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コメディ以外でポイントが取れない作者の、別ジャンルの珠玉の爆死作品集

駆け込み乗車により死刑!!

作者: 伊藤 拓

――ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ



 会社員『鈴木直人』の朝は早……くはない。


 飲み会の翌日は、スヌーズ機能の三度目でようやく起きる。


 朝が弱く、ギリギリまで寝たいからだ。



「げぇぇぇっ、もうこんな時間!」



 鈴木直人は、慌てて起きて、顔を洗って、朝食の菓子パンを口に入れる。

 菓子パンを頬張りながら、スーツに着替え、自転車に乗り、目白駅を目指す。


 彼の仕事は、都心に展開する不動産チェーンの営業。

 まだ、入社3年目で、平凡な成績の彼の給与は低い。

 山手線で比較的家賃が低い『目白駅』に自転車で通えるアパートに住む。



「やばい、やばい。このままだと遅刻する!」



 彼は、昨日の会社の飲み会で、遅刻を上司に咎められたばかりであった。


 駅前の駐輪場に自転車を停め、走って改札を駆け抜ける。


 人混みをかき分け、階段を下り始めると、階下で電車から人が降りていくのが見えた。



(まだ間に合う!)


 

 発車メロディーが流れ、



「一番線、ドアが閉まります」



 朝の通勤ラッシュで、ぎゅうぎゅう詰めとなっている電車の扉が閉まる。


(クソォ、間に合わない。ここまで飛ばした意味がなくなる!)



 彼は、咄嗟に、持っていたカバンをドアに挟む。

 安物のカバンは少し潰れたが、ドアは再び開いた。


(ヨシッ!)


 直人は安堵して、電車に乗り込んだ。

 周りの冷たい視線が突き刺さるが、遅れて課長に怒鳴られるよりマシだと思うと大して気にならなかった。



「駆け込み乗車は大変危険ですので、おやめください!!」



 駅員の険しい声のアナウンスが聞こえる。

 そして、しばらく、扉が開いたままの状態が続いた。


(早く発車してくれ〜。間に合わなくなる! いや、自分が悪いのか……)



「安全確認をしております。しばらくお待ちください」



 ぎゅうぎゅう詰めとなった車内に、ため息と舌打ちが響く。


 3分ほど経った頃、ようやく発車メロディーが流れ、電車は出発した。



 勤め先がある上野駅まで、約20分。

 一息ついた彼は、周りに身を任せ、駅に着いた後のことを考えていた。


(走って、ギリギリか? でも、間に合っても朝礼で嫌味言われるんだろうなぁ)



 上野駅に着き、電車を降りる。

 人混みの中、早歩きを始めると、警官二人がこちらに向かってきた。

 体格の良い若い警官と強面の中年の警官だ。

 彼らは物凄い剣幕をし、直人めがけて歩いてくる。


(痴漢か何かあったのか?)


 と思っていると、いきなり若い警官が、すれ違いざまに直人の手首を掴む。そして、捻り上げて直人の腕を後ろへ回した。


「イテテテテッ、いきなり何するんですか!?」


 警官は、もう片方の腕も後ろに回すと、手錠を取り出し、ガチャッ、ガチャッと直人の両手首にはめた。


 もう片方の強面の中年の警官が腕時計を確認し、




「2028年1月13日、時刻8時50分! 鈴木直人、お前を『殺人容疑』で逮捕する!!!」




 彼にそう告げる。またも、周りの視線が直人に刺さる。


「えっ、僕が殺人!? えっ、えっ、何かの間違いでは!?」


 狼狽える直人に警官は凄んでみせ、


「間違いではない。鈴木直人、お前は25分前、目白駅で駆け込み乗車をやっただろ」


「駆け込み乗車? そういえば……あっ、はい……でも、殺人なんてやってません。仕事に遅れるんです! 早く離してください!」


「罪状認否で罪を認めたな。お前は、知らないのか? 4月から施行された『公序秩序維持法』を」


「公序秩序維持法?」


「お前が駆け込み乗車を犯したことで、当該電車は、3分42秒遅れて出発した。この山手線の電車は11両編成で、定員は1両当たり150人だ。そして、お前が駆け込み乗車をしたのは通勤ラッシュ時で、その混雑率は160%。

 つまり、


     『11両×150人×160%=2640人』


が、お前が乗った電車に乗っていた。そして、目白駅から上野駅までの入れ替え率が75%であり、


     『2640人×175%=4620人』


が、お前の駆け込み乗車の影響を受けたのだ。


 しかし、遅延はお前が乗っていた電車だけではない。山手線は環状線だ。そのため、山手線外回りを走るすべての電車は、運転間隔調整のために、同じ時間分、止まらなければならない。そして、通勤ラッシュ時に、山手線の外回りを走っているのは、計21編成。お前が乗っていた電車以外は、混雑率が170%であり、


     『11両×150人×170%×20編成=56,100人』


が乗っている。入れ替え率が100%であるため、


     『56,100人×200%=112,200人』


が、影響を受けている。つまり、山手線では、


     『4620人+112,200人=116,820人』


もの人々が、お前起因の遅延に巻き込まれたのだ! そして、3分42秒の遅延を引き起こしたお前は、



     『3分42秒×116,820人=300日3時間54分』



もの時間を山手線の乗客から奪ったのだ。

 しかも、その影響は、お前が乗っていた時間の20分だけではない。通勤ラッシュ時の遅延は、運送量の減少を意味する。一方、通勤するため電車を利用する人は変わらない。結果、混雑が発生する。この混雑は、さらなるトラブルや乗車時間の長期化をもたらす。お前も見たことがあるだろう。満員となった電車のドアを閉めるために、乗客や駅員が四苦八苦しているところを。

 遅延は通勤ラッシュが落ち着く10時まで続く。山手線の平均乗車時間が20分であるため、乗客の回転率は、8時50分から10時00分までの70分で、


     『70分/20分=3.5(回転率)』


となる。つまり、


     『(2640人+56100人)×3.5(回転率)=205,590人』


に影響を与えることになるのだ。そして、トラブルや乗車時間の長期化で遅延時間が25%増えると、その影響時間は、


     『3分42秒×125%×205,590人=660日7時間34分』


となり、先の結果と合わせると、乗客の遅延時間合計は、


     『300日3時間54分+660日7時間34分=960日11時間28分』


だ。しかもこれは山手線だけでだ。

 山手線は、中央線、埼京線などJR線だけではなく、地下鉄など各私鉄への接続にも重要な役割を果たしている。遅延はこれらの首都圏各鉄道網へ影響する。JR線への影響人数を山手線の3倍とすると、


     『(116,820人+205,590人)×3倍=967,230人』


もの人々が影響を受けたことになる。そして、遅延の影響度合いを40%とすると、


     『967,230人×3分42秒×40%=994日2時間20分』


となる。一方、各私鉄への影響人数を山手線の3.2倍とすると、


     『(116,820人+205,590人)×3.2倍=1,031,712人』


になり、遅延の影響度合いを25%とすると、


     『1,031,712人×3分42秒×25%=795日6時間40分』


となる。結果として、お前の駆け込み乗車は、首都圏の鉄道を利用している人々のうち、



     『116,820人+205,590人+967,230人+1,031,712人=2,321,352人』



もの人たちの、



     『300日3時間54分+660日7時間34分+994日2時間20分+795日6時間40分=7年193日20時間28分』



もの時間を奪ったのだ!


 そして、この時間は、『必要不可欠な時間』ではない。

 『必要不可欠な時間』というのは、生きていくのに必要不可欠な時間という意味だ。人は、人生の1/3を睡眠時間として過ごしている。また、食事、トイレ、そのほか、化粧や髭剃りなどの身だしなみ、入浴、歯磨きなども不可欠な時間である。そして、なによりも、働く時間や勉強する時間は、生きていく上で必要な時間である。結果、人生において自由になる時間は20%ほどだ。


 通勤ラッシュの遅延で、仕事の開始が遅れた人たちは残業を、学校に遅れた学生は追加学習をしなければならなず、自由時間が減る。つまり、お前が奪った時間は、人生で20%ほどしか費やせない貴重な自由時間だ。この自由時間に対し、人生の時間は5倍必要となる。このことを考えると、お前が奪った人生の年数は、



     『7年193日20時間28分×5倍=37年231日6時間20分』


だ!

 日本人の平均年齢は、47.7歳。そして、その平均寿命は84.1歳。平均余命で見ると36.4年。


 つまり、お前の駆け込み乗車は、平均的な日本人を一人以上殺しているのだ!!!


 よって、我々はお前を殺人容疑で逮捕した!」




 警官の力強い説明に対し、直人はポカンと理解できずにいた。

 そして、必死に声を振り絞り、半笑いで反論する。


「えっ……そ、そんな……あり得ないでしょ。たかが駆け込み乗車で殺人容疑なんて……」


「鈴木直人、お前、まだ、事の重大性を理解していないな。お前は、次の電車までの3分を惜しんだために、首都圏の電車の乗客から、1人以上の人生を奪ったのだぞ! たかが、お前の3分のためにだ! そして、それは、時間だけではない。仕事の開始が遅れる金銭的損失、混雑悪化による健康被害など社会的損失もある。いや、これは損失ではない。お前が奪ったものだ。つまり、お前は強盗殺人を犯したのと等しい。死刑もあり得るぞ!!」


「し、死刑!?!? ドッキリか何か? 冗談でしょ?」


「冗談と思うなら、そう思え。弁明は警察署で聞く」


 警察官は、力強く直人の腕を引っ張り、歩くように促した。


 周りは憐れみや怒り、蔑みの目を直人に向ける。


 一方、直人は放心状態で、上野警察署に連れて行かれた。




**




―――取り調べ室―――


 灰色のコンクリート壁に囲まれた取り調べ室。

 中央には無骨な金属製のテーブルが一つ。その両脇には、椅子が二脚、向かい合うように配置されていた。


 手錠をかけられた直人は、そのうちの一脚に座らされた。

 状況を未だ把握できていない直人は、座るや否や、手錠の付けられた手で、顔を覆った。


「なんで、僕が……こんなことで……」


 その小さな呟きを無視するかのように、強面の中年警官が尋問を始める。


「確認するが、お前は駆け込み乗車を行ったのだな!」


 直人はまだ混乱していた。

 時計の針が聞こえてきそうな長い沈黙。


 その沈黙に、警官がしびれを切らす。


「質問に答えろ!」


 気が強いほうではない直人は、


「……はい……でも……」


 と小さな声で答えた。


 社会正義に満ちた警官は、直人の罪の重さを認識していない態度に苛立った様子を隠さない。


「今回が初めてではないだろ。犯罪者が一発目で捕まるなんてほとんどないんだよ」


「で、でも……たかが駆け込み乗車ですよ」


「たかが、駆け込み乗車だとぉ!? ふざけるな!」


 警官は、机をバンッと力強く叩く。

 低姿勢で対応していた直人は、高圧的な警官に怒りを覚え、逆切れする。


「ちょっと駆け込み乗車しただけじゃないですか! しかも、バッグをはさんだだけで、3分以上遅延するなんて。きちんと整備していないのが問題なんじゃないんですか? いつもは大して遅れないのに」


「いつもは大して遅れないとだとぉ!? それはな。鉄道会社の人達が必死に間に合わせようとしているからだ。お前のような電車を遅らせる輩の尻拭いをしっかりしているからだ。過去には、運転手が遅れを取り戻そうと、速度オーバーし、悲惨な事故も発生している。お前が乗ろうとした電車がなぜ遅れたのか憶えているか?」


「えぇと……」


「安全確認だ。お前が無理やりドアにカバンをはさみ込み、安全確認させた。乗客輸送はなによりも安全であることが求められる。電車が遅れて、お前のような輩から文句を言われようとも、鉄道会社の人達は安全が最も重要だと理解している。しかし、まったく、反省の色がないな」


 その時、ドアが開き、若手の警官が資料を差し出す。


 強面の警官は書類に目を通し、納得したように頷いてから直人に目を向けた。


「お前、過去にも駆け込み乗車をしているな。お前は、『公序秩序維持法』が施行された4月以降、23回駆け込み乗車に失敗し、電車を遅らせている。資料によると、合計で0.48人分の人生を奪っている。今回のと合わせて、1.51人。四捨五入すりゃ2人になる。知ってるよな? 2人以上の強盗殺人はほとんどが死刑だということを。今回はどうなるかな」


「えっ……」


 警官は、パタンと資料を閉じると、冷ややかな口調で続ける。


「ま、ともかく今日はここまでだ。これから、お前を留置所に移す。そうだ、 お前、世界で最も利用者数が多い駅は知っているか?」


「えぇと……ロンドンですか?」


「違う。新宿駅だ。お前が止めた山手線にある新宿駅だ。一日に360万人もの人が利用する。二番目は?」


「……パリ?」


「渋谷だ。こちらも山手線にある。ちなみに3位も山手線にある駅『池袋』だ。そして、上位23位まで全て日本の駅だ。これはどういうことかわかるか?」


「日本の首都圏が過密だから……ですか?」


「違う! これだけの乗客を輸送できるのは日本の鉄道会社の人達が頑張っているからだ! そして、なによりも、利用者の多くの日本人が規律を守っているからだ。この世界でも稀有な輸送量を時間通りにこなせるのは、規律正しい日本人が一人一人周囲のことを考え、マナーを守り、利用しているからだ! この優れた鉄道網は鉄道会社職員とお客の双方の協力の上で成り立っている。

 一方、お前は身勝手にも、駆け込み乗車を行い、秩序を破った。世界に誇るこの日本の鉄道網の脚を引っ張り、汚したのだ! お前は、日本の恥晒しだ!」


 そう言い捨てると、警官は取り調べ室から出て行った。


 そして直人は、1月の寒さが骨身にしみる留置所に連行されたのだった。




**




―――面会室―――


 翌日。


「鈴木直人、面会者だ。面会室に来い」


 呼び出されて向かった先には、今にも泣きだしそうな母親の姿があった。


「直人、どうして駆け込み乗車なんかしたの。嘘だと言って! あれほど人様に迷惑を掛けることをするなと言ってきたのに……」


 母は目に涙を浮かべながら、声を震わせている。

 直人は視線を落とし、力なく謝った。


「……ごめん」


「よりにもよって、駆け込み乗車なんて……。もう、どう育て方を誤ったのか……。共働きで幼い頃は直人をずいぶん放っておいたし、そのせいで厳しいこともあまり言わなかった。今思うと、もっと厳しく躾けておけば良かった。そうしたら、こんなことには……」


「母さん……まさか、駆け込み乗車で死刑だなんて冗談だよね」


 母親はしばらく黙ったまま、涙目で直人を見つめていたが、やがて話題を変えるように言葉を切り出した。


「……ところで、何か欲しいものはある? 必要なものがあったら買ってきてあげるから」


 直人がいくつか頼みごとを伝えると、面会時間はあっという間に終わってしまった。

 母親はぎこちなく笑みを作り、扉の向こうへ消えていった。




 その日の午後、もう一人、直人に会いに来た人物がいた。


「……こずえちゃん」


 そこに座っていたのは、結婚を考えていた恋人だった。


「直人さん……」


 うつむいた彼女は、絞り出すように言葉を続ける。


「私……決めたの。駆け込み乗車をする人とは結婚できないって。直人さんは明るくて優しい人だと思ってた。駆け込み乗車するなんて、思いもしなかった。今日は……別れを言いにきたの……」


「えっ、ちょっと待って、こずえちゃん」


「この前もデートの待ち合わせに遅れてきたでしょ?」


「それは電車が遅れて……あっ!」


 彼女はかぶりを振り、涙をこらえるように続ける。


「そう。直人さんは電車の遅延の被害者だと思っていた。だから、遅れても仕方ないって許せた。でも、違った。あなたは駆け込み乗車をする人だった。あの遅れは、あなたのような人が起こしたものだった。もう……直人さんのことは愛せない……ごめんなさい」


 彼女はそう言うと、面会時間が終わる前に席を立ち、足早に去っていく。

 直人は面会室の机に突っ伏しながら、小さく呟いた。


「……そんな……」




**




―――裁判―――


 初日以降、警官の尋問はそっけなかった。

 まるで有罪が既に決まっているかのような態度で、取り調べの必要すらないと思われているようだった。

 そのためか、起訴から裁判までもわずか二カ月という、異例のスピード進行だった。


 『公序秩序維持法』により強盗殺人として逮捕・報道された直人は、会社からあっさり解雇されていた。


 貯金のない彼は、国選弁護士を頼りに法廷へと臨んだ。



 裁判では、まず証人尋問から始まった。


 一人目は、かつての会社の上司。彼は直人に早く来るように言った上司であり、厳しいながらも直人のことを気にかけていた。


 裁判官は、上司に問いかける。


「被告によると、あなたが『早く会社に来るよう』と度々注意していたそうですね。それが駆け込み乗車を誘発した可能性はありませんか?」


 直人は、庇ってくれることを少し期待したが、その淡い期待はもろくも崩れ去った。


「いえ。私は『早く来るように』とアドバイスしましたが、『急いで来い』なんて言った憶えはありません。彼自身の責任です。それに、私は『早起きしろ』と言っていました」


「いや、そんなこと聞いてない!」


 思わず直人が声を上げると、裁判官が厳しい口調で制止した。


「被告人、黙りなさい。他の社員にも同様の証言があります」


「うそだ……僕を切り捨てようとしている!」


「被告人、静粛に!」


 その言葉に、弁護士が目で合図を送り、直人は言葉を呑み込む。



 次の証人として呼ばれたのは、元恋人のこずえだった。

 彼女は直人を一瞥すらせず、証言を始める。


「鈴木直人は、デートの待ち合わせに何度も遅れてきました。彼は、明るくて、冗談もよく言う優しい人でした。彼のことが大好きで、結婚も考えていました。なので、当時は、彼の遅刻癖は気になりませんでした。でも、今は彼のことが許せません。そして、自分自身のことも許せません。あのとき、もっと強く遅刻を注意すべきでした。そうすれば、彼が殺人なんて犯さずに済んだのかもしれません。私が……私が……あんな男を愛したばかりに……注意していれば……」


 彼女は泣き崩れ、証言台にうずくまった。

 そんな彼女に、検察は優しく声をかける。


「こずえさん、あなたが責任を感じる必要はありません。悪いのは被告人だけです。彼は会社の上司が注意しても、遅刻癖を直さなかったのです。彼自身が、1.51人殺したのです」


 検察はそう言うと、こずえを支え、証言台から退かせた。



 次の裁判の日、検察はさらに厳しい追及を加える。


「被告人は、電車が遅れる恐れを知りながら、駆け込み乗車をした。違いますか?」


 直人は答えを探すように口を開く。


「……いえ、駆け込み乗車が間に合えば、電車は遅れることはないと思ってたんです。運が悪かっただけで……」


 すると検察は声を荒らげて問いただす。


「被告人。あなたは鞄をドアに挟みました。違いますか?」


「……はい」


「つまり、乗車に間に合わないとわかっていた上で、無理に乗ろうとしたんです。運が悪かったという話ではありません。意図的に電車を遅らせたのです。つまり、被告に殺意があったことを示すことになります。よって過失致死ではなく殺人罪に該当します。さらに被告は反省の色がない。厳罰に処すべきです!」



 こうして裁判が進み、やがて判決の日を迎えた。


 裁判官が判決を読み始める。


「主文後回し」


 直人はその言葉にうなだれる。


「被告人・鈴木直人は、2028年1月13日に駆け込み乗車を行い、首都圏鉄道乗客よりおよそ1.03人を殺害し、多大な損失を社会にもたらした。また、『公序秩序維持法』の施行の4月より、23回駆け込み乗車失敗による電車遅延をもたらし、計0.48人を殺害。『公序秩序維持法』の施行以前から駆け込み乗車の常習犯と見られ、過去にも多くの殺人を行っているものと推測される。また、遅刻癖について、周囲の助言にも耳を傾けず反省の兆しがまったく見られない。よって……被告人を死刑に処する」


 直人は放心状態になり、拘置所に連れて行かれた。


 その後、控訴は棄却され、死刑が確定した。




**




―――死刑囚として―――


 日本では、死刑が確定してから実際の執行まで、ある程度の期間がある。

 しかし、直人は当初、その「猶予」を深刻に捉えていなかった。裁判で死刑が言い渡されても、最初の一年ほどは現実感がなく、さほど強い恐怖はなかったのだ。


 だが、時間が経つにつれ、少しずつ死への恐怖が膨らんでいく。

 とりわけ拘置所での「何もすることがない」時間は、その不安を増幅させるだけだった。


 耐えきれなくなった直人は、ある日「何でもいいから働かせてほしい」と看守に直訴する。



 彼は凶悪犯というわけではなく、普段から真面目に規則を守っていたため、看守達の評価も悪くはなかった。

 そうして死刑囚となってから五年が過ぎた頃、直人は比較的負担の軽い印刷の仕事を任されるようになる。




 そんなある日、直人は印刷物に目を留めて思わず息を飲んだ。


 目に飛び込んできたのは、区民報の写真。そこには、元恋人のこずえが幼い子どもと楽しそうに遊んでいる姿が写っていた。


「もし、あのとき駆け込み乗車なんてしなければ……今頃、彼女と結婚して子供が生まれて、当たり前のように幸せに暮らしてたはずなのに。なのに、なんで、俺はこんなところに……」


 見つめていた印刷物に、ぽたりと涙が落ちる。


「家に帰れば、三歳になった娘が玄関で出迎えて……。妻が用意してくれた夕飯を家族で食べる……そんな当たり前の幸せ、もう二度と手に入らない。ああ……ああああ……あぁっ」


「おい、大丈夫か?」


 異変に気づいた看守が声をかけると、直人は震えながら言葉を吐き出した。


「そうだ……僕が奪ったんだ、この幸せを。鉄道を利用していたみんなの時間を勝手に奪って、結局は自分の未来まで壊して……なんて僕は馬鹿なことをしたんだ。たかが、上司に怒られたくないばかりに。たかが、3分余分に眠るために。たかが、自分の3分のために……馬鹿だった……本当に馬鹿だった……」


 その日以来、直人は心からの反省とともに懸命に仕事に打ち込み、空いた時間には執筆活動で得た収益をすべて寄付するようになった。

 せめて社会に償いを──そう考えながら、迫りくる死を静かに受け入れようとしていたのである。




**




―――報い―――


 直人は死刑囚として収監されてからも誠実に償いを続け、その姿勢が評価されたのか、長らく執行されることはなかった。


 そして彼が奪ってしまった相当する時間、55年が過ぎた、ちょうどその頃――驚くべきことに、恩赦が下り、直人は釈放されることとなった。


 時は流れ、直人はすでに77歳になっていた。


 両親はすでに他界し、兄弟や親戚からも見放された彼は、一人、自立支援センターでの生活を始める。両親の墓へ手を合わせたいと思っても、親戚に拒絶されると知り、諦めざるを得なかった。


 出所後、特に行き場もやることもなかった直人は、平日には働いて寄付金を稼ぎ、休日は一人で散歩をする日々を送る。


 ある日の午後、いつものように公園のベンチで休んでいると、彼はふと見覚えのある顔を見つけた。

 白髪が目立ち、深い皺の刻まれたその女性は、かつての恋人・こずえだった。孫らしき子どもたちに囲まれ、柔らかな笑みを浮かべている。


「覚悟はしていたが……つらい。彼女を見るのが……彼女の歩んできた人生を、こうして目の当たりにするのが……もし、もし許してもらえるなら、もう一度人生をやり直したい。あのときの自分に戻って……」


 直人は目を伏せ、震える声で繰り返す。


「もう一度……もう一度だけ……」




**




――ピピピピッ、ピピピピッ



「ハッ!!」



 彼は、目覚めると、真っ先に顔を洗いに行った。


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