14 お茶会という名の暴露大会
奈緒が開口一番、それを言った。
「あのクソ殿下に一目ぼれされたのだけど」
クソはともかく、会ってしまったのかとかいう言葉はすぐに消え去って、変わりに静の喉から別の言葉がこぼれた。
「一目惚れ……?」
「そうよ」
一国の王子が、聖女に一目惚れをした。
なんて夢のある物語の一説か。そこそこよくある物語の展開ではあるが、それはそれ。現実はどうも違うらしい。
鎮静効果があるというハーブの清涼感を感じる香りが漂うガゼボの中はどこか重苦しく、とげとげしい空気が漂っていた。
奈緒がすぅ、と息を吸い込んだ。
「私は! 恋愛とかどうでもいいのよ!」
まだ紅茶の準備をしている途中で良かった。
奈緒が勢いよく丸テーブルを叩き、テーブルが大きく揺れた。奈緒はそしてそのまま両手で顔を覆ってしまった。
小動物達はと言うと、元からすでに避難済み。ガゼボの外でわちゃわちゃと遊んでいるが、今の音で皆の動きがぴたりと止まってしまい、こちらの様子を見ていた。
伊織がこそっと、隣に座った真咲に顔を寄せた。
「真咲、何があったの?」
「説明めんどい。けど、あたしもなんで奈緒がこうなっているのか分からないのよ。伊織の目で見れないの?」
「えー……? そんなこと言われても」
伊織の目を何かしらの便利な道具の一つだと言うように真咲が促している。気が進まなそうな伊織だが、やはり気になるのかチラリと黄金の瞳を動かし、何度か目を瞬かせた。
「……指輪?」
小さく伊織がつぶやいた言葉は、静寂に包まれているガゼボの中をよく通り、奈緒はすぐに顔を上げた。
無表情だった。
伊織、真咲はもちろん静もそろって顔をそらした。小動物達は我々は関係ないしな、と言わんばかりに遊ぶのを再開している。
これは完全に触れてはいけないものだった。しかし伊織が言ってしまった以上、逃げられるなんてことはなかった。
「ちょうど良いわ、聞いてよ。というか、聞くわよね? ね、伊織。見えちゃったもの? 聞かないと承知しないわよ?」
「も、もちろん聞くよ!」
なんて理不尽の塊か。
あんなにも柔らかい物腰で、好んで世話を焼いている奈緒が今や嘘のように荒れている。
こんな状況だというのに、侍女達はいつもと変わらぬ様子で手早く紅茶の用意をそれぞれ用意し、菓子までついている。
奈緒は目の前に置かれた紅茶を一口飲み、小さく息を吐きだした。
「そう、あれはここに来る一か月前の事よ」
「うん、何があったの?」
「婚約していた相手と別れました」
恋人と別れたとかなら、ああ、失恋をしたんだなという話で終わった。しかし婚約ともなれば話は変わる。
婚約していたと言うことは結婚間近だったということだ。そこまでに深い仲だった相手と別れたと言った奈緒の表情は変わらず無表情。まるで嵐の前の静けさのようだった。
奈緒はそして、大きく息を吸った。
「仕事やご家族が理由なら待つし、最悪ついて行く覚悟していたわよ。それでもどうしても駄目になる場合があるっていうのも知っていたわ。けど、まさか、まさかの浮気ってどういうことよ! しかもよ、その相手誰だと思う? 私の友達よ、友達! いいえ、友達と思っていた女よ! ふざけんじゃないわよ!」
吠えた。心から吠えていた。
控えているレオナがそっと奈緒に綺麗にたたまれたハンカチを手渡す。奈緒はぐっとこらえるように顔をしかめながらもそれを受け取り、きつくきつく握りしめた。
元婚約者の男とは、おおよそ六年ほどの交際し、男の方からプロポ―ズをしてくれた。だがタイミング的にお互い忙しく、籍を入れるにしてもお互いの家族の挨拶なりがまだ終わっていないということで、籍を入れるのと結婚式を挙げるのはもう少し後にしようと決めた。
いつ籍を入れ、式を挙げるか。一緒に考える日々はそれはそれは幸せに満ちていた。
だというのに。
仕事が忙しいからと男はここのところ毎日夜遅くまで仕事をしており、帰ってくるのはいつも日付が変わる頃。休日も仕事で潰れる日々が続き、式を挙げるのだけは延期にして、先に籍だけでも入れた方が良いのではと思っていた矢先のことだった。
突如、男から別れてくれと言われたのだ。
この仕事の忙しさだ。きっとそのせいでそんなことを言っているのだと思えばまさかの浮気だった。しかも、だ。その相手というのが、奈緒の友人だった。
すぐに女を呼び出して詰問をすれば、女は悪びれることなく言ってのけた。
だってあんた、潔癖じゃん。
女は笑う。
そのせいで彼ったら全く家でも休めないって言ってたのよ。こんなに疲れている彼を休ませないだなんて、あんたの方がひどくない? 愛想つかされても仕方がないわよねぇ?
女はその後も奈緒を責め続けた。男は何も言わなかった。それが何よりも辛かった。
その後、奈緒は男と別れた。幸いにもまだ完全に同棲をしていなかったということもあり、引っ越しの手間はなかったものの、風の噂から男の家にあの女が住み始めたと聞き、気が気ではなかった。
もう恋愛なんてこりごりだ。全てさっぱり忘れて、仕事に打ち込み、隅から隅まで掃除してきれいさっぱりあの男の思い出ともども消してやろう。
火傷しそうなほどに熱い紅茶を躊躇なく奈緒は飲み干す。そこでようやく落ち着いたのか、しわになったハンカチを掌で少し伸ばしながら続けた。
「だからこっち来たときからずっと掃除しているのよ。すごく掃除のし甲斐があったのも大きいのだけど。ああそれと、伊織達と一緒だったのも助かったわ。あの女のことを思い出さずに済んだし、一気に三人も友達が出来たんだもの。すっごいことよね」
「うん、友達だよ!」
「ふふっ、ありがとうね、伊織。それなのに、せっかく忘れかけていたって言う時に、あの男は……!」
手元のハンカチはまたきつく握りしめられていた。
静は怒りだろうか、手を震わせる奈緒の手にそっと触れた。
「ね、奈緒」
「……何、静」
うろんげに静を見てくる奈緒に、静は笑顔を浮かべた。
「わたし、友達大事にするのね?」
「……うん、それで?」
「そんな下半身野郎と結婚しなくて良かったとすごく安心しています」
「……ええ、そうね。それはそう」
「で、殴りに行っていい?」
「静、それは駄目よ。駄目」
「大丈夫、言葉でぶん殴るだけだから」
「……それなら、まぁ」
「それとね、わたしの友達に一人、法律に詳しいのがいるから相談してみるのもあり」
「ねぇ、静。貴方何してる人? ちょっと怖いのだけど」
「フリーターだよ」
本当にフリーターだ。望んでの結果ではないが、これはこれでありだと思ってはいる。
横で真咲と伊織がこそこそと顔を寄せ合っている。
「ただのフリーターだと思う?」
「ねぇ、真咲。フリーターってよく分かんないのだけど」
「えーっと、バイト暮らししている人よ」
フリーター。正しくはフリーアルバイター。正社員以外の形態で働いている社会人のことを言うのでおおよそ真咲の認識であっている。
うんうん、とその通りだと静が頷く横で、ふと奈緒はわずかに首を傾げた。
「そういえば静、ここに来る前は何をしていたの?」
「皿洗いと、スーパーの品出し。後は単発で清掃もしてた」
「あら、静。それなら一緒に掃除どう?」
「いいよ。あ、でも、膝が少し悪いから、あんまり負担がある奴は難しいかな」
清掃の仕事は別に嫌いではない。が、重たいものを持って歩くのはちょっとばかり大変だったなぁ、と思い返していると、奈緒が静の手を握った。
「静?」
「うん?」
「膝、悪いの?」
「な、奈緒?」
あれほど無表情だったというのに、奈緒は今、満面の笑顔を浮かべている。無表情もそれなりに恐怖を抱いてしまっていたが、満面の笑顔で迫られるとそれなりに恐ろしいものがある。
さらに言うと、首の後ろ付近だろうか、二対の視線が突き刺さっている。
「いや、あの……。ずいぶん昔のことで、もう日常だったから」
「そう。それで、ずいぶん昔のことって、何か運動して?」
「えーっと、骨折の後遺症的な奴。くっついた時に、変にずれたみたいでね? だから治らない奴だし、えーっと、長く走れないのと、けっこうつまずきやすい。あ、でも右足の方だけで、左は問題ないよ」
「静、ここに来てから結構つまずいていたのって」
「大丈夫、昔に比べて転ぶことはほとんどないし、受け身も綺麗に取れるよ」
先ほどまで荒れていたのが嘘のように、奈緒はようやくいつも通りの雰囲気へと戻った。そして何かを気づいたかのように目をかっと見開いた。
「待って、静。まだ地下は行ってないわよね、ここにいるってことは」
「うん。明日にしようかなって思ってたけど、どうして?」
「階段の上り下りはどうなのよ」
「別に早く動かなきゃ平気かな。けど下りる時は手すりに一応摑まるけど」
一番膝に負担がかかるのは下る時だ。うっかり踏み外したらとても痛いのは身体でよく覚えている。
奈緒が何を言いたいのか分からずに静は待っていると、肩に優しく手を置かれた。
「静、諦めましょ」
「え、どうして」
「階段ね、手すりないわよ」
「……壁に手付いていくから」
「だいぶ深いのよ」
「ど、どれくらい?」
「普段使っている階段の数倍」
「き、気合で」
大丈夫、いける。たぶん。
ぐっと拳を握って言うが、奈緒はそれでも諦めろと首を横に振った。
「静様、後でお話があります」
「え、あの、ルイス。いや、隠していたわけじゃ」
「はい。ですから、話があります」
話があるが、叱られるわけではないはず。わざと黙っていたわけではなく、本当にこれは静にとって慣れた日常の一つでしかないのだ。
確かに護衛も兼任しているルイスからしてみれば、知らなければならない事実の一つではあるし、何度か目の前でつまずいたりしているのも事実。お小言は確定だろう。
静は大人しく、けれどもちょっとばかりの反抗を交えてはぁい、と小さく返事を返した。
「ああ、そうそう。あのクソ殿下の話になるのだけど」
「クソはクソなんだね」
「ええ。ヴィンセントにそっくりだったわ、顔が。中身はまるで違うのだけど」
世の中、自分に似た顔が三人はいると言われているくらいだ。この世界でも似たようなものだろうと静は思っていた。が、唐突に思い出したように話す奈緒はさらりとその事実を告げた。
「実の兄弟なんだそうよ。ヴィンセントは完全に籍を抜いているから、あっちとは関係がないとか言っていたのだけど」
「え、うん?」
「びっくりよね。まさかあんなのが兄弟だなんて、ヴィンセントも大変だわ」
性格云々の話をする奈緒だが、もっと重要なことは別にあるのではないかと静は言いたい。ので、言おうと口を開こうとしたがそれよりも前に、さらに奈緒が畳みかけた。
「二度と会いたくない。ってことで静。他に隠していることないわよね?」
あちらへ話題が遠のいたせいで気が抜けてしまった静の一瞬をついてか、奈緒がいきなり目の前に話題を突き付けてきた。
その勢いは逃がさない。絶対に。と言わんばかりだ。
「え、えー……わ、わたしだけ言うの、卑怯じゃない?」
慌てて静は、先ほどから言葉を挟まずにそれぞれ紅茶と菓子を楽しんでいる真咲と伊織に目くばせをした。
伊織は困ったように首をかしげるが、真咲は空色の瞳を少しだけ真上に動かして、右手をはいと上げた。
「あ、それじゃあ、あたし言いたいことあるんだけど。ちょっとどころかだいぶ怒られると思うやつ」
「それ、聞いてもいいものなの?」
「ええ、問題ないわよ。というか、知ってもらわないといけない奴だったし」
本人が怒られると分かっているほどの隠し事をとても分かりやすい真咲が抱え込んでいたことに、伊織が目を丸くした。
静との対応とは異なり優しい問いかけをする奈緒に、真咲は少しばかり同情の視線を静に向けつつも答えた。
「あたし、牛乳アレルギーなのよ」
全員の動きがぴたり、と止まった。
そして今、真咲の目の前に並ぶ紅茶や菓子を見る。
「……今、食べてるのは?」
「クリームいっぱいのケーキに、ミルクいっぱいの紅茶ね。もうね、最初びっくりしたのよ。食堂にいた時、落ち着くからってホットミルクを出してくれて。アレルギーだから危ないのは分かっていたんだけど、完全に善意だったし、あたしの場合は間違って飲んでも体中がかゆくなって、咳が止まらなくなる程度だったからいけると思って」
「どこがいけると思ったのよ……?!」
「ほら、世界が違うからもしかしたらってあるでしょ。それに牛乳好きだったからつい。で、飲んだら何も起こらないのよ! もうね、嬉しくなっちゃって!」
真咲の好物は牛乳らしい。だと言うのに、この好物がアレルギーになってしまうとは何とも悲しい事実だろうか。
食べられて良かったね、と言っても良いなら言いたい静だが、それよりも先に心配が口から出てしまった。
「本当に、大丈夫?」
「大丈夫よ、生きてるもの。あー、おいしっ。なによぅ、アリッサ。って、アレルギーって分かる?」
「……分かります、が」
この世界にも食物アレルギーというものは認知されているらしい。お付きの侍女、アリッサの顔色が薄らと悪くなっているようにも見えなくはない。
いや、気持ちは分かる。なんせある種、これは毒のようなものだ。今は平気と言え、いつどうなるか分かったものではない。
「そういうことだけど、あたしがこれ食べて飲んでるのは完全に自己責任ってことでよろしく。じゃ、静に返すわね」
よろしくではない。
三人の気持ちは重なったが、返された静は慌てて残り二人に打ち返した。
「ふ、二人は」
「私、元友達ゼロ人だった! 静達が友達になったから友達三人!」
「伊織、良かったわね。私は今言った通りよ」
元気よく自虐する伊織に、奈緒はもう何も無いと言い切った。おかげで話題がすぐに静にまっすぐに直撃した。
静は視界の端で遊んでいる銀色の毛玉を恨めしく思いつつ、逃げられないことを悟り、腹をくくった。
「……いや、その。ちょっと、昔、やんちゃをしていた、というか」
「やんちゃじゃ分からないわよ」
奈緒の容赦のない言葉が降りかかる。
ちょっと泣きたくなる衝動を覚えつつ、ええいままよ、とようやく素直に静は話すことにした。
「所謂、いうところのヤンキー、不良で、喧嘩上等してました。足の骨折はその時にして、親にすごく怒られたので、素手での喧嘩は控えて言論での喧嘩にしました」
「喧嘩から離れなさいよ。けど、本当なの?」
「うっそ、ほんと?! 静が? 嘘でしょ?」
「ええ? え?」
四人の中でも一番背が低く、童顔故に年も一番下に見られる静だ。この中でも落ち着いている方で、なんだかんだと常識を弁えている。一見すれば、むしろそんなものとは無縁の柔らかな雰囲気を持っているらこそ余計に三人が驚くのも無理はなかった。
にしても驚きつつもまるで母親のようなことを言う奈緒はさすがだし、一番良い反応を見せる真咲の横で、え、としか言っていない伊織に少し心配が勝ってしまいそうだった。
「本当ですぅ。ちゃんと悪いこともやりましたぁ」
「ちゃんとって何よ。この際だから吐いちゃいなさい」
「未成年の内にお酒飲んで、煙草吸った」
「馬鹿でしょ」
「うん。馬鹿だったと思う。お酒は成人してからちゃんと飲み直したし、煙草はあれ以来吸ってない。後、ちょっとした博打とかもしたっけな。あ、でも悪いことはそれだけで、後はやってない……はず」
窓硝子割ったりとか、自転車壊したりとかしたけど、あれは仕方がなかったと言いたい。いや、器物破損というものだから結果的に言えば悪いことではあるのだけども。
やらかしたあれこれを答えた静に、当然のことながら三人は呆れられ顔を浮かべた。静も当然だと思っている。
思春期。若気の至り。その一言で片付けようと思えば出来るあれやこれは、なかなかに濃密で強烈なものだった。
「静に対する印象が大きく変わるわ。普段はあんなに子供っぽいのに」
「すごーい。それなのに静、すっごくまともだよね。何かあったの?」
真咲もそうだが、純粋な感想であろう伊織の言葉が耳に突き刺さった。静は痛む耳に耐えつつ、伊織の問いに答えた。
「まともかは分からないけど。何だかんだ、父のおかげかも。すっごく怒られたというか叱られたと言うか」
「怒られて、言論の喧嘩にしたって言っていたけど、まさか」
「父だね」
そう、と奈緒の言葉に頷いた。
「わたしの父ね、病気で結構入院している時が多くって。で、その父がいる病院にわたしが運ばれたから即座にバレてちゃったんだよね。本当は寝てないといけないのにベッドの横陣取ってさ、一日中叱ってきたの」
「静が静なら、お父様もお父様だったのね」
「ねー。そういう事があって、とりあえず喧嘩のやり方変えて」
「そこがもうおかしいのよ。止めなさいよ」
「父からは喧嘩のやり方について叱られただけで、喧嘩自体は止められなかった」
「お父様……?!」
「それでね。相手をわざと怒らせると動きが単調になって、結構楽に相手出来るようになったんだよね」
後ろの方からああ、と妙にルイスが納得したような声をこぼしたのが聞こえた。
おそらくはあの監禁してきた首謀者の男を殴った時のことを思い出したのだろう。静がそれを覚えたのは父のおかげだ。あのやり方なら怒りはしないはずだ、きっと。
とは言え、今は確認する方法なんてものはないのだが。
「で、完全にあっちから離れて今に至ったのは父が亡くなってからかな。治らない病気だったから仕方がなかったのだけどね」
「そう、なの。その」
「謝らないでね? 仕方ないって言い方はあんまり良くないんだろうけど、仕方のないことだからさ。とはいえ、いろいろと気づくの遅すぎて、母にはいろいろと迷惑かけちゃったからさ。心機一転して、完全に離れようと思って遠くに移り住んで、今に至っているって感じかな」
静は、あの頃を少しだけ思い出した。
父のうるさいお小言と、豪快な笑い声。喧嘩自体は当然のことながら良い顔はしなかった。そして、喧嘩で負ってしまった怪我ひどく怒られた。病人だというのに一日中、耳にタコが出来るほどだった。
けども素直に聞き入れられたのは、父が喧嘩自体を止めさせようとはしなかったからだ。
父はなんとなく察していたのだろう。あの時の静にとって、喧嘩こそが逃げ場で、救いで、感情全てを吐き出せる方法だったのだと。
そしてもう一つ。父は怒った後、必ず豪快に静の頭を撫で回した。大きくて、温かい手だった。あの手が温かい内な大丈夫だと、そう思っていた。思い込んでいた。
静はすっかり冷えた紅茶のカップに手を伸ばし、冷たく渋い紅茶で過去の思い出を流し込んだ。
「……だから、というわけではないけど。今まで成した結果が今だから、可能な限りで何とか甘んじて受け入れるか、受けて立とうとは思ってはいるんだよ。で、この先、わたしがどうしても成したいと思った時に、成せることが出来るように、やれることだけのことはやろうって決めている」
成るようにしか為らない。静は最初、あの空間でそう言ったのに対して、諦めのそれだと言った真咲がほんの少しだけ、罰の悪そうな顔を見せていた。
「静のそれ、諦めのそれじゃなかったのね」
「いやぁ、真咲の言う通り、今は変えられないから諦めだよ。どうしたって変えられないし。だからあれだ、ちょっとした博打みたいなもんで未来に賭けてやってみるかぁって感じ」
「覚悟が決まっているんだか、そうじゃないんだか分からなくなってきたわ」
よく分からないと匙を投げて顔をゆがめた真咲に、静は小さく笑った。
覚悟なんてものはない。ただ、やれるだけのことはやる。たったそれだけが、静を今こうして動かしているだけだった。それでもこれを覚悟と呼べるものであるならば、そうであるならば、静はより覚悟を決めようと思っている。
元の世界へと戻る為に。無邪気に遊ぶ、小動物に扮した愛娘達の為に。父が残した、生きてくれ、という願いの為だけに。
深く息を吸えば、清涼感のある香りに満ちた空気が胸に入りこんできた。煮え立つようにうごめく思考が落ち着きを見せ、今、考えなければいけないことがすぐに表に出て来てくれた。
「そういう事でさ、奈緒。やっぱり地下行きたいんだけど。駄目かなぁ」
「ねぇ、静。今その聞き方はずるいと思うのよ」
「うん、知っている」
「それが無ければとっても良かったわ」
一先ず、どうにか地下にあるという書庫に止めらずに行かせてもらえるかが目下、重大な問題である。
今の話をすれば大概、同情の念を誘えるのは百も承知。話題的にそうなるのは静もよく分かっているため、だからこそあまり言いたくはなかったが無理やり言わせられれば仕方がない。うまいこと使わせてもらおうとすぐに算段した。
「……とりあえず、その膝のこととか。もう少し詳しく聞いてからでも良いかしら?」
「いいよぉ」
後一押しだと静は確信した。
さて、その為にもう少し考えなければと思いながら、静は皿に並ぶ菓子に手を伸ばした。




