01 必要だったのは
――時は遡る。
全身から感じる倦怠感で、またベッドに戻りかけながらも奈緒は全身に力を入れて起き上がった。
『今日も早いわねぇ』
くわりと大きな欠伸をこぼした黒猫は、まだ寝たりないとまた丸くなった。
「メルは寝すぎよ」
片手で髪をかきあげながらベッドから降り、重たいカーテンを両手でつかんで少しだけ横にずらした。
外はもう日が昇っているが、まだ低い位置だ。もう一寝入りしたい気持ちを押しやった。
優秀な子だと奈緒は周囲からはそう評価された。
元から記憶力が良く、一度見ただけでおおよその内容をすぐに覚えることが出来た。おかげで学生時代は暗記が必要なものについてはとくに考えることもなく、そのまま覚えていることを解答すれば点数をもらえた。
もちろんだからと言って他の勉強だっておざなりにしていたわけではない。なるべくは平均以上になるように成績を維持した。
友達はそれなりにいた。けれども誰もが親友と呼べる程に仲が良かったわけではない。友達として、最低限の付き合いをしていたと思い返す。
何せその時には既に彼氏がいて、まさしく幸せの日々を過ごしていたから。
普通の誰もが想像出来るような学生生活を過ごし、そこそこの友達付き合いをして、そして順当に恋愛をした。
充実した日々だった。
大学だってそこそこ名が知れた所に通っていた。けども、そう。つまずき始めたのはそこからだった。
名が知れた大学だ。だからそれなりの就職先を選んで就職活動をしていた。
けどもどこも結果は惨敗だった。書類選考はどれも通ったが、面接でつまずいた。運良く一次面接を通っても、二次には落ちた。
少し知名度を落とした会社にも活動範囲を広げたが、とくに将来的なことを聞かれて難色を示された。
奈緒は優秀と言われた。型にはまった優秀さでしかなかった。面接の受け答えも全て、暗記した文章から引っ張り出してきたものでしかなく、全ては自分自身の言葉ではなかった。
優秀という名前の空っぽの箱を見抜かれた。だから就職活動は全て失敗に終わり、大学生時代からバイトしていた書店にそのまま正社員として雇用された。
けども、悲観はなかった。なんせ彼氏がいて、将来結婚しようと言ってくれた相手だったからだ。
疑いなんてものはなかった。間違いなく幸せになれると心の底から信じていた。
だから裏切られるなんて思わなかった。
笑う彼氏、だった男と友達だった女。
奈緒はその記憶を消したくて、無くしたくって、今まで以上に掃除をすることに力を入れた。消し去ることなんて出来ないと分かっていたのに。
場所どころか世界が変わってもやることは変わらない。目がついた場所を奈緒は無心に掃除をする日々だ。
突然、よく分からない空間に放り込まれて。四人の少女達に出会って。それから異世界なんて場所に落とされたかと思ったら聖女だなんて呼ばれて。
そして変わらず掃除をして。ユアンとかいうものぐさな男がいる部屋を掃除して。何故かこの国の王子に一目ぼれをされて。それで――。
静が、倒れてしまって。
奈緒はすっと息をつめて、はたきの手を止めた。
足元にいる黒猫がどうしたのか、と問うように身を寄せながらにゃあんと一つだけ鳴いた。
「……何でもないわ、メル」
短く息を吐き、また奈緒は手を動かし始めた。
今日の掃除場所はあまり使われいないらしい少しばかり薄暗い談話室だ。この広い大神殿の隅にあるこの場所は、彼ら神官達が普段いる執務室から遠い場所にある。
薄っすらと埃があちこちにかぶっており、その使用頻度を物語っていた。けども妙にソファーが綺麗なのは、きっとここは逢引というものに適した場所だからとすぐに検討がついてしまっていた。
それだけで少々腹立ちそうになる。けどももっと腹立ってしまうのは、何もせず、ただこうしてひたすらに掃除をしている自分に対してだ。
目の前で静は倒れた。今まで聞いたことが無い悲鳴を上げ、苦し気に喘ぎ、口から鮮血を吐き出しながら。
一目見ればそのおおよそを記憶してしまう特技を持っていなくとも、あの光景は忘れることはない。それほどまでに衝撃的だった。
あの出来事が起きるまで、奈緒はこの世界を夢見心地のように過ごしていた。どこかふわついていて、地に足がついていない感覚だった。
しかしあの王城の夜会があった日。全てが変わり、ようやく奈緒に夢ではなく現実であるのだと知らしめた。目を逸らすなと、いい加減に目の前を見ろと、現実が奈緒に怒鳴りつけたのだ。
それ以来、奈緒はどうすれば良いのか分からなくなった。ただ日課となっている清掃をひたすらをやり、綺麗になっていくだけの場所を見て、ああ次の掃除場所を見つけなければと考えてしまう。
レオナ達は、そんな奈緒の邪魔をせず、好きにさせてくれている。
ただ、その間に王城でのこと。そして王がお触れを出したとの話を語られたが、全て右から左だった。
嘘だと、夢だと思いたかった。どうしても受け入れがたい状況だった。
にゃあん、と鳴き声がまた耳に入った。
「あ、そうね。綺麗になったわね」
メルの鳴き声で、ようやく同じ場所を永遠と埃を落とそうとしていたことに気づいた。
しっかりしないと、と思えば思うほどに手足の動きがどうも重くなる。
どうして。一体どうしてこんなことになってしまったのだろうか。分からない。どうすれば良いのか分からない。
足か、世界が、ぐらぐらと揺れているようだった。
いけない。このままではいけないのに――。
「おやおやぁ、こぉんなところにいらっしゃったんですねぇ」
突如、ここにはいないはずの声が後ろから聞こえた。
奈緒は慌てて振り返り見れば、その声は幻聴ではなく現実だった。
「な、んで……」
「なんで? そんなことを何故お聞きになるのです、奈緒様?」
紫の瞳をこれでもかと丸くする奈緒に、ユアンが愉快そうに口元は大きく弧を描いていた。そしてわざとらしく片手を胸元にあて、僅かに身をかがめてみせた。
「僕は慎み深い、信徒ですよぉ? 別におかしなことではないでしょう?」
「……祈りの間ならそうでしょうけど。こんな……大神殿の奥、とか……」
そうだ。何が驚いたって、ここは大神殿の奥。一般の信徒は絶対に立ち入らない場所のはずなのに。しかしユアンはゆるりと笑みを浮かべるだけで答えてはくれなかった。
彼はそういう性格だ。簡単には教えてはくれないと学んだだろう、と奈緒はすぐに諦めて別の問いをすることにした。
「レオナ達は」
「快く通してくださいましたよぉ?」
「なんで」
「はぁ?」
奈緒は扉の向こう側にいるであろうレオナ達に文句を言おうとしたが、その間にもユアンは軽い足取りで中央にあるテーブルへと歩み寄ってきていた。
「しかしここは無駄に広い。そこに座らせていただいても?」
「勝手に座れば良いじゃない」
「聖女様がお立ちになられたままだと言うのに?」
ああ言えば、こう言う。
にたりと笑うユアンを目の前に、奈緒はそれ以上言い返さずにわざとらしく大きく息をついてからソファに座る。ユアンもまた、奈緒の後に向かい側のソファに腰を下ろした。
「何の用」
「何の? 貴方が来ないからわざわざ来たと言うのに?」
聞きたいのは奈緒の方だというのに、ユアンはなぜか奈緒のせいで来たのだと言ってのけた。
反射的に口を開きかけたが、それよりも先にユアンが続けざまに言葉を放った。
「ご存知ですかぁ? 情報というものは鮮度が重要なのですよぉ。だというのに貴方は全く来ない。せっかくの情報が腐ってしまう」
確かに、情報は早ければ早いほうが良いというのは奈緒だって分かることだ。もちろん早すぎる情報の中身というのは精査が必要ではあるが、それでも早く知るということは、何よりも強い武器になり得るのだ。
「……それは、悪かったわね」
「おや、素直ですねぇ」
「私だって悪いと思ったことに対しては素直に謝るわよ。それで、情報っていうのは?」
「さすがにお聞きしましたよねぇ? 銀の聖女を捕らえよ、というお触れ」
ああ、聞いている。しかし内容までは聞いてはいない。聞きたくなくて、全ての情報を塞いでいたから。
奈緒は唇を僅かに歪ませ、自身を落ち着かせるようにと細い息を吐き出した。
「……それで?」
「いえ、さすがに詳細までは聞いていないでしょうからお伝えさせていただきますねぇ」
一体どこまで奈緒の状態を把握していたのかと疑問に抱くほど、当然のように、そして無慈悲にユアンは説明し始めた。
「あの日の騒ぎ、全ては銀の聖女が行ったものだと結論付けられました。暴論にも近いものですけどぉ、何故か誰もがそれに反論する者はいなかったそうですよぉ」
「腐ってるわね」
「ええ、全くそのとおり」
ユアンはにこやかに笑ってみせた。奈緒に調子を合わせているようには見えないが、なにぶんこの男の腹の内を読むことは難しいと感じていた。
「奈緒様はご存知ですかぁ? あの時、あの鐘の音が響いた時、夜会のあの会場で多くの者達が自死したのを」
「は?」
それについては奈緒は初耳だった。いや、聞かされていたが聞いていなかっただけかもしれなかった。それでもその内容に奈緒は驚きを隠せないでいた。
「その者達は口々にこう言いました。『お赦しください、ユフィアータ』と」
その言葉を奈緒は知っていた。
だってあの時、騎士達もまた言っていた言葉だったからだ。
「だから誰もがユフィアータ、そして銀の聖女の仕業であると疑わなかった、というわけなんですよぉ」
「……ユアン、は……。ユアン、も」
「僕がそんな愚かしい考えをするとでもぉ?」
心外だと言うように両肩をすくみあげ、大げさにため息を付いた。
「それにしても奈緒様がそんなに腑抜けたご様子ですと、これ以上の情報は無駄なようですねぇ。ああ、これで邪魔者のことを考えずにまた開発ができるというものですよぉ」
いつものように、けどもその瞳は一切の笑みなんて浮かべずに奈緒を見つめていた。
虚無という言葉がよく似合う、なんとも冷たい視線。奈緒はこの視線が何なのか、よく知っていた。
これは、失望だ。
一体彼が奈緒に対してどんな期待を向けていたのか分からない。加えてあれほど邪魔だと言い、理由や言いわけを並べながらも、彼はしっかりと奈緒の期待に応えてくれた。
ちゃんと、誠実に。
視線を受け、まるで凍ったように動かない奈緒に、ユアンは僅かにゆるみきった口角を下げつつ立ち上がり、恭しく胸元に手を当てた。
「それでは僕はこれで失礼いたしますねぇ、紫の聖女様」
綺麗に一礼をしたユアンは、すぐさまに踵を翻し、部屋を出て行った。
残された奈緒は誰もいなくなった目の前のソファを見つめてしばらく、両手で顔を覆った。
「何しているのよ、私」
本当に、一体何をしているのか。
叩きつけてくる現実から必死に逃げようと勤労に励み、無理やりに身体を疲労させ、しかし誰にも会いたくはないからこんな人が滅多にこないような場所を重点的に掃除をしていた。
逃げることなんて出来るはずがないのに。むしろ、逃げることをしてはいけないはずなのに。
ユアンからあの視線を向けられた時、まるで頭上から氷水をかけられたかのような感覚になってしまった。だが、むしろ真綿な温もりよりも今の奈緒にとっては必要なことだった。
何をしなければならないのか。
ああ、やらなければいけないことがずいぶんとたくさんある。全く目を背けていたおかげでこんなにも溜まっていただなんて、静がこの場にいたなら呆れられてしまうだろう。いや、きっとこっそり手伝おうとしては何かしらやらかしていただろう。全く、自分がいないと駄目ね、と思いながら。
奈緒は顔を覆っていた両手を下ろし、ほんの少し力を入れて立ち上がった。大丈夫、ちゃんと立てると確認し、奈緒は迷わずに扉の外で控えているであろうレオナを呼んだ。
「レオナ。レオナ、いるかしら」
「はい! こちらに!」
言い終わるや否や、扉の影に隠れていたであろうレオナがすぐに姿を見せ、その後ろにはオリヴィアとギルバートの姿もあった。
三人共、ずいぶんと表情は暗く、どこか心配げでわずかに疲労が見えていた。
ああ、なんてことをしてしまったのだろう、と奈緒は湧き上がる罪悪感に胸を締め付けられそうになりながらも、まずはやることを一つ潰す為にまた口を開いた。
「王城へ行きたいのだけど」
「お、王城に、ですか?」
「ええ、そうよ。王城へ行きたいの。なるべく早く」
やらなければいけないことがある。
伊織や真咲の様子を確認しなければならないが、側には信頼できる彼らがいるからきっと大丈夫、だと思いたい。けども後で様子はちゃんと聞くつもりだ。
次に大神殿内にいる神官達の話を聞き、現状の把握だ。可能であれば信徒達にも会いたいがユアンの話を聞く限り、今は無理に表に出ない方が良い。きっと彼らは静について聞こうとするし、今回の事で混乱しているだろうから。そしてあわよくば、不届き者だって紛れやすくなっているはずだ。
そして開発局へ行き、ユアンに一つや二つ、物申すことだ。正直言われっぱなしのままというのは中々に奈緒だって腹立たしい。だから、その為に王城へと赴くのだ。
いつになくやる気に満ち溢れている奈緒に、レオナは困惑気味に二人に振り返る。オリヴィアもまた困ったようにわずかに首を傾げた。
「あの、奈緒様。何故、王城へ?」
「念のため、理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「理由? ああ、いきなり王城へ行くって言っても難しいかもしれないものね」
何せ今は国王陛下が戻っており、静を捕まえろというお触れなんてものが出ている。聖女という立場がこの国にとってみれば、高貴なものであろうとそう易々と行くはずがない。
奈緒はほんのわずかに視線を横へ向け、またすぐに前へと向けた。
「静みたく言うなら、喧嘩を買いに行くだけなのよね。ほら、あんなに売られたから、ちゃんと買わないとあの子、文句言うかもでしょ?」
奈緒の言葉にレオナは目を丸くし、オリヴィアは口をぽかんと丸く開け、ギルバートは頭を抱えていた。
「とは言え、いきなり陛下に会いたいとか、そういうのじゃないわ。あのクソ王子に会えれば十分なのよね」
「奈緒様、本当に嫌っていますね。相手、殿下ですよ?」
「私には関係ないことよ。それに本当に好みじゃないのよね、ああいう男」
「お金いっぱい持ってますよ? 見た目も性格だって、どの女性も惚れちゃう相手ですよ?」
「オリヴィア、もしかして」
「あ、全然違います。眼中に無いです」
「そうなのね」
一瞬だけギルバートの視線が鋭くなり、レオナがそれに気づいて半歩ほど二人から離れてしまったが、オリヴィアは全く気付ていない様子だった。
「けど、本当に喧嘩を買いに来たとか言えませんよ?」
「もちろん分かっているわよ。だからバカ王子に会いに来たって言えば良いでしょ? どうせ私にお熱なのは知られているんでしょうし」
「わぁ、よくご存じですね!」
「当たり前じゃない」
ねぇ、と奈緒はソファに飛び乗ったメルに視線を向けた。メルはにゃお、と一つ鳴き、ゆるりと黒い尾を揺らした。
「そういうことだから、お願いしても良いかしら? ギルバート」
「ええ、もちろんです。すぐに許可を頂いてまいりますとも」
にこやかに笑うギルバートはすぐさま踵を返し、この場を後にした。
きっとすぐに許可をもぎ取ってくるだろう。今日か、いやしかし急すぎるから明日か。どの道、今は待つ他ない。
「部屋に戻るわ。お茶をお願いしても良い? レオナ」
「はい! もちろんです!」
レオナは待っていましたと言わんばかりに元気に返事をした。
「その前に奈緒様。一回お着替えしましょうね。掃除で汚れちゃっていますから」
「そうね。それもお願い」
「奈緒様に似合いそうなお洋服見つけたんですよー! それに着替えましょ!」
きっと奈緒に着せたいものがあったのだろうな、と奈緒はあえてそこまで言わずに小さく微笑みを浮かべた。
「ほら、メル。戻るわよ」
『あらぁ? もう?』
「仕方がないわね」
自ら動く気のないメルを抱きかかえれば、ご機嫌そうに尾をまたゆるりと大きく揺らした。
奈緒は我儘な黒猫に一つ息をつき、一度抱え直し、ようやく薄暗かった談話室を後にしたのだった。




