ナハルの容赦ない反撃
これは、大きな戦いの前触れか!
ナハルの容赦ない反撃
ナハルは、部屋の中に入って、昨夜の夢を思い出す。
甘い記憶が蘇る。触れた唇は柔らかくて、体が、とろけそうになった。
二人重なり合って、溶けていくようだった。 山賊騒ぎで忘れていたが、あの時、ガナーが、慌てて僕の唇から、口紅をふき取った。
もしかして、龍神の夢は、途中から現実で、僕はガナーに口づけしたのだろうか?
だからといって、何かが変わるわけでもないが…。
夢の中では受け入れられたのに、目を覚ませば、突き放す人…。そして、僕を傷つけたと泣いた人…。
切ない。ガナーの心は、何処にあるのだろうか?
届きそうな気もするのに、マハムドの顔を見ると、現実に引き戻される気がして、辛い。
もし、ガナーの心が手に入るなら、何を引き換えにしても、惜しいものなんて無いのに。
アザリーの足の手当てをしようと包帯を外したアインが悲鳴を上げた。
「…」
アインは言葉を失ってブルブル震える。
「…アイン? …」
アインの様子に不安になったアザリーは、自分の足を覗き込んで言葉を失った。
皮膚がケロイドのように溶けて崩れている。
痛みはないが、血も出ていた。
「ガナー様、痛みますか?」
アインは悲痛な顔でアザリーを見上げた。
アザリーも、さすがにショックで、言葉が出なかった。
「…」
アインは、泣きながら手当を終えて、それでも泣き止まずに、ますます泣き出してしまった。
アザリーは、やっと我に返り、アインをなだめる。
「アイン。大丈夫よ。痛みはないし、メリドは、もう直ぐだわ。泣かないで、信じるのよ」
「ガナー様…」
アインは涙をこぼしながら、アザリーを見上げる。
「大丈夫! きっとうまくいくわ!」
じっと目を見て力強く言うアザリーに、アインは、涙を拭いて頷く。
「ガナー様、申し訳ありません。本来なら、私がお支えしなければならないというのに」
「ありがとう。私の代わりに泣いてくれて。私は今は泣けないから。アインの涙で我慢するわ」
アザリーは、今泣いてしまったら、何もかもをあきらめてすべてを壊してしまいそうな、自分のもろさを、信じることで堪えている。
「大丈夫です! きっとすべてうまくいきます!」
アザリーの気持ちを汲み取って、アインもきっぱりと言葉にして笑って見せた。
ナハルが、宿屋の下働きが用意をしてくれたお湯を使い、着替えてマハムドの部屋へ行くと、ガナーの姿は無かった。
女性は、支度に時間がかかるものだ。
待っている間に、イレックの王子に会った話をマハムドに話した。
「そうか、グリームは、イレックと手を組んだのか。好ましくない展開だ」
「もともと、イレックは、メリドを狙っていた。エルドとどっちを先に仕掛けるつもりか解らないが、最終的には、両方傘下に入れるのが狙いだろう」
「水は、貴重な命の源だからな」
「そうだ、米も、ジュートの栽培も、豊富な湖の水があってこそ出来る事だしね。水がなくなっては、生活が成り立たない」
「しかし、皮肉だな。命の水の増水に悩まされているとは」
「確かに」
相槌を打ちながら、ガナーはまだだろうかと気になる。
「…ところで、ガナーは遅くないか? 何時もこんなに時間が掛かる?」
「そういえば遅いな。宿のメイドが手違いでもしたかな」
「ガナーの部屋は、女性専用の棟だったね。こっちの部屋に来るには専用の回廊を通らないといけなかった」
そういいながら、ナハルは、焦りを覚えていた。
イレックのアジームファーザ王子の言葉が急に頭をよぎったからだ。
まさか同じ宿にいるとは思っていなかったが、なんだか嫌な予感がする。
「ちょっと、様子を見てくる」
ナハルが立ち上がったのと同時くらいに、ドアに倒れ掛かるように、アインが
駆け込んできた。
「アイン! どうしたんだ!」
「ガナー様が、連れ去られました!」
ナハルは、嫌な予感に、あせる。
「! …ガナーを連れ去ったのは、どんな奴だ」
「ナハル様と同じ色のクーフィーヤをつけた背の高い男で、昼間ガナー様を見かけたと言っていました。ブルカをつけていたにもかかわらず、同じ香りがするといって…」
「イレックの王子だ! まさか、この宿に奴もいたのか!」
「宿屋の主にどの部屋か聞いてくる」
マハムドとナハルが飛び出す後を、アインも追った。だが、教えられた部屋には、誰もいなかった。
「クソッ! やられた」
ナハルが、悔しそうに叫ぶ。
「連れ戻しに来る事を見越して、にげたか!」
やっと、ナハルに追いついたマハムドが息を切らせて言った。
「まだ、そう遠くへは行っていないだろう。誰か見ているものがいるかもしれない」
ナハルが、部屋を出ようとすると、追いついてきたアインが、ヘルの兄を連れてきた。
「マハムド様、もしかして、お嬢様に何かあったのでは?」
「ハスン、何か知っているのか」
「さっき、クフィーヤを被った背の高い男が、ブルカをつけた女の人を担いで出て行くのを見たんで。この辺でブルカをつけているような女性は珍しいんで、もしや、ヘルに、ヒジャブを買って下さった、だんなの妹さんではないかと思ったんですが、そうなんですか?」
「それだ! 何処へ行った?」
ナハルが声を上げて詰め寄ると、ハスンは、驚いて恐縮し、急いで跪き、額を床につけた。
「は、はい、変だと思ったので、知り合いに後を付けさせました。それで、とにかくお知らせしようと」
ハスンの、あまりにも恐縮する態度に、ナハルは不審な顔をする。
マハムドが横から耳打ちした。
「ヘルに姿を見られただろう。君の素性は、宿屋の主にも知られている。ま、口止めはしておいたが、ハスンが知っていても不思議は無い。ヘルの兄だからな」
ガナーが、口紅をふき取った、あの時かと、思い出す。
ヘルのおかげで、口づけが、現実か、夢だったのかがあやふやになったのだった…。
たとえ、現実だったとしても、婚約者のいるガナーが、受け入れてくれるはずも無い。
夢の中の出来事で良いんだと、自分に言い聞かせる。
山賊を退治してくれたマハムドに、町の男達は協力的だった。
行く先々で情報を教えてくれた。
夕暮れになっていたにもかかわらず、イレックのアジームファーザ王子が、ガナーを連れ込んだ場所の確定には困らなかった。
しかし、ナハルの正体を知り、追っ手が来ることを見越しているアジームファーザ王子だ、ナハルやマハムドが、簡単には入り込めない場所に逃げ込んでいた。
ガナーは、アジームファーザ王子にかつがれて馬に乗せられ、この館に連れてこられた。
そのまま、寝室のベッドに放り投げられる。
さらわれた娘は、男に、貞操を奪われるのが常識だと聴かされてきた。
時々聞かされる、女の子に起こる悲劇だが、案の定、いきなり寝台の上だった。
まさか、自身にそんな悲劇は起きてほしくない。
きっと、ナハルやマハムドが助けに来てくれるはず。
それなら、時間を稼げば良いかしら…? と思う。
クーフィーヤを外した、アジームファーザ王子が、寝台の側に近づく気配が感じられる。
茶色の長い巻き毛から、やっぱりむせ返るような強い麝香の香りがした。
ドウップが熊なら、彼は長い鬣をもさもさにはやした獅子だろうか、凛々しい眉や、精悍な顔立ちは王者の風格がある。
好ましいかと言うと、それはまた別の話だ。ガナーの好みではないらしい。
「乱暴な事をして悪かったな」
「衣服を緩めて少し休むといい」
彼は、ガナーのブルカを外そうと手を伸ばす。
ナハル、早く来て、間に合わなかったらどうしよう。
指先が頬に触れるだけで寒気がする。もしかして、今、貞操の危機?
腕を掴むガッシリとした、大きな手には、抗う事もできない。
「やめてください! 足を怪我しているの乱暴にしないで!」
「大人しくしていれば乱暴はしない。いうことを聞け」
ガナーは、抵抗したが、簡単にブルカを外されてしまう。
ブルカの下に隠されていた、ガナーの姿を、彼の前にさらすしかなかった。
それは、朱色の鮮やかなサリンに身を包んだ、女神のように美しい姿。
ひときわ目を引くのは、流れるようにサラサラと輝く長い黒髪だった。
アジームファーザ王子は、思わず見入ってしまう。
「まさか、…エルドのアザリー王女か?」
輝くような見事な黒髪の絶世の美女。
「こんな女性は、二人といないと、男どもが噂していた?」
いや、多分その男どもの話も、噂で聞いただけのはずだ。
実際に目の当たりにすると、言葉もなくただ見つめるしかできなくなる。
その彼女が、可愛らしく不満そうに口を開いた。
ああ、ちゃんと話もするのだ…。
「お腹空いたわ。私、昨日は山賊に追いかけられて野宿だったの、やっと食事をいただけると思ったのに、あなたに連れ出されて食事をしていないのよ。食事を用意してくださらない」
声も可愛い! 不満を言われているのに、可愛くて仕方がない!
「あ、ああ、それはすまなかった。直ぐに用意させよう」
「他にほしいものはあるか? 可愛がってやろう。大切な花嫁だからな」
「私、指輪も、ネックレスも、くれない人の花嫁になんかなりません」
「口の減らない女だ。後でちゃんと用意してやる」
「大切な手順を後回しにするって言うのですか? イレックの王子様ともあろうかたが? 信じられないわ!」
なかなか憎まれ口を利いてくれる。可愛いので、少し虐めてみたくなる。
「…囚われの身だと言う事を忘れていないか?」
「忘れてないわ。ちゃんと大人しくしているでしょ」
そういう割にはずいぶんでかい態度な気がするが…。
「まあ良い、そのくらい元気な方が、奪い甲斐があると言うものだ」
「私、何も持っていないわ。旅の途中なのよ?」
見当はずれなことを言うのも可愛い。説明するのも無粋な気がしてごまかした。
「…そういう意味じゃないが、…まあ良い。跡で解る」
彼は、ガナーの顎を持ち上げて顔を覗き込む。
「極上の宝石は、わがままを言う資格がある。お前のわがままは、許してやろう」
ガナーは、彼の手を振り払う。
「私、あなたに障られるのはあまり好きじゃないわ」
憎たらしいことを言うので、少しムッとしたが、所詮は自分の手の内だ。
「後でじっくり調教してやろう。楽しみだ」
彼は、そう言って部屋を出て行った。
ガナーは、一人になると、ポツリとつぶやいていた。
「ナハル…助けに来て…」
塀の外で、ナハルは、あせっていた。
一刻も早く助け出さないと、ガナーの無垢な心が壊されてしまう。
今、どれほど怖い思いをしているだろうかと思うと、いてもたってもいられなかった。
ガナーが、他の男に汚されるなど、絶えられない。
もし、指一本でも触れようものなら、そいつを引き裂いて殺してやる!
はらわたが煮えくり返るような怒りと、ガナーが、どれだけ傷つくかと思うと、ぎりぎりと心臓をいばらのとげで締め上げられているように苦しかった。
マハムドも同じ気持ちだろう。何時もより眉間のしわが深く、厳しい顔をしている。
二人で、あせる気持ちを抑え、ガナー救出の為の策を練る。
「普通の民家だから、乗り込むのは、簡単に出来そうだ」
「だが、護衛の兵士の宿所だ。乗り込んでも捕まるだけだ」
マハムドが、腕を組みながら答える。
「そんなのんきなことを言ってはいられない! ガナーが傷つけられる!」
「落ち着け! ナハル。彼女は、ああ見えて案外しっかりしている。相手を自分のペースに巻き込んで、ちゃっかり思い通りにしてしまう所がある」
「え、…まあ、確かに度胸の据わったところがあるが、…だが、か弱い女だ!男の力には抗えない。もし…」
ナハルが、気が気でない様子で言いかけた言葉を、マハムドが遮って続けた。
「大丈夫だ。きっと、無傷で助けを待っている。ガナーの美貌を甘く見るな。大抵の男は、魅了してしまうだろう。彼女の笑顔の直撃を受けて固まる男達を数え切れないほど見て来た」
確かにそうかもしれない。ガナーは、女神のように美しい。だが、ガナーの顔を見られるのも、悔しい気がする。
マハムドに諭され、ナハルも、少し落ち着きを取り戻す。
マハムドは、彼の様子を見て、少し以外に思う。
何時も澄ました顔をして、クールな彼が、ガナーのことで、こんなに取り乱すのかと。
彼のガナーに対する気持ちは、いい加減なものでは無いとわかる。
今までつかみどころの無い男だと思っていたが、人間らしい所もあるのだ。
「兵士が邪魔だな。寝込みでも襲うか?」
彼の言葉に、フッと思い出した。マハムドは、懐から、小さな袋を取り出す。
「ナハル、これを使えばいい」
マハムドが、取り出した袋に目をやり尋ねる。
「これは?」
「眠り薬だ。山賊退治のために、村の男達に刀を買った時、商人に、役に立つからと売りつけられた。酒に混ぜて飲ませてしまえば、即効性があるそうだ」
二人の作戦は着々と進められた。ハスンに、祝い酒だといって、兵士に酒を配らせるように、民家の厨房の知り合いに話をさせる。
知らない男が、持ってきたといわせれば、民家の料理人に咎めは無いだろう。
町中が、山賊が退治されて、祝いムードだ。
娘を助け出された商人の家でも、振る舞い酒を配っていた。ころあいも、ちょうど夕食の時間だ。
アジームファーザ王子は、夕食をとっていた。ガナーは、先に食事を済ませ、落ち着きを取り戻していた。
きっと、ナハルとマハムドが助けてくれると信じている。
「お前は、食べないのか?」
アジームファーザ王子が尋ねる。
「さっき食べたばかりだもの」
「そうか、では、酒でも飲むか?」
彼は、酒の入ったグラスを手に、側に来て寝台の端に腰掛ける。
「お酒は、あまり好きじゃないの」
「私を警戒して飲まないのか」
「警戒? 如何して?」
お酒の力で自由を奪われることを知らないガナーは、曇りも、警戒心も微塵も持たない真っ直ぐな瞳で、彼を見る。
その瞳の直撃を食らったアシームファーザ王子は、目をそらして、手にしていたグラスを一気に飲み干した。
この状況で、如何してそんな顔が出来るのか戸惑う。
自分が、悪い事をしているような気持ちにさせられる。
人攫いは十分悪いことだが…。
その瞳の輝きが、まぶしすぎて、目をそらさずにいられなかった。
屈服させられたようで、イラつく。
いっそのこと、思い通りにしてやろうか。
彼の中に芽生えた欲望が広がる。
ガナーをじっと見れば、細いなおやかな首筋、豊かな胸元、何より凛とした美しい顔立ち。
腕の中に組み敷いて、屈服させてやったら、どんな顔をするのだろうと思うと、ゾクゾクした。
彼はいきなり、手を伸ばして、ガナーの腕を掴んで引き寄せる。華奢な身体は、簡単に思い通りにされてしまった。
寝台に散らばった輝く黒髪の中心から、怯えた顔で彼を見つめる。
おかしい、…こんな顔をさせたかったわけじゃない。
無垢な瞳が怯えるさまは罪悪感を湧き上がらせる。
アジームファーザ王子は、罪の意識に固まった。
ガナーは、危機を感じる。
捕まえられた腕は、びくとも動かせないし、折れそうに痛い。
男の力の強さを思い知らされる。
ガナーを見下ろすアジームファーザ王子の表情は、何の感情も感じられず、緊迫した雰囲気に呑みこまれそうだった。
アジーム王子は怖がらせてしまった罪の意識で抱き起そうとした。
彼の手が掴みかかるように伸びてくる。
怖いと思った瞬間、思わず叫んでいた。
「ナハル! 助けて!」
ガナーのナハルを呼ぶ声に、眉を寄せて不愉快そうな顔をした、アジーム王子は、そのまま寝台の横に崩れるように蹲る。
即効性の睡眠薬入りの酒が聞いたようだ。
ほぼ同時に、ドアが蹴破られる大きな音と共に息を切らせて駆け込んできたのは、ナハルだった。
「ガナー!」
「ナハル!」
ナハルは、都合よく、寝台の横に蹲るアジームファーザ王子の背を踏み台にして寝台に駆け上がる。
アジームファーザ王子の背は、ナハルの踏み台にされて、まるで大きな水袋のように反り返った。
「ガナー、大丈夫? 怪我は無い?」
ゆっくり起き上がったガナーは、まだ声も出ない様子で頷く。
ガナーの取り乱した様子に、一気に頭に血が上ったナハルは、剣を抜く。
「こいつに何かされた? もし、君に触れたなら、その腕切り落とす」
ナハルは、エメラルドの瞳を憎悪の炎で燃え上がらせて、アジームファーザ王子を見据える。
そのあまりの剣幕に、ガナーは、ナハルの首に腕をからみつかせて抱き付く。
「何も! ナハルが来てくれたから、何もされなかった」
からみつくガナーの腕と甘い香りに、落ち着きを取り戻して、無防備なその柔らかい体を抱きしめた。
「間に合った? 良かった。君が僕を呼ぶ声が聞こえた時は、心臓が止まるかと思った」
後から、マハムドと、アインが駆け込んできた。
「ガナー!」
「ガナー様」
ナハルが、ゆっくり振り返るが、ガナーは、しがみ付いたまま小刻みに震えていた。
安心して、震えが出てきたようだ。
ナハルにしがみ付いたまま、離れようとしないガナーを、彼は、黙って抱き上げた。
「ああ、大丈夫だ」
そして、アジームファーザ王子の背を踏み台にして、しっかり踏みしめてゆっくり寝台から降りる。
ナハルの足の下で大きな水袋が、真ん中を踏まれ、両脇がピコット飛び出すように、アジームファーザ王子の背がしなって反り返る。
「あ!」
「あ、…」
マハムドと、ナハルが、同時に声を上げた。しかし、二人の考えは、まったく別だった。
ナハルは、振り返って、寝台の隅においてあったブルカに、気が付いたようだった。
マハムドの視線は、ナハルの足にしっかり踏みしめられ、大きな水袋のように反り返る、哀れなアジームファーザ王子の背中を見ていた。
ナハルは、もう一度ガナーを抱えたままアジームファーザ王子の背中をふんづけて、寝台に上ると、ブルカを取って、帰りもまたしっかり踏みしめて戻ってきた。
その度にアジームファーザ王子の背は水袋の真ん中を踏まれ今にも袋が破れて水が飛び出しそうなくら反り返る。
「ふ、踏んでる…」
マハムドが、気の毒そうにナハルに声をかけるが、ナハルは、しれっと答える。
「ああ、邪魔なもので、つい」
アジームファーザ王子の白いクルタの背には、しっかり、ナハルの、三往復分の足跡が付いていた。
いい気味だと思う反面、少し気の毒な気がした。
ナハルは、背の高い立派な男だ。それなりの重さがあるはずだ。その上、ガナーを抱いている。かなりの重さが掛かったことだろう…。
「しかし、こいつまで眠ってしまうとは、予想外だった。起きていれば、思う存分殴ってやったのに残念だ」
ナハルは、あれだけ容赦なくふんづけておいてまだたりないようだった。
しかし、意識が少しでも残っていたら、水袋のようにふんづけられ、反り返るしかできなかった、彼にとって、相当の屈辱だと思う。
もし、マハムドであったなら、避けるか、どかすかして通っただろう。
しかし、ナハルにはその発想はなかったようだ。ガナーしか目に入っていない。
ナハルの容赦の無さに苦笑いをするマハムドだった。
アジームファーザ王子、ちょっと気の毒だったね