイスが静の腰へ腕を回しながら隣に座り、静の手からスプーンを奪うように手に取った。
「まっ……ルイスっ」
ぴたり、と手を止めたルイスは訝し気に静へと視線を向けた。
「……食べられるんですか、ご自身で」
「時間、かければ……」
「冷めますよ」
この状態で温かいも冷たいもほとんど関係がない。とはいえ、作ってくれた側のことを考えればやはり温かいうちに食べたいという思いは静だってちゃんと持っていた。
しかし今朝もそうだが、これ以上ルイスに頼むのはどうしても気が引けた。というよりも、目がやはり怖いのでそろそろと遠慮したい気持ちが強くなっていた。
「……聞くんだけどさ……。あ、いや、やっぱりなし」
「何ですか。食べさせますよ」
そしてうっかり、そんなことを考えていたから口がするりと滑りそうになりかけた。静は慌てて止めるが、ルイスがスプーンを再度持ち直したのが見え、慌てて口を滑られた。
「その。よく、やろうとしたよね」
「貴方を生かす為ですから」
「……そっか」
何を、とは言わなくても食事の補助のことだと理解してくれたルイスははっきりと答えた。
生かす為。確かに、補助をしてもらわなければ餓死するのは目に見えていた。けども、それにしたって他の欲がもはや隠せていないのが難点だと静は言いたい。
これは言うべきか、言わざるべきか。静が悩んでいれば、ルイスの腕が僅かに力が込められた気がした。
「……お聞きしたいのですが」
「何?」
「何故、毎回噛んでいたんですか」
噛んでいた。一瞬何のことか分からなかったが、すぐに静は補助の時につい、やってしまっていたあれのことだと気づいた。
なるほどだから、逃げられないように腕の力が強くなったのかと理解した静はぐっと顔をしかめた。
「……いや、それは、本当に大変申し訳ないと言うか」
「はい。それで?」
「異物が入ってきたからとりあえず噛むか、と」
「とりあえずで噛まれたんですか、私は」
「ごめんなさい」
「謝らないでください」
おそらくだが、相当痛かったと思う。何せ思いきり噛んだから。
それでも途中で止めないでくれたのは助かったわけなのだが、やはりその方法を考えてしまうと素直に言えないものだった。
「それで、途中で噛まなくなった理由は何ですか?」
「……いや、うん。まさかほら、あんな方法だったとは思わなくってね?」
「口移しですか?」
恥ずかしげもなくまっすぐに言った補助の方法に、静は両手で顔を覆った。
「なんで今更、そのような反応をなさっているんですか」
「今更って……!」
「今更でしょう?」
確かに本当に今更だけれども。今朝もそうだったけども。
言葉が通じるようになったうえに、今ではようやく温度も分かるようになった。そのおかげで、いや、そのせいで、なんと言うか、あれだ。質感がとってもリアルでした、まる。
「本当、貴方は初心ですね」
「し、仕方がないでしょ……! こんな経験とか、そんな……っ」
「私も経験ありませんが?」
「……嘘だぁ」
「何か嘘なんですか」
「だ、だって」
ついつい顔を上げてしまった静は、強く後悔した。
「静様が初めてですよ。全て」
うっそりと、妖艶に微笑むルイスが静をまっすぐに見つめていた。
静は慌てて腰に回っている手を外そうと必死にもがきつつ、全力で首を横に振った。
「あれは数に入りません。良いですか、ルイス。あれは、あくまで、食事の補助。なので、違います」
「……確かにそうですね。あくまで、食事の補助、ですから」
すぐにルイスはつまらなそうに表情を戻した。が、回されている腕は全く外れることはない。
このままでは食事の補助がされてしまうことに静は危機感を覚え始めていた。
「……何故、貴方は……。いえ」
「良いよ、言って」
こうなったら少しでも時間を稼ごうと、言葉を詰まらせたルイスに静は迷わず続きを促した。
「……無理に食事を取らせている私に対して……何故、変わらないのかが……」
「変わらないって?」
「態度もそうですが……、今こうしていらっしゃることも……」
今、この腕の中から逃げだそうとしている静にそれを聞くのか、と疑問を抱きかけた。しかしすぐに、確かにルイスの言う通りだと思い、静はようやく藻掻くのを止めて、ルイスをまっすぐに見上げた。
本当に嫌ならば、泣きわめき、リーリアとヨカゼを呼び、威力なんて赤子同然の拳を振るっているはずだ。
けども今朝だってそれをせずに結局は受け入れてしまっていた。
何故か、と改めて考えてみた静だったが、結局のところ出てきた答えは一つしかなかった。
「ルイスだからだねぇ」
「……何故ですか」
意味が分からないと顔をしかめるルイスに、静は苦笑を漏らした。
「縋れって言ったじゃない。ねぇ、ルイス」
「それは……」
あの日、あの大神殿で静が心情を吐露した時。むしろ縋れとルイスは言った。
静はだから、ルイスに縋っている。ルイスが脅迫してきたから、仕方がないから生きなければと思っている。そうしないと、こいつはちゃんと生きないから、と。
むすりと口を閉ざしたルイスに、静は両手を伸ばし、柔らかな黒髪をわしゃり、と撫でまわした。
「……なんですか」
「いや? 考えているなぁって思って」
「……撫で方がヨカゼと同じだと思うんですが」
「うん」
素直に静が頷くと、ルイスの視線は鋭いものへと変化した。少しばかり機嫌を損ねてしまったようだが、これぐらいなら静の予想範囲内だった。
「……そういえば、犬によく好かれるとおっしゃられていましたね」
「あ、うん。そう」
「こんなことをしていたら、よく噛まれるなりされたのでは?」
「その前に突進されて倒されて、のしかかられ」
て。と、最後まで言い切るまえに、視界はぐるりと動いて気づけば、ルイスと天井を見上げていた。
「このように?」
見下ろしてくるルイスの右目は、僅かに光が揺らめている。
何かを見ている時以外にも、ルイスの感情によって光るのだなぁ、と現実逃避の為につい思考がそれてしまいかけつつ、静は胸の前で両手をあげた。
「……ちょっと待とう、ルイス。うん。たぶん、わたしが悪かった」
「何が悪いのか分かっていないのに謝罪されても困るのですが」
「え、えぇっと……」
少しずつルイスの顔に影が落ちていく。
どうすれば良い。どうすればこの状況から脱せられるのか。
そして静はつい、その方法を思い浮かんでしまったがために対して考えず、行動に移してしまった。
「ルイス、めっ!」
本当に申し訳ないと思っている。
けども静はもういっぱいいっぱいで、まるで犬か、小さい子を叱りつけるようなことをしてしまったのだった。
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体が鈍らないように時間を見つけては、ルイスはジェイクとよく素手で手合わせをしている。
もちろんだがジェイクは断る理由なんてもはないし、むしろ良い暇つぶしになった。その時々によってジェイクの方から誘うときもあれば、今日のようにルイスからの誘うときもあった。
ただ、それにしたって動きは大ぶりだし、若干力任せのようにさえ感じてしまう。
調子が悪いのであれば手短に切り上げたほうが良いだろうが、ルイスの雰囲気というか、表情がその理由を強く物語っていた。
「なんか機嫌悪くね? っと」
ジェイクはつい、我慢できずに口を開いた瞬間、鋭い蹴りが顔に向けられる。ジェイクはもちろん軽々と避けずに手の甲で弾くだけで防ぐ。そしてそのまま足首を掴み、無理やりに力付くで地面へと転がした。
地面へと転がしたルイスは、仰向けのままに何度か大きく胸を上下させた。すぐに起き上がってくるかと思ったが、何故か起き上がらずに両手で顔を覆ってしまった。
「お、おい? どうしたんだよ」
さすがにあまりの様子のおかしさに慌てるジェイクだが、ルイスはそのまま小さく呻いた。
「……静様に、犬扱いされた」
絞り出されたルイスの言葉に、ジェイクは表情を消した。
お前何したんだよ、と聞きたくなったがなんとか言葉をぐっとこらえ、何とか別の言葉を投げかけた。
「いや、けど、ほら。静様だしさ。あんま変な風に考えるなって」
「……ああ」
「あれ、落ち込んでね?」
「黙れ」
「おう」
初めて目にしたルイスの相当な凹みようにジェイクはさすがに茶化す気にもなれず、一先ずはルイスが起き上がるのを待つかと隣に腰を下ろした。




