第1話 鴉金屋の娘、福宮アヤコ
小学校の入学式を終えた夜、ママが私の頭をずっと撫でていたのは、今でもはっきり覚えている。
「アヤコちゃん、ママはずっと側にいるからね」
ママの身体がぼんやりと青く光って見えた気がしたが、優しい声は眠りかけた私の耳の奥までしみ込んでいた。
その翌日、ママは消え、おじいちゃんとパパと私の三人暮らしが始まった。ママの失踪がもとで、大正生まれで気が強くて短気なおじいちゃんと、昼から日本酒を飲んで酔っぱらってばかりいるパパが、しょっちゅう喧嘩をしているのが嫌で、嫌で、本当に嫌でたまらなかった。
ママの失踪について「トワコが浮気していた」「不倫だ」「慰謝料を欲しいのはこっちだ」「子どもを捨てるなんて母親失格だ」とか、パパとおじいちゃんの会話でそんな言葉が飛び交った。言葉の意味はわからないけれど、それらが悪い言葉なんだと薄々気づいていた。そして私は捨てられた子なんだと知り心が暗くなった。
ママが失踪して半年も経たないうちにパパも家を出ていってしまった。「せいせいしたよ」とおじいちゃんの言葉に、私はなんともないフリ、絶対に感情を見せないフリをしていた。私ってまた、捨てられたんだなと空を見上げたことを覚えている。
気づけば小学六年生になった。
その頃になると少しずつ周りの状況を理解しはじめてきた。うちの家業は特殊だ。おじいちゃんは会社を経営しているが普通の会社ではない。東京浅草の鳥越神社の裏にある小さな会社で、会社の名前は鳥越商事有限会社。今では鳥越商事有限会社だが、やっていることはお金を借りたい人がやってきて、保証人もないまま、いくらかのお金を借りたら翌日に利息をつけてお金を返すという鴉金屋だ。江戸時代の頃は前の日にお金を借りたら、翌日の夕方にカラスがカアカア鳴く頃に高い利息で返すから鴉金屋と呼んだそうだ。その当時のお客は「あさり~、しじみぃ~」と棒手振りする商人たちで、今は工事現場で働く日雇い労働者や町工場の社長だったりと変わったそうだ。
ともあれ私はここで生まれ、ここで育っている。この辺りの会社やお店はだいたい同じ作りになっている。うちも一階が会社、二階が家族の住む家だった。社長のおじいちゃんを頭として従業員も4名いる。 みんな近くのアパートに住んでいたが、夜になると二階のうちのテーブルで顔を突き合わせて晩ご飯を食べた。商事会社の従業員といってもカタギのサラリーマン風ではない。元相撲取りで痛風で引退して「足が痛ぇよ」が口癖のセキトリさん、元大工で片腕が不自由で口の悪いトビさん、元暴力団上がりで小指がなく喧嘩っ早いジンギさん、そして短髪にサングラスをかけ、いつも白い上下のスーツに黒いシャツで赤いネクタイをキリッと締めた男前のマサさんという若い男衆が従業員だった。
若い男衆のみんなは私が物心つく前から、鳥越商事で働いていたそうだが、マサさんだけは私が小学一年生の時にやってきた人だった。マサさんは細身で背が高く、きりっとした顔立ちで、みんなから「マサ兄ぃ」と呼ばれていた。本名はわからない。おじいちゃんいわく、「マサは腕っこきの取りたて屋」なんだそうだ。世間では後ろめたいとされている金貸屋だけれど、おじいちゃんは「うちがあるから、みんな生活できるんだ。いいか、アヤコ、胸を張れ」と言われていた。
「胸を張れ」と言われても、私は小学校一年生の時から六年生になるまで、学校の中ではずっと「金貸し屋の娘」「あくどいカラスガネヤ」と陰口を叩かれたりシカトされたりし続けた。この程度のイジメで済んだのは、マサ兄ぃと若い男衆の方々が、私の学校のある日は必ず白いベンツで「お嬢、お迎えに参りました」と朝夕送迎してくれたからだ。