40 茶嶋千代子(前編)
──摩訶不思議なるダンジョンを歩みながらわたくしが思い出すのは二月前のこと。
心を沸き立たせる非日常へと足を踏み入れた、最初の日のことです。
わたくしとお婆様、二人だけの茶室では淡く色づく寒梅が微かな香りを漂わせていました。
左手に乗せた茶碗を傾けると、仄かな甘みを含んだ薄茶が静かに喉を落ちて行きます。
「大変結構で御座います」
薄茶を飲み終えたわたくしは、楽焼の茶碗の飲み口を右手で清めました。
その右手も懐紙で清め、茶碗を回して畳の上にそっと置きます。
「……良いでしょう、千代子さん。一人暮らしを始めたからと作法を疎かにしてはいないようですね」
「恐縮です」
正面に座るお婆様に軽く頭を下げました。
「ですが、くれぐれも忘れてはなりませんよ。貴方の一挙手一投足が茶嶋の家の評価となるのです。学業だけでなく──」
大学一年生の冬。
新年を迎えるため里帰りさせられたわたくしは、離れの茶室で心の底から思いました。
(嗚呼、早く戻って配信が見たいです)
と。
無作法を見咎められないよう細心の注意を払って退席したわたくしは、自室への道を急ぎました。
もちろんここでも走ったりはいたしません。そそくさではなく楚々として早歩きを行います。
「これは千代子お嬢様、おかえりなさいませ」
「ええ、しばらくお世話になるわ」
女中の方々に挨拶を返すこと数回、部屋に辿り着いたわたくしは急いでノートパソコンを立ち上げ動画サイトにアクセスします。
「ふう、間に合ったようね」
表示されたのは配信待機画面。少しして画面が切り替わり可愛らしい声が響きました。
『待たせたのう地表を這う虫けら共よ。今日も実況始めて行くぞ』
画面の中に現れたのは、宇宙のような背景に浮かぶバーチャルキャラクター──俗に言うVtuberです。
緩く巻かれた長髪は夕焼けを鎔かし込んだようなオレンジ。深い海に似た紺碧の瞳には歳に見合わない理知の光が浮かんでいます。
歳に見合わない、と言っても外見年齢の話ですが。
童女然とした見た目の彼女はなんと四十六億歳(という設定)なのです。
ネットに舞い降りた地球の化身、というキャラクターで売っていて、雲や植物などの自然物モチーフのアクセサリーで全身を飾っています。
名前は此乃星アースちゃん。
まるでウィキペディアを見ながら喋っているかのような──言うまでもなく比喩です。検索にも時間は掛かりますし現実的には不可能です──博識さで知名度を得つつある新進気鋭のVtuberです。
けれど、わたくしが最も好んでいる要素は他にございます。
『今日はこのランク五ダンジョンをランク一縛りで攻略して行くぞ。無論、クリアできるまで耐久じゃ』
「うふふ、相変わらず無茶な企画をされますわね」
アースちゃんがプレイしているのはダンジョンクエスト、通称ダンクエというアプリゲームです。
単純にハマっているのか、企業の方から『案件』が来ているのか……と、これは下衆の勘繰りですね。
とにかく、このゲームは彼女の配信にたびたび登場しておりまして、それでわたくしもついつい影響され始めてみたのです。
するとどうしたことでしょう、優れた操作感やシンプルながら奥深いゲーム性にすっかり虜となってしまいました。
モンスター達の範囲攻撃に悲鳴を上げて撃沈するアースちゃんを見ながら、鞄からスマホを取り出します。
わたくしも適当なダンジョンで周回を……と、ダンクエのアイコンに触れたその時、浮遊感に襲われました。
「……あら?」
気付けばわたくしは草原に居りました。
着物は何処かへ消え、紺色のコンバットスーツに変わっています。
実況配信の音はどこにもなく、風で草の擦れる音だけ聞こえていました。
「ダンジョンクエストの世界へようこそにゃん!」」
「!?」
突如、聞こえて来た声に肩を跳ねさせます。
「あ、貴方は……?」
「ニャビの名前はニャビって言うにゃん。よろしくにゃん茶嶋千代子」
半透明な猫のデフォルメキャラクターがわたくしの名を呼びました。
気になることは数え切れない程ありましたが、わたくしは第一にこう訊ねました。
「ダンジョンクエストの世界……そうおっしゃいましたか? それは一体どういう……」
「言葉の通りにゃん。君にはダンジョンに入ってモンスターと戦う権利が与えられたにゃん」
「ではこの草原もダンジョンなのでしょうか?」
「広義ではダンジョンになるにゃん。チュートリアル用だから危険はないけどにゃん」
チュートリアルダンジョン。言われてみれば、ここはアプリ版ダンクエで最初に受けるチュートリアルのステージに酷似しております。
「リアルのダンジョンにはもちろん危険が多いにゃん。チュートリアルでも怪我をすることはあるにゃん。参加するかはよく考えて欲しいにゃん」
「……いえ、やりますわ」
『石橋は走って渡れ』が茶嶋家の家訓。興味を惹かれるものあらば、脇目も振らず突っ走るのみです。
異様に過ぎる状況であっても……いえ、このような常識の通用しない状況であるからこそ、思考をただ前方にのみ集中させます。
「分かったにゃん。それなら自分の内側に意識を向けるにゃん。それで千代子に芽生えた先天スキルが分かるにゃん」
「先天スキルですか……?」
アプリ版にはなかった要素です。
仰せの通りにしてみれば、意識の中に情報が浮かび上がって参りました。
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〇先天スキル
【チャージランページ】 Lank1.00
効果:突進にプラス補正。
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思わず二度見するくらいに簡素な説明ですが、さらに集中してみると仔細な挙動や強化幅などが理解できました。
成程、成程……。
「確認出来たら初期スキルを選んで欲しいにゃん」
「あら、こちらはアプリと同じなのですね。でしたらわたくしは<魔刃>に致しますわ」
その後、何度か素振りをして使用感を確かめチュートリアルバトルに臨みます。
現れたのは動く鎧……ダンクエではリビングアーマーと呼ばれるモンスターです。
しかし鎧の材質は鉄ではなく樹木。作られて間もないのか染みのないベージュ色をしておりました。
「こういうタイプの魔物は心臓部のコアを壊せば勝てるにゃん! ファイトにゃん!」
「承知いたしました」
木製リビングアーマーへ向かって間合いを測りながら送り足でにじり寄って行きます。
木の剣と盾を構えた木製リビングアーマーも警戒しながら近づいて来ました。
先程<魔刃>を試した感覚では、リーチはあちらの方が半歩分ほど勝っています。
多少は心得のある薙刀があれば良かったのですが……贅沢を言ってはいけませんね。
「ギギゴゴ!」
「まあ」
残り数歩というところで木製リビングアーマーが勝負を掛けて来ました。
一気に間合いを駆け抜け大上段からの振り下ろし。それをわたくしは後ろに退いて躱しました。
木製リビングアーマーは休むことなく連続攻撃を仕掛けてきましたが、わたくしは間合いを見極めつつ後ろへ後ろへと逃れます。
そうしているうちに段々と相手の特徴も掴めて来ます。
このモンスターは踏み込み、及び斬撃は鋭いですが移動は鈍重。
盾があるのが厄介ですが……これなら何とかなりそうです。
「ギガァッ」
「ここですね、【チャージランページ】!」
横薙ぎを避けた直後、利き足で土を蹴り一転攻勢を仕掛けます。
先天スキルの補助もあって弾かれたように飛び出したわたくしは、あっという間に剣の間合いを抜け至近距離へ。
「せいっ」
「ギゴッ?」
そして勢いのままにタックル。咄嗟に出された盾に打たれながらも、木製故に比較的軽い敵を押し倒します。
こうなってしまえばこっちのもの。木剣は充分な威力を発揮できず、盾はわたくしの片腕で止められます。
「<魔刃>です」
盾を押さえつけるのとは反対の手に【魔力】の刃を出現させ、それを胸部へと突き立てました。
【魔力】の刃は驚くべき切れ味で木製の鎧を切り裂き、コアを破壊します。
……これほど切れ味があるなら最初から木剣や木盾を斬っても良かったかもしれませんわね。
「……ふふ」
ふと、笑いが込み上げてきました。
きっと、このモンスターは大した強さではなかったのだと思います。
チュートリアルと言うくらいですし、動きも単調かつ大振りで、然して武道の経験のないわたくしでも簡単に倒すことが出来ました。
「くふふふふ……っ」
ですがこの時わたくしは、これまでにないほど胸を躍らせていました。
未知の現象への警戒も疑念も頭の片隅へと追いやり、モンスターを討った喜悦のみが横溢しておりました。
「クリアおめでとうにゃん! どうにゃん? ダンジョンクエストをこれからもやってくれるにゃん?」
「ええ、この茶嶋千代子、全身全霊でダンジョンに挑みますわ」
この現実に存在するダンジョンクエストを一心不乱に冒険し尽くしてしまおう。
わたくしはそう心に誓ったのでした。




