08 吉報と凶報
あれから一夜明け、時刻は昼をとうに過ぎた頃。伊織はヴィンセントの執務室にいた。
ヴィンセントの執務室は壁に所狭しと本がつまった書架が並び、中央には簡単な話が出来るようにと低いテーブルと二人は余裕で座れるソファーが一脚ずつ置かれている。
伊織は片方のソファーに座り、手元の本の頁をめくりながら小さく船を漕いでいた。
「おい、伊織。俺の前で寝るとは良い度胸だな」
「んぇ? え、ね、寝てないよ!」
「寝そうになっていただろうが」
鋭い指摘に、伊織はうぐりと顔をしかめた。
ヴィンセントは手元の万年筆を机に置き、椅子の背もたれに深く寄りかかった。
「全く……。真咲と奈緒に会いたくないからというから、ここに置いといてやっているというのに」
「ごめんなさーい」
言葉だけの謝罪をする伊織に、ヴィンセントは呆れたと言わんばかりに深く息を吐きだした。
「クラウスを呼び戻して、勉強させてやっても良いんだぞ」
「ほ、本読むだけだもん」
「寝そうになっていた奴が何言っているんだ」
執務室にはヴィンセント、伊織以外にクレアとヨルがいるが後はいない。エドヴィンはクラウスと共にヴィンセントによって何やら手合わせをすることになり、アイヴィはいつものようにどこかに行っている。
自分から追い出したというのに呼び戻そうとし、ましてや伊織の嫌いな勉強をヴィンセントが見張っている前でやることになるのはどうしても避けたかった。
眠気を追い払おうと伊織は両の頬をペチペチと叩く。と、ヴィンセントは椅子から立ちあがったと思えば目の前のソファーにどしりと座った。
「あれ、仕事は?」
「息抜きだ。悪いが茶を入れてくれるか」
「はい」
クレアはいつものように手際良く二人分の茶を用意し始めた。
「昨夜見たものを何故黙ることにしたんだ」
茶を待つ間、ヴィンセントは昨夜のことを問いかけた。
あの後、地上に戻ってきた伊織達は、この地下へと続く階段をどうするべきかと頭を悩しそうになった。すかさずに野鼠が最初の一段目の側面を押すように教えてくれ、その通りにすると今度は逆再生でも見ているかのようにあっという間に元通りの蒼の六つ星が鎮座していたのだった。
あれらは全て大がかりな魔具が使われているらしいが、あそこまで静かに、そして無駄のない仕組みは今でさえ難しいとクラウスが教えてくれた。
「まだ言わない方が良いって思って」
「まだ、か」
「うん」
伊織は昨夜の出来事を奈緒と真咲には話してはいない。だからあの場にいた全員共、二人にはもちろん、護衛の騎士達にも口を閉ざしてもらっているような状態だった。
「奈緒はほら、開発局のことと、あの人のことで頭が一杯みたいだし」
「ああ、兄上のことか。全く面倒なことを」
機嫌が良い日と悪い日がよく分かる。良い日は開発局へ行き、掃除をし終えた日。悪い日はランスロットと出会った日だ。もちろん王城へ行くのは呼び出しがあった日のみだ。国王がいるということもあり、軽々しく大神殿へと訪れることが難しいらしい。
なんでも草花による古い魔術について聞かれているらしいので、目的は奈緒というよりもメルの方だ。とはいえ、機嫌が悪いのは変わらないのだが。
「真咲は今、すっごくこう……元気というか。歌、ようやく歌えたみたいだし」
「報告を聞いた時は驚いたが、歌えなかったとはな。いつから知っていた」
「たぶん……真咲とこっちで会えて、少ししてから? 奈緒がようやく来た時あたりにもしかしてって思って」
少し前に真咲が嬉しそうに歌えたのだと教えてくれた。はっきりと真咲から歌が歌えなくなったという話は聞いていないが、それでも伊織はこの黄金の瞳を通して知ってしまっていたし、奈緒はどことなく察していたのだろう。
伊織はもちろん奈緒も自分のことのように嬉しかったし、ちょっと歌をねだってみれば気恥ずかしそうに日本の懐かしい歌を歌ってくれた。
歌に力が宿っている真咲の力のせいか、気づかぬうちに疲れていた心がずいぶんと穏やかなものになっていた。
伊織の理由、または言い訳を聞いたヴィンセントは納得をしていないように顔をしかめつつも一つ頷く。
二人の前に僅かな音と共に紅茶が置かれて、ヴィンセントは少しの間をおいて手を伸ばした。
「言わない理由は分かった。それなら何故、会いたくはないんだ」
「……頼っちゃいそうだから」
「別に頼れるならば頼れば良いだろう? あいつ等なら喜んで手を貸そうとするぞ」
ヴィンセントの言う通り、きっと奈緒と真咲は喜んで手助けをしてくれるだろう。むしろ奈緒は良いストレス発散だと嬉々として協力してくれる。
だが、それでは駄目なのだ。
伊織は白い湯気が細く立つ紅茶を見つめつつ、ぽつり、と言葉をこぼした。
「……私だって、一人で頑張れるって言いたいもん」
『あら、伊織。私には頼ってくださらないのですか?』
「伊織様……?」
ヨルが心外だと言わんばかりに顔をのぞき込もうとし、クレアから少しだけびっくりしたような声が聞こえた。
伊織は慌ててヨルの頭を軽く手で覆いながら、顔を上げた。
「ち、違うよ! ヨルやクレア達と一緒に、頑張ろうと思ったから。だから……えっと、私だって、三人と同じように出来るって……その」
「ああ、なるほど。三人共、他の奴らとうまく関係を気づいているうえに、しっかりと目的のために動いているから、頼りたくないと。つまり嫉妬か」
「し、嫉妬じゃ……」
「別に良いだろ、嫉妬ぐらい。この紅茶、香りが良いな。どこのだ」
「あ、ありがとうございます! じ、実は城下町の雑貨屋で売られていたもので、南部の茶葉になります」
「ああ、あちらの茶葉は良い。伊織、せっかくの紅茶が冷めるぞ」
半分ほど紅茶を飲み切ったカップをソーサーに静かに置いたヴィンセントは、いつもの不遜な笑みを口元に浮かべていた。琥珀の瞳はゆるりと細くなり、どこか優しい色が宿っているように見えた。
「人間なんて嫉妬があって当然だ。問題はそれに対してどう動くかだが、伊織は見習って同じように動こうとしているわけだろう? まぁ、頼らないという選択をしたのはどうかと思うが、他の奴らの邪魔をしようとしないだけ十分良い」
「……そうかな」
「ああ、そうだ。なんだ、俺の言葉が信用出来ないとでも?」
変わらない態度。変わらない言葉。変わらない瞳。変わらない光。
初めて伊織はこの場所へ落ちてきた時のことを思い返す。
落ちた場所はこの神殿の庭園だった。周囲を見渡して、三人の姿を探そうとしていた時に騎士達に見つかり、捕まりそうになった。
それを止めたのがヴィンセントだった。
ヴィンセントは伊織の姿を一目見てすぐに聖女だと断言し、保護してくれた。
その時からヴィンセントは伊織に向けて一切の邪念も疑いもなく、ただ真に伊織が聖女であると信じ、そして伊織自身をずっとあの時から見てくれていた。
だから伊織は迷わずに答えることが出来た。
「信用してるよ、とっても」
そんなもの今更だった。伊織の迷わない言葉にヴィンセントは満足げに笑みを深め、わざとらしく胸元に手を置いた。
「聖女様から信用が頂けているようで安心いたしました」
「ちょっと、ヴィンセント」
茶化すような態度をとったヴィンセントに伊織は声をあげれば、くつくつと楽し気な笑みが帰って来た。それにさらにむくれる伊織に何とか笑うの止めようとするも、ヴィンセントの肩は小さく上下していた。
「悪い悪い。いや、あまりにも素直に話をしてくれるものだからな。俺にはある程度頼ってくれると思っていたが、まさかとっても、とは」
「それは……だって」
「だって?」
ヴィンセントがわずかに首をかしげ、金糸の髪がはらりと揺れた。
だって、なんて言葉の先を考えていた無かった伊織は言葉に詰まりそうになった。うまく言葉にすることが出来なかった。
同じ世界の住人ではないし、ヴィンセント以外にもクレア達もまた同じように接してくれている。だからクレア達のことだって信用をしている。けども信用以外にも何かをヴィンセントにだけ向けていた。
伊織はそれが分からない。
言葉を探したままに口を閉ざした伊織に、ヴィンセントはふっと口元から吐息に似た笑みがこぼれた。
「分からないか」
「……うん」
「それならちゃんと答えが出るまで悩めよ。是非とも聞かせて欲しいからな」
「お、教えては……」
「俺は伊織じゃないから分かるはずがないだろ? ましてや俺は、その瞳すら持たないただの人間だ」
「大神官でしょ」
「肩書はな。中身はそこらと変わらんさ」
変わらないなんてヴィンセントは話すが、伊織の黄金の瞳から通して見ても、周囲とは別格なのは明らかだった。
ヴィンセントは常に光を纏っている。身体の不調で曇る時もあるが、それでも美しさというのは損なわれることなく、常に煌々と周囲を照らし続けている。
この人がいるというだけで、周囲はずいぶんと明るくなり、より伊織は遠くを見渡せていた。
応えたいと、伊織は強く思った。この美しい人の為に。
「……ちゃんと頑張って探すね、答え」
「ああ、楽しみにしている。さて、執務を進めなければ……」
休憩は終わりだと言わんばかりにヴィンセントは立ち上がり、顔を僅かにしかめて重厚感のある両開きの扉へ視線を向けた。
それと同時、忙しないノック音が強く響いた。
「入れ」
「失礼いたします」
間髪入れずに扉が開かれ、エドヴィンに続いてクラウスが入ってくる。一体何が起こったのだろうと思えば、クラウスに続いてずいぶんと久しぶりに見る顔が入ってきた。
ヴィンセントは立ち上がったがまたソファーに逆戻りし、ゆるりと口角を上げた。
「ずいぶんと遅い戻りだな」
「これでも急いだ方なんですがね」
「えっと、ロビンさん!」
「ロビンで構いませんよ。伊織様」
そう言ってロビンは、どこか疲労がにじむが人懐っこそうな笑みを見せた。
「兄上の方にはまだ行っていないのか?」
「ええ。殿下からは、こちらを優先するようにとの指示がありましたし、今ちょっとあそこきな臭いっていうか……」
「きな臭い?」
「陛下が戻られているんで、あっち側の騎士達とのあれこれが面倒なんですよ。後はただの嫉妬って奴ですよ。ほら、俺って殿下付の騎士なんで?」
「そうか。で、報告は」
「ひどくないですかー?」
興味がないと言わんばかりに先を促すヴィンセントに、ロビンは姿勢を崩して大げさに両手を小さく広げて肩を竦めてみせた。
しかしすぐにまた姿勢を正して、柔らかな表情を見せた。
「静様達一向、無事にあちらへ到着しましたことをご報告に上がりました」
それは待ち望んでいた吉報だった。
「し、静は……!」
「ご無事ですよ。ご容態も比較的安定しておりました」
生きている。生きていた。無事だった。胸が熱くなる。視界が滲み始める。
『伊織』
ヨルが耳元で呼びかける。伊織はこみあげるものそのままに溢れ出した。
「よ、よかったぁ……!」
嬉しさと安堵と共に溢れたのは言葉だけではなく、涙もだった。
不安だった。こうしてゆっくりとしている間、静は生きているだろうか。いや生きている、と無理やりにでもそう思っていた。そうでなければ、あの部屋にずっと今でも閉じこもっていたからだ。
そしてこの吉報で間違いなかった、信じていた通りだと知れた伊織は救われたように思えた。
信じて良かったと、心の底から思った。
「……比較的、か」
「ええ。幸い、あちらにユフィアータに通ずる眷属がいたらしく、力を分けてもらったおかげだと」
「ほぉ、さっそく眷属と出会えたのか」
今の吉報を聞いても落ち着いているヴィンセントはしばらくの沈黙の後、伊織の様子を一瞬だけ確認してきてまた口を開いた。
「詳しい話は後にしよう。伊織がこの状態だしな」
「承知しました。では俺は殿下の元へ戻ります」
「さっさと行け……、おい。お前、まさか窓から」
泣きじゃくる伊織を配慮してだろう、ヴィンセントが報告を聞くことを後回しにしてくれた。
そのことにロビンは察して頷き、承知してくれたが向かった先は扉ではなく窓だった。
「こっちの方が早いもんで」
「何故漆黒はいつも窓から出入りするんだ」
「情報は早いだけ良いってことですよ」
答えになっているようでなっていない答えに、ヴィンセントは呆れたように片手でさっさと行けと手を振った。
ロビンは改めて一礼を見せ、そして大きな窓を開け、すぐに脇にずれた。
「どうしたんだよ、そんな慌ててさ」
ロビンの言葉と同時、小さな風が入り込んで来たかと思えば、そこにはいつの間に戻ってきたのだろうアイヴィが僅かに息を切らせながら立っていた。
「あら、おかえり。なかなか良いタイミングに戻って来たわね」
「それさ。つまりタイミングがいまいちってことだよな?」
「どうかしらね?」
息を整えながらアイヴィがロビンと和やかに話すが、その顔にはいつもの笑みは無く、声は硬かった。涙を流している伊織に目を丸くしていたが、ロビンをまた一目見て理由を悟ったらしく、何もそれについては言わなかった。
ヴィンセントに体を向けたアイヴィは姿勢を正す。
「緊急の報告がございます」
「なんだ」
一息、間を置いたアイヴィは続きを促すヴィンセントに向け、再度口を開いた。
「陛下が、倒られました」




