命名
小南葡萄です。名前ってその人の代名詞になるので慎重に選ばないといけませんよね。ちなみに私は適当です。
コーヒーカップを摘んで、口元で少し息をかけ冷まし、匂いを飛ばしてから、唇につけると熱がすぐに伝わり、いつも入れてるコーヒーより熱いことがすぐわかった。飲めないまま、苦味のあるいい匂いだけが、鼻に押し寄せてくる。諦めずにちょぴっとだけ飲んで、熱さとほんの少しの苦味だけが、舌に伝わり、冷め切る前にすぐに喉の方へと流れていってしまった。ごくっ。だめだ、まだ冷まさないと味がわからない。
「ありがとう」
コーヒーカップを置かずに、ふっとBに教えられた言葉が出た。
とてもいい響きで、Bが嫌な顔をしないので気に入っている。
多分今日は特別な日で、Bと色々話せるのかもしれない。
「なんでここきたかったの」
「わかんない。とりあえずお前ときてみたかったんだよね」
やっぱり今日は変な日だ。僕の質問なんて今まで答えてくれなかったのに、フラットに、Bはそっけなく僕が理由だと答えた。みたこともない光景を見て思わず口が開いてしまう。
Bは続けるように
「そういやお前はさ、名前なんなの」
一番困る質問が来た。名前、か。思わず下を向いてしまう。風が俺の背中を押してくる。髪も呼応するように、顔の前まで迫ってきた。摘んでいたコーヒーカップをコトっと置く。
名前。名前。俺も一番知りたくて、わかっていないことだ。両親から名付けられたはずだが、どれだけ思い出そうとしても、自分の名前も、ましてや両親なんて一切覚えていない。とりあえず、話を流そう。
「今?」
「そう、聞けてなかったんだよね、聞く理由もなかったし」
「理由できたの?」
「カフェはおしゃべりするところだよ?」
完全にBのペースだ。フラットに話せる日が今日だけなら、こっちも色々聞いておきたい。
「わからない」
「わかんないの?まあそうか。じゃあお前は今日からAね」
何それ。
「嫌」
「そう?AとB、かっこよくない?」
人差し指を俺に指した後に、曲線をなぞるように自身のドヤ顔を指した。
「かっこよくない」
「そう」
俺が思ったことを言っても怒ることはなかった。ただBは俺がそっけない返事をすると、真顔で、なんなら少し不機嫌そうな顔で、俺と目を合わせるのをやめて、景色の方をを見始めた。
きっとそっけない返事しかしない僕に、つまらなくなったに違いない。俺もトレースするように、Bが見ている景色を眺め始める。
人は赤になったら止まり、青になったら動く。僕とBと同じように、みんなで決めたルールがあるのかもしれない。でも全員が守っているわけでもない。教えてもらえない人もいるのかもしれない。
「わかった。ゼブラだ」
自慢げに俺の顔をまた指さして、にやりと笑って見せた。何ゼブラって。全く意味がわからない。
「何それ」
「教えない。嫌って言われるのもうざかったから、ゼブラで決定ね。私命名なんて初めてだわー」
僕も初めて命名されて、初めて名前ができた。そしてこんな清潔感のないやつに決められた。しかもさっきの対応はやっぱりうざかったんだ。やることやったみたいな達成感のある顔をしながら、Bはま僕にまた興味をなくして、景色を眺めながら、紅茶を啜り始める。もしかして今日はこのために?
青信号がチカチカして、赤信号に変わる。人が止まって、時間だけが流れている。
証拠に、コーヒーが少し冷めていた。
コーヒーはすごく繊細だ。一度だけ、Bに内緒でちょっといいインスタントコーヒーを買ったことがある。一度淹れてから、一分一分と経つうちに顔は変わっていないのに、味はとても変わっている。俺は、冷めた頃の酸味が強いコーヒーがまるで自分のようででとても好きだ。レモンのような甘さがあるわけでもなく、鉄のような酷い舌触りでもない。ただそっと、コーヒーが僕の舌を舐めてくる。その優しい酸っぱさが、私の一日に終わりを告げてくれる。
「もう行こう」
俺がコーヒーをやっと楽しめると思って口に運んだ瞬間に、カップを置く音がした。Bの方を見ると、もう立ち上がっている。飲み終わったのか、僕に帰宅の合図をしてきのだ。おそらく、俺がさっきいろいろ考えている間に、グビグビ飲んでいたのだろう。
俺はまだ飲み終えていないのに、最高の瞬間を置いていったまま、またBについていった。
Bが向かって行ったのはいつも行っているスーパーだった。Bは、スーパーの自動ドアを手で押し込みながらずんずん入っていく。他の客が立ち止まり、みんなBに当たらないように少し避けていった。その後、お前がなんとかしろよと言わんばかりの視線をみんなが俺にぶつけてくる。俺は制御できる立場じゃない。と、睨み返してBについていった。
Bはおそらくビールを買うつもりだ。
記憶しているのか、ずかずかと酒売り場に向かい、ビールをすぐに手に取って、減速しないままレジに並んだ。bが右足をイライラさせながらレジを待つ。そんなに紅茶が美味しくなかったのか。
レジについてから、Bはポッケに手を突っ込んで財布を探し始めた。待っている間に探せばよかったのに。探してるうちに金額が表示され、Bを待つ時間になった。だんだん人が並んでいく、ビール一本にどんだけ時間かけてんだ。指図するのは怒られるので、オレはただひたすらに待つために、ぼーっと遠くを眺めていた。
「えー、ないなあ。ジブラ、持ってる?」
いたっ、頭を叩かれた。こっちは待ってるだけなのに、よく見るとBはほとんどキレていた。唾を飲み込む。
「何?」
「財布!」
刺すような大きな声が、スーパー内にこだました。おそらく俺以外にもBのことを見ていて、完全に変な奴がスーパーに入ったというイベントになっているだろう。
財布…そういえば、俺は昨日コーヒーを買い損ねている。財布の中の小銭入れを確認したら、足りる量の小銭が入っていた。それで急いでお会計をし終えると、Bはぶんっとビールを手に取り
「おっそいんだよグズが」
とまた視線を浴びるようなことを言って、堂々と出口に向かって歩いていく。対面から走ってきた子供にぶつかり、子供は吹っ飛ぶ勢いで倒れて泣き始めたが、Bは少し子供を見たあと、すぐにまた歩き始めた。
それを見てまたみんながBを見たが、すぐに各々の世界へと戻っていった。子供が倒れていても、歩く狂気に誰も関わりたくないというばかりに、各々の世界に戻っていく。
一人の店員さんと、多分、お母さんと思われる人が心配そうに駆けつけてきて、
「ボク、大丈夫?」
「走っちゃダメって言ったでしょもう!」
店員さんは天使のような優しさで、お母さんらしき人は自分の子供というのに泣いている子供に怒っている。そうやって怒るのも一つの心配なら、俺もBに心配されてる日があるのだろうか。
「あの…他にお客様がいらっしゃいますので、少し進んでいただけると助かります…」
恐る恐るレジをしてくれた店員さんが、手のひらで俺に出口を指す。そうか、俺は一切動いていない。
気まずい。出口には、Bのせいで泣いている子供と、怒る母親と、子供の頭を撫でる店員。
出口の方を見ると、Bが外でビールを飲んで待っているのが見えた。頭を冷やしているのか。ビールを飲んでいるせいで説得力がない。
Bをまたせていると思い、つったていた体を動かし、俺は出口に向かう。
無意識に、泣いてる子供をチラッと見てからを横切ろうとすると、足音に反応したのか、店員さんが、俺と目を合わせた。
背の小さい、ショートの店員さん。
彼女は俺が気づいたのに少し目を見開いた後、少し睨むような、冷ややかな目で俺を見て、俺が目をそらす前に子供の方に顔を戻した。こんなひどいやつのツレなのだと、今までの少し暖かった感情が、オセロのように反転した気がした。
罪悪感を持ち帰って、出口の自動ドアから出て、Bの前に立つ。俺はBに対抗の目を向けて、感情に任せて、何考えてんの。
って言いたかったけど、イライラしながら見下している目で見られると、感情でも負けてしまった。
「行くよ」
俺が下を向いてしまった瞬間に、トットットットッ、と早足でBは先に行ってしまう。Bから離れたら、俺は多分生きられない。どうしても今は、最悪なBについていくしかなった。
Bは溶ける夕陽をつまみにビールを飲んで、僕は下しか向けず、彼女の影を踏む。
僕の帰る道にBがいる。そんな違和感と最悪な気持ちを噛み締めながら、次は意識的に、少し怒りを持ってBの影を踏んで歩いた。
なんなら葡萄アレルギーです。