【スピンオフ】珈琲はいかが
【シリーズ】「ちょっと待ってよ、汐入」として投稿しています。宜しければ他のエピソードもご覧頂けますと嬉しいです!
その日もいつもの様に休憩の為、大森珈琲に向かう。休憩と言ったが、自分の事務所から出て気分を変え、思考を整理し頭のリフレッシュをする一人会議の場合もある。なので、結構長居することが多いが決して現実逃避しサボっているわけではない!と自分に言い聞かせ通っている。
大森珈琲のドアを開けると
「あ、能見くん、いらっしゃい!ごゆっくりどうぞ」
と、店長の大森さんが声を掛けてくれる。僕はぺこっと頭を下げて挨拶をし、カウンター席に向かう。
「おっ、能見、来たか」
カウンターに座るなりすぐさま汐入が声をかけてきた。
「なに?何か用?」
「いや、まだいい。ゆっくりしてくれ。ホットコーヒーで良いか?」
うん、宜しく頼む、と豆のチョイスは汐入に任せる。汐入はカウンターの奥の豆の置いてある棚を見つめて10秒ほど思案し、豆を選びミルで挽き始めた。
僕、能見鷹士は個人事業主としてコンサルタントを生業としている。元は大手シンクタンクで働いていたが、ブラックな企業風土に嫌気がさし、三十路が見え始めた28歳で退職。一念発起し、中小企業に特化した地域密着のビジネスコンサルタントとして起業した。B級グルメ、クラフトビール、映えスポットやパワースポットの開拓、アニメとのコラボや聖地巡礼のツアー、プロモ動画、SNSの活用など、商店街復興、地域活性化の為にあらゆる企画を地域の人と一緒に伴走するのがモットーだ。
そしてカウンター越しに相対しているのは汐入悠希。亡き父親の残した探偵事務所を継いでいるが、仕事のない時はこうして大森珈琲でバイトをしている。たまに探偵の仕事が舞い込んできているようだが、殆ど毎日、大森珈琲にいる。実を言うと汐入とは中学時代の同級生なのだが、当時はあまり親しくはなかった。女子剣道部にいたかな、ぐらいのうっすらした記憶しかない。高校は別だったが通学の電車が同じだったので話すようになり、それから親しくなった。所謂、腐れ縁ってやつだ。
挽いた豆をフィルターにいれ適度な温度のお湯を汐入は丁寧に注ぐ。立ち昇る湯気と珈琲の良い香りが漂よう。ドリップされた珈琲が陶器製のカップに満ちていく。
「ブルーマウンテンだ」
高い豆を選んだな。なんか嫌な予感がして僕は、怪訝な表情を汐入に向ける。
「心配するな。ワタシの奢りだ」
あ、やっぱり。嫌な予感、的中!そのパターンか!?
「いや、お代を心配してるわけじゃなくって。これを飲んだあとに汐入から何か無理難題をふっかけられるんじゃないかって・・・」
「さて?それはどうかな?」
白々しく汐入はとぼけて見せる。
果たして手をつけて良いものか逡巡していると汐入が言う。
「ホント、つまらん奴だな、貴様は。折角のブルーマウンテンだ。ゆっくり味わってくれ」
いつもこうだ。学ばない僕が悪い、と言われればそれまでなんだけど、知らないうちに汐入の術中にはまってしまう。
珈琲は飲まざるを得ない。すると同時にその後に吹っかけられるであろう汐入からの要望も呑んだことになる。僕は暗澹たる気持ちになった。
「やれやれだ。ゆっくり味わうとするよ」
淹れてもらった珈琲を飲み終えた頃、大森珈琲のドアが開き、二十歳前後の二人の男女が入って来た。いらっしゃいませ、と大森さんが迎える。
「あのう、汐入さんという探偵さんに用があって・・・」
と男性の方が大森さんに声を掛ける。
「ワタシだ。待っていたぞ」
と汐入が割って入る。
大森さんに四人掛けのテーブル席へと案内され、声を掛けた男性と女性が席に座る。
「おい、能見、貴様も同席しろ。ブルーマウンテン、美味かっただろ?」
これかぁ~。この若者二人の依頼に巻き込まれるんだな。仕方ない。覚悟を決め(と、言うほど大袈裟なことではないが)、汐入の後を追いテーブル席に座る。
「僕たち、県立工科大学の学生で・・・」
「ああ、メールは読んだ。友人が何かの事件に巻き込まれているかも知れないとか」
と汐入。
「そうなんです。百合が、私の友達なんですが、百合が意識不明の重体になってしまって・・・」
と女性が答える。声を震わせ今にも泣き出しそうだ。
「まぁ、落ち着いてくれ。改めて自己紹介をしよう。ワタシが探偵の汐入悠希だ。そしてこっちは能見。助手みたいなもんだ」
む!助手だと!無理やり巻き込まれているだけだし、しかも完全に厚意で手を貸してやっているのに!眉をひそめ汐入を睨む。前に座る二人には笑顔で
「どうも。能見鷹士といいます」
と大人の対応をする。
男子学生は浦賀翔也、女子学生は久里浜美優といった。先程、重体であると言っていた友人は磯子百合。3人とも大学3年生。学部は違うがサークルの仲間らしい。五日前に百合が大学近くの路上で倒れていたらしい。通行人が通報して救急車で病院に担ぎ込まれ、救命処置のお陰で一命は取り留めたものの、それ以来、意識不明の状態ということだ。
「ふむ。まず聞くが、何故、警察ではなくワタシなんだ?」
と汐入。
「医師が警察に連絡はしてくれたのですが、外傷はなく路上で倒れていただけだから、警察は事件性は低いと判断したみたいです。だから詳しく調べてくれないんです」
と翔也が答える。
「事件性がないから原因を調べるのは医者の領分だと言ってほったらかしなんです!百合が可哀想です!」
と美優が続く。
「なるほどな。それで探偵であるワタシに何が起こったのかを突き止めてほしい、という訳だな」
「はい、そうです!」
お願いします、汐入さん!と翔也と美優が頭を下げる。
「さて、まずは詳しく話を聞くとしよう」
事態を二人が知ったのは一昨日、百合が倒れて二日後のことだった。百合がサークルに顔を出さないから、同じ学科の人に尋ねてみたら授業にも来ていないとのこと。
「実は僕、百合とは中学、高校が同じで。なので実家に電話をしてみたんです。そしたらお母さんから入院しているって聞いて・・・。事情を伺ってみたら、路上で倒れているところを通行人の方が発見して。先程、お話しした様にその方が119番に通報してくれてそのまま入院となったみたいです」
「もう少し詳しく話してくれ。倒れた原因は?」
「ええ、百合のお母さんからの又聞きになりますが、病院の話では救急車が到着した時、既に意識はなかったようです。呼吸不全に陥っていて血中の酸素濃度が低下していたので救急車では酸素マスクを、病院に着いてからは人工呼吸器を処置して何とか一命を取り留めた様です」
「う~む~。呼吸不全・・・屋外で酸欠かぁ・・・」
と汐入が呟く。
「そうなんです、どう考えてもおかしいんです!あんな道の真ん中で酸欠だなんて!絶対何か事件に巻き込まれたんだわ!可哀想に・・・」
と涙声で言って美優は顔を手で覆ってしまう。
「倒れていたのはどこだ?どんな所だ?」
「大学の近くの路上です。5,6メートル幅の道路です。大学からは、そうだなぁ、2、3分程度歩いたところでしょうか。小さな飲食店が何軒かあってランチやお茶をする為に割とウチの学生は良く通る道だと思います」
「状況はわかった。だがまだ何が起こったのか考えるヒントが全くない。まずは現場を見よう。明日、ワタシと助手を案内してくれるか?」
おいおい、僕もか?個人で仕事をしているから割と融通は効くが、一応、こっちの都合も伺えよ!ま、行けるけど。
「それから、倒れる前の磯子百合の行動を知りたい。学科やサークルの人に倒れる前に磯子百合を見なかったか聞いてみてくれ。あと磯子百合の写真をワタシに送って欲しい。こちらでも聞き込みをする時に使わせてもらいたい」
聞き込みかぁ・・・。これにも付き合わさせそうだ。だが仕方ない。人が一人倒れている。事は重大だ。
翌日、県立工科大学の正門で二人と待ち合わせだ。
「なぁ汐入、成り行きで今回も手を貸してやるけど、これはブルーマウンテン一杯では割りに合わないぞ」
「わかっているって。貴様にはいつも感謝している。今回もちゃんとお礼はするさ。お、来たぞ!」
二人と合流した。まずは倒れていた現場に案内してもらう。正門を背にして大学に繋がる目抜通りを100メートル程進む。目抜通りには何本かの道が交差している。そのうちの一つに入る為に右に曲がる。なるほど、道幅は5メートル程度だろうか。現場はこの道沿いってことか。
この道に入って数十メートル進んだ地点で
「この辺、と聞いています」
と翔也が立ち止まった。
何の変哲もないただの道だ。左右には住宅、三階建てあるいは四階建てほどの商業ビル、飲食店が並んでいる。
「ふむ。極めて普通だな」
と汐入が極めて普通の感想を呟く。続いて
「こんな普通な場所で倒れていたなんて、普通じゃないな」
とまたしても普通な感想を呟く。素人の僕の感想もまさに同じだ。何かあったに違いない。
「磯子百合に何か持病はあったか?何か発作を起こすとか?」
「あ、いや、ないです。僕も気になってたのですが、それは百合のお母さんが言っていました。特に倒れる様な持病もないのになんで倒れたのか、って現実を受け入れられない様子でした」
「私も普段百合と一緒に行動する事が多いですが、特にお薬なんかを飲んでいたということはないと思います」
と二人が証言する。
「なるほどな。持病があるわけではないのだな。他の可能性を考えるべきって事だな」
既に汐入の頭の中では複数の選択肢があるみたいだ。今はそれを現状と照らし合わせて一つ一つ取捨選択をしている様だ。
「こんな所で何をしていたんだろうな?」
汐入は周囲を見渡しながら二人に聞く。
「それが僕たちにも見当がつかなかって・・・」
その時、
「あっ、友人です。聞き込みしてみましょう」
と翔也が言う。見ると道の向こうから若い男が歩いてくる。
「太田!ちょうどよかった」
「よう、どうした?」
「百合のことなんだけど。今、入院してるのは知ってるよな?」
「うん。この辺で倒れたって」
「ああ、そうなんだ。倒れる前の百合の行動を調べているんだけど、あの日、百合を見たり、会ったりしたか?」
しばし太田という青年は考える。
「あ~、あの日か。覚えてるよ。キャンパスに戻る途中で百合とすれ違ったよ。この道に入る角付近だったかなぁ」
お!早速ヒットか!有用な情報を期待しながら二人の会話に意識を集中する。
「そうなんだ!百合は何か言ってなかった?」
「いや、別に。よぅって声をかけて、どこ行くんだ?って挨拶がわりに聞いただけで。どこに行くのか本当に興味があったわけではないからなぁ・・・」
「で?百合はなんて?」
「う~ん、何だったかなぁ。喫茶店に行く?いや違うな。コーヒーを飲みに行くって言ってたんだ!なんか回りくどい言い方だなぁと思って。だから勝手に俺は喫茶店に行くってことか、って脳内変換した記憶がある」
珈琲、喫茶店か、と汐入が呟く。
「もういいか?」
と太田。翔也は目で汐入に合図を送り、意向を伺う。小さく汐入が頷く。
「あ、うん。ありがとうね、太田」
翔也がお礼を言うと太田は再び歩き始め、少し先にある四階建ての古い建物に入っていった。
「この近くに飲食店は?」
「えっと、そうですね、ここの近くだとそこのカフェが一番近いでしょうか。そこの看板が出ているお店です」
といって20メートル程先を指差す。
「うむ。入ってみよう」
そう言って汐入はカフェに向かって歩いていく。
カフェは落ち着いた雰囲気の純喫茶で、フードメニューはなくコーヒーのみだ。
「マスター、ブレンドコーヒー。ホットで」
と汐入はさっさとオーダーを済ませる。僕も同じものを頼む。翔也と美優は悩んだ挙句、結局、ブレンドコーヒーを頼んだ。汐入が黙って珈琲を味わっているので、皆もその雰囲気に呑まれ黙って珈琲を飲んでいる。
ふと、汐入が口を開く。
「念の為に聞くが、医者は毒物の可能性は否定しているんだな?」
「ええ、百合のお母さんが言うには、嘔吐物からは特に異常なものは出てきてはいない、と医者に言われたそうです。それにもし毒物が出ていたのであれば警察が動いていた筈です」
「なるほどな。毒物を飲んだ可能性はほぼ否定されている訳だな」
と言ったきり汐入はしばし考えこむ。
珈琲を飲み終えると汐入はマスターに話しかける。
「珈琲、ご馳走様。ところでマスター、最近この女性がここに来なかったか?来ているとすれば六日前だ」
とマスターにスマホの画面を見せる。
品の良い白髪混じりのマスターは汐入のスマホを繁々と見つめる。
「うーん。見覚えはないですね。ウチの店は大学関係の方が良くいらしてくれますが、学生さんというよりは教員やスタッフの方が多いのであまり若い方はいらっしゃらないのですよ。なのでお若い方が来たら多分印象に残っていると思うのですが」
「そうか。マスター、ありがとう」
マスターは百合に見覚えはないと言っている。一方で、太田は百合がコーヒーを飲みにいくと言っていたと証言した。二人とも嘘をついている様には見えないし、嘘だとしても調べれば早晩、バレるだろうから、嘘を言うメリットがあまりない様な気がする。
汐入は隣でう~んと唸っている。
特に有用な情報は得られなかったがこれ以上ここにいても仕方がない。翔也と美優と共に大学を確認することにして、店を出た。
元来た道を歩いて、百合が倒れた現場付近に差し掛かった時、汐入が翔也に聞く。
「そう言えばさっき、太田という学生はこの建物に入っていったな。この建物はなんだ?」
「あぁ、これは大学の研究室なんです。飛地であの建物だけしかないですが」
「学生はよくここに出入りするのか?」
「いやぁ、あまりないですね。研究室所属のゼミ生ぐらいでしょうか?先生が持っている講座はキャンパスで講義をするから、先生の授業は受けたことはありますがこの建物には入った事はないです」
ふ~ん。そうなんだ。でも、特定の学生しか立ち寄らないのであれば百合の行動にはあまり影響しないだろうな。
大学のキャンパス内でも百合の倒れた日の動向を探ったが、結局、有用な情報は得られなかった。翔也と美優はこの後、百合の見舞いに行くと言って別れた。百合がカフェに立ち寄ったのか否かは謎のままだ。
次の日、僕は再び大森珈琲のテーブル席に汐入と並んで座っている。向かいには翔也と美優だ。
「お時間を頂いてすみません」
「いや、構わない。ここのバイトはそれ程、忙しくないからな」
汐入が路頭に迷わない様、厚意で雇っている大森さんへの恩など微塵も感じさせない台詞だ。更に言えば、巻き込まれている僕は暇ではない!今日も突然呼び出しがかかり何とか仕事を仕上げてから急いで大森珈琲に出向いてきたのに!
「昨日、あの後、僕たちは百合のお見舞いに行ったのですが」
汐入は、ああ、そうだったな、それで、と相槌を打ち話を促す。
「百合のお母様もお見舞いにいらしてて、わたし、百合のお母様と少しお話ししたんです」
と美優が続ける。
「そしたらお母様が気を遣って下さり、わたしたちに飲み物を買う為に一緒に自動販売機へ行ったんです。その時にお母様が自動販売機の珈琲を見ながら呟くんです。珈琲に消える毒なんてあったりするのでしょうか?工科大学の学生さんならなんか知ってませんか?って」
「どういう事だ?なぜそんな疑問を?」
翔也が汐入の質問を引き取って答える。
「そうなんです。僕も何でだろう?と不思議に思い、お母さんに聞いてみたんです。何故、珈琲に消える毒なんですか?って。なんでも百合が運び込まれた時、嘔吐したらしいんです。毒物は検出されてないって話は以前しましたよね。それはこの時の嘔吐物から毒は見つからなかった、という事実からその様にお話ししました」
「ふむ。で、珈琲との関係は?」
「はい。どうやら嘔吐物から珈琲が検出されていた様で、それでお母さんは珈琲と一緒に毒を飲まされたけど、毒だけ消えてしまったのではないか、と考えた様なんです」
なるほど。僕は消える毒があるのかなんて全く分からないが、汐入はどうだろう。何か思い当たることがあるのだろうか?
汐入が言う。
「仮説としてゼロではないだろう。だがそんな好都合なことはあるだろうか?例えば熱に弱い毒があったとしよう。ホットコーヒーに入れたとしたらそこで分解するだろ。つまり身体の中で毒として作用する前に消えるってことだ。カップの中が60~70度、身体の中が40度弱だろ。カップで分解せず身体の中で分解するっていうのは考え難い。それに身体の中で分解できるならそもそも毒として機能し難い物質なのではないだろうか」
「そうですか・・・。理屈としては確かにそうですよね。何かのヒントになればと思ってお話ししましたがあまり有用な情報ではなかったですね」
と二人は気落ちしてしまった。
「いや、そうでもない。磯子百合が倒れる前に珈琲を口にしていたと確定した。太田の証言は正しい」
「汐入、じゃあ、あのカフェのマスターが!?」
と僕は思わず口を挟む。
「嘘と決めつけるのは良くないな。無意識のバイアスがかかると本質を見誤る」
なんかよく分からない小難しい言葉で煙に巻かれた。
「磯子百合は大学前の目抜通りからカフェのある横道に入り珈琲を飲んだ。そこまでは確からしい。それがわかっただけでも収穫だ、ありがとう。ところで、あの飛地にある研究室、あそこを見学できないか?」
と汐入が翔也に聞く。
「あそこですか。太田に頼んでみましょうか?」
「うむ。ぜひ頼む。研究の説明などは不要だ。チラッと見せてくれればそれでいい」
ん?なんだ?汐入は何か気になることがあるのか?
翔也は太田に連絡を取り了解を取り付けた。
「今、教授は講義中だから、サッと見る程度なら大丈夫ですって。今から大丈夫ですか?」
「ああ、直ぐに行こう。宜しく頼む」
飛地の研究室は教授の名を借り、通称、鶴見棟と呼ばれていた。鶴見教授は化学科の教授だ。汐入は太田の手引きで鶴見棟の内部に入った。一階、二階はラボエリア、三階に研究室事務所がありゼミ生たちのデスクがある。四階は教授室だ。各階へは階段とエレベーターで行き来できる。古い建物なのでエレベーターは小さく四人乗ればかなり圧迫感がある。
「教授室は?」
汐入が太田に話しかける。
「いやぁ流石にそこは・・・。勝手に部外者をここに入れただけでもルール違反ですから。それは無理っス」
「そうだな。悪かった」
くるりと僕の方を振り返る。
「よし。帰ろう」
そして再び太田の方に向き直り
「ありがとう。邪魔したな。大いに参考になった」
と礼を言って鶴見棟を後にした。
翌日、大森珈琲を訪れると
「たまには学生時分の気持ちに戻って、アカデミアの風に吹かれながらの珈琲はどうだ?」
と唐突によく分からないお誘いを受けた。汐入の意図を理解せぬまま
「あぁうん、まぁいいけど」
と曖昧に了解する。
「よし、では出掛けよう!」
と言って汐入は大森珈琲を出ていってしまう。僕は慌てて汐入の後を追う。
汐入は県立工科大学に向かい歩く。カフェに向かうのかと思いきや、正門を入りズンズンと進んでいく。中庭でベンチに座ると、徐ろに籐で編んだピクニックバッグを開けた。そして、ベンチにテーブルクロスを敷くと、珈琲豆、ミル、ドリッパー、カップ、ドリップポッド、保温性の水筒など、つまりは珈琲を淹れる道具一式を取り出した。
「どうだ。優雅なアフタヌーンティーみたいだろ」
紅茶ではなく珈琲だけどね、と心の中でツッコミを入れながら
「あぁそうだね」
と同意する。汐入はいつもの様に手際良く珈琲を作り始める。未だに意図はよく分からないがここは汐入の淹れる一杯をご馳走になるとするか。どうせ足掻いても巻き込まれるんだし、というか、既に色々と巻き込まれているしな。
諦めの境地で汐入の淹れる珈琲を待っていると
「よし。できたぞ!なかなかの出来栄えだ。飲みたまえ!」
と珈琲カップを差し出す。
「ありがとう。頂くよ」
素直に受け取り、珈琲を口に含む。外で飲むだけで気分も変わる。いつもより爽やかな風味に感じる。そんな僕の感想を見透かしたかの様に
「な?たまにはいいだろ、こーゆーのも」
「ああ、そうだね」
「要するに、珈琲は何処でも飲めるってことさ!」
ん?何かヒントを出している?何のヒントだ?何を言いたい?僕が不思議な顔をしていると
「ま、そーゆーことだ」
と一人で完結している。
珈琲を飲み終わると汐入は
「さて、珈琲が終わったら、次は酸欠の謎を解こう。酸欠には何が必要だ?」
えっ!つまり汐入は磯子百合の謎が解けたってこと!?ここで僕がピントの外れた事を言おうものならいつもの様に汐入にサンドバッグにされてしまう。外さない様によく考えてコメントする。
「えっと、まずはこんな風に外では酸欠にはならないかなぁ」
「消去法的な答えだなぁ。でもまぁいいだろう。それはその通りだ。つまり何が必要だ?」
「密室とか?」
「ほう!それから?」
「あとは空気が薄いこと、とか?」
汐入は僕を見てヨシヨシと言う様に頷きながら満足そうに微笑む。
「まあいいだろう。及第点だ、ワタシはエレベーターと一酸化炭素を使ったのだと思う」
エレベーター?どこの?と考えてハッと気がついた!
「鶴見棟!?」
「そうだ。化学系のラボなら一酸化炭素も合成できるだろう。少し調べたが蟻酸を濃硫酸で脱水反応させれば生成できるようだ。コックの付いたパックに捕集すればいつでも放出可能だ」
「そんな手の込んだ事をしなくても、よくドラマなんかでは車の中で練炭を使って・・・」
「あれでは時間がかかりすぎるし濃度が薄い。致命的なダメージに至るまで数時間を要する。殺人には向かない」
「!!」
衝撃的な言葉が飛び出した!つまり磯子百合は殺人未遂にあったのか!
「エレベーターに乗っている30秒から1分程度で致命的なダメージを負わすには1%程度の濃度が必要だ。エレベーターを間口1、奥行1、高さ2メートルと仮定するとその1%は20リットル。リュックに仕込めばバレない。ガスだから重さとしては30グラムにも満たない」
「つまり犯人は磯子百合と一緒にエレベーターに乗ってガスを放出したってこと?」
「そうだ。嘔吐物からは毒は出ていない。酸素吸入や人工呼吸器による救命処置で一命をとりためた後は恐らく血液からも一酸化炭素の痕跡は見え難いのだろう。これが消えた毒の正体だ」
「いや、でも待って!それって犯人も同じエレベーターにいたって事だよね?自分だけ無事ってどーゆー事?」
「一酸化炭素を吸わなければいい。つまりエレベーターの中では息を止めていたのさ」
なんと!シンプルな防衛法だ。だが万が一、息が持たなければ諸刃の剣!それだけ追い詰められていたのか?
「恐らくことの顛末はこうだ。鶴見棟の誰かが磯子百合を誘う。口実は珈琲だ。きっとアカデミアの風に吹かれながら一杯どうだ、とか言ったんだろう」
いや、絶対そんな誘い方はしてない。全力でツッコミたいが、話が逸れるといけないので黙ってスルー。
「で、鶴見棟でこだわりの珈琲をご馳走する。場所は三階か四階だ。そして帰りに一緒にエレベーターに乗り下まで降りる。ドアが閉まったところで、リュックに仕込んでおいた捕集パックのコックを開けて一酸化炭素を放出する。もちろん犯人は息を止めておく。エレベーターは何故か沈黙するからな。特に黙っていても不自然ではないだろう。エレベーターで高濃度の一酸化炭素に暴露された磯子百合は中毒となり、エレベーターを出た後、意識朦朧となり遂には路上で倒れた。犯人はそれを放置して身を隠した」
「ど、ど、ど、ど、どーするの?これ!」
事の重大さに動揺して言葉が出てこない!
「証拠隠滅をされるといけないから、善意の第三者としてこれから警察に垂れ込む。なんとか警察に動いてもらい薬品庫で蟻酸や濃硫酸など一酸化炭素を合成した痕跡を抑えてもらう。20リットル程度の捕集パックもきっとあるだろう。警察が動けばもしかしたら血液の再分析など、もう少し詳細に一酸化炭素中毒の痕跡を探ってくれるかもしれない。ま、血液のサンプルが残っていれば、だけどな。動機も一緒に調べてくれるだろう。恐らくは鶴見棟の誰かと良からぬ取引や不適切な関係なんかが拗れたのだろうと思うが」
警察が表立って動くまでには時間は要した。まずは動機を固め犯人に目星をつけ、次に証拠集めだ。だが、時間はかかったものの、ほぼ汐入の推理通りに物的証拠が出てきた。
犯人はなんと鶴見教授。昨年、どーしても単位を落とせない磯子百合は教授と直談判し良からぬ取引をした。そして今年、またしても鶴見教授の単位を落としそうになり再び教授に直談判をしに行った。しかし磯子百合の切ったカードが良くなかった。昨年の取引をバラされたくなければ単位を認めよ、と教授に圧をかけたのだ。バラされてダメージが大きいのは地位があり立場的に優位な教授の方だ。急に自分の立場の危険を感じ、口封じの為に今回の事件に及んだ、という事らしい。
「なんか後味の悪い結末だね」
と僕は大森珈琲のカウンター席で汐入に呟く。
「そうだな。被害者には同情するが、完全な悪、完全な正義なんてないからな。それぞれに正義はあって、法的、道義的にどっちに寄り添えるかってのが結局のところ正義になるからな」
そうだね、と相槌を打つ。幸い、磯子百合の意識は戻り少しずつ回復しているらしい。
「ところで、聞いて欲しい話があるんだが、場所を変えて珈琲はいかが?」
と汐入はピクニックバッグをグイッと持ち上げ僕に見せる。
「今度は何に巻き込むつもりなんだ」
と、皮肉を込めて聞く。
「なっ、何を言っている!お礼だ。単なるお礼だよ!決して次のクライアントの話しなどしない!」
嘘が下手だなぁ、汐入は。またしても僕は暗澹たる気持ちになった。だが汐入と体験する謎解きは嫌いではない。
「やれやれだ。何処へなりともお供するよ」
(終わり)
短編をシリーズとして掲載しています。一話だけ読んでもわかる様に一話完結としています。シリーズを通じての大きな流れや人間関係が読み取りにくい点があるかもしれません。ご容赦下さい。