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麗しの歌声は、砂漠を潤す  作者: 水花光里
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マハムド峠の山賊に恨みを買う

よし、強行突破じゃ!

  マハムド峠の山賊に恨みを買う

 五日目の朝、シャーイ村を後にして、アーヒル村を目指す。

 少しづつ国境に近づいていた。

 国境に近いせいか、人家もまばらで、 紅茶の畑が延々と続いている中を走っていく。

 このまま何もなければ、昼過ぎころには、アーヒル村に入る予定だった。


「紅茶の畑がとてもきれいだね」

 ナハルは、見渡す限り広がる茶畑を眺めて、気持ちよさそうに言った。

 茶葉は、風に揺られながら、朝日を受けて金色の光を散らしている。

 朝の澄んだ空気に包まれ、金色の光が飛び交う景色を、ガナーは、一生忘れないだろうと思った。


「そうね。この緑の葉っぱが、あんなに綺麗な赤い色になるなんて不思議ね」

「本当だね。僕は、紅茶の葉っぱは赤いものだと思っていたよ」

「私もよ。シャーイ村に来るまで知らなかったわ」


 並んで走っていたガナーと、ナハルの間にマハムドが割り込んできた。

「この辺りで、シャーイ村最後の農家になるから、いったん馬を休めて水をやるために、休憩をとる」

「マハムド、もう少しでアーヒルなのね」

「そうだ、国境の村だ。農家を過ぎたら、しばらく何もない。水分を取って、体を休めておきなさい」


 立ち寄った、農家の主人は、気持ちよく水を分けてくれ、お茶を出してくれた。

「旦那方は、グリームに行きなさるんだかね?」

「そうだ、国境を越えていく予定だ」

「気を付けなされ、アーヒルには、峠の山賊にやられて、怪我だらけのものが、しょっちゅう逃げてくるそうだよ」


 山賊の話は、アザリーを不安にさせた。

 それは、ここに来る前も賊におそわれたが、あれは、貧しさゆえにやむ終えずなってしまった物取り程度だが、山賊となると、おそらくある程度組織化した集団だろう。


 予定通り昼過ぎごろに、アーヒル村に着いた。

 そこから少し走って、村長の家に泊めてもらう手はずが出来ていた。

 村長の家に着くと、大勢のものが集まって、何やら騒がしい様子だった。

どうやら、商人のキャラバンが峠で、山賊に襲われ、数人が逃げてきたらしい。ひどい怪我で村長の家で手当てをしているようだ。

 助かったのは、その数人だけで、二十人ものキャラバンが全滅だったらしい。

 商品もすべて取り上げられ、命からがら逃げてきたようだ。


 怪我人の手当てで忙しくしている人々の中で、アインも必死だった。

 ガナーの足を何としても守らなければと、やっとのことで、お湯をもらい、村長の家であてがわれた離れの部屋の戻ってきた。

「ガナー様、お湯をもらってきました。おみ足は、痛みませんか? 手当をしましょう」

「アイン、ありがとう。大変だったでしょう? お湯をもらえたの?」

「当然です。ガナー様のおみ足は,金よりも尊いのですから!」



   

旅を始めて六日めの朝、エルドの境、アーヒル村の村長の家の客室で、マハムドとナハルは、難しい顔をして向かい合っていた。 

 アインが、ドアを開けてガナーを支えて中に入れると、ナハルが歩み寄ってくる。


 ガナーの足は、アインがせっせと湯桶で温めてくれたりしていたが、その時は温まっても、直ぐに冷たくなって、良くなる兆しは見えなかった。

 やはり、呪いを解くしかないのだろう、夢の中で龍神を飲み込んでいた、あの黒い影に捕まってしまったのだと怯えていたガナーは、ナハルの顔を見ると、縋り付きたくなってしまう。


 いち早く側に来た、ナハルをうるんだ瞳で見つめてしまう。

 その様子にすぐに察したナハルは、アインからガナーを引き取り抱き上げた。

「ガナー、ここまで歩いてきたの、僕を呼んでくれればよかったのに」


 彼の行動は素早い。また、マハムドは先を越され出番がなくなってしまう。

「軽く躓いただけじゃなかったのか? 随分包帯を頑丈にまいているが、やっぱり、医者に見せた方が良いのじゃないのか?」

 マハムドは、悔しさ半分心配半分で、眉間にしわを寄せながら言う。

「君は野暮だな。せっかくのガナーを抱き上げるチャンスなのに、僕が逃すはずないだろう? ここは、黙ってみぬふりをするのが紳士と言うものだ」

「何だと? が、ガナーは、私の…」

「僕の婚約者だ!」

 マハムドの言葉を遮って、ナハルが言い切る。

 確かに、そういう設定で、マハムドは、何も言えなくなってしまって、悔しさに奥歯をかみしめて我慢する。まるで苦虫をかみつぶしたような顔だ。

 それでも、何も言わずじっと我慢しているマハムドが、けなげに思える。


 ナハルは、ガナーを座らせ、肩を抱いてそっと、耳元で話す。

「大丈夫だよ。ちゃんと、前に進んでいる。君は前だけを見ていればいいんだ。振り向かないで、わき目も降らないで、全て僕が守るから心配しないで」

 ナハルの言葉は、暗示のようにガナーの心にしみる。

 弱い心に負けそうになってしまったガナーを、ナハルはいつもこうして励ましてくれる。

 彼がそばにいるだけで、悪い考えが崩れ落ちて消えていくような気がする。


 やっと気を取り直したマハムドが、側に来て座る。

「おはよう。ガナー。良く眠れたか? 疲れは残ってないか?」

「ええ、お兄様」

 ナハルのマジックでこころをおちつかせたガナーは、ニッコリ笑ってみせる。

 何時もの毅然としたエルドの王女に戻った。


「難しい顔して二人で話していたのは、やっぱり山賊のこと?」

「エルドの国境の、アーヒルを出たら、グリームにはいるが、危険な街道を越えなければならない。山賊がはびこっているようで、頻繁に旅人が襲われているらしい。それで、別のルートも考慮したのだが」

「グリームって、要注意の国だったわね。確か、軍備を整えて、エルドに、攻め入るのではないかと懸念されてて…」

「そうだ。街道を迂回して町へ入るには、グリームの王城近くまで入り込まなければ成らない」

「要するに、山賊を相手にするか、グリームを相手にするかってことだ」

「それは、山賊の方がいいんじゃない?」

 余りにも、あっさりと言うガナーに、ナハルが、クスクス笑う。

「君は、度胸がいいね」

「確かに、一国の軍隊より、2、3十人の山賊の方がましだが、どっちも危険だ。出くわさない方法もある」


「それはだめよ。別の方法を考えて」

 まだ、何も言わないうちに、あっさり否定され、マハムドは、出鼻をくじかれる。

「だが、君を危険な目に合わせるより、一度帰って出直すべきだ」

「きっと、許してもらえないわ」

「とりあえず、メリドと、和平を進めて正式な訪問なら、十分な護衛も付けられる。君に危険が無ければ、許してもらえる」

「出来うる限り、父上を説得しては見るけどね。重臣たちも頭が固いし、時間は掛かるだろうね」

 ナハルは、否定的な言い方をした。そんなにかかっては、ガナーの足がどうなるか分からない…。

 アインも心の中で叫んでいた。そんなにまてません!


「それでは間に合わないわ。きっと、何十年も掛かるわ! 滅びの序章は既に始まっていると言うのに」

 実際に我が身に降りかかっている湖の呪いが、全ての民に降りかかるのかもしれない。

 龍神を飲み込んでいくあの黒い影が、そして、ジナーフを引き込んだ黒い水が、人々を飲み込んでいく。

 抗い苦しむ人々の姿が思い浮かぶ。

 それはまるで地獄絵のような光景だ。

 想像に耐えない恐ろしさに身震いする。


 ガナーは、切実な瞳で、一心にじっと、マハムドを見る。

「…」

 今までにない彼女の真剣なまなざしにマハムドは、言葉を失って、目をそらす。


「君は、和平が成立する前に、世界が滅びると心配なの?」

「…龍神様は、とても苦しそうで…。私が無力で何も出来ない内に世界が滅びてしまったら、竜神様だけじゃない、多くの民が犠牲になる。沢山の命が失われるわ。全て私の無力のせいで」

 ガナーは、涙を溜めた瞳を伏せて、俯くと涙が一滴零れ落ちた。


 ナハルは、ガナーを抱きしめ、その上とんでもない言葉をこぼした。

「解ったよ。君の苦しみは、僕が引き受けると約束したね。僕に任せて」

「ナハル、街道を行くと言うのか!」

「マハムド、腕に自信はあるのだろう? アイン、お前は、剣は使えるのか?」

「はい! 私は、護衛もかねているので、一応は使えます」


 いきなり話を振られたが、アインはやるしかないと決意を込めて答えた。

 いつもしっかりヒジャブを被ってはいるが、服装は、丈の短いジャーキートにシャルワールという、動きやすい服装なのは、ガナー様の護衛のためだ。


「アインの腕前は確かだ。その辺の下級兵士に引けは取らない」

 マハムドは、何時もガナーの安全重視のアインが積極的なのを不思議に思いながらも、アインの腕前をほめた。


「それなら問題は無い。自分の身くらい自分で護れるだろう。ガナー一人なら、僕一人で護れる」

 何時までも、ナハルが、ガナーを抱きしめているので、我慢できなくなったのか、マハムドが、ガナーを引き離して、別の場所に座らせ、今度は、自分が隣に座り満足する。

 

 ガナーは、ナハルから引き離され、物足りなさそうにナハルの方を見ていた。


 ガナー様は、無意識のところで、ナハル様の腕の中が心地いいのだろうと、アインは、秘かに感じていた。

「そこまでいうなら、怪我一つさせずに護りきる自信があるのだろうな。ガナーに怪我をさせたら許さないぞ」

「もちろん」

「私! きっと、世界を救うと、約束するわ」

 さっきまで泣いていたガナーが、キラキラした瞳で、マハムドを見る。


 相変わらず、ガナーの頭の展開には付いていけないが、真横で、その瞳を見下ろしながら、隣に座って良かったと、満足した。

「しかし、私以上にガナーに甘い人間がいるとは思わなかったな。私はまだ、君ほどではない。君はガナーに弱すぎる所が弱点だ」

 皮肉を言いながら、彼の唯一の弱点かもしれない。と、ふと思ったマハムドは、なんだか無償に腹が立った。


 ナハルは、無表情な顔で、チラリとマハムドを見て言う。

「ガナーに泣かれて、平気な男なんていないさ。それに、おそらくメリドの民も、ガナーと同じくらい緊迫した気持ちで救いを求めている。一日でも早く救いたい」


 ナハルは、席を立って、ガナーの側に膝を折る。

「それより、夕暮れ前に、街道を通り過ぎたい。今日は一日体を休めて、明日は、夜明け前に出発しなければならない。だから君は、部屋に戻って体を休めておくんだよ。僕が部屋まで送ってあげよう。おいで」

 ナハルは、ガナーを抱き上げ、怱々に、部屋から連れ出す。


 (ああ、マハムド様も、お気の毒に。せっかくガナー様の隣を陣取ったのに、またしても、ナハル様にさらわれてしまって) 

 マハムドは、呆然と、ガナーが出て行ったドアを眺めて固まっている。


 翌朝、まだ、日の明けない暗いうちに、村長の家を立った。

 冷たい空気が、不安な心を余計に掻き立てるようで、マハムドも、緊張の色を隠せないようだった。


 ナハルを見ると、何時もの無表情で、緊張の様子はなかった。目が合うと、何時ものようにニッコリと微笑んでくれた。

 その笑顔にホッとさせられる。彼がいれば大丈夫! 彼の存在は、何故か心を落ち着かせてくれる。


 暗い道を、ランプの灯りを頼りに進む。

 やっと、アーヒル村を出るころに、日がさし始めていた。いよいよ、グリームに入る。 

 ここからは、色々な事に注意が必要になる。 出来るだけ、人に会わずに進みたい。そして、少しでも早くに、難所を通り抜けたい。

 出来れば、山賊などに出会わずに。

 皆、無言で馬を走らせる。


 途中、少しだけ、馬を休ませ、昼食を取っただけだったが、難所である、森を抜ける街道に付いたころには既に、夕暮れの気配が漂い始めていた。


 ナハルは、ガナーの馬の手綱を取り、馬を、ぴったり寄せる。

「いいかい、何があっても、僕の側を離れないで。出来るだけ姿勢を低くして、落ちないように、しっかりつかまっていて」

 ナハルは、落ち着いた口調でいい、緊張でこわばるガナーの手を、両手で包み込む。

 その手のぬくもりを、とても、頼もしく感じた。彼の温もりは、とても、心地いい。そのぬくもりが、側に無いと、不安になるほどに…。

「はい。大丈夫よ」

 気丈に微笑むガナーに、微笑んで頷き、後ろの、マハムドと、アインに向かって言う。

「僕が先に切り込んで突破するから、遅れずに付いてきてくれ」

 二人、緊張した様子で頷く。

「いっきに突っ切るから、飛ばすよ」

 ナハルは、ガナーの馬の手綱を掴んで馬を

走らせる。


 森の中ほどに差し掛かった辺りで、予想通りというか、ばらばらと、薄汚い、人相の悪い、いかにもと言ういでたちの男達が、

あちこちから姿を現し、いきなり岩陰から飛び掛られたマハムドが、体勢を崩したが、さすがにエルドの勇者だ、簡単に振り落としてしまう。

 振り落とされた山賊は悔しそうに後ろから走ってついてきた。


 山賊は、先頭の二人より、金品を預かるのは、後ろの二人と睨んだのか、マハムドと、アインに攻撃が集中する。


 山賊共が持っているのは、せいぜい短剣で、マハムドも、アインも、長剣を持っている分、有利だが、それでも、あちこちから、秩序無く向かってくる刀を必死で払い、馬で蹴散らすだけで、精一杯だった。


 小岩の上に飛び乗った男がくさびの付いた縄をぐるぐる振り回してナハルを狙っている。

 先頭の二人は、捕らえようとの算段なのだろう。

 男は得意そうにビュンビュンと音を立て楔を振り回している。

 まるで自分の手にかかったら逃げられないと思い込んでいるように自信満々な様子だ。

 その楔の付いた縄で、ナハルをがんじがらめにしてとらえるつもりなのだろう。捕まってしまったら、さすがのナハルでも身動きが出来なくなってしまう。

 狙いを定めた男がかっこよくひゅんとナハルに向かって楔を投げた。 

 男の手を離れた楔が、真っすぐに飛んでナハルに襲い掛かる。

 男は勝利を確信してニヤリと笑った。飛んで行った楔と縄がナハルに巻き付いて動きを止めるはずだった。

 

 しかし、ナハルは、飛んできた楔を、キンと言う金属音と共に、剣ではじき返してしまった。

 打ち返された楔は男の予想を大きく裏切って真っ直ぐ持ち主の腕めがけて飛んでいった。

 敵を捕まえる筈の楔が、まさか戻ってきて自分に襲い掛かるとは思ってもいなかったようだ。

 信じられないものでも見たように目を向いてただ固まっている。

 避けるという考えは浮かばなかったようだ。 

 案の定楔くさびは、男のむき出しの腕にぐさりと突き刺さった。おまけについていた縄が男の体をぐるぐる巻きにした。 

 男は、ギャー! と、悲鳴を上げて飛び上がって、ぐるぐる巻きに絡まった縄のせいで身動きが出来ないまま岩の上から転げ落ちた。


 やっとのことで縄から解放された男は、涙目で刺さった楔を抜いている。痛そうだ。


 ナハルは、右手に剣を持ち、左手に、ガナーの馬の手綱をしっかり握って、ガナーを守る為に、左へ迂回する。

「左側を突っ切る。」

 閃光のように、ナハルの剣がひらめく。

 金属の触れ合う音が聞こえるだけで、山賊たちが倒れて蹲る。

 早い!なんて速さなんだ。

 しかも、蹲った男達は、起き上がれない様子だった。

 その有様に、さすがに怖気づいたのか、男達は、ナハルの側から引き気味に成る。

「ひるむな。一人も逃がすんじゃねぞ!」

 頭らしい髭もじゃの大男が、怒声を上げると、直ぐに、他の男どもが左側へ加勢に駆けつけた。


 涙目で楔を抜いていたくせに、男は、もう一度ナハルを狙うために再び立ち上がった。

 しぶとく、楔の付いた縄をぐるぐる回して狙いを定めている。

 今度こそはと又、楔を投げるが、ナハルは、大勢の男たちを相手にしながらも、余裕で再び、その楔をカキーンと剣で打ち返す。 

 その楔は、またも、真っ直ぐ持ち主に向かって飛んで行った。

 二度目も戻ってきてしまった楔に慌てふためいて、尻を向けて蹲った。

 そうしたら楔がどこかに行ってくれるとでも思ったのだろうか?

 案の定まっすぐ男の尻めがけて飛んで行った楔は、ためらいも無く、尻にぐさりと突き刺ささった。

 ギャー! と、男の悲鳴が森に大きく木霊した。


 そして、お座りをして後ろを向き、絡まった縄をほどき、再び、涙目で楔を引き抜いた。

 半泣きで顔をゆがめている。それでも、三度目の挑戦を試みる。なかなか根性がある。

 どんなに無謀でも、三度目の挑戦に挑んだ!

 しかし、三度目も、あっけなく簡単に打ち返されてしまった。

 自分めがけて向かってくる楔におびえながら目を見開いていたが、

 さすがに、三度目には、打ち返された楔をよけようと、縄を操作する事を思いついたらしい。

 なるほど、…紐をひぱってみた様だ…。

 縄を思い切り引き寄せた。

 引き寄せられた縄は、速度を増して先端に結び付けられた楔を正確に持ち主の肩にくいこませた。

 三度目、男はぎゃっ! と悲鳴をあげ飛び上がり、小岩から転げ落ち、目をまわして倒れた。

       

 ナハルは、それをチラリと確認し、頭上に視線を向けた。

 と同時に、木の上からガナーの馬に男が飛び乗った。

 ガナーは、怖くて声も出ない。後ろから抱えられて、体が、グラリと傾く。

 馬から引きずり落とされると思ったとき、ナハルにグイッと、腕を引かれて引き寄せられた。

 ナハルの剣が、二度ばかり動いたような気がした。

 ほんの一瞬で、キラリと煌いた様な気がしただけだったのに、突然男は腕をだらりと下げて、ナハルに馬から蹴り落とされた。

「ガナーに、抱きついていいのは僕だけだ」


 そうなのか。と思いながら、ガナーは、馬の足元に転げ落ちた男を、こわごわ見ていた。

 腕を使えないようで、起き上がるのに苦労している。馬が踏んでしまいそうでひやひやした。

「大丈夫?」

 ナハルに、声を掛けられて、声も出ずに、頷いた。


 ナハルは、四方から突き上げられる刃を、ことごとく蹴散らしていく。

 金属のぶつかる音と火花が飛び散る包囲を突き破り、左へ迂回する。

 回り込まれて、ガナーに怪我をさせないように、左へ左へと、迂回して進む。

 

 マハムドとアインは、ナハルのスピードに追いつけず、少しずつ離されていた。  

 アインも、必死で追いついて行こうとしているが、目の前の敵に阻まれ、ガナーと、ナハルの側に行けないようだった。


 ナハルが、ガナーと左へ迂回していく。

 だめだ、街道をそれてしまう! 

 ガナーを、かばっているのだろうとは解った。


 マハムドは、自分がガナーの左へ回って援護したいと思ったが、目の前に、山賊の親玉らしい、毛むくじゃらの大男が立ちふさがって、前を阻む。

 なかなか手ごわい。


 隣から小太りの男が、大がまを振り回している。馬に怪我でもさせられたら、厄介だ。

 マハムドは、まず、大がまの柄を狙って、剣を振る。

 勢いあまって、男の腕も切落としてしまったが、かまう事はない。


 しかし、手間取っている間に、ガナーの姿が見えなくなってしまった。苛立ち紛れに、切り込む。 

 しつこく食い下がっていた親玉だが、仲間の損傷が大きく、さすがに叶わないとあきらめたのか、仲間を連れ、にげていった。


 アインが、マハムドの側に来る。

「マハムド様、ガナー様は?」

「ナハルが、左へ迂回して一緒に、街道をそれてしまった。迷わなければいいが」

「申し訳ありません。ガナー様の、護衛の私が、お側を離れてしまって」

 アインは、しょんぼりとうなだれる。

 アインだけではない。自分もそうだ。


 ナハルの加勢にもいけず、結局、彼一人に、ガナーを任せることになってしまった。

 先陣を切っていながら、彼は決して、ガナーの馬の手綱を離さなかった。

 閃くような剣裁きで、迎え撃つ敵にほぼ一撃で、致命傷を与えて駆け抜けて行ってしまった。

 見事としか言いようが無かった。彼の速さに追いつけずに、彼が、街道を外れる事を余儀なくさせてしまった。


 しかし、此処で落ち込んではいられない。 

 すっかり日は暮れ掛かっている。

「ひとまず、彼らが町へたどり着いていることを願って、町へ行ってみよう」


 ナハルは、山賊を振り切っても、木々の間をすり抜け、しばらく走り続けた。

山賊の気配が消えた所で、馬を止めて振り返る。


 やっぱり、マハムドと、アインの姿は無かった。

 はぐれてしまったようだ。それも、街道を外れて、山の中深く入り込んでしまった。

 ガナーを見ると、彼女は、不安そうに、ナハルを見ている。


「ガナー、大丈夫? 怪我は無かった?」

 ナハルから、笑顔を向けられて、緊張から開放さたガナーは、ホッとして笑顔を返した。

「はい、私はだいじょうぶよ。ナハルは?」

「僕も大丈夫だ。怖い思いをさせたね。でも、もう心配ないよ」

 優しく微笑んで、抱き寄せ、頭を撫でる。

 ガナーは、怖かったのだろう。ナハルに、しがみ付く。

 小刻みに震える小さな肩をしっかり抱きしめた。

 ガナーを抱きしめると、如何してこんなに愛しい思いが溢れてくるのだろう。離したくなくなる。


「マハムドと、アインは、大丈夫かしら」

「きっと大丈夫だ。彼らは、山賊ごときに引けは取らないだろう。なんと言っても、エルドの勇者なんだろう?」

「そうね、マハムドなら。アインだって、自分の身を守るくらいの事は、たやすいはずだわ。ごめんなさい。足手まといなのは、私だけね。ナハルに、大きな負担を掛けてしまったわ。私のせいで、道に迷ってしまったのね」

「ガナー、君のせいじゃないよ。…きっとそうだ、これは…、神様が、君と二人きりになる時間をくれたんだ」

「…どうして?」

 二人きりに、何も感じてくれないガナーに、絶句しながら、言葉を濁す。

「ん、…つまり、信頼を深める為に…」

「そうなの? それなら私は、ナハルの信頼に値するかを示さなければいけないわね」

「そ、そうだね。どうする?」

 苦笑いしながら、ガナーがどんな返答をするのか、興味を感じて覗き込む。

「えーと、…そうね。そうだわ! 夜の山の中を歩き回るのは、危険だと訊いたわ。こういう時は、暗くならないうちに、安全な場所を探すのよ!」

「なるほど、なかなか頼もしいね。そう言って貰えると、助かるよ」


 正直な所、こんな深窓の姫君に、どうやって野宿を切り出そうかと考えていた。

 まったく、無垢な子供の様かと思うと、大胆で肝の座ったところがある。

 それなのに、高貴な姫君にありがちな、傲慢ごうまんさはまったく無いのだから可愛い。


 とりあえず、左へ来すぎた進路を、右に戻しつつ、今夜のねぐらを探す事にした。

 高くそびえる木々は、日差しを遮り、暗闇の中を進むのと変わらない。


 ふと気が付くと、ガナーが、上着に、そっとつかまっている。気丈に振舞いながらも、やっぱり、心細いのだろう。

 手を差し出してあげると、嬉しそうに微笑んだ。ああ、可愛いな。思い切り抱きしめたい。

 邪魔なマハムドは居ないし、ガナーを膝の上に抱えて、一緒に僕の馬に乗せようかと思い、訊いてみる。

「こっちに、一緒に乗る?」

 ガナーは、少し、躊躇ちゅうちょしたように首を振る。

「馬も疲れているのに、二人で乗ったらかわいそうだから」

 馬が元気な時なら、僕の膝に乗るのは、良いということだろうか? 

 いや、ガナーのことだ、どうせ、僕を男として意識していないだけの事だ。と思い至り、がっかりする。


 ガナーの手を、しっかり握り締めて、暗闇を進んでいくと、開けた場所に出た。

 すでに夕暮れで、日はくれかかっていたが、それでもかすかに明るくてホッとする。

 大きな岩が重なるように、ごろごろと、たくさん集まっていた。岩に、成長を阻まれて、木が、育たなかったのだろう。

 ガナーが、岩の後ろへ回り込んで、ナハルを呼んだ。

「ナハル、見て、岩の後ろが、円く窪んでるわ。ここは、どう?」

 回り込んでみると、大きな、背丈ほどもある岩の内側が、四、五人は、入れるくらいの大きなくぼみになっている。

「いいね。岩が、背後を護ってくれるし、視界もいいから、何かが、近づいてきても直ぐに解る。」


 馬を、近くの木に繋ぎ、荷物をくぼみの奥に運んで、倒れて枯れた木を引きずってきた。

 集めた枯れ枝と一緒に火をつける。これなら、一晩中燃え続けてくれるだろう。火を絶やさなければ、獣は、近寄ってこない筈だ。

 

 二人、並んで座り、昼食の残りの、ナンと、チーズ、チキンガバブを、火にあぶって食べる。

 ナハルが、ワインをカップに注いでガナーに手渡した。

「体が、温まるよ」

「ありがとう。じゃ、少しだけ」

「足はどう? 痛まない?」

「うん。平気よ。痛みは無いの」

「そうか。でも、無理しないで。ぶつけないように気を付けるんだよ」

「ええ、分かったわ」

 周りを囲みこんだ岩は、幸い、温度を逃がさないようになってはいるが、それでも、夜は冷える。

「寒い?」

 ナハルが尋ねると、心細そうに頷くから、愛しくて、ナハルは、自分のマントを広げてガナーを抱き寄せた。

「おいで」

 彼女は、素直に彼のマントに、一緒に包まる。

 素直で可愛くて、ガナーの身体をしっかりマントに包んで、抱え込む。無防備に預けられた華奢な肢体は柔らかく、心地いい。

 下心がないわけじゃない。下心は、彼の中に溢れそうにある。

 でも、ガナーの、望まない事はしたくない。 それだけで、彼の下心は、押さえつけられている。それだけ、ガナーが大切だっだ。

 だから、二人だけでこんなに体を密着させて、一つのマントに包まっていても、何も出来ない。


「ありがとう。ナハルのマントは、魔法のマントね」

「え?」

「すごく、安心するの。湖のほとりでも温めてくれたわ」

 安心するのは、マントのせいじゃなくて、僕だからじゃないのか? と言いたいのを我慢して、別の言葉を紡ぐ。

「あの時は、いきなり倒れるから驚いたよ」

「あの日も、…龍神様の夢を見たの」

「…君はまるで、龍神に恋をしているみたいだね。龍神のことになると、必死になる」

「恋? 龍神様の事を考えると、胸が苦しくて何とかしてあげたい。そんな気持ちで、いっぱいになるの」

「恋する気持ちって、そんな感じなんじゃない?」

「そうなの? …あなたは?」

「僕? ずっと、心の中に、乙女が住んでいた。いつの間にか、伝説の乙女と重なって、ずっと、会いたいと思っていたんだ。これも恋かな?」

「伝説の乙女に、恋をしていたの?」

「そう、湖のほとりで、君に出会った時、あまりにもぴったりイメージが重なって、やっと会えたと思った。それなのに、君には婚約者がいた。僕の恋は、破れてしまったんだ」

「あら、それはお気の毒」

「人事みたいに言うんだね。君のことだよ」

「そうなの? でも、私も同じね。龍神様では、会うことも出来ないわ」

 二人して、顔を見合わせて笑う。

 ガナーは、彼の体温が、暖かくて心地ちいいのと、昼間の疲れで、ナハルに寄りかかって眠ってしまった。


 マハムドと、アインは、町について、二人を探したが、どの宿屋にもいなかった。

「マハムド様、やはり、いらっしゃいません。何かあったのでは」

アインが、心配そうに報告する。

「山の中で、迷っているのかもしれないな」

「私、戻って探しに行きます」

「待て、夜の山を、むやみに探し回っても見つけられない。山賊だってまた出てこないとも限らない。危険なだけだ。それより、今夜は宿を取って、明日、明るくなってから探そう」

 アインは、気が気ではなかった。あの足を抱えて山の中で不自由しているなんて。

 夜は何時もアインが湯を用意して冷たい足を温めていた。

「ですが、アザ…ガナー様が、心配です。護衛の私が、お側を離れてしまうなんて、申し訳なくて、どうしていいのか…」

「気持ちは解る。私とて、同じだ。だが、彼らも、愚かではない。安全な場所で、

大人しく助けを待っているかもしれない」

「でしたら、なおさら! 今直ぐにでも助けて差し上げないと! ガナー様の足は、ほっておいては大変なことに!」

 アインは、心配の余り、口が滑ってしまい、はっとする。

「アザリーの足は躓いただけじゃないのか? そういえば、やけに大げさに包帯を巻いていたが、一向に治る様子がないのに三人で示し合わせたように医者にかかるのを拒んでいた。私に何か隠しているのだな」

「あ、…」

「一体どうなっているのだ? 話せ。私には知る権利がある」

「申し訳ありません!」

 アインはひれ伏し、観念して湖の呪いについて話した。

「ガナー様の足は、お医者様では治せないのです。呪いを解くには龍神の宝を手に入れることしか方法がありません。でも、少しでも早くしないと、ガナー様のお体がもたなくなってしまうのではないかと心配で…」

 マハムドは、アインの言葉にショックを受ける。

 現実主義者のマハムドは、龍神の宝も、本心ではあまり信じていなかった。

 アザリーが余りにも必死で言うので、納得させれば諦めるだろう。程度に考えていた。

 はっきり言って、アインの言葉をうのみには出来ないが、全くのでたらめとも言い切れなかった。

「…とにかく、明日、人手を何とか集めて、山に詳しい者を連れて、山にはいる」


 マハムドに説得され、しぶしぶ宿に落ち着いたアインは、宿の主に、話を聞く。

「そうですか、お客さん、山賊に襲われたんですか! 良く無事でしたな」

 主は、目を丸くして驚く。山賊にあって、無事でいたものなど聞いたことがなかったのだ。

 連れとはぐれてしまった。明日探しに行きたいのだが、山に詳しい者を知らないだろうかと話すと、主は、大げさに手を振って止めた。

「山に戻るんですか? とんでもねだよ! せっかく助かった命を捨てに行くようなもんだ。先日も、町娘がさらわれちまったが、誰も助けに行けねえ」

 主の言葉に、青くなるアインをなだめ、マハムドが言う。

「山賊は、そんなに手ごわいのか? 私は今日、山賊の親玉とやりあったが、向こうが、尻尾を巻いて逃げて行ったぞ」

「お客さん、ドウップに会ったんですかい」

「ああ、ジャラジャラと、首飾りだの腕輪だのをこれ見よがしにつけた、くまのようなもじゃもじゃの大男だった」

「側に、小太りの男がいませんでしたか」

「いたな、鎌のような得物をを持った奴だ。腕ごと切り落としてしまったから、奴はもう鎌は持てないだろうが」

「まちがいねえ! ドウップだ!」

 主は驚愕きょうがくして目を皿のようにしてマハムドを見る。


 側で、マハムドの話を聞いていた下男が、声を上げると近寄ってきた。

他にも、話を聞いていたらしい、男達が、わらわらと出てきた。

「旦那がいれば、山賊どもを、やっつけられるぞ!」

「俺の妹がさらわれちまった。お願いだ! だんな、妹を助けてやってくれよ! 俺に似ねえ可愛い妹なんだ! 助けてくれたら、何でもする!」

 男達が、期待の目でマハムドを見る。

「連れを探す手伝いをしてくれるなら、手をかしてもいい」

 彼の言葉に、男達の歓声が、あがった。

「明日の朝までに、できるだけの人数をそろえろ。それと、山の道案内のできるものがいる」

「へい! もちろん用意できます!」

 男達は、集まって打ち合わせていたが、それぞれに出かけていった。

 

 ガナーは、ナハルに寄り掛かって眠っていたはずなのに、いつの間にか彼が、巨大な龍の姿になっていた。

 虹色に光る、銀の鱗を輝かせ、金色の鬣をした、美しい姿の龍だ。


 ガナーは側で龍神の為に歌を歌っていた。 

 ああ、龍神様だわ。懐かしい気持ちでいっぱいになった。エメラルドの瞳で、

優しくガナーを見ている。

「そなたの歌声は、私の心を癒してくれる。ずっと、私の側にいてくれ」

「龍神様、私は、声が続く限り、あなたの側で歌い続けます」

 そう答えたのは、自分ではなかった。自分だと思っていたのだが、違ったようだった。

 自分にそっくりな女性の中に、意識が入っているような感覚だった。

「そなたは、それでいいのか? 女としての幸せは望まないのか」

「私は、巫女です。巫女は、夫を持たぬ定めのものです。巫女として、一生あなたに、お使えします」

「私の側にいるのなら、巫女ではなく、妻でも良いのではないか?」

「龍神様と、結婚は出来ません」

「私には、人間の男のような愛しかたは出来ぬと思うのか?」

「え?」

 驚いて見上げると、龍神の姿がぼやけていく。いつの間にか寄り掛かっていた相手が、金色の髪の美しい青年の姿になっていた。

 それは、エメラルドの瞳の…?

「ナハルエルメリート…?」

「私は、元々、この姿で生まれた。力をえるにつれ、龍の姿になったが、人間の姿に戻ることはたやすい。私は、男として、そなたを愛したい」

 ためらいがちに、そっと、重ねた唇はほんの一瞬で、そして、直ぐに離して、切ない瞳で見つめる。

 この優しいエメラルドの瞳に、引かれていたと気付き、目を閉じる。

 もう一度唇が重ねられる。さっきよりも、熱く重ねた唇の、柔らかく、滑らかな、優しい温もりを、何故だか知っている気がした。 

 そう思った瞬間、切ない思いがこみ上げてくる。離れたくなんか無かった。なのに、長い間離れていた。

 切なくて、嬉しくて、涙が溢れてくる。涙に、龍神の姿が曇ると、不安になった。思わず抱き付いていた。

「いや! もう二度と離れない!」


「どうしたの? 怖い夢でもみたの? 大丈夫だよ。僕は、ここにいる」

 しっかりしがみ付いて、泣きじゃくる。

 ガナーを、優しくなだめるように抱きしめてくれたのは、龍神? それとも、ナハル?『僕』?

 ガナーは、混乱しながら顔を上げる。

 同じ声、同じ顔。でも、何かが違う。

 同じように、エメラルドの優しい瞳で見つめる。

 ふと、気が付く。何故私は、泣いているのかしら? 

 しがみ付いていた手を、そっと離す。

「夢を見ていたんだわ…」

「夢? 君も?」

「え? あなたも?」

「不思議な夢だったな。何処までが夢で、何処からが現実なのか、良く解らない…。

僕が、いつの間にか龍神になってて、君に求婚をして、口付ける夢」

「私じゃないわ、歌姫よ」

「え!」

 二人、思わず目を合わせて、見詰め合う。

しばらくの沈黙の後、ナハルが、口を開いた。

「僕らは、同じ夢を見ていた?」

「同じ、夢…?」

「訊いておきたいんだけど、口付けは、現実? それとも、夢の中の事?」

「そ、それは、夢の中? どうして?」

「もし現実なら、君は、僕を受け入れてくれたことに成るだろ。もう一度、その唇に触れる事も、許されると言う事。…触れてもいい?」


 ナハルの顔が近い。思わず目を閉じてしまいそうになる。

 でも、そんな事が許されるはずがない。震える心を、押し殺して言う。

「だって、私じゃなくて、歌姫だもの…」

「君は、歌姫なんだ!」

「龍神は、歌姫が亡くなったときに、人として生まれ変わる為に、力を封印して、この世を去ったと聞く。そして僕らは生まれ変わり、こうして再び巡り合えたんだ」


 ガナーには、ナハルの言う事がすんなり理解できた。

 たぶん、その通りなのだと思う。

 だから、初めから、彼に対して警戒心を感じなかったのだと、今になればわかる。

 彼の腕の温もりも、きっと、心のどこかで覚えていたのだ。

 夢の中で、巡り合えた喜びを感じていた。


 けれど、今の自分達は…、ナハルは、敵国の王子で、自分は、龍神の妻ではない。 

 私には、マハムドがいる。 

 私が、生まれた時からずっと、私を護ってくれた、優しいマハムド。彼以外の人を好きになるなんて、有り得ない。

 そう、マハムドとの思い出は、溢れるほどたくさん、今の私の中にある。

 ましてや、マハムドとの結婚は、感情など関係ない。国の法律のように決められた、受け入れざるおえない現実。

 それでも、はるか昔の龍神の思い出は、鮮明には思い出せないが、ナハルを求めてしまう気持ちが、物語っている。

 それが、切り離せない二人の絆。

「でも、だめなの! 歌姫の魂でも、この身は、エルドの世継ぎの王女の定めからは、逃れる事は出来ないわ」


 ナハルが、悲しそうに、眉をひそめる。

 ナハルを傷つけたと、気づいて言葉が震える。

 めぐり会うことを願って、再生までも果たしたのに、その相手に別の男がいるなんて、どれほどの絶望を感じているだろう。


 苦い後悔が胸を押しつぶしそうだった。

 こんな事言いたくない。いつの間にか、胸の中を拭きぬける寂しさを感じなくなったのは、ナハルが、側にいるから。

 気が付いてはいけない真実に、もう、気が付かない振りは出来ない。

 それなのに、ナハルの笑顔、ナハルの温もり、ナハルの優しさを突き放す事しか出来ないなんて…。

 切り裂かれるように胸が痛い。溢れる涙を止められない。


「ごめん。僕が悪かった。泣かないで」

「ごめんなさい…。私、あなたを、傷つけて…」

 唇が震えて、それ以上声にならない。

「良いんだ。僕のことは、どんなに傷つけても良い。でも、君に泣かれるのは、心臓をえぐられるくらい苦しいから、お願いだ、もう、泣かないで…」


 ナハルは傷ついているのに、微笑んでくれる。その強さ、大きさで包み込んでくれる。

「僕は君のナイトとして、君を護る。そして、この世界を救う。今は、それだけでいい。他の事は、それから考えよう」


 ナハルに抱きしめられて、しがみ付く。

 彼の言葉に頷きながらも、離れたくなかった。

 このままでいたい。この腕の温もりを手放す事は、心が凍りついてしまいそうなくらい辛い。


 ナハルは、ガナーを抱きしめて、身じろぎも出来なかった。

 夢の中で触れた唇は、ぬぐいきれないほど現実味があった。

 もう一度、その唇に触れて確かめたい。その思いを必死で抑える。少しでも動いたら、止められなくなってしまいそうで、唇だけでなく、それ以上を奪ってしまいそうだった。 

 ガナーを誰にも渡したくないと思う、心の中に燃え上がる焔を、只、じっとこらえて押さえ込む。


 どのくらい、時間がたったのだろう。気がつくと、辺りが明るくなっていた。 

 夜が明けたのだ。

「夜が、明けたようだね。太陽が、どちらから昇ってくるのか見てこよう」

「待って、私も行くわ」

 ナハルの手を借り、二人で岩の外に出てみる。

 静まり返った岩場の景色は、夜の闇が払いのけられ、うっすらと明るくなっていた。

 まだ、太陽の日差しは見えない。それでも、かすかに、影が出来ていた。

「ナハル、東は、あっちね」


 指差しながら彼を見て、ガナーは、思わずかたまった。

「どうしたの?」

 彼の唇に口紅がついている。ガナーは、慌てて、ハンカチでナハルの口紅をふき取る。

「え? …口紅? …君の?」

 あってはいけない過ちを犯してしまったのだろうか?


 呆然とする二人の側で、かさかさと言う、木の枝を揺らすような音が聞こえた。

 ナハルが、ガナーを背後に隠した時、其処に現われたのは、十四、五才くらいの女の子だった。

 二人を見ると、駆け寄って来てすがりつく。

「助けてください! 山賊に捕まって、逃げてきたんです!」

「山賊のアジトから?」

「近いのか?」

 娘は、二人の顔を、交互に見ながら大きく頷く。


 娘を連れて、岩の反対側のくぼみに戻って話しを聞いた。

 彼女は、町で、宿屋の下働きをしている兄と、二人暮らしで、名をヘルといった。

 町に押しかけてきた山賊に捕まって、何人かの女の子たちとここに連れてこられ、山賊のアジトの小屋に捕まっていたという。

 昨日出かけていった男達が、怪我をして戻ってきたらしくて、急に見張りが、手薄になった。 

 水がほしい。と言って、近くの井戸まで連れて行って貰い、帰ってきたところで、見張り役の男が呼ばれた。

 男は、入り口の栓を掛けるのを忘れて、行ってしまったのだそうだ。

 それで、他にも捕まっていた娘達に、逃げようと話したが、彼女たちは、ひどい扱いを受けて、怪我をしていた。

 逃げるのは困難に思えたので、助けを呼んでこようと逃げてきたのだと言う。


「怖い思いをしたのね。可愛そうに」

 ガナーは、ぽろぽろ涙を流して、女の子を抱きしめる。そして、彼女の頭を撫でながら、ナハルに懇願の瞳を向ける。

「女の子達を、助けてあげられない?」

 ナハルは、一つため息をついて、何時もの無表情な顔になる。


 そして、ヘルに向かって、ゆっくり話す。

「君は、一人で山を降りて、助けを呼んでこられる? 君が逃げた事が分って、追っ手が掛かるようなら、そいつは何とかする。だから、何とか山を降りて、助けを探すんだ」

 ヘルは、ぼーっとナハルを見ていたが、ハッと我に返り、声も出せない様子で何度も頷いて見せた。

「それなら、此処で待ち合わせをしよう。此処に集まって計画を立てる。助けが来るまでに、アジトの様子を探っておく」

「町へ戻れば、マハムド達がいるわ。ねえ、ヘル、街へもどったら、マハムドを探して。町の宿屋のどこかにいるわ」


 ガナーは、荷物の中から、リボンの束を取り出す。

「これを持っていって。木に縛り付けながら行くのよ。そうすれば、マハムド達が、ここへ来る時に、迷わずにたどり着けるわ。

それから、あなたのヒジャブと、私のブルカを取り替えて頂戴。私のブルカをつけていれば、マハムドに見つかりやすいし、話を信用してもらいやすいわ」

 ヘルは、何度もお辞儀をし、リボンの束を抱えて山をおりていった。

「道がわからなくなったら、影が伸びている方へ進むのよ。そうすれば、町に出られるはずよ」

そう、声を掛けて見送る。


「旅に出るのに、あんなにたくさんのリボンを持ってきてたの? さすがは王女様だね」

ナハルは、おかしそうに言う。

「私は、お気に入りのリボンをつけていると、機嫌がいいって言うのよ」

「ふうん、それで今日は、グリーンのリボンなんだ」

「グリーンは好きなの。龍神様の、エメラルドの瞳みたいで。側にいるって思えるの」

「リボンよりも、君が望む瞳は、此処にあるのに」

 目と目が合い、見詰め合う。同じ優しい瞳。同じ優しい声。

 唇に感じた、柔らかく滑らかな感触。遠い記憶の、優しい龍神の口づけを覚えているような気がした。

 でも、あれは、ナハルの口づけだったの? 頭が混乱する。

 私は、誰? 彼の手が伸びて、ガナーを引き寄せようとする。ハッと、我に返る。

 こんな考えに、囚われていてはいけない!


「ナハル! どうしたらいい?」

 ガナーが、断ち切るように強く名前を呼ぶと、彼は手を止め、その手を強く握り締めて見つめる。

 そして、あきらめたように、切ない瞳でガナーを見る。

 その眼差しが、胸に痛い。ああ、また、ナハルを突き放している。ナハルを傷つけたくなんか無いのに。


「君を一人にするのは不安だが、僕が、アジトを探る間、ここで、かくれていたほうがいいと思う」

「私もアジトを探りに行くわ!」

 まったく、彼女の反応は、姫君らしくない。何時も予想外の答えをくれる。

「山賊のアジトに行くんだよ。見つかって取り囲まれたら、つかまってしまう。助けが来ても、囮にされてしまうだけだ」

「娘さん達が捕まっている小屋へ行くの。このヒジャブを被っていれば、ヘルに見えるわ」

 いや、どう見ても別人だからと思うが、それよりも、思いもしない提案に驚く。

「自分から囚われるって言うの?」

「うん。娘さん達に話をして、助けが来た時に、落ち着いて逃げられるように、準備をしておくの。怪我をしている子には、動けるように、手当てもしなければいけないわ」

「でも、山賊に乱暴されたらどうするんだ」

「その時は、あなたが助けてくれるから、心配ないわ」


 このお姫様は、度胸が良すぎてあきれる。 

 簡単に言うが、その時は、一人で、三十人もの山賊を相手にしろということだ。

 まあ、ガナーが信頼してくれているのだから、やれというなら、やってやると思うが、少し無謀な気はしないでもない。


 だが、考え方によっては、一人でここにおいて行くより、娘達の中に入れておいた方が安全かもしれない。

 たった一人でこんなところにいて、もし、何かあったら、ガナーの足では逃げることも出来ないだろう。

 顔を隠していれば、たった一人の標的より、沢山いたほうが安全性は増えるし、何かあっても側にいればすぐに助けられる。

 仕方が無いので連れて行くことにした。

 歩けると言い張るガナーを強引に背負い、ヘルの言っていた通りに進むと、山賊のアジトは、直ぐに見つかった。

 粗末な掘っ立て小屋のような家が幾つも並んでいる。娘達が囚われているのは、一番端の小さな小屋だと言っていた。

 そっと、薄暗い小屋の中を覗いて見ると、十人ほどの女達が、うずくまっているのがみえた。 

 ガナーは、ナハルに、目で合図をする。

 彼が、そっと、かんぬきを外して、ドアを開けた。ガナーは、ヒジャブを深く被って、小屋の中に滑り込む。


 ドアを閉めると、かんぬきの下ろされる音がする。

 女達は、女の子が見つかって、連れ戻されたのだと思い、落胆した様子だった。

 

 しかし、ガナーが、女達の側へ行って事情を説明すると、皆、驚きながらも、喜びの表情になった。

「怪我の手当てもしておかなければいけないわ。此処に、薬と、包帯を持ってきたわ。それぞれ、自分でできる所は、自分で。できない所は手伝うわ」


 ヘルは、木にリボンを結びつけながら、

急いで、山の中を進んでいった。だいぶ山を下りられたと思っていたころに、木々の奥からザワザワと、人の声が聞こえてきた。

 山賊だったらどうしよう! 木の陰に隠れて固まる。

 しかし、良く見ると、見知った顔が見えた。町の男達のようだった。ホッとして、走り寄る。


 真っ先に、彼女を見つけたのは、アインだった。ガナーのブルカに、目を留め、駆け寄る。

「ガナー様!」

 しかし、駆け寄ってきたのは、待ち望んでいた主人の、ガナーではなかった。

 アインは、落胆と困惑の表情で立ち尽くす。


 マハムドが、ヘルに問いただした。

「このブルカの女性は、どうしたんだ!」

 マハムドの剣幕に怖くなったヘルは、ブルカを返そうと、こわごわ外した。

 ブルカを外したヘルに、いち早く気づいたのは、彼女の兄だった。

「ヘル!」

 兄の姿を見つけてしがみ付く。

「お兄ちゃん!」

「お前、逃げてきたのか?」

「うん! 他にも、捕まってる人たちがいるの助けてあげて!」

「まさか、ガナー様が囚われているのですか?」

 アインは、慌てて、ヘルに詰め寄る。


「あ、あの、逃げる途中で、このブルカの人にお会いしたんです。その方に、マハムド様をお探しするように、言い付かってまいりました」

 アインは、マハムドを見る。彼も、不振な顔をしながら、ヘルの前に出る。

「マハムドは、私だ」

「本当ですか? 良かった!」

「ヘル、どういうことなんだ?」

「はい、お話いたします」


 ヘルの話を聞き、ガナーが元気そうなので、一安心した。

 ヘルが、アインに、リボンをさしだす。彼女の手には、まだ、三本ほどのリボンが残っていた。

 綺麗な飾り紐のリボンは、おそらく、彼女が気に入っていたので、木に結ばずにとっておいたのだろう。

 アインは、そのまま、彼女の手にリボンを握らせ、微笑んだ。

「それは、ガナー様があなたに手渡したもの。あなたのものですよ」

「いいんですか?」

 彼女は、嬉しそうにリボンを握り締めた。

 

 ヘルを町に戻らせ、役人を呼ぶように伝えた。いくら、腰の重い役人どもでも、さすがに、捕まえた山賊の、後始末くらいはしてくれるだろう。

 ヘルの結んだリボンを頼りに、山へ入って行くと、大きな岩のある場所に付いた。だが、二人の姿は無かった。


 ナハルと、ガナーの馬だけが、木につながれ、のんきに、草を食んでいた。

 アインが、馬の側によって見ると、手紙らしき物が目に入る。急いで、手にとって見ると、マハムドあての手紙だ。


 ナハルからの支持によると、アインを先に、一人でよこしてくれと言う事だった。町の男達は、ナハルとガナーが一夜を明かした、岩のくぼみに隠れ待機することになった。

 さらわれた女達の家族や、友人、山賊に恨みを持つ者達で、二十人ほどの男達がいた。

 マハムドが、商人からかき集めた刀を渡され、皆、山賊をやっつけると、意気込んでいる。

 アインが、山賊のアジトにたどり着くのは、難しくなかった。何度か人が通って、草が倒され、枝が折られたりしていたからだ。

 近くまで行くと、はずれの小さな小屋の側に、ナハルの姿があった。アインは、そっと近づいて小声で呼び掛ける。

「ナハル様、ガナー様は、どちらに」

「この小屋の中にいる。女達に、手筈を整えさせている」

「助けは、来たのか?」

「はい。町の男達二十人ほどですが」

「十分だ。あそこで、待機しているのだな?」

「はい。ご指示通りに」

 アインが、中を覗き込むと、女達がいるのが見えたが、中は薄暗く、皆、ビシャブを深く被って蹲っているので、どれがガナーなのか、見分けが付かなかった。

「お前は先に、ガナーと、町の女を此処から連れ出して、逃がしてくれ。その後で、男達に来るように伝えてくれ」

「はい。お任せください。


 アインが、栓を外して、ドアを開けると女達が、いっせいにこちらを見た。

「皆様、お急ぎください。」

 アインが声を掛けると、真っ先にガナーが立ち上がって、皆を先導する。

 幸い、皆、何とか歩けそうだ。ガナーは、アインに女達を預け、ナハルの側に行く。

「ガナー、君も行くんだよ」

「あの岩のところで待っているわ。気をつけてね」

「心配ないよ。奴らは、半分位は怪我人だ。たいした戦闘能力は無いだろう。さあ、早く行って! そうだ、マハムドに、皆に、火を持たせてくるように言ってくれ」

「解ったわ」


 行こうとするガナーの頬に、ナハルがキスをする。

 ガナーは、ポッと頬を染めて赤くなる。

 何時もと違う彼女の反応に驚き、戸惑っている間に、ガナーは行ってしまった。

 (何だったんだろう?)

 ガナーの顔を思い出すと、胸の奥が、ムズムズする。


 町の男達を引き連れてやってきたマハムドに、アジトの様子を伝える。

「小屋に、油を掛けて置いた。火をつければ、良く燃えるだろう。あぶりだして捕まえれば早い」

「なるほど。で、親玉がいるのが、真ん中の一番でかい小屋か?」

「そうだ。その隣がくりやだ。怪我をした奴らは、女達のいた隣の小屋に集められている。

約十人ほどだ。奴らは、刀は持てないだろう。残りは、十五、六だ。プラス下働きの、見張り役らしき男が、三人だ」

「厨の前に、井戸があるから、火がつけば、火を消そうとして、井戸に集まるかもしれないが、襲撃に気が付けば、逃げようとして、裏手の山側に、逃げ込もうとするかもしれない」

「では、私が裏山側を護ろう」

「ああ、半分連れて行け。僕は、反対の西側を護る。残りの町の男達には、井戸の側に待機させてくれ」

「女達は、山を降りたのか?」

「ああ、町の男を一人つけて先に避難させた。おそらく途中で、町の役人に保護されるだろう」

「ガナーは?」

「アインが守って、あの岩場に隠れている」

「そうか」

「君は、一人で大丈夫なのか?」

「大丈夫だ。西側は、誰一人通しはしない」

「よし! はじめる」


「怪我をした男達を拘束しろ、其処だけは、火を掛けずにおく。終わったら、私と、山側に回って、待ち伏せる」

 怪我をした男達は、昨日、ナハルに反撃され、手や足が、思うように動かせなくなっていて、皆、気が弱くなっていたのか、抵抗もせずに捕まって縛り上げられる。


 火は、あっという間に燃え広がり、男達が、逃げ出してくる。

 井戸の側で、四人の男達が捕まった。

 ナハルが、厨から持ち出した香辛料を、町の男達には、配ってあった。

 火をつけた後の町の男達は、懐に忍ばせてあった香辛料を、山賊の目に投げつけ目つぶしをした。

 目に、香辛料を投げつけられた山賊達は、溜まらない。痛がって転げまわっている所を、簡単に捕まり、縄で縛り上げられて行った。


 そして、予測通りに、山の奥に逃げ込もうとした、親玉の、ドウッブをはじめとする山賊もマハムドが待ちうけ撃退する。

 ドウッブは、マハムドを見ると警戒して逃げようとした。

「な、なんだ、またお前か?」

「私とて、お前の顔など、二度も見たくは無かったが仕方がない。今度は、逃げられると思うな」

 手下達が、香辛料で目つぶしを喰らって転げまわっているのを尻目に、きびすを返して、逃げ出した。

 西側の小屋に、火が回っていないのを見ると、西側が安全だと思ったのか、西側へ向かって逃げた。

 火の手の上がっている小屋を避け、必死に、西側へ回り込もうとしていた。

 西に行けば、もっとひどい目にあうのにと思う。


 ナハルにやられた男達を見た。傷がたくさんあるわけではない。だが、皆、致命傷を負っている。 

 アレは、おそらく傷が治っても、手や、足は、元に戻らないだろう。

 私と戦っていれば、痛い思いはしても、完治しないような怪我は負わないだろうに。

 自分は、ナハルのようなやり方を知らないからだ。


 マハムドは、転げまわっている山賊を、町の男達に任せ、ドウッブの後を追った。

 西側へ逃げてきた山賊共は、ナハルの襲撃にあっていた。

 クーフィーヤを深く被った、顔も見えない男がいた。たった一人だと、簡単に逃げられると、高をくくっていた山賊は、彼が、ヒラリと、舞うような動きをしたと思った瞬間に、ガクリと膝を突いて倒れる事になる。

 倒れた山賊を、町の男達が、次々と縛り上げていった。


 マハムドが、其処にたどり着くと、手下の有様を目の当たりにしたドウッブが、さすがに、警戒心は強いのか、ナハルから距離を置いて立ち尽くしていた。

 ナハルは、平然として動かない。だが、もし少しでも、ドウッブが動こうものなら、あっという間に切ってしまうだろう。

 ドウッブも、それを感じているのか、身動きできなくなっている。

 この、大きな熊のような男が、龍に、睨まれてすくんでいる小熊のようだと思った。


 しかし、このまま、ナハルにばかりいい格好をさせるのも面白くない。

 マハムドは、前に進み出て行った。

「ナハル、この熊は私に任せろ。昨日から遣り合っている。決着を付けたい」


 マハムドが来ていたことは、気づいていたのか。何時もの無表情で、あっさり譲った。

「解った。僕は先に、ガナーのところに戻っている。君も、直ぐに来い」

「なに! 私の心配はしないのか」

「君が、こんな奴にやられるわけが無いだろう。後の事は、町の連中が何とかするだろう。我々の出番じゃない」

「それは、そうだが…」

「さっさと終わらせて、さっさと来い」


 ナハルという男には、むかつく。自分より先に、ガナーのもとに戻ると言うのだ。

 ドウッブを任せろと言ったのは、自分だということは、忘れている。腹立ち紛れに、ドウッブに一太刀を浴びせる。

 固まっていたドウッブは、あっけなく倒れ、町の男に縛り上げられた。


 ナハルは、ガナーの顔が見たくてたまらなかった。

 別れ際に見せた、あの頬を染めた様子が忘れられない。

 岩を回り込むと、アインが、入り口を守るように立っていた。 

 彼は、被っていたクーフィーヤを外して、ガナーのもとに歩み寄る。


「おてんばなお姫様は、いい子にしていた?」

「はい。ナハルは、怪我はない?」

「もちろん。マハムドも、皆無事だ。全員縛り上げて、もう直ぐ戻ってくるよ」

「良かった。これで、町の娘さんが、さらわれる事は無くなったのね」

「そうだね。だが、役人が来る。我々は早々に、此処を引き上げた方がいいだろう」

「そうね。マハムドは?」

「親玉のドウッブをさっさと片して、もう直ぐ来るだろう。僕は、君に会いたくて先に来たから」

「熊なの?」

「熊みたいな大男だった。だから、ドウッブと、呼ばれていたらしい」

「そう、大丈夫かしら、マハムド…」

「問題ないよ。彼は、そんなにやわじゃない」

「それは、ほめられていると取るべきなのか。いいように、こき使われていると憤慨するべきなのか、私としては、疑問に思うところだが、ナハル?」

「マハムド。怪我は無い?」

「ああ、大丈夫だ。おてんばさんは、大人しくしていたかな」

 彼の言葉に、アインが噴出す。

「私、役に立ちたいと思っただけなのに…」


 二人ともに、帰ってきたときの第一声で、おてんばと言われてガナーがむくれた。

 事情を理解できないマハムドは、如何して良いのか解らずうろたえる。

 ナハルが、必死に、ガナーをなだめに入った。

「ごめん。ガナー、怒らないで。君のおかげで娘たちも助けられたし、山賊も捕まった。町へ降りて、リボンを買いに行こう。ピンクや、水色のリボンもきっと似合うよ。グリーンもいいけど…」

 意味深な瞳で、ガナーを見る。ガナーは、頬を染めてうつむく。見間違いじゃない。 

 やっぱり、これだ。ガナーの顔を覗き込んで、良く見ようとすると、ガナーは、顔を隠して後ろを向いてしまう。

「如何して、顔を隠すの?」

「隠して…ないわ」

「じゃあ、見せてよ」

「嫌よ」

「どうしてさ」

 なんとなく、二人がじゃれあっているように見えて、不快に思いながら、マハムドが声を掛ける。

「早く町へ降りよう。私としては言いたいことがあるのだが、君たちは、ろくな物を食べていないだろう。食事をしよう」

 マハムドは、まだ整理しきれない気持ちで、ガナーを攻めてはいけないと、とりあえず、湖の呪いのことは保留することにした。

「私は、アインが持ってきてくれた、野菜とお肉を包んだサモサを食べたわ。ナハル、あなたもどう?」

 ガナーから、差し出されたサモサを受け取る。

「ありがとう、いただくよ」

「そんな物を食べなくても、町に戻れば、旨い物があるだろう」

「町に着いたら、まず、リボンを買いに行くんだ。お姫様のご機嫌を損ねないようにね」

 ナハルは、サモサにかぶりつく。

「わ、私、リボンが無くても機嫌悪くなったりしないわ…」

「でも、ガナー様、リボンを全部娘に持たせてしまわれたのでしょう? お食事の時に、汚れたリボンしかなくなってしまいましたわ」

「ああ、確かに。髪がきちんとしていなかったりすると、君は機嫌が悪い」

 ナハルが、クスクス笑いながら見ている。

 確かに、汚れたリボンをつけて食事をするのは、嫌な気がする。

「……」


 町に着くと、ナハルと、ガナーは、二人で出かけてしまった。

 残った、マハムドと、アインは、大歓迎を受けた。

「山賊共は、皆捕まえられたので? あの、ドウッブも、全部ですか?」

「ああ、アジトごと焼き払って全員とらえた」

「なんと! ありがたいことだ! これで、町は平和になる」

 主は、目を丸くして、興奮している。

「そのうち役人が、奴らを引いて山を降りてくるだろう。町の皆も、全員無事だ」


 しかし、ナハルのやる事は容赦がない。

 縛り上げられた山賊共を見たが、皆、煙と香辛料で目をやられ、涙目を真っ赤に晴らして、くしゃみ鼻水の、なんとも気の毒なくらいのありさまだった。


「たいしたもんだ! 今まで、町の役人ですら、手をこまねいていたのに、簡単に山賊共を退治してしまうとは!旦那は、町の英雄だ!」

「町のみんなでやっつけたのだ、男達が戻ったらほめてやってくれ」


 部屋に入ると、アインが、マハムドのマントを受け取り片付ける。

「お前は、ガナーに付いていかなくてよかったのか?」

 アインは、ぎくりと手を止める。まさか、お邪魔虫だから行かなかったとは、マハムドには言えない。

「はい、マハムド様のお世話をするように、言い付かりました」

「そうか、私に、気を使ってくれたのか」

 疑う様子もなく、彼は、腰を下ろした。


 さて、ナハルと、ガナーは、町に出ていた。 繁華街は賑わって、人を掻き分けて歩くような有様だった。

「すごい人ね、ナハル」

 余りの人の多さに、どこまで続いているのかと先を眺めてみた。

 ちょうどその時、後ろから、固まりのような人の波にぶつかり、ほんの一瞬手を離していた隙に押し流されてしまった。

 「あ、あら、ナハル?」

 人々のざわめきと、流れに押され、引きずられるように思いがけないところまで連れていかれてしまう。

 ナハルとはぐれてしまった。

「困ったわ。どうしましょう?」

 ガナーは、不自由な脚で動き回るより、待っていれば、探しに来てくれるかもと、待つことにした。


 それにしても疲れた。どこかに座るところは無いかと、周りを見回す。椅子など見当たらない。

 ふうと、ため息をついて前を見ると、背の高いクーフィーヤを被った後姿が目に入る。


「ナハル!」

 声を出して呼んでみたが、気づいてないようだった。急いで後を追う。

「ナハル!」

 周りの音がうるさくて届かないのだろうか。ようやく、彼の袖を掴む。

「ナハル!」

 驚いたように振り返った彼の顔は、まったくの別人だった。ガナーは、驚いて手を離した。

「ごめんなさい。連れと間違えてしまって…」

 雑踏の真ん中で立ち止まってしまったガナーに、人の波がぶつかる。

 押されて、その見知らぬ男性の胸に倒れこんでしまう。

「きゃあ!」

 彼は、ガナーを受け止めて、穏やかな声で言った。

「危ないから、端へ寄った方がいい」

「は、はい」

 彼は、ガナーを腕の中に抱えたまま、雑踏からはずれ、端に連れて行ってくれた。

 彼の腕の中は、強い麝香じゃこうの香りがした。マハムドや、ナハルよりも、ずっと強い甘い香りがする。

 そのむせかえるような香りによってしまいそうなほどだった。


「ありがとうございます。連れとはぐれてしまって、あなたの後姿が似ていたので、失礼をしてしまいました。ごめんなさい」

 ガナーは、ニッコリ笑って挨拶をする。

 見上げた彼の顔は、ナハルとはまったく似ていなかった。

 ナハルは、龍神の化身と言われるように、肌の色も髪の色も、瞳の色も、この地方の人とは違っている。

 ナハルに似た人を探すのは無理だろう。どちらかと言うと、マハムドの方が似ている。

 

 小麦色の肌に、りりしい濃い眉。琥珀色の瞳に、鼻筋の通った精悍な顔立ちの青年だった。

 物腰も柔らかく品がある。自分と同じ人種に思えて、安心する。

「いや、私も連れとはぐれてしまった所だ。この人ごみでは、探し回るより、探してくれるのを待っているほうが良さそうだ」

「はい、そうなのですね」


 彼は、道の端の石垣の上にガナーを座らせて、隣に座る。横を見ると、そうやって休んでいる人の姿が目に入る。

「此処は、座ってもいい場所なのね」

 感心したように言うガナーを見て彼は、笑う。

「町に出るのは初めてか?」

「はい。こんな大勢の中にまぎれて歩くのは初めて。人々の熱気にエネルギーを感じて楽しいわ」

「そうだ。このエネルギーが、力となって国を動かす事もある」

「この人々に支えられて、国が作られているのですね」


 彼は、ガナーの言葉に、不思議そうにじっと見いる。

 そして、手を伸ばしてガナーの顎を掴んで顔を覗き込む。

 ガナーは、不思議そうに彼を見返していった。

「おリボンを売っているいいお店を知りませんか?」

 ガナーは、ニッコリ笑って見せると、彼は、毒気を抜かれて一瞬固まる。

「り、リボン?」

「そう、おリボンを買いに来たの」

「随分無防備だな。男をこんな近くに近づけるとは。しかし、綺麗な顔をしている。頭も良さそうだ。気に入った。お前を側においてやろう」


 ガナーは、するりと彼の手から逃れて、ニッコリ笑う。

「それは無理です。私には、婚約者がいますので、あなたの側にはいられませんわ」

「婚約者など関係ない。私が、ほしいと思って、手に入らないものなどないのだ」

 随分傲慢な言葉だ。ナハルやマハムドだって、そんな事言わないのに。

 何処のわがまま息子かしらと思い、あきれていると、背後から突然声がした。


「アジームファーザ王子!」

 小柄な、茶色の髪に、褐色の肌の男が駆け寄ってくる。

 アジームファーザ王子と聞こえた。確か、イレックの王子の名前だったと思い出す。

「お探ししました。お側を離れてしまい、申し訳ありません。でも良かった、見つけられて」

「ああ、スイン。ちょうど良かった。この娘を、私の宿舎に連れて行け」

「はい。仰せのままに」

 スインは、ガナーに向き直り、促す。

「では、お嬢様参りましょう」

「私は、行けません。連れを待っています」


 イレックの王子などに捕まってしまったら、大変な事になる。

 一応断ってみる。

「そのように、解らない事をおっしゃってはいけません。王子の命令は絶対です。逆らう事は許されませんよ」


 まったく人の話を聞こうとしない。これだから、わがまま王子は嫌いだわ。

 ガナーの言い分を無視して、スインは、強引に、ガナーの手を掴んで立たせようとする。

 小柄でも、男の力には抗えない。

「少し待ってくださらない? 直ぐにナハルが見つけてくれるはずですから」

 その名を聞いた、アジームファーザ王子が、側に来て顔を覗き込んでいった。

「それが婚約者の名か? だが、呼ばぬほうが男のためでもあるぞ。此処に、婚約者がいなかったことに感謝すべきだな」

「どうしてですか?」

「解らぬか? 自分の女が連れて行かれるのを、黙ってみているしか出来ないのは、屈辱だろう。だが、はむかえば殺されるだけだ」


「誰が、黙ってみているって?」

 突然、声と一緒に、キラリと光る剣先が、彼の前に突き出される。

 スラリと背の高い、剣を構えた時の綺麗な立ち姿。

 クーフィーヤを顔の半分まで被っているけれど、その声は、紛れも無くナハルだと解る。

「ナハル!」

「気安く障ってほしくないな」

 彼は、不機嫌な声で、ガナーの手を掴んでいた男の手をひねり上げると、けり倒す。

 そしてガナーを後ろに隠して、剣で威嚇する。


「お、お前、誰に向かって剣を振りかざしている!」

 剣を鼻先に突きつけられて震え上がっているくせに、慌てて起き上がったスインが、アジームファーザ王子を護るように、前に出てわめきたてる。


「誰かなど知らないね」

 ナハルは、冷たく言い放つ。

「なら、冥途めいどの土産に教えてやる。この方は、イレックの時期国王となられる、アジームファーザ・アイク・シュラド様だ。そのお方に剣を向けるなど、命知らずな!其処に直れ、その首落としてくれる」

 イレックの王子の権勢を笠に着て、口だけは、勇ましくわめきたてるが、その姿勢は、腰が引けてるし、もう一脅ししたら、尻尾を巻いて逃げ出しそうだった。


 もはや、負け犬の遠吠えにしか聞こえない。 

 でも、一応王子の前に出ているのだけはけなげで、ほめられると、ガナーは、秘かに観察していた。


 もちろん、ナハルが、そんな脅しにびくつくはずもなく、うるさくわめきたてる小物に見向きもせずに、平然と言う。

「イレックの王子だと言っても、ここは、グリームの領土だ。他国の人間を拉致するなど、王子のすることじゃないと思うけどね」

「グリームなど、とうにイレックの藩属国になっている。私が、女一人攫ったとて、文句など言わない」

「なるほど。仕方が無い。そちらが名乗ったのなら、私も名乗らなければならないだろう」

 ナハルの雰囲気が変わる。

 言葉遣いも、声のトーンも違う。

 ガナーの知らないナハルだった。

 彼が、クーフィーヤをサラリと外すと、輝くように、日の光を反射する金色の髪と、エメラルドの瞳が現われる。


 その姿を見れば誰でも、一目でわかってしまうだろう。

 名乗るまでも無く、アジームファーザ王子は、わかったようだった。

「メリドの龍か…」

「私は、メリドの第一王子。ダハブヌールラエド・ナハルエルメリート・イウサール。私の大切な人を、返してもらう。異存は無いだろうね」

「今日の所は、引き上げよう。しかし、女が一人でいるところを見つけたら、容赦はしない。せいぜい目を離さないようにする事だ」

 そういって、彼はきびすを返すと、人ごみの中に消えていった。

 スインが、慌てて後を追う。


 ナハルが、ガナーに向き直って、いきなり抱きしめた。

「ガナー良かった。無事で。ごめんね、心細い思いをさせたね」


 ナハルの香りがすると思った。

 イレックの王子と違って、柔らかい香りだ。 この香りが好きだと思う。何故か安心するからだ。ナハルと解るから、安心するのだとは気づかないままそう思う。

 助けてくれたお礼を言おうと思って、顔を上げると、間近に目が合う。

 やっぱり、間近で見るならナハルが良いと思ってしまうと、急に心臓が大きく鼓動し始める。そしてやっと、今の状況に気が付く。

 

 街中で抱き合う男女なんて、はしたないと恥ずかしくなる。

 まるで恋人同士みたいだ。

 龍神と歌姫の夢が、頭の中にちらつく。重ねた唇の感触が蘇る。


 ガナーは、慌てて思考を閉じてナハルの腕から離れる。

「ナハル。大勢の人がいるところで、こんなことをしてはいけないわ」

 ガナーは、耳まで赤くして、うつむく。


 今までのガナーだったら、たいして気にもせずに、腕の中に納まっていたはずだ。

 ガナーの様子が何時もと違う。これはうぬぼれてもいいのだろうか。


「ごめん。つい安心して、抱きしめてしまった。でも、そんなに気にする事はないよ。皆やってる」

 ナハルは、クーフィーヤを被りながら、

ガナーの反応が嬉しくて、顔を近づけて囁いてみる。

「さすがに、キスしたら、注目を浴びるだろうけど」

 思ったとおり、ガナーは、さらに顔を赤くして動揺している。


 可愛い。ナハルがクスッと笑うと、からかわれた事に気づいたガナーが、膨れた。

 余計に可愛くて、キスしたい衝動を抑えなければならなかった。

「ごめん。怒らないで。今度は、はぐれないように気をつけて行こう」


 新しいブルカを買い、ついでに、ヘルのヒジャブも買った。

 リボンや、髪飾りを見ていると、どれをつけても可愛いので、アレも、これもと、際限なく買い込もうとするナハルに、さすがにガナーが止める。

「ナハル、そんなに持ち歩けないわ」

「そうか、荷物を運ぶ者がいなかったんだな。残念だ」


 二人が宿に戻ると、あちこちから、マハムドの名前が聞こえてきた。顔を見合わせて笑う。

「彼は、すっかり人気者だね」

「うふ! そうみたいね」


 二人が部屋に入って行くと、マハムドは、大量の料理と、お酒に囲まれ、くつろいでいた。

 彼の顔を見ると、なんとなくムカつく。

 ガナーを、独り占めできる権利を持っている男だと、思うからだ。

「君は、この町では英雄だね。しかし、山賊には、確実にうらみを買っただろうから、山に入る時は、注意した方がいいね」

「山賊退治の首謀者は君なのに、何故、私が恨みを買わなければならない」

「英雄と言うのは、そういうものだ。この町には、マハムドと言う名前の子供が増える事だろう」

 八つ当たり的に平然と、そう言い放って自分の部屋へ引き上げて行った。

 腑に落ちない顔のマハムドは、何も言えずに、ドアの方を見ていた。


 

ナハル、思いっきり八つ当たりだね。マハムドは、気の毒に。

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