表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
麗しの歌声は、砂漠を潤す  作者: 水花光里
8/15

ガナムの姫君

ナハル浮気はいけませんよ!

          ガナムの姫君


 グリームに長居は無用なので、その日のうちにメリドへ向けて出発することにした。

「ガナー、メリドに付いたら、ゆっくり、休ませてあげられるから、少し、辛いだろうけどがんばって」

「大丈夫。辛いのは、あなたも同じでしょう」

「ナハルが辛いものか。ぴんぴんしている。今すぐ、山賊と遣り合えと言ったって、さっさと片してしまう」

 ガナーをはさんだ、左側から、マハムドが、口を挟む。

「それは、ほめ言葉として取っておこう」

 右側のナハルが、無表情な顔で言う。

「別に、ほめてはいない」


 むっつりと、マハムドが言う。三人の様子を見ながら、アインは、秘かに悩む。

 先ほどの二人の様子は、一切他の者を寄せ付けない雰囲気があった。

 ガナー様は、ナハル様にしがみ付いてナハル様以外見ていないし、ナハル様は、しっかり腕の中に護って、自分以外は寄せ付けないと言う感じだった。

 もし、あの場で、マハムド様が、ガナー様を引き取るとおっしゃっても、渡さなかったかもしれない。

 二人の間に信頼と言う強い絆があるように思えた。

 それが、何故ナハル様なのだろう? とアインは腑に落ちない。

 本来なら、生まれた時から側にいらっしゃるマハムド様であるべきなのに。 

 マハムド様も、二人の様子に口を挟めず、見て見ぬ降りをしていらっしゃった。


 ナハル様が、ガナー様を放したのは、旅の支度が整って、出発する時になってガナー様が、一人で馬に乗るとおっしゃってからだった。

 それでも、そばにならんで付き添うようにしながら、ガナー様の様子を気遣っていらっしゃる。

 少しでもガナー様の様子がおかしければ、直ぐにも、自分の馬にガナー様を引き取ってしまいそうな様子だ。


 月灯りを頼りに、夜通し馬を走らせ、夜明けころに、メリドの国境に入ったところで、小休憩をとった。

 アインは、足の手当てをすることが出来なくて心配だった。

 乱暴に扱ったら、折れてしまいそうなのに、どんな扱いを受けたのかもわからず確認することも出来ない。

 しかし、二人の様子は、誰も近づけない雰囲気があって、アインはただ見守っていた。


 何時ものように、ナハルが、ガナーを馬から降ろす。

 ガナーは、だいぶ落ち着いたようだった。 

 怖い思いをしたようだったが、ガナーの心が壊れてしまうほどの事はされなかったらしいと胸をなでおろす。


 このごろ、ガナーは最初のころのように無邪気にしがみ付かなくなった。遠慮がちに、彼の肩に手を乗せる。

 それが、かえって意識されていると思うと、不思議と鼓動が高鳴る。

 でも、最初のころのようにしがみ付いてほしいとも思う。

 もっと、ガナーに触れたいし、触れてほしい。強く抱きしめて、ガナーの甘い香りのする髪に顔をうずめたい。

 そんな未練の気持ちをこらえつつ、残して、そっとガナーを地面に降ろした。



 ガナーを抱き上げ、アインが用意した敷物の上に座らせ隣に座る。

「ありがとう」

 そう微笑むガナーの笑顔は、何時もと変わらないように思えた。心の底から安心する。 

 この笑顔が失われたらと思うと、生きた心地がしなかった。

 ガナーを愛している。

 何者からも自分の手で護りたい。

 溢れてしまいそうな気持ちを必死にこらえた。


 ガナーには、マハムドと言う婚約者がいる。

 自分の気持ちは横恋慕でしかない。

 ガナーを困らせたくないから、改めて思い知らされる気持ちを、今は、胸の奥にしまっておくしかない。


 それでも、ガナーの側を離れられない。

「ガナー、疲れただろう? 此処までくれば心配ない。食事をしたら、少し休んだ方が良いよ。何なら、僕の膝枕を提供するけど」

 期待半分に言ってみる。ガナーは、一瞬嬉しそうに頷きかけたように見えたが、さすがにマハムドが、反対側から割ってはいる。

「必要ない。ガナーには、アインが仮の寝床を作っている。君も、その辺に転がって休め。番は、私がしてやる」

「それなら、僕もガナーの隣で休む」

「残念ながら、寝床は一人用だ」

「別にかまわないよ」

「ダメだ!」

「ねえ、ナハル、其処のチーズを取ってくださらない」

 ガナーを挟んで、二人が険悪ムードなのもかまわず、ガナーは、食事を始めている。

 宿屋の主が、用意してくれた山ほどの料理をおいしそうに口に運んでいる。

「え、あ、これ?」

「ありがとう。ホッとしたら、お腹空いてきちゃった」

「……」


 マハムドは、何時もながら、ガナーのマイペースには叶わない。

「あははは、僕も食べよう。君と一緒だと食が進むんだ」

 ナハルも、食事に手を伸ばす。マハムドもつられてガバブを口に入れる。確かに、ガナーと食事をすると、何でも旨い気がする。


 食事の後、ガナーは、柔らかい草を重ねた上に毛布に包まって休んだ。

 結局ガナーを真ん中にを挟んで、ナハルはマントに包まって、仮眠を取る。

 マハムドは反対側で腕を組んで座り込んだ。

「ガナーから一メートル以上離れろ」

「ブルカをつけたまま、毛布に包まったガナーは、寝顔さえ見えないよ」

「寝ぼけて触ったら、腕を切り落としてやる。起きたら腕がなくなっていても恨むな」

「忠告をどうも。どうせやるなら、起きている時にするよ。寝ぼけてなんて、記憶も無いのに腕をなくしたんじゃ、割に合わないからね」

「そういう意味じゃない」


 ガナーは、二人が両脇で言い合っているのにも関わらず、既に安らかな寝息を立てている。

 アインは、遠慮がちに声を掛けた。

「ナハル様、先触れとして、ガナムの領主の館に、先ほどお預かりした手紙をお届けに参ります」

「すまないね。頼むよ」

「はい。マハムド様、失礼します」

「ああ、ガナーのことは、心配ない。気をつけて行きなさい」

「はい」


 小休憩を取った後、グリームから、最短の距離を取る為に、湖のほとりを進んでいた。

 ガナーは、湖が気に成っていた。あの時のように、ざわざわと湖がざわつている。

 まだ日暮れ前ではあるが、ジナーフを飲み込んだ時のように、湖が盛り上がってくるのではないかと、気が気ではなかった。

 心なしか、感覚のないはずの右足がうずく気がした。


 辺りは、そろそろ、夕暮れ時に近づいている。

「ナハル。湖が、ざわついているような気がするわ」

 彼は、あせっているのか解らない相変わらずの無表情だが、湖の異変には、気づいていたらしい。

「うん、そうだね。この分だと、かなりの増水が来るかもしれない。マハムド、湖から離れよう。増水が始まってからでは、巻き込まれる」

 巻き込まれるの言葉に、ぞっとして震える。三人とも湖に引き込まれてしまうかもしれない。

「大丈夫だよ、ガナー、早い時間に増水が起こるときは、増水だけで、あの時みたいに引き込んだりすることはない。水から離れていれば問題ない」

 ガナーは、青ざめた顔で、気丈に頷いた。

「ナハル、湖の増水は、そんなに急に来るの?」

「ガナー、水の流れは、人の足や動物よりもずっと早い」


 ナハルに先導されて、馬を走らせていると、背後が暗くなったような気がした。

 思わず振り返ると、湖の真ん中が、真っ黒に盛り上がっていた。

「ナハル、湖が!」

 ガナーが、悲鳴に近い声を上げると、彼も、振り返る。

「しまった、思ったより早いな」

「その丘へ、駆け上がれ!」


 ナハルは、高台を目指して進んでいたらしく、目の前に見えていた小高い丘に、ガナーの馬の手綱を掴んで急いで馬を走らせる。

 湖から、だいぶ離れていたのに、あっという間に押し寄せる水は、もう少しで彼らを飲み込もうかという勢いだった。

 マハムドが遅れて、ひやひやした。水に襲い掛かられるのではないかとガナーは、悲鳴に近い声を上げた。

「マハムド! 早く逃げて!」

 危機一髪、馬の足を水に取られながらも、丘に駆け上がった。

 幸い、普通の水だったようで、マハムドと馬を水に引き込むことはなかった。

 しかし、丘を取り巻いた水に、取り囲まれてしまっていた。

 ガナーは、真っ青になって、ナハルにしがみ付く。

 ナハルは、なだめるように、ガナーを抱きしめる。


「又、湖が盛り上がっているぞ!」

 マハムドが、声をあげる。

「もう一度来たら、この丘も水の中に呑み込まれてしまうかもしれないわ」

「出来るだけ、高い所に」

 ナハルの指示で、三人、丘のてっぺんに集まって湖を見つめる。

 湖の中心で盛り上がった水は、ゴゴーッと、大きな音をさせて迫ってくる。呑み込まれるかという勢いだ。

 そうして、水は、馬の足元まで迫ってきていた。水に引き込まれないにしても、埋もれてしまっては、逃げられないかもしれない。


 ガナーは、夢に見る、黒い影を思い出す。 

 足元に迫り、逃げられずに、黒い影に染められていく自分が、現実に成ったようで、青くなって震える。

 もう一度、湖が盛り上がったら、このまま夢の中で見た様に、黒い水に呑み込まれてしまうのだろうか。

 三人で、一心に湖を見つめる。またしても、湖面が揺らめく。ゆらゆらと、ゆれるように、黒く盛り上がり始めた。

「ナハル、又だわ! もうだめ!」


 ガナーは、震えながら、ナハルにしがみ付く。

 ナハルは、震えるガナーを抱きしめながら、湖を見ていたが、静かに言う。

「ガナー、歌おう。祈りの歌だ」

「え?」

「落ち着いて。大丈夫、心を開放して、歌声に乗せるんだ」


 ナハルが、最初のワンフレーズを歌い始める。

 ガナーもつられるように歌い始める。

 二人の声が絡み合い、ハーモニーをかもし出していく。

 彼につられ、ガナーの声が、どんどん変わっていく。

 ガナーの髪が緑色に代わっていき、金色の光に包まれていた。

 優しい陽だまりのように、暗く盛り上がる湖の上をベールで包むように響いていく。

 ざわざわと、盛り上がっていた湖の水が、ざわめきを忘れていくようだった。

 なだめられた水は、盛り上がるのをやめ、静かになっていった。

 サラサラと聞こえる水の音は、湖に戻っていく音だった。やがて、湖は元通りになる。 

 足元まで取り囲んでいた水は、すっかり引いて、元の草原になっていた。


「良くやったね」

 ナハルは、まぶしそうにガナーを見つめて微笑んだ。

「ナハル…」

 マハムドを見ると、驚きの表情で固まっていた彼も、我に返ったように頷いて見せた。

 ガナーも、やっと安堵の表情を見せる。

 いつの間にか髪も、元通りに戻って、ガナーを包んでいた光も消えていた。


 そして、フッと気が付くと、思い切りナハルの腕に捕まっていた。

 パッと手を離し、恥ずかしそうにうつむく。

「ごめんなさい…。あの、ありがとう」

 ガナーが離した手を、ナハルは、そっと包み込む様に握った。

 その手のぬくもりは、凍えて冷たくなっていた指先を、優しく温めてくれた。

「君なら、いつでも大歓迎だよ」


 マハムドは、あえて二人を見ないようにする事にした。

 彼女が伝説の乙女だというのは本当らしい。

 金色に輝くアザリーを目の当たりにして、信じないわけにはいかなかった。

 自分の入る隙は無い様に感じられ、それを、認めたくなかった。

 二人の絆のようなものを、見せ付けられたように思えたのかもしれない。


 おそらく、ガナーは無意識なのだろう、いつでも、彼女がすがりつく相手は、自分ではなくナハルなのだ。

 さっきも、ナハルの腕に抱えられて震えていた。

 あんな時くらいは、婚約者の自分にすがり付いてもいいのじゃないかと思うが、それどころではなかったので、黙っていた。

 ナハルが側にいたからかもしれない。彼は、何時でも、ガナーの側にいて、手を差し伸べている。

 二人は、それが当たり前のように、ごく自然に寄り添う。

 今まで、自分がそうしてこなかったのがいけなかったのか。ガナーは、マハムドに甘えない。


「早く行こう。直ぐに暗くなる」

 マハムドは、声を掛けて丘を降り始める。 

 三人は、丘を降りて、ガナムの館へ急いだ。辺りは、薄闇が漂い始めていた。


 領主の館に着いたのは、夜半を回っていたが、灯りが煌々と灯され、歓迎で迎えられた。

 ガナーは、待ち構えていたアインに案内され、部屋に入る。やっと、落ち着いて休む事ができた。

 お湯を使おうとして、気が付く。

 足の感覚が戻っている? 

「アイン、足が動くわ!」

 ガナーの言葉に驚いた、アインが、包帯を外して、腰を抜かした。

「ガナー様、傷がありません!」

「本当!?」

 二人して足をなでて確かめる。

 膝から下にできていた、酷いケロイドもなく、血がにじんでいた悲惨な様子はどこにもなく、元道理の綺麗な足だった。


 汚れていた包帯を外し、たっぷり縫っていた薬をお湯で洗い流し、体を洗い、用意されていた食事を済ませ、柔らかなソファーに深く腰掛けた。

 そして、やっと一息したガナーは、アインに、今日の湖での出来事を話した。

 アインは驚いて窓の外を見た。

 この領主館からも、昼間なら遠くに、湖を見ることは出来るが、暗闇の向こうには、湖を確認する事は出来なかった。


「湖の底に沈む運命なのかとあきらめかけたくらいよ。その時に、ナハルが祈りの歌を歌おうって言って」

「その歌で、湖の水が引いたのですか?」

「そうみたい…」

「それにしても、恐ろしい思いをなさいましたね。でも、そのおかげで、足は治ったのですか?」

「多分…。ナハルが言っていたわ。祈りの歌は、湖の波動を受け止めなければならないと。つまり、龍神の力を受け取ることだったみたい」

「龍神の力を受け取ったので、呪いを跳ね返すことが出来たということですね…。でも、良かったです。私は、はっきり言ってとても不安でした」

「アインには心配かけたものね。ありがとうアイン」

「はい! お任せください。でも、今度は代わりに泣くよりも、大笑いをしたいです」

「笑うことまで取られたら、私は人形になってしまうわ」

「大丈夫です。こんな無茶苦茶ばかりする人形はいませんから」

「何が大丈夫なのよ、少しも慰めになっていないわ、アインたら!」

 二人して本当にほっとして笑いあった。


 しかし、アザリーの心は少しも安心はできなかった。

 湖の真ん中が、黒く盛り上がってくる様を思い出して、身震いした。本当に怖かった。

 今夜は、龍神の夢にうなされそうだと、眠るのも怖い気がしている。

 心細くて、凍ってしまいそうな心を抱え込むように、自分の肩を抱え、暗い闇の中に引き込まれてしまいそうな不安におびえる。


 不意に、ドアをノックする音に我に返る。

 意識が引き戻されてホッとする。

 ドアから姿を現したのは、スラリとした長身に、金色の髪をなびかせ、優しいエメラルドの瞳の、ナハルだった。

 彼を見ると、ホッとして、救いを求めるような気持ちになってしまう。

 彼は、ガナーの様子を察して、足早に歩み寄り、隣に腰掛け、顔を覗き込んだ。

「ガナー、今日のことを思い出していたの? 大丈夫だよ。もう、何も心配は無い」

 彼は、そういって優しく抱きしめてくれる。

 ガナーは、その温もりにすがりつくように、ナハルにしがみ付いた。

 こんなふうにしてはいけない。そう思っても、彼の温もりが、今のガナーには救いだった。


 アインが、二人の邪魔をしないように、そっと部屋を出る。

 張り詰めていた心が緩んで、涙がこみ上げてくる。

「思いきり泣いていいよ。僕が、側にいる。何も考えなくていい。何もおそれることはないんだ」

 耳元で囁く声が、心を開放してくれる。

 彼は愛しそうに頭に頬を寄せ、髪を撫でる。

 何故、マハムドではなくて、ナハルなのだろう? 


 彼は何時も、ほしい言葉と、ぬくもりを与えてくれる。初めてあった時からそうだった。

 王女としてのプライドから、人前で泣く事などなかったのに、彼の前では、心が緩んでしまう。

 気持ちが落ち着いてくると、反省する。また、ナハルに甘えてしまった。そっと、彼から離れる。

「ごめんなさい」

「何故謝るの? 謝るような事なんか、何にも無いのに」

 龍神と同じエメラルドの瞳は、優しく微笑んでいた。


「あの、何か用事があったの?」

「うん。お休みを言いに来ただけなんだ。でも、今日のことも気に成ったし、君は、龍神が関わると思いつめてしまうから」

 ああ、やっぱり、見透かされていたのかと思うと、恥ずかしくて、頬を染めて俯く。

「ナイトとしては、君の心も護るのが勤めだから、遠慮なく、僕の部屋に押し掛けてきてくれてかまわないんだよ」

 彼は、顔を近づけて耳元で囁く。

 近い。

 と息が耳に掛かってピクリとする。

「そんなこと、しません」

 ガナーは、顔も上げられず、うつむいたままで首を振る。意識してしまう自分が恥ずかしい。

「残念だ。君が望むなら、添い寝も考えていたのに」

 彼は、そういいながら、ガナーの手を取ろうとするから、慌てて、手を引っ込める。

「そんなに子供じゃないわ!」

「もちろん、大人仕様の添い寝も大歓迎だよ」

 ナハルが、思い切り顔を近づけて覗き込むから、顔が近くて、彼の綺麗な顔を直視するのは恥ずかしい。

 赤くなって困惑するガナーに、クスクスおかしそうに笑いながらさらに畳み掛ける。

「龍神の夢の続き、あれからどうなったんだろうね? 二人で、夢の続きを見るのも悪くないんじゃない?」

 囁くように、ますます顔を近づけるから、後ずさる。

 心臓が、大きく鼓動している。

 こんなに近くで、男性の顔を見るのは慣れない。

「え、遠慮します!」

 小さな声をやっと絞り出した。


「そう? 残念だ。仕方ない、一人で部屋に戻って、夢の続きを見ることにしよう。お休み」

 そういって、彼は、ガナーの額にキスをした。そうして、何時ものように、顔をよせるから、ガナーも、キスをかえす。

 満足したように部屋を出掛かって、振り返る。

「気が変わったら、いつでも来ていいよ」

「い、行きません! そ、それよりお話があって…」

「ん? 何?」

 ナハルは、ドアの側から、戻ってくる。


「私にかかっていた湖の呪いが解けたの」

「! 本当に? 見たいけど…、見せてはくれないよね?」

「あ、当たりまえです」

「ああ、でも、良かった…」

 ナハルは、心底ほっとした顔で、ガナーの手を取ってキスをした。

「でも、僕は少しそんな気がしていたよ」

「え? どうして?」


「祈りの歌を歌っていた時の君は伝説の乙女そのものだった…。髪の色も金色の光も、君の身に纏っていたから、おそらく、呪いの力も跳ね返してしまうだろうと」

「え?…何のこと?」

「やっぱり、君は気が付いていなかったんだね。歌を歌い始めてから、君が龍神の力を受け取ったのを僕も、マハムドも、そばで見ていたよ」

「そうだったの…」


「でも、もう少し怪我をしているふりをしない」

「え? どうして?」

「だってそうすれば、いつでも君に触れられるから」

「もう、御心配なく! 一人で歩けますから! おやすみなさい!」

「残念だ。でも、大人仕様の添い寝はいつでも歓迎するよ。お休み」

 そういいながらも、嬉しそうに部屋から出て行った。


 お、大人仕様の添い寝って何? 夢の続きって、龍神と歌姫の結婚……?

 も、もしかしたら、あの夢は途中から現実だったかもしれないのに、夢の続きなんか見たら…? 

 彼の言葉が、頭の中を駆け巡る。

 まだ、ガナーには、想像も出来ないが、怪しい雰囲気に、彼が出て行ってからも、しばらく固まっていたガナーは、ハッと、我に返る。

 思いっきりからかわれた事に気が付いて、脱力する。

 しかし、もう、あの凍りつくような心細さは消えていた。


 穏やかな、満たされた気持ちで、ベッドに入ろうと思うと、又、ドアがノックされた。 

 いつの間にか戻ってきていたアインが、ドアを開けると、今度は、マハムドだった。

 彼も心配して、来てくれたのだろう。


「マハムド? どうしたの?」

「ああ、眠れないのじゃないかと、心配になった」

「大丈夫よ、心配しないで」

 マハムドの前では、つい、強がってしまう。 強がれるのも、ナハルのおかげなのだが。

 明るく微笑んで見せると、彼は、安心したように頷いた。

「そうだ、君は、そんなに弱虫じゃなかったな」

「おやすみなさい」

「ああ、お休み、ゆっくり休みなさい」

「あ、マハムド、私の足のことアインから聞いたのよね…。黙っていてごめんなさい。でも、もう、治ったの。もう、何も心配はないわ」

「ああ、私に隠していたことはけしからんが、…だが、そうか、呪いは解けたのか…。良かった」

 マハムドは、安心したように笑ったが、心なしか寂しそうに見えた。

「も、もう、マハムドに隠し事はしないわ。本当にごめんなさい」

「ああ、そうして欲しいものだ」

 マハムドは、アザリーの頭を軽くなでて部屋から出て行った。


 彼が行ってしまうと、複雑な気持ちになった。

 本当ならこんな時は、婚約者であるマハムドに、側にいてもらうべきだったのではなかったのか。

 何時も優しいマハムド、誰よりも、ずっと、側にいてくれた人。

 本当に大切な人なのに。なのに、抱きしめてほしいと思うのは…ナハル。

 彼の腕の温もりが、愛しくて、切ない。

 マハムド以外の男性に好意を持つなんて、裏切り者の気分だった。自分が、愚かで浅はかに思えて悲しい。


「アイン、私、ナハルのこと、好きなのかしら?」

「ガナー様…」

 ああ、もう、ナイトの絆などでは、ごまかせないのかも知れない。とアインは、思った。

「そんなはず無いわよね。だって、私にはマハムドがいるもの。マハムドは、何時でも私の側に居てくれて…」

 マハムドに対する気持ちは、少しも変わっていない。

 今も信頼できる頼もしい存在。

「そうですわ。これからも、ずっとお側に居てくださるのはマハムド様です。ナハル様とは、旅の間だけのお付き合いですもの。離れてしまえば、懐かしい思い出になるものです」


 アインは、言ってしまってからミスをしたことに気づいた。ガナーの顔が、急に曇ったからだ。

 ナハル様と離れる事を考えさせてしまった。

 ガナー様の心は、こんなにもナハル様でいっぱいになっていたのかと、困惑した。


 翌朝、ガナムの領主は、一人娘の、ヤシュム姫の部屋に来て、興奮気味にまくし立てていた。

「おお、ヤシュム、お前は、やはり美しい。この父の自慢の娘だ。ダハブヌールラエド様が目覚められたら、一番にご挨拶に行きなさい。お前を見て、王子も喜ばれるだろう」

「はい、お父様」

ヤシュム姫はにっこりとほほ笑む。大輪の花のように華やかな笑顔だった。

 領主は、それを見て満足そうに言う。

「王子のもとへ嫁ぐ日には、最高の花嫁衣裳を用意しなければな」

「お父様、気が早いですわ」

「早いものか、最高のものを仕立てるには、時間がかかるものだ。お子でも授かれば、直ぐにも必要になる」

「お父様…」

 ヤシュム姫は、恥ずかしそうに顔を赤くする。

「いいか、ヤシュム。今夜、王子に、寝所に誘われたら、決して、断っては成らんぞ。一日も早く、お子を授かれ。それが、ガナム領の繁栄につながるのだ」

「はい…」

          *-*

 ガナーが目覚めると、太陽はもう高くなっていた。

 夢も見ずに、ぐっすり眠った。 

 龍神の夢にうなされなかったのも、ナハルが落ち着かせてくれたからだった。

 部屋に入ってきたアインに尋ねる。

「アイン? 少し寝過ごしたかしら。ナハルとマハムドはどうしている?」

「まだ、正午前です。お二人は、ガナー様が目覚められたら、ご一緒にお食事をと、言っていらっしゃいました」

「そう、着替えるわ。食事を用意してもらって」

「はい、かしこましました。お目覚めのお茶を、こちらにおいておきますね」

「ありがとう」

「では、少しお待ちください」

 アインが、部屋を出ようとすると、ドアをノックする音がした。

「王子様からの、お届け物です」

 ドアの外から使用人が声を掛ける。二人は顔を見合わせ、アインが、ガナーにブルカをかぶせて、ドアを開けると、大きな箱が

幾つも運び込まれた。


 箱をあけると、レースや、フリルがたくさん付いたクリーム色のドレスだった。

 シルクの光沢がとても品が良く、ふわふわのドレスだ。

「まあ、なんて綺麗なドレスなんでしょう!」

 アインが、ため息をついて見つめる。

 綺麗な物が大好きなアインは、これを身につけたガナーを想像するだけでわくわくする。

「早く、着付けてみましょう。私、こんなふわふわのドレスは初めて見ます。きっとお似合いになりますよ」

「そう、着られるかしら」

「お任せください。見るのは初めてですが、やり方は、聞いた事があります」

 箱を、次々開けると、色々な物が、全て一式揃っていた。

 二人で四苦八苦して、なんとか着付けて、鏡の前に立つ。

 とても華やかで、美しいドレス姿に、アインは興奮していた。

「綺麗ですー! 輝くようですわ!」

 ふわりと、膨らんだ丸い肩から、スリムな袖が付いて袖先にフリルが可愛い。

 襟は、高襟でやっぱり、先にフリルが付いているその、襟をしぼめるように付いた、リボンのネクタイには、淡いピンクの布の造花が付いていた。

 スカートは、ペチコートを重ねて膨らませ、たっぷりのシルクの布が、動くたびふわふわとゆれた。

 アインが、髪を高く結って後ろへ下げ、髪飾りも、ドレスとおそろいの造花の付いたリボンで飾ってくれた。


 二人でできばえをチェックしている所に、ナハルがやってきた。

 彼は、足を止めて、ガナーの姿に見入った。

「思っていた通り、良く似合うね。とても綺麗だ」

「ありがとう。おかしくない? これでよかったかしら?」

「うん、完璧だよ」

 マハムドが、ドアをノックして部屋に入ってきた時、ナハルが、ガナーの手を取って指先にキスをした。

 ガナーが、ポッと頬を染めているのを、マハムドは、思い切り不機嫌な顔で見た。


 彼から発する不機嫌オーラに、アインは、身がちじむ思いがした。

 案の定、彼は、不機嫌な顔をして、部屋から出て行ってしまった。

 おどろいて、ガナーが後を追う。

「マハムド!」

 取り残されたナハルは、ガナーが出て行ったドアを見ていたが、黙って部屋を出て行った。

 ガナーは、マハムドを追って、彼の部屋へ行く。

「マハムド、このドレス、気に入らなかった?」


「……」

 マハムドは、黙っている。何も答えない。

 昨日から、なんとなく罪悪感を感じているガナーは、自分の心を見透かされているようで、落ち込む。

「西側のドレスが珍しくて、つい、浮かれてしまったの。でも、…婚約者の、あなた以外の男性から送られたドレスを身に着けるなんて、軽率だったわね。ごめんなさい。直ぐに着替えるわ。だから、一緒に食事をしましょう」

「ガナー、…違う。私は、自分の気の回らなさに腹を立てていた。そのドレス、良く似合っている。綺麗だ。本来なら、私が君に送るべきだった。ナハルの気配りには叶わない。私は、気の利かない男だ」

「そんな事無いわ。マハムドは、何時だって優しく私のわがままを聞いてくれたもの」

「……」


 マハムドは、何も答えない。こんな言葉では、彼を納得させられないのだと思う。

 それだけ深く、彼を傷つけてしまったのだと、後悔の思いが胸を締め付ける。


「マハムドが好きよ。何時も側にいてくれたから、それが当たり前になって、気遣いが足りなくなっていたのね。本当に、ごめんなさい」

「ガナー、そうじゃない。君が求めるのは、いつでもナハルだ。この間から、ナハルを意識している。あの夜、彼と何かあったのか?」


 マハムドは、ガナーの肩を掴んで問い詰める。いつものマハムドと違う。なんだか怖い。

「何も、無いわ」

 ガナーは、首を振って訴えるように言う。


「本当にそうか?」

 マハムドの中で、ずっと渦巻いている気持。

 ガナーが、ナハルに惹かれていると感じていた。

 二人の間には、誰にも断ち切れない絆があるような気がして、それを認めたくなかった。

 渡したくないと思う欲望が、あふれ出してくる。


 その欲望を、初めて、ガナーにぶつける。

 気が付くと、ガナーを引き寄せ、抱きしめていた。

 ガナーは初めて、マハムドの、男としての欲望を向けられ、戸惑う。

 何時もの彼じゃない。怖くなって、突き放してしまう。


「ガナー!」

「……」

 マハムドは、絶望的な眼差しでガナーを見つめる。

 その瞳が悲しくて、でも、彼の中で燃え上がる欲望がかもし出す空気が怖くて、マハムドが、知らない別人のようで、ガナーは如何していいのか解らず、部屋を飛び出してしまった。


 ガナーの後を追って、部屋を出たマハムドは、アインを見つけた。 

 今、自分が追うべきでは無いと思い、ガナーにブルカを届けてくれるように頼んで、自分は、部屋に戻った。


 アインが、部屋に戻り、ブルカを持って階段を駆け下りていったガナーの後を追っていくと、裏庭の出口にガナーは居た。

「ガナー様」

 アインが声を掛けるが、ガナーは、固まってじっと裏庭を見つめていた。


 その先に何があるのかと見ると、先ほど、ガナーの部屋を出て行ったナハルと、領主の娘の、ヤシュム姫が佇んでいた。

 ヤシュム姫は、ナハルの前で目を閉じて立っていて、頬を染めてうつむくと、ナハルの胸に顔をうずめる。


 とっさにアインは、ガナーにブルカをかぶせて視界を遮る。

 アインに気が付いたガナーは、困惑の瞳でアインを見た。

「ガナー様、お部屋へ戻りましょう」


 アインに促され部屋に戻った後、ガナーは閉じこもってしまった。

 考えようとすればするほど、裏庭に佇む二人の姿が、胸を締め付けるように思い出されて、思考を妨げてしまうのだった。


 あの女の子は、領主の娘だろうか。二人は、恋人同士だったの?

 ナハルが、今まで私に向けていてくれた好意は、ただの気まぐれ? 

 私が、伝説の乙女に似ているから、優しくしてくれただけだったの?

 ナハルには恋人がいて、ナハルが好きなのは、あの女の子だったんだわ。

 あそこで、何をしていたの? 胸が苦しい。

 ナハルが、他の女の子を抱きしめて、キスをするなんて嫌! 


 そこまで考えて、額を手で押さえて思わずつぶやいていた。

「どうかしているわ」

 二人が恋人同士だろうと、何をしていようと、関係のないこと。

 ナハルは、龍神の力が必要で、私に優しくしてくれているだけ。

 私は、陽扉艦ようひかんを探す為に、ナハルと旅をしているだけなのだから。


 今は、ナハルの事より考えなければならないのは、マハムドを傷つけてしまった事。その上、突き放してしまった事も心が痛い。

 でも、嫌だったのだ。初めて、マハムドが怖いと思った。そのこともショックだった。

 そして、気が付けば、ナハルの腕を求めている自分がいる。

 何も心配要らないと、今直ぐ、抱きしめてほしいなんて。

 ナハルは、あの子のものなのに…。こんな事望んではいけないのに。 

 もう、どうしたらいいのか解らなくて、閉じこもるしかなかった。


 ナハルは、馬に乗って、湖の近くに来ていた。頭の中をよぎるのは、ガナーのことばかりだった。

 あの時彼女は、婚約者のマハムドを選んだ。

 婚約者なのだから、当たり前なのかもしれない。

 しかし、その事実は、彼の心に大きななまりをつけたように、気持ちが沈んでいた。


 捜し求めていた、伝説の乙女。

 ガナーの心は遠く届かない。

 彼女に婚約者がいる。その現実は、どうしようもない。


 湖は、ザワザワと波立っている。

 これは、今夜も増水があるかもしれないと思う。

 昨夜、増水に見舞われて、あわや、と言う所で、彼女の歌声に救われた。

 ガナーが、伝説の乙女である事は、間違いないだろう。


 心の奥底で求め続けていた乙女。

 会えたら、きっと恋をすると思っていた。

 思っていた通り、一目ぼれと言えるくらいどんどん引き寄せられて、彼女のこと以外考えられないほどになるのは瞬く間だった。 

 彼女は、思っていた通りの少女だったのに、手に入らない存在だなんて!

 彼女は他の男のもので、あきらめるしかないのだろうか。

 龍神は、こんな未来を考えもせずに、人の世に生まれ変わる事を選んだのか? 

 こっけいだ!

 望む乙女が手に入らないのに、生まれ変わる意味などあるのか?


 運命を呪いたくさえなる。

 どうしても、ガナーがほしい。

 彼女が、マハムドを追いかけていった様子を思い出すと、心臓にナイフを突き立てられたようにじりじりと燃える様に熱くて痛い。

 激しい嫉妬に身を焦がされる。

 ガナーが、彼と婚約を解消して、自分を選んでくれるなんて、虫のいい考えだ。 

 あるわけないのに、望んでしまう気持ちを抑えられない。


 気持ちの整理の付かないままに館に戻った。

 むしょうにガナーに会いたくなった。

 手に入らなくても、やっぱり会いたい。


 部屋にいるだろうかと、ドアをノックすると、横からアインが来て、今、気分が悪くて臥せっているから、誰にも会わないという。 

 さっきまで、あんなに元気だったのに?

 マハムドが、彼女を傷つけるような事をしたのではないかと思った。


 そう思うと、むしょうに腹が立った。

 大切な、大切な、捜し求めた乙女。

 聖域ともいえる存在。その、ほしくてたまらない、ガナーの心を持っているマハムドなのに、彼女を傷つけたのか?

 許せない!


 ナハルは、憤りを抑えられず、マハムドの部屋に押しかけた。

「何の用だ」

 彼は不機嫌に、ナハルを睨んだ。

「ガナーに何をしたんだ!」

 ナハルが低い声でマハムドをにらみつける。

 ナハルの瞳は、怒りで揺らめいていた。

「なんだって?」

 マハムドは、ナハルの剣幕にさらに不快になった。

「ガナーが、気分が悪くて臥せっていると訊いた。さっきまで元気だったのに、彼女に何をした!」


「ガナー、が…?」

 思いもしない言葉にマハムドがうろたえる。

 その様子に確信を持ったナハルはマハムドにつめより胸ぐらをつかむ。

「彼女を傷つけたのか!」

「何もしていない!」

 ナハルの言葉にマハムドは潔白を訴えるが、動揺は隠せていなかった。

 これは何かあったに違いない!

 ナハルの怒りはますます大きくなって声を荒げた。

「嘘を言うな!」


「嘘じゃない!」

 マハムドが、傷付いた顔で叫んだ。

 その表情にナハルは冷静さを取り戻し手を離した。

「それなら如何して、気分が悪くなったんだ!」

 ナハルに問い詰められ、マハムドが、重い口を開いた。

「抱きしめただけだ。抱きしめたら突き放された。それだけだ! …その後、部屋を飛び出していって、階段を下りていった。私は、アインにブルカを届けるように言って、部屋に戻った」

 マハムドは、眉間にしわを寄せて苦しそうにぼそりと言った。


「やっぱり、ガナーを傷つけたんだろう!」

 ナハルは、そんなマハムドにもひるむ様子がない。怒りは収まらないようだった。

「傷ついてるのは私の方だ! 君に抱きしめられても嫌がらないガナーが、何故私から逃げる? 私は、彼女の婚約者だ!」

 ナハルの後を追ってきていたアインは、二人の顔色を見ながら口を開いた。

「あ、あの…、」

「アイン? 何か知っているのか?」

 ナハルが聞く。


 アインは、恐る恐る口を開いた。

 ガナーの気持ちを知っているアインは、ガナーのためにも事実を知らなければと思っていた。

「裏庭で、ナハル様と、ヤシュム姫が、抱き合っているのをじっと見ていらっしゃって」

 アインの言葉に、マハムドが、眉を吊り上げてナハルに詰め寄る。

「君は最低だな、ヤシュム姫と出来てたのに、ガナーにナイトの誓いまでして気を引いたのか?」

「違う! 名前も知らないし、会ったのも初めてだ!」

「嘘をつくな! 市場の女たちでさえ、寄りかかったりしなかったぞ! 抱き合っていたなどと、前からできてたんだろう」

「誤解だ! 僕は抱いてない! 彼女が勝手に寄り掛かってきただけだ」

「で、ですが、ヤシュム姫は、目を閉じて寄り添っていらして、その、口づけの現場をご覧になられたのではと…」

 マハムドは、ますます険しい顔でナハルをにらむ。

「そんな事はしていない! 考え事をしていたら、彼女が何を勘違いしたのか、近寄って来て目を閉じた。ほっといたら勘違いに気が付いたのか、赤くなって俯いた。其れだけだ!」


「…。」

「…。」

「君は、ヤシュム姫に恥をかかせたのか!」

 マハムドが、あきれたように言う。アインも、そんな事だったのかとホッとしている。 

 いや、如何してホッとしているのか? 

 ガナー様には、マハムド様と、お幸せになっていただきたのに。

 ただ、ガナー様が、お可哀想で傷ついてほしくなかったから。

 そう思いながら、自分でも矛盾した気持ちに戸惑いを感じていた。


「何故僕が興味も無い女の相手をしなければならないんだ?」

 彼は、無表情に、平然と言う。


 マハムドは、自分も傷ついているのに、それよりも、ガナーの気持ちが心配なようだ。

 大きくため息をついて、いらだったように言った。

「とにかく原因は、君だ!」

「僕だけじゃないだろ! 君だって、彼女が、部屋から飛び出していきたくなる様なことをしたんだから」

 ナハルの言葉にマハムドが、ぶちきれた。

「原因は全部、君のせいだぞ! 私は最初から君が嫌いだった。女の好きそうな、その姿でガナーを惑わせたんだ!」

「惑わせたんじゃない! ずっと、捜し求めていた女性にめぐり会えたと思ったのに! 僕だって、君が嫌いだ。君は、彼女の夫に成る資格を持っていて、ガナーを独り占めする」

「あたりまえだ。ガナーは、私のものだ。君のものにはならない!」

「どうしてわかる? ガナーと僕は前世の絆を持っている!」


 マハムドが一番感じて恐れていたことをぶつけられて、腹が立った。

「なんだと? そんなものはまやかしだ!」

 マハムドの言葉に、こらえきれなくなったナハルが、マハムドに殴りかかる。

 完全にぶちきれたマハムドも、何時もの冷静さを失っていた。


 椅子や、テーブルを引っ繰り返して、大きな男二人が、殴りあう。

「ガナーが生まれた時から、大切に護ってきた! いきなり現われた君に、前世の絆などと言われて信じられるわけがない!ガナーは渡さない!」

 マハムドが、思い切りナハルを殴り返す。

 彼は、よろけて、テーブルごと、花瓶を引っ繰り返した。

 花瓶が割れて大きな音が響く。

「彼女は、僕の聖域なんだ! 傷つける事は許さない!」

 今度は、ナハルが、マハムドを殴る。

 細身の身体なのに、マハムドが飛ばされ、いすを引っ繰り返して倒れる。

 思いのほか、ナハルの渾身の一撃が訊いたらしく、よろよろと立ち上がる。

 しかし、立ち上がりざまに、ナハルのみぞおちに、思い切り拳をぶつける。


 アインは、ただ、ひやひやしながら見ていることしか出来ない。

 お互いに、力を競い合っているかのように、よける事もせずに相手の拳を受け止め、打ち返す。

 ナハルの身のこなしなら、マハムドの拳をよけるくらいの事はたやすいはずだ。なのに、彼はそれをせずに、真っ向から受け止めている。 

 マハムドは加減もせずに殴っているのに、ナハルは、平然とした余裕の表情も崩さずに、それ以上の力で殴り返してくる。

 最初は、悔しくて、負けるものかと躍起やっきになって殴り返していたが、だんだん、手ごたえのある男として見えてくる。


 思う存分殴ったら、気分がすっきりしてきた。

 ナハルの、ガナーに対する気持ちは本物だと知っている。

 そこに嘘はないだろう。彼なら、自分以上にガナーを大切にしてくれるだろうことは十分身に染みて分かっていた。

 だが、どうしてもそれをみとめられなかった。

 自分が一番近くでガナーを見てきたのだから、自分以上の理解者などいるはずがないと、マハムドの意地でもあったのだ。


 だが、ほんの数日の間に二人の間には深い信頼が築かれ、あっという間に自分が放り出されたようで悔しかっただけだと、マハムドは解かっていた。

 ガナーに拒絶された以上、もう認めるしかなかった。

 何よりも、ガナーの傷付いた顔は見たくなかった。

 思う存分、憎たらしいナハルを殴ってやったし、もう、いいか…。


 やがて、力尽きたように、マハムドが、床に座り込んだ。

「私にとっても、ガナーは聖域だ」

 以外にも、マハムドが冷静な声で言う。

「今まで、誰にも触れさせずに護ってきた。自分自身でさえ、彼女に触れる事を許せなかった。それなのに! 今になって、こんな優男にさらわれるなんて。納得がいかない」

 マハムドの言葉を受けたように、ナハルも側に座り込んで言う。

「君が、どれくらい彼女を大切にしてきたか、彼女を見れば解る。欲望で近寄れば、壊してしまいそうで、手が出せない」

「欲望か…、さっきの私には、確かにあった…。危うく、ガナーを壊してしまう所だったのか。情けない話だ」


 マハムドが、大きくため息を付いた。

「そう落ち込む必要はない。ガナーを前にして、欲望を感じない男なんていないさ。今まで、守り通してきただけでも、たいしたものだ。それに、いざとなったら、君にガナーを傷つけることなんて、出来るはずがない」

「本当にそう思っているのか?」

 マハムドは、少し以外そうに、ナハルを見る。


 さっきはものすごい剣幕で入ってきたが、私が、ガナーに、乱暴をしたとは思っていなかったのか?

 そうか、あの時、私を追ってきたガナーに、置き去りにされた彼も、傷ついていたのか。

 なら、それは、私が大人気ない態度をとってしまったせいだったと気づくと、彼への苛立ちが、すっと、冷めていた。


「まあね。今までの実績がある。最初は、頭に血が上っていたけど、良く考えれば解る」

 お互いに、むしゃくしゃした気持ちのやり場所が無かったのだ。

 しかし、やりきれない気持ちをぶつけ合い、受け止めあったおかげで、すっきりした。


 マハムドは、改めてナハルを見た。単なる顔がいいだけの、わがまま王子ではなさそうだ。

 怒りのこもった拳を、真っ向から受け止めるだけの度胸も、器の大きさもある。

 全てにおいて、自分より上かもしれない。 

 なにより、彼は、彼なりに、真剣にガナーを大切に思っている。

 もう、自分の気持ちを、ガナーに押し付けることは諦めようと思った。

 ガナーの気持ちがナハルに向いていることも認めなければならない。

 その気持ちに気が付き、ガナーは苦しんでいる。自分が解放してあげなければ、ガナーは、苦しみ続けるだろう。そんなことは望んでいない。

 ガナーに幸せを与える相手が自分でなくナハルでも、ガナーが、幸せなら何も文句は無い。


 マハムドは、わざと機嫌悪そうに、ふて腐れた態度で言う。

「ガナーのところへ行って、誤解を解いて来い。泣かせたら承知しないぞ!」

「君は、どうするんだ?」

 意外と、真摯な答えが返ってきて、わざとマハムドが、照れ隠しに、不機嫌な態度を作っている事くらい見通しているようだと思う。

 なかなか、食えないやつだと、苦笑いしながら、やっぱり不機嫌を装って言う。

「私は、今までも兄だったんだ。しばらくは、兄のままでいる。言っておくが、君に、ガナーはやらないからな。今日だけ特別だ」

「了解。兄上」

「君の、兄になるつもりは無い!」


 ナハルが部屋を出ようとしたとき、表が騒がしいのに気が付いた。

 マハムドと、アインも気が付いたのか、三人一緒に、バルコニーに出る。

 その時既に、湖は増水を初めていた。

 真っ黒に盛り上がった湖は、人々も、何もかもを飲み込む勢いで、襲い掛かろうとしていた。

 湖は怒り狂い全てを呑み込んで、大地を破滅に巻き込んでいくのだろうか? 


 人々が、領主館に避難して来ていて、高台にある、領主館の見張り台の上から、心配そうに自分たちの家を見ている。

 一体、何度目だろうか、こうして不安な思いで、湖を見るのは。

 まるで、滅びの前兆を見ているように人々は、怯えた様子を隠せない。


 ガナーも、騒がしさに気が付いたのだろうアインを呼んだ。

「ガナー様。ご気分はいかがですか?」

「アイン、心配掛けてごめんなさい。マハムドを傷つけてしまったの、どうしたらいいのか解らなくて」

「ガナー様、そのことでしたら大丈夫です。先ほど、ナハル様と、マハムド様とで、決着が付いたようですわ。」


 アインは、まだ、整理し切れていない気持ちのまま、でも、ガナー様が傷付かなくて済むことだけは良かったと胸をなでおろしていた。

「え、決着? さっきの、大きな音? 一体何があったの?」

 アインが、バルコニーを見る。


 バルコニー側のドアをノックしたのは、ナハルだった。

 ガナーの顔が曇る。ガナーは、思わず顔を背けてしまう。

 その様子に、ナハルは、微笑みながら部屋に入り、近づいてきた。

「僕の歌姫は、何をそんなにご機嫌斜めなのかな」

「機嫌なんて、悪くないわ」

「それなら、僕を見て。君の出番だよ。多くの民が、君を待っている」

「何が起こっているの?」

「湖の増水が始まっている」

「又、湖が増水しているの?」

 ガナーは、昨日の湖の増水の恐ろしさを思い出して青くなる。

「そうだ。たくさんの人々が、此処に避難してきている。彼らは、湖に呑み込まれてしまうのではないかと怯えている。彼らを救ってやってくれ」

「私に、出来る? 昨日はたまたまだったのかもしれないわ」

「君にしか出来ない、自信をもって」


 ナハルに促され、ガナーはそろそろと立ち上がる。

「おいで」

 ナハルが差し出した手を取り、バルコニーに出ると、心配そうに湖を見つめる人々の姿が、目に入った。

 ああ、こんなに多くの人々が、夜ごと、湖の増水に苦しんでいるのだ。

 おそらく、此処だけではない。湖の近くに住むもっと、多くの民が…。


 心の、奥底からこみ上げてくるものが声を押し出す。

 ガナーの声は、静かに暗闇の中を突き抜けていく。

 それは、暗闇に差し込む一条の光のように、闇を引き裂いていく。

「歌姫様だ!」

 人々が、バルコニーの上のガナーを見る。  

 人々の、期待に満ちた眼差しを一身に受けて歌う。

 それは、優しい陽だまりのように、人々の心に染み渡る。

 長い髪をなびかせて声をつむぎだすガナーの周りを、金色の光が包み、彼女の髪を緑色に輝かせる。

 それは、まさしく、龍神の力を受け継ぐものの印だった。

 ガナーを取り巻いていた光が、ガナーの声を伝うように湖の上を取り巻いて、金色のベールを創ると、湖は盛り上がるのをやめ、まるで、歌声に耳を傾けているかのように、動きを止める。

 やがて、盛り上がった湖面は、静かに戻っていった。 

 あふれ出した水は、さわさわと、湖に引き戻され、大地は蘇る。


 人々が、歓声をあげる。

 ガナーは、ホッとしてナハルを見ると、彼は切ない瞳で、ガナーを見つめ、微笑む。

「ありがとう。良くやってくれた」

 彼は、民衆に向き直り、声を掛ける。

「今夜はもう、増水は起こらない。安心して家に帰りなさい」

「王子様だ! 王子様が、伝説の乙女と一緒にいらっしゃる!」

「世界は、救われた!」

 人々は、感謝の言葉を口々に叫び、興奮気味に帰って行った。


 改めて、彼と目が合うと、昼間の事を思い出してしまい、つい目を背けてしまう。 

 彼には、恋人がいる。そう思うと、彼を見るのが辛かった。

 そんなガナーの側に、ナハルは歩み寄り、手を取る。

「ガナー、二人で龍神の夢を見たとき、話したよね。君は、歌姫のガナー。僕は、君のナイトのナハル。今は、それ以外のことは考えないで置こうと。君も、わかってくれたと思っていたけれど、本当に、わかってくれていたのだろうか。僕にとって、君がどれほど大切な存在なのかを」

「私が、伝説の乙女に似てるから?」

「僕らは、お互い、過去の記憶を持っている。前世からの絆を持って生まれてきた。心の奥底でずっと、君を求め続けてきた。僕にとって、とても大切な存在なんだ」

「でも、今は、お互いに別の大切に思う人がいるわ」

 ガナーは、やっぱり、まともに彼の顔が見られない。顔を背けたままで、か細い声を震わせる。

 ガナーが、嫉妬して拗ねていると思うと、嬉しくなる。愛しくて、抱きしめたい衝動をこらえ、顔を覗き込む。

「そんなわけ無いだろう! 君以上に大切な女なんていない。君が、龍神を大切に思ってきたのと同じように、僕も、伝説の乙女を大切に思ってきた」

「でも、恋人がいる」

 言ってしまってから、後悔する。馬鹿な事を行ってしまった。

 そんな事あたりまえじゃない。ナハルに肯定されるのは体が切り裂けそうな気がする。

「あのね、ガナー。誤解されたままなのは嫌だから言うけど。僕は、ヤシュム姫とはなんでもないよ。昼間、裏庭で…」

 う、裏庭…、思い出しただけで、苦しい。  

 涙がこぼれそうになる。ナハルが、他の女の子を抱きしめるなんて、嫌!

 ガナーは、思い切り顔を背け、彼の言葉をさえぎる。

「わ、私には、関係ない! そんな話しないで!」

 ナハルは、両手でガナーの肩を強く掴む。

 今までにない強い態度に驚いて見上げると、今まで見たことのない、強い瞳で見つめていた。

「嫌だ! ガナー、関係ないなんて言わないで! もっと、僕を見て。気に入らない事があったら、殴ってもいい。でも、関係ないなんて言わないでほしい」

 ナハルは、激情をあらわにする。

 ナハルにも、こんな激しい部分があったんだと、驚く。

「ナハル…」

「君が、僕のこと、好きなわけじゃないって解っている。君には、婚約者がいる。僕より彼を選ぶことは仕方がないけど、でも、関係ないなんて言わないで、僕は、何時でも君に頼ってほしいし、関わって行きたいんだ」

「如何して、そんなに私に関わりたいの?」

 ナハルは脱落する。こんなに言っても、まだ、ガナーには伝わらないのか…。

「そんなの、君が好きだからに決まっている」

「ヤシュム姫は?」

「だから、彼女とはなんでもないって言ってるだろ? 僕は何もしていない!」

 ナハルは、ガナーを穏やかな瞳で、優しく見つめる。

「ヤシュム姫は、恋人じゃないよ。この館で、初めてあった。名前も知らなかった。挨拶をしたようだったけど、考え事してたから、無意識の内に見つめてしまったらしい。勘違いをさせてしまった。でも、ほっといたら赤面してうつむいた所を、君に見られたみたいだね。僕がヤシュム姫にあったのは、あの時だけだよ」

 まったく悪びれる様子のない言い方に、ヤシュム姫が気の毒になる。

 深刻に考えていた自分が、なんだか馬鹿らしくなった。


「ひどい…、可愛そう」

「それじゃ、彼女にキスしたほうがよかったの?」

「そ、そんな事…」

 (絶対に嫌だ!)

 思わず言葉に出そうになって、ガナーは言葉に詰まってしまった。

 それを見てナハルは、ニヤリとほくそ笑む。

「どうなの? 良かったの? 嫌なの? どっち?」

 彼は楽しそうに、ガナーの顔を覗き込んだ。 ああ、又からかわれている。悔し紛れに眉を寄せて睨む。

「そんな事、誰にでもして良いことじゃないわ!」

「そう、じゃあ、君にならいい?」

「え?」

 彼は、ガナーに迫る。思いがけない反撃に、ガナーの心は付いていけずに固まる。


「良い訳が無い!」

 後ろから声が飛び込んできた。振り返ると、その声は、マハムドだった。

「マハムド…」

「邪魔をしないでくれ。もう少しで、ガナーの本音が聞ける所だったのに」

 ナハルがぼやく。彼は、ふんと鼻で笑って二人の間に割り込む。

「本音なんか、聞かせて堪るか。言ったはずだ、君にガナーは渡さない」

「マハムド、私…」

 マハムドは、チラリとガナーのほうを振り返ってから、ナハルに向き直る。

「ナハル、ガナーと二人で話がしたい。外してくれないか」

「兄上の仰せのままに」

 ナハルは、ガナーの本音を聞きそびれて、不服そうに言う。

「君の兄になるつもりは無い」

 二人は、目を合わせ、ナハルは、黙って部屋から出て行った。


「ガナー、さっきは、すまなかった。君を怖がらせてしまった」

「違うの。私がいけないの。マハムドが大好きで傷つけたくないのに、マハムドを傷つけている…」

 ガナーは、言葉に詰まってうつむく。

「君はずっと、龍神を求めていたね。幼かった君は、何時も誰かを探していた。君の中には、龍神への思いが、ずっとあったんだ。その龍神の生まれ変わりのナハルに出会って、彼に惹かれるのは当たり前の事だ」

「マハムド! あの夜は、ナハルと同じ夢を、一緒に見ただけなの。龍神と歌姫の夢だったわ。不思議な夢。何処までが夢で、何処から現実なのかわからなかった。あの日から、私の中に歌姫がいるみたいで、歌姫の気持ちなのか、私の気持ちなのか解らなくなる時があるの」

「君は今まで、自分の気持ちに気づいていなかったんだろう? 歌姫の気持ちを知って、自分の気持ちに気がついたんじゃないのか」

 マハムドは、穏やかな声で言う。

「自分の気持ち?」

「誰かを好きだと、はっきり意識するような夢だったとか」


  龍神に求婚された歌姫は、龍神を好きだったと気づいて、彼を受け入れる夢だった。

 その気持ちが、ナハルに対する気持ちと同じだったと、気づいてしまったから、彼を意識してしまっていた? 

 でも、その気持ちを認めるわけにいかなかった。

 私には、マハムドがいるのだから。

 ガナーの瞳から涙が溢れる。マハムドに申し訳なくて、こんな自分に嫌気がさす。


「ガナー、自分を責めてはいけないよ。君たちは、前世からの絆を持って生まれてきた。君たちが惹かれあう事を、誰も止める事はできない。私は、君たち二人を見ていてよく分かった」

「でも、ずっと、私を護ってくれた、優しいあなたを、裏切るような事…」

「私の、一番の望みは、何だか知っているか?」

「マハムドの、望み?」

「そう、私の望みは、何時でも、君が笑っていてくれることだ。生まれたばかりの君を初めてみた時、その愛らしさに見惚れた。こんな愛らしい君を泣かせる奴は、絶対に許せないと、心の底から思った。何時でも君が笑っていられるように、私が護ると、その時誓ったのだ。その私が、君の顔を曇らせる原因にはなりたくない。君には、いつでも笑っていてほしい。それが、私の一番の願いだ」

 マハムドは、ガナーの頬の涙を優しくぬぐう。

「ナハルが、好きなのだろう? 彼は、良い男だ。腕も立つし、頭も切れる。完璧すぎて憎たらしいくらいだ」

 マハムドの言葉に、思わず笑ってしまいながら頷く。

「マハムド、…ありがとう」

「良いんだ。そうやって、君が笑っていてくれる方が、私は何倍も嬉しい」


マハムドが、アインを呼ぶ。

「皆で食事をしよう。ガナーは、ずっと、何も食べていないのだろ? 急いで、食事を運ばせてくれ。ナハルにも、話は終わったと伝えてくれ」

 部屋に戻ってきたナハルは、ガナーの濡れたまつげを、切ない瞳で見つめる。

「泣かせるなと言ったのは君なのに、ガナーを泣かせたのか?」

 ナハルが、ガナーを抱き寄せる。今、彼女をなだめていたのは自分だ。

 抱きしめるのも、自分のはずだ。なのに何故、こんな場面にばかり出てきて、いいところをさらっていくのかと思うと、むっとする。

「それは、私の役目だ!」

 ナハルから、ガナーを引き離す。

「君は、優しい兄上でいるんだろう。抱きしめるのは、僕の役目だ」

「そんな役目を認める訳にはいかない」

「ガナーは、僕の歌姫だ。認めてもらう」


「ねえ、二人とも、如何してそんなに怪我をしているの?」

二人が、ガナーのことで言い争っているにもかかわらず、まるで別の話を振る。

 ガナーは、二人を下から上まで確かめるように見る。

 マハムドは、口の端が切れているし、ナハルは、手に怪我をしている。

 二人とも、袖口は敗れているし、あちこちがほころびている。

「まあ、激しい論争の結果、かな」

「論争? なの?」

「そう、彼は、熱くしゃべりすぎて、口の端が切れたんだ。そうだよな、マハムド」

 そんなはずは無い。しかし、ナハルは、いけしゃあしゃあと、嘘をでっち上げる。

 マハムドも、それに反論するでもなく苦笑いしながら話しをあわせる。

「あ、まあ…。で、君は、熱く語ったついでに、テーブルを叩いて、手を切ったわけか」

 二人は、目を合わせて意味深に笑う。

「まあね。憎たらしいテーブルだよ」


こらえきれずに、アインが噴出す。ナハルが、ゴホンと咳払いをする。

 アインは、慌てて笑いをかみ殺した。

 彼は、わざとそ知らぬ顔で、続けた。

「今はまだ、旅の途中だ。先のことは何も解らない。でも、僕は希望を持っている。きっと、世界は護れるはずだ! 何故なら、君にめぐり会えたから」

「ガナー、君は、歌姫のガナーで、僕は、君のナイトのナハル。旅はまだ続いている。君が、ナハルと呼んでくれるなら、僕はずっと君だけのナイトで居続けるよ。大切なのは、君だけだ」

「ナハル…?」

「うん、僕は、君だけのナハル。君は、僕のガナーだ」

「私の存在を忘れてもらっては困る」

 後ろから、不満そうな声がする。

「ああ、そう、君は、兄上のマハムド」

 ナハルが、めんどくさそうに付け足す。

「君の兄ではない。ガナーの兄だ」

「だから、邪魔をするなといっているだろ。如何して、いい雰囲気のところで、何時も口を挟むんだ?」

「邪魔をするのは、私の役目だ。私の目の前で、手なんか握るな」

 マハムドは、ナハルが握っていたガナーの手を引き抜く。


 ガナーは、なんだか二人のやり取りがおかしくて、笑いながら二人の手を取る。

 二人の手を、一緒に包み込む様に握り絞める。

 それは、ガナーの言葉にならない気持ちだった。

「二人とも、本当にありがとう。ナハルの言うとおり、まだ、旅の途中よね。一日も早く湖の異変を何とかしなければいけないわ。たまたま昨日と今日はうまくいったけど、いつもそうとはいかないかもしれないもの」


「ガナーが、本当に歌姫だったというのは分かったが、陽扉艦ようひかんもまだ手にしていないのに、どうして湖の水が引いたのだ?」

 マハムドが、不思議そうに言った。

「おそらく湖の中にある擢翆艦てきすいかんにガナーの力が反応しているのじゃないかと思う」

「擢翆艦は、湖の中にあるの?」

「そうじゃないかな? 水を呼んでるのは擢翆艦だろ」

「でも、私、今まで湖の増水を止められたことなんてなかったわ。今まで何の反応もなかったのに急に?」

「今までは何かがガナーの波動を邪魔していたのかもしれない」

「ナハル、君がその邪魔を取り除いたのか?」

「僕自身は何もしていないけど…」

「でも、ナハルが祈りの歌を教えてくれたから、波動を合わせられるようになったのかもしれないわ」

「なるほど…」

 マハムドが、納得したように言う。


 アインは、三人が、仲直りしてくれたので、ホッとしたが、湖の湖面が黒く渦巻いて盛り上がるのを始めてみた。何ともいえない恐ろしい光景だった。

 先のことは、本当に何が起こるのかも解らない。世界は、滅びへと向かっているのかもしれない。

 もし、ガナー様がいらっしゃらなくて、湖をなだめる事が出来なったなら、自分は、今夜、湖に飲み込まれる運命だったのかもしれないと思うとぞっとした。

 一日も早く陽扉艦ようひかんを見つけなければと、ひしひしと実感したアインだった。



マハムド、本当にいいやつだね。男の戦いは熱く繰り広げられる!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ