02 喧嘩を買いに王城へ
ランスロットと会えたのは翌日だった。
寒々しい王城の長い廊下を渡り、豪華絢爛な部屋に通される。大神殿ではお目にかかれないような見るからに高価であろう調度品や絵画が並ぶ一室の中央にはすでにランスロットの姿があった。
どこか疲労が見え隠れしていたが、今はその心配をするつもりは一切なかった。
「ああ、奈緒様。わざわざこちらにいらっしゃってくださり……」
「そういうのはいらないわ」
「随分と、塞ぎ込んでいたと聞いていたから、とても心配したんだ。本当だよ?」
さぁ、どうぞとランスロットは目の前のソファに座るように手で促し、奈緒は素直にそこに座った。
お茶や菓子はすでに控えていた王城の侍女達が全て用意しはじめ、レオナは少しばかり居心地が悪そうにしていた。しかしギルバートとオリヴィアが何故かレオナを挟むように立っており、見ようによっては姿を隠しているようにも見えた。
そんな三人の無言のやり取りを視界の端で捉えつつ、抱えていた黒猫をソファに下ろそうとしたが膝に無理に乗ってきたため諦めた。
そうこうしているうちにお茶の準備が整い、王城の侍女達と、控えていた騎士達が無言で退出していく。そして一瞬の間の後、ランスロットは口を開いた。
「今回のことだけど」
「謝罪はいらないわよ」
「……しかし」
「それに、謝る相手が違うでしょ」
奈緒は膝にいるメルに注意しながらテーブルに置かれた紅茶をソーサーごと持ち上げ、いれられたばかりの紅茶を一口飲み込んだ。
普段口にする紅茶よりも香り高く、渋みは強い。これぞ紅茶と言わんばかりの香りと味に関心しつつ、奈緒はランスロットを見やった。
「静をどうするつもり」
「まさか、それを聞きに?」
「そうだけど?」
一体それ以外に何があるのだろうか。奈緒は当たり前だろうと聞き返せば、ランスロットは小さく肩を落としていた。
「……陛下は銀の聖女を大罪人として、民衆の前で処刑を決行したいようだ」
「静が一体何をしたっていうのよ。何も……、むしろこれからっていう時に」
そうだ、これから敵がどこにいて、どれほどいて、そして誰が仲間であるのかと動き出していくはずだった。
そのはずだったのに、完全に出鼻をくじかれてしまった。
何もかもが遅すぎる。遅すぎることを目の前にいるランスロットに、そしてレオナ達を責めたところで何一つ状況が変わりはしない。
落ち着こうと紅茶を一口飲む。いつも飲む紅茶が妙に恋しくなってきてしまいそうだった。
「今回のことで、王城側と神殿側の関係が大きく変わっていくだろうね」
「どんなふうに」
「今まで互いに不可侵であり、あくまでも対等だった。ただ目に見えないところでは、すでにこちらの力が強くなってしまっていたところをヴィンセントが大神官の座についたところで、少しばかり均衡は保てていたが、それも崩れるだろう」
「そっちの力が大きくなった時、どうなってしまうの」
「神殿は完全に王城側の一部となる。つまり、陛下の言葉一つで神殿は思うがままになってしまう」
完全に、この国は王ただ一人が統治する国になる。別にそのような国は事実存在する。しかし今まで形式的にも別れていたものが一つになるのだ。混乱は免れないだろう。
加えてとくに信仰心というのは大きな諍いを起こすのには十分な要因の一つになりえる。神殿側の人間はもちろん、信徒達も素直に受け入れることはないと奈緒は想像をしている。何せ、この国の人々の信仰心は恐ろしく強いのだ。それこそ、天の神てあるアルカポルスが眠り、そしてユフィアータまでもが眠りについてしまったくらいには。
湧き上がる苛立ちに奈緒は落ち着かせようと深く息を吐き出したがどうも腹の虫が収まりはしなかった。
「静だけをさらし者にして、それで私達は放置なのね」
「いや、それはないだろう。完全に支配下に置いた後、おそらくは……そう。どこかの貴族との婚姻を求められるはずだ」
「もしくはあなたと?」
ランスロットが静かに笑みを浮かべたのを目にし、奈緒はぐっと眉間に皺を寄せた。
「奈緒様は、僕がお嫌いなようだね」
「……全く嫌い、っていうわけじゃないわ。好みじゃないだけよ」
「ちなみに聞くけども。どの辺りが?」
「……なんとなく?」
「まだ希望はありそうだ」
なんとなく、というのは重要だ。とにかく反りが合わないというところに関係する。
あくまで仕事、一時的な関係であれば問題ないかもしれない。けれどもずっと四六時中一緒となれば話は別だ。
にこやかに笑うランスロットは確かに誰が見ても良い人間、良い男だと言える。物腰も柔らかく、奈緒に対して常に穏やかに対応し、どうにか気に入ってもらえるようにとしている。
だから、駄目なのだ。
奈緒はランスロットから視線を外し、要件は終わったと立ち上がろうと椅子の肘掛けに手をついた。
「そうそう。奈緒様」
そのタイミングを見計らってか、ランスロットが呼びかけた。
中途半端な姿勢になりかけた奈緒は不愉快さを隠さず、微笑みを浮かべているランスロットに鋭い視線を向けた。
「何かしら」
「庭園の魔術の件について、報告をさせて欲しいのだけど。まだ時間は大丈夫かな?」
そういえば、そんな話を前にした覚えがあるのを思い出した。
貴族達の庭園にその魔術が仕込まれていないか、という調査だ。静が囚われていた貴族の屋敷にも使われていたそれは、何やら幻覚作用のあるものだったと記憶している。だから他の貴族の屋敷にも同じような魔術が施されていないか確認をする必要が出てきたのだ。
奈緒は改めて椅子に座り直し、ランスロットに向き直った。
「ええ、問題ないわ」
聞く姿勢に入った奈緒に、ランスロットは機嫌良さげに琥珀の瞳を細めた。
「おそらく該当しているであろう貴族はここに記載している。ここで確認後、破棄をしてほしい」
「分かったわ」
ランスロットのそばに控えていた初めて見る真紅の騎士が、ギルバートに書類を渡し、そして奈緒の手元に渡る。
この国の紙は現代日本で見られるようなコピー紙でも、和紙のような薄いものではなく、それなりの厚さがあるしっかりとした作りの紙だ。
魔術なんてものがあり、魔具という便利な道具がある一方、こういった文化的なものはずいぶんと遅れている印象があった。歪のように思えてしまうのは、地球の歴史を当たり前のように捉えているからだろう。
もし、世界に魔術、魔法なんてものがあったら、と考えそうになり、奈緒は慌てて思考を止めた。
まずやることは、この分厚い書類の内容を覚えることだった。
手早く記載されている文字を一つも見逃さないように目を通していく。
「奈緒様、覚えられます?」
「僕にも見せていただいてもよろしいですか?」
後ろからオリヴィアとギルバートが声をかけてくるが、奈緒は顔をあげずに答えた。
「一度見たものはだいたい覚えられるから問題ないわ。ちょっと待ってて、すぐに見終わるから」
「それは……大変、素晴らしい能力をお持ちなのですね」
「こんな特技しかないけどもね」
声の調子から驚いていることぐらいは分かるが、たいていの反応はいつもこうだ。
だから奈緒はとくに気にすることもなく、全てを隅まで目を通した後にギルバートに渡した。
「メル、分かる範囲で良いのだけど。この魔術について教えてもらえない?」
『良いけどもねぇ、奈緒。私達のそれは魔術ではないのよ』
「そうなの?」
すかさずに奈緒はメルに問うが、しかし想像していた通りのものではないことに少しばかり顔をしかめる結果となってしまった。
『そうよぉ。それはただの結界。後は人間達が使いやすいように魔術に組み込んだだけ。確かに見れば分かるけども、変に触ってまた別のものに姿を変えてしまうこともあるから難しいのよねぇ。そうじゃなかったら位置をそのままに燃やしてしまうか、雪が覆い隠すのを待つしかないのよぉ』
「そんな扱いが難しいのを作ったの?」
『守るために作られたのよぉ? そう簡単に壊されたら意味がないでしょう? 確かにとても簡単で誰もが扱えるものだけどもねぇ』
簡単で、壊せにくい。守るには最適であるはずが、簡単であるがゆえに手を加えられやすかった。
メルの言う通り、燃やすことが一番手っ取り早いのだろうが、大きな騒ぎになることは間違いない。やるならばその一部の草花を刈り取るか、植え替えることぐらいだ。だが、それでは一体どう変化してしまうのかが分かったものではない。
なんて厄介なものだろうか。
頭を抱えそうになりながら奈緒は必死に思考を回した。
「……一先ず、どんなものなのかを知る必要があるってことね」
『そうね。絵があれば十分よぉ』
「絵か。それは中々に忙しくなりそうだな。絵師に頼むわけにもいかないし……さて、どうするか」
ランスロットは口元に手を当て、思案顔を浮かべる。ここにロビンがいれば、きっとすぐに頼んだの一言を発するのだろうと、今までのやり取りですぐにその光景が頭に浮かんだ。
「ロビンはどうしたの?」
「少し頼み事をね。とはいえ、僕付きの騎士は他にもいるからそのあたりは安心してくれると嬉しいな」
「裏切られないようにしなさいよ」
「その時はその時だよ。僕の見る目がなかったという話だからね」
感情が読めない琥珀の瞳を細め、ランスロットは変わらない微笑みを浮かべた。胸元に手を置いた。
「奈緒様、僕はこの国の王子だよ。そして僕の誇りでもある」
奈緒や、とくにヴィンセントの前ではあのようなおちゃらけた態度を見せているが、彼はこの国の王子だ。それに対して否定的な態度を見せるわけではなく、ただ当然のように受け入れている。
誇りだから。
全てはその言葉に集約されていた。
「そうね」
奈緒はランスロットの誇りに、一言だけを返した。返せなかった。
あまりにも眩しすぎたのだ。こちらが矮小な人間であることを自覚してしまうほどに。
ランスロットはそんな奈緒の心情を察すること無く、肯定の受け答えに満足したようにより微笑みを深めた。
「後はこの者達の動きを注視した方が良さそうだね。例えば庭師とか」
「いれば、の話だけど」
「そうだね」
最悪の場合、消されている可能性だってある。知らずに指示された通りに整えたとしても、その配置を知ってしまっている以上、無事では済まされないだろう。
奈緒は今度こそ椅子から立ち上がり、優雅に紅茶を楽しむランスロットを見下ろした。
「また来るわ」
「いつでも待っているよ」
「あっそ」
軽く手を振るランスロットを横目に、奈緒はレオナ達を連れてようやく部屋を後にするのだった。
王城から大神殿まで続く渡り廊下へ足を踏み入れたところで、ようやく奈緒は深く息を吐きだし、身体から力を抜いた。
「……いやな雰囲気だわ、ここ」
「あの夜会の影響が大きいと思いますよ」
オリヴィアは背後に誰もいないことを確認するようにじっと見やり、少しして奈緒へと視線を向けた。
「次はまさか、なんて愚かしい噂を流しているのもいるみたいですけどね」
「ただそうはうまく噂は広がっていないようですよ。一部以外は誰も相手にしていないのが現状ですから。とはいえ、この噂を積極的に流布しているのは貴族ではあるのですけども」
「最悪ね」
大神殿かもしくは開発局にしか奈緒は出入りをしていないため、貴族ばかりが集まるような場所には一度だって顔を出したことはない。
一体どういった空気感なのかは不明だが、あの夜会のことを思い出しただけで、あまり良いものではないというのはすぐに想像が出来た。加えて王城内でのあの空気ときたら、まるで値踏みされているかのよう。
唯一気を僅かに休めたのはランスロットと話をしていた時だが、控えていた深紅の騎士も、奈緒には躊躇なく鋭い視線を向けてきた。だが、すぐにその視線は消え、何故か大きく視線をそらされてしまうほど。まるで、この二人の騎士から逃れるかのように。
気づかなかったふりをしたまま、奈緒は先ほどからむすりとしているレオナに目を向けた。
「機嫌悪いわね、レオナ」
「気の所為です」
「そう? メルは気の所為だと思う?」
みゃ。
「そうよねぇ。気の所為じゃないわよね」
レオナは他三人の侍女達に比べて少々感情が表に出やすい。嬉しければ満面の笑顔を浮かべ、困りごとがあれば眉尻を大きく下げ、今のように機嫌が悪ければ口角を思いっきり下げている。
侍女として言うのであれば、正直すぎて心配になってしまうほどだが、彼女は王城ではなく大神殿の侍女であり、奈緒が心を許せる相手の一人でもある。むしろこれぐらいに分かりやすい方が、気を抜いて楽に過ごせると言うものだ。
腕の中にいるメルもそんな彼女を好んでいるからこそ、どうも気になるようで小さく鼻を引く付かせている。
「紅茶よね」
「しかも茶器と菓子もね」
「何? 二人は分かるの?」
奈緒とレオナのやり取りを聞いていたオリヴィアとギルバートは、分かっているかのように頷き合っていた。
オリヴィアはレオナの様子を伺いつつ、奈緒の疑問に答えてくれた。
「あれ、とってもたっかい奴なんですよ」
「……そうなの?」
「はい。お値段は……聞かない方が良いかもですけど」
とても庶民では手が届かない、とんでもないほどに高価な物が揃えてあったらしい。
次はそれを念頭ににおいて扱わなければならないだろう。なんて恐ろしいものを出してきたのか。
「神殿では絶対にお出し出来ないものなんです……」
「それ分かっているから、あっちの侍女ってば、わざと出してきたんですよ。奈緒様は気づかなかったみたいですけど、あの顔、あの笑い方」
「完全にこっちを下に見ていたね。いやぁ、女性は怖いなぁ」
「なぁに、ギル。私達が怖いって?」
「おっと。これは失礼」
ギルバートはわざとらしく戯けてみせ、オリヴィアがその肩を軽く叩いた。
ちょっとしたやり取りだが、やはりこの二人は仲が良い以上の何かがありそうな気がしてならなかった。もちろんだが、これは奈緒の勘だが、おそらく合っているはずだ。
奈緒はそのうち分かるだろうと今は頭の隅にそれを追いやり、レオナに視線を向けた。
「ねぇレオナ。いつもの紅茶お願いね」
「え、で、ですが」
「それに合うお菓子作るから、皆で食べましょ。なんか食べた気しないのよね、気後れしちゃって」
たまには良いかもしれないが、やはり慣れ親しんだものが一番だ。
ずいぶんと久しぶりに感じてしまうお菓子作りだ。失敗しないように、作りやすいクッキーでも焼こうかと奈緒は記憶の中からレシピを引っ張り出した。
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翌朝。いつになく目覚めが良かった。
体は昨日までの重さが嘘のように軽く、心は晴れやかだ。
「よし。良い目覚め!」
『ねぇ、奈緒。ちょっとはゆっくり起きたらどぅ?』
「嫌よ。ほら朝ごはん作りに行くわよ」
ふっと思ったのだ。そうだ、朝食を作ろうと。
レオナに作っても良いのかと確認すると、待っていましたと言わんばかりに大きく頷かれた。
少々疑問に思いつつも問題ないことに安堵し、そして今朝を迎えた。
いつものようにレオナに身支度の手伝いをしてもらい、部屋から出ればいつものようにオリヴィアとギルバートがそこに立っていた。
奈緒はまだ寝足りないと言わんばかりに腕の中で寝ようとするメルを抱えたまま、レオナに案内されるがままについて行き、そして目の前の光景に奈緒は目眩を覚えた。
「ねぇ、レオナ」
「はい、何でしょう」
「ここ、いつの間に出来たの?」
記憶では確か小さな給湯室のような場所だった。
しかし今、目の前にあるのはとても立派な、こじんまりとした厨房だ。しっかりと鍋やその他調理用具もそろえられており、食器もちゃんと戸棚の中にしまわれている。もちろん掃除用具も。
「皆、奈緒様にお元気になってほしいと……。ここなら周囲の目を気にせずにお菓子作りが出来るか思い……その。ご迷惑、でしたか……?」
犯人はここにいる皆だったらしい。おそらくではあるが、食堂の料理長も一枚かんでいるのは間違いがない。何せ食堂の厨房でよく見た鍋や皿がそのままここに置かれているのだ。このまな板の傷なんてまさにそうだ。
「いいえ。すごく嬉しいわ」
「本当ですか!」
レオナの表情がぱっと明るくなり、奈緒は笑みをこぼした。
「便利に使わせてもらうわね。あ、食材はどこに……」
「今から食糧庫に行きましょう! あ、一度外にでないと駄目なんですけど、ここから近いんです」
「それは良いわね。レオナは何か食べたいのある?」
「え、あ、でも……」
「一人で食べるのって嫌なのよね。軽くつまめるものにするから。二人も食べるでしょう?」
奈緒が問えば、ぱっとオリヴィアは笑顔を浮かべ、たいしてギルバートは困ったように笑みをこぼした。
「はい!」
「奈緒様にそのように言われてしまったらお断りできませんね」
二人がそう答えた後、奈緒は改めて視線だけでレオナに問いかけた。
「た、食べたい、です……!」
「ふふっ、おいしいの作るわね」
さてさて、何を作ろうか。
一応、今までの料理を見てきた感じでは元の世界と同じ食材が使われていると思われるが、もし知らないものがあったら迷いなくレオナに確認を取らなければ。
頭の隅にしまい込んでいるレシピを引っ張り出しながら、奈緒は空腹を訴え始めてきたお腹に少しばかり力を込めた。
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朝食を作り始めてから二日ほどが経ったある日、そろそろ慣れ始めた小さな厨房まで続く廊下を歩いていると、突然目の前に現れた彼女の姿を見て、奈緒は紫の瞳を大きく丸くした。
「あ、えと」
「え、真咲……?!」
時間帯はまだ朝だ。真咲が起きてくるにはとても早いくらいで、久しぶりに姿が見れた喜びと共にどうしてこの時間に起きているのか、という驚きがないまぜになり、奈緒は次の言葉が出てこなかった。
そんな奈緒に、真咲は忙しなく空色の瞳を動かし、あげくに控えている自身の侍女や騎士達に振り返り、また奈緒を見た。
「お、おはよ……。奈緒」
恐る恐る、緊張した面持ちで言われた、なんとも小さなおはようだった。
奈緒は一度小さく深呼吸をし、うん、と小さく頷いた。
「ええ、おはよう、真咲。もうびっくりしちゃったわよ。まさかこんなに朝早く起きてくるんだもの」
なるべく以前の通りに、久しぶりではなく昨日も一緒にいたかのように奈緒は笑顔を浮かべながら話しかけた。そうすると真咲はほっと胸を撫で下ろすようにこわばっていた表情をようやく緩め、わずかに視線を横にそらした。
「……ちょっと。ちょっと、だけよ。その、できることから頑張ろうって、思っただけ」
一体どういった心境の変化があったのだろう。
真咲が部屋の外に出た、という話はまだ聞いてはいない。ということは、そばにいる侍女や騎士達と何かあったことは確かだろう。
詳しく聞きたいところではあるが、それよりも重要なことが一つあるのだ。
「良いわね。できることからっていうの、本当に大事だもの。ってことで真咲」
「な、何?」
「朝ごはん、何食べたい? ちょうど今から作るところだったから、何でも良いわよ」
「……奈緒が、作るの?」
「ええ、作るわよ。食欲あんまり無いなら、スープでも良いし」
朝は何も食べないが、スープぐらいなら大丈夫だろうと提案してみると、真咲は何か迷うように、そして少しだけ気恥ずかしそうに奈緒を見ていた。
「ぱ、パンケーキ駄目?」
朝からパンケーキを所望してきた。とてもかわいらしいわがままで、奈緒はつい、笑みを浮かべてしまった。
「良いわよ。それじゃあ今から、一緒に作りましょ」
「え、あたしも?」
「そうよ。ほら早く。私お腹空いてるのよ」
真咲の手を取り、一先ず向かうは食糧庫だ。
ついでだからこの場にいる全員分も作ってしまおうか。ああそうだ、せっかくなら伊織の分も作ろうと思いつく。量は増えるがやることは変わらないのだ。作ったら持っていってもらおう。さて、パンケーキの付け合わせは何にしようか。
奈緒はくすくと笑みをこぼし、真咲の手をより強く握りしめた。
それから三日が過ぎたあたり、真咲がこんなことを言ってきた。
「え、伊織を?」
「そうよ。明日、起こしに行くから朝ごはんよろしくね」
あれから伊織の分の食事も作り続けてみたものの、ご飯につられて部屋から出てくることはなかった。それよりもほとんど手を付けられておらず、どうすれば食べてくれるだろうかと頭を悩ましていたところだった。
そんな奈緒を見かねてか、真咲からのまさかの提案に驚いてしまったがすぐに奈緒は大きく頷いた。
「分かったわ。お願いね」
「うん。それと、ついでに朝風呂行こうかと思うんだけど」
「良いわね。それなら余計にお腹が減るかもしれないし、たくさん作っておくわね」
そう言うと、真咲は何とも言えない顔を浮かべた。
朝食を食べるようになったことは良いものの、真咲はまだそんな量を食べないのだ。
「もっと食べなさいよ」
「……朝はそんなにいらないのよ」
「大事よ?」
「はーい……」
真咲が少し遠い目をしていたが、そんなのお構い無しに奈緒はさっそく明日の献立を考えることにした。せっかくだから料理長にも相談してみるのも良いのかもしれない。
この後さっそく食堂にでも久しぶりに顔を出そう。そして未だに伝えられなかったあの小さな厨房のお礼をしなければ。
それから、それから。
奈緒は明日が早く来ないかと、いつになく楽しみでならなかった。それと同時に、ここにいない静のことを考える。
もし、静がいたならば、なんて。
奈緒は小さく頭を振った。まずはこの現実を受け入れなければ話にならないのだ。そうでなければ静を困らせてしまう。そして静が戻ってきた時、こんなことがあったのだと話すのだ。
きっと静は羨ましがるだろう。何せ食べることが好きなのだから、食べたがる。
その時の為についでにいろんな種類を作ってしまおうか。なんて奈緒は考えてみた。
「楽しみだわ、明日が」
「……そうね」
無意識に奈緒が呟いた言葉に、真咲が応えた。
奈緒はそれが嬉しくて、小さく笑みをこぼしたのだった。
しかしながら、まさかあのような量の料理が並ぶことになるとは、この時の奈緒は全く持って知ることはなかったのであった。




