マハムドは今日も不機嫌
けなげなマハムドが、振り回されてくれます。
マハムドは今日も不機嫌
三日目の宿舎は、かつてのエルメリッド城からちょうど真東に在ったとされる離宮だ。
エルメリッド城の玄関口ともいえるこの城は、創りも豪華で、当時の彫刻もそのまま残されている。
朝のまぶしい光が窓から差し込んでいた。
いい天気だ。今日も旅日和になるだろう。
今日で四日目の朝だ。
マハムドが、ベッドから身体を起こして、窓の外を眺めると、目の端に見たくない人影が横切った。
そのとたんに、眉間にしわを寄せて不機嫌になる。
カーテンを引いて、視界も思考も遮ろうと試みるが、やはり落ち着かない。
サッと着替えて、離宮の庭園に出て行った。
自分は心が狭いのかもしれない。アザリーとナハルが一緒にいるのは、あくまでも旅の間のカモフラージュのため。
婚約者同士の振りをしているだけだ。
(本当に芝居なのか? お互いにひかれあっているように見える)
心の片隅に浮かんでしまった気持ちに不安になる。
此処はまだ離宮で、そんな芝居をする必要も無いはずだ!
アザリーは、自分の婚約者だ。もちろん彼女を疑っているわけじゃない。
だが、ナハルは、ほって置くには危険すぎる。明らかにアザリーに好意を持っているし、奴の容姿は危険だ。
何なんだ、龍神の生まれ変わりだかなんだか知らないが、この地方の人間とはまるで違う。肌の色も白くて、金色の髪にエメラルドの瞳をしている。
側で見たら、まぶしくて目を細めてしまう。
顔立ちも、女かと見まがうほど繊細で綺麗な顔をして、アザリーに対してだけ、満面の笑顔を見せるのだ。
他の人間に対しては凍りつくほどの冷たい態度のクセにだ!
そのナハルが、アザリーと一緒にいるのが目に入っては、ほっておけるはずが無い!
息をきらせて、庭園を探し回る。
庭園の遊歩道に二人を見つけた。いや二人きりではない。侍女のアインを連れてはいるから三人だ。
そこは、さすがわ我が婚約者。きちんとわきまえていてよろしい。
たとえ、庭園の散歩であれ、男と二人きりなどと分別の無い事をアザリーがするわけがないとマハムドは満足する。
実は、さっき部屋の中で見えたときは、アインの姿が見えなかったのだ。
それであせって来たわけでは決してない。アザリーはそんなふしだらな女ではないと信じている。
そう、自分に言い聞かせながら、気持ちは焦っていた。
庭園の遊歩道を仲良く並んで歩く二人を見つけると、早足で近づいて行き、二人の間に割り込んだ。
「おはよう。アザリー、疲れは残っていないか」
マハムドが声を掛けると、彼女は礼をとる。
? ? 世継ぎの王女の彼女が、たとえ婚約者とはいえ、マハムドに対して礼をとることなどありえなかった。
「おはようございます。お兄様」
と、彼女は言った。そうか、やっぱり芝居をしているのか。
「ああ、…それ、やっているのか?」
マハムドが、気の抜けたような声を出して、アザリーを見た。
「そうよ、だから、私のことは、ガナーと呼んでね」
アザリーは、やる気満々で、得意そうだった。そんなところも可愛いが、まだ自分の婚約者にしておきたかったマハムドは、不満を漏らす。
「私には、ガナーと言う妹はいないが…」
「愛称よ。沢山いる妹の一人ということにしておけば、誰も気が付かないわ」
「…それはそうだが、…別にアザリーのままでも問題はないだろう? 此処はまだ離宮だ」
「ダメよ、もしナハルの存在に疑問を持つ者がいたらどうするの? 彼は敵国の世継ぎの王子なのよ。もし追求されて、姿でも見られたら、直ぐにばれてしまうわ」
まあ確かに、こんな目立つ容姿をしたものは、龍神の化身だという彼以外にいないだろう。
結局は、ナハルのために我慢しなければならないのかと思うと余計にむかつく。
「ガナー、僕の心配をしてくれるの? 嬉しいよ」
その言葉が、余計にマハムドの神経を逆撫した。何時も冷静なマハムドらしくなく、ムッとして思わず声を荒げてしまった。
「ちがう! エルドの国内で、メリドの王子が暗殺なんて面倒はごめんなだけだ。勘違いするな」
マハムドがいらだって声を荒げているにもかかわらず、ガナーは、のんびりと別の話を始める。
「このブルカってじゃまね。動きにくいし、視界も悪いわ。どうして、女性はこんなもの身につけてるのかしら」
ナハルは、クスッと笑いながら手を差し出す。
「そうだね。でも、君を守る為の物だから我慢して。僕に捕まって、君の安全を護るのは僕の役目だ」
ナハルは、そういいながらさりげなくガナーの右側を支える。
ガナーは、内心彼の動きに戸惑う。もしかして気が付いているのかしら…?
侍女のアインは、三人の様子を遠巻きに見ていた。
相変わらずマイペースな主人に、マハムドが少し気の毒な気もするが、これも何時もの事だった。
マハムド様は、気にする様子も無く、何時もアザリー様の言動に振り回されている。本当にアザリー様には甘い。
それよりも、驚くべきは、ナハル様の態度だった。
アザリー様のいないところでは、むすっとして、必要なこと意外口も利かないし、ニコリともしない。
うっかり声を掛けて良いものかと警戒してしまうし、扱いにくい人だ。
それが、アザリー様が側にいると、まるで陽だまりのような柔らかい笑顔で、流暢に話しもするし、優しくアザリー様を気遣っていらっしゃる。
二重人格なの? と思うほどだった。
マハムドは、まださっきの感情を引きずっていて、何時の間にか話題が変わっていた事に頭が付いて行っていなかった。
目の前でナハルが、アザリーの手を取るのを見て初めて、この事態に気が付いた。
何が、僕の心配をしてくれるのだ、今は利用価値があるから、失くさないようにしているだけなんだ。
それを、あんなふうに言うナハルに腹が立って、その上、アザリーの手を、…手を握るなどけしからん!
二人がだいぶ先へ行ってしまってから、アザリーの手を取るなら自分がやるべきではなかったかと思い至った。
だが、今更遅い気がして、眉間にしわを寄せて悔しそうに二人を見ていることしか出来なかった。
その様子を侍女のアインが、気の毒そうに眺めてマハムドに声を掛けた。
「あの、マハムド様、食堂に、朝食の準備ができています。今朝は、バラ水の紅茶をご用意してありますわ」
「あ、ああ…」
ガクリと肩を落として気の抜けた返事をした。
彼らは、正午少し前に離宮を立って、次の地へ向かって出発した。
食事を済ませ、町のはずれまで、離宮の小間使い三人ほどに彼らの馬を引いて後についてこさせることにした。
旅に必用な物をそろえる為に、歩いて市場に立ち寄った。
色鮮やかなテントを張っただけの粗末な露店の店が並び、食べ物、衣類、雑貨まで様々な物が所狭しと並んでいた。
さらに、あちこちから色々な匂いが漂っている。
人と物が溢れる市場は、熱気と興奮でむせかえるようだった。
市場が珍しいガナーは、あちこちに興味が尽きないようだ。
ほっておいたら迷子になりそうでマハムドはひやひやする。
注意をしようと思って、ふと気が付く。
ナハルを見ると、ガナーの側を付かず離れず、時に説明をしたり、ガナーの自由に歩き回らせている。
自分とはまったく違う接し方だった。
いや、だが、少し近すぎないか?
そんなに側で常に支えていなくても、ガナーは年寄りではない。健康な若者だぞ!
と、思わなくもないが、何しろ人ごみの多い場所だ。ナハルなりに警戒しているのだろうと思って我慢した。
自分だったら、早急に注意して、さっさと切り上げている所だ。
ガナーのこんなに楽しそうな様子は見たことが無い。
確かに、目を離さず、側で見守ってやればいいことだ。
ナハルは懐が深い。自分は器の小さい人間だと反省する。
しかし、よく見ていると、危ない感じがするのはガナーだけじゃない。
女達の視線がやたらとナハルを追いかけている。
顔を殆ど隠している奴の、一体何処に目をつけているのか不思議だ。
後姿は、スラリと背が高くて、ガッシリとした肩なのに、剣ベルトをつけた腰はやたらに細い。悔しいが、しなやかな獣のような体系だ。
ああいうのを、女達は好むのか?
それは如何でも良いが、ガナーの好きそうな置物を並べた店の前で、ガナーとアインが夢中になって話している。
それを遠巻きに見ていたナハルの側に、色香を漂わせた豊満な体つきをした女がなれなれしく擦り寄ってきた。
「お兄さん、私とあっちへ行かない?」
止めておいてくれ。面倒な事に成る気しかしない。と思っていたが、案の定だ。
女がナハルの腕に手をかけた瞬間、ナハルは振り向きざまに女を突き放して言い放った。
「くさい! 側によるな」
ナハルから突き刺すようなピリピリした空気が流れる。
人を寄せ付けない高圧的な雰囲気が一気にあふれ出す。
自信満々に声を掛けてきた女は固まって、石のように動けなくなっていた。
その剣幕に驚いて振り向いたアインは思った。
あ、本来のナハル様だ。
人間嫌いだといわれる彼が、ガナーの前では、まるで別人だが、他の人間には手のひらを返したように冷たい態度になる。
周りを取り巻く空気が変わることを、アインは知っていた。
こういうところは、まったくのわがまま王子そのものなのだ。
まったく、好き嫌いがハッキリした王子様だわ。
龍神の化身の生まれ変わりだといわれる彼に対して、逆らえる者などいなかったのだろうなあ。と、アインはため息をつく。
ガナー様を見ると、さすがに驚いた様子でナハル様を見ている。
何とか言ってあげてください。
さすがに、あの子が可哀想過ぎます。
アインは、後ろから、秘かにガナーにエールを送る。
そんなエールを感じ取ったとは思えない主人だが、ナハルを諭す。
「ダメよ、ナハル。そんな言い方をしたらあの子が傷つくわ」
「ん? どうして?」
ナハルは、まったく悪びれる様子が無い。不思議そうに聞き返す。
「女の子にくさいなんてダメよ。ねえ、アイン」
「はい。私なら二度と立ち直れません」
せっかく意見を求められたので、ここぞとばかりにアインも主張してみた。
「そうよねえ! 私だって、引きこもってしまうわ」
ガナーも、力いっぱいアインの言葉に同調する。
二人に攻められて、さすがにひるんだナハルは、自分の正当性を主張した。
「だけど、僕は人一倍鼻が利くんだ。あの、体臭と香水の混じったにおいは、頭が痛くなる」
「そうなの、ナハルは、そんなに鼻がいいの?」
「鼻だけじゃないよ。目も、耳も良いよ」
「でも、その言い方はよくないわ。あの子を傷つけたかったわけじゃないんでしょう」
「うっとおしいとは思ったけど、傷つけたかったわけじゃない」
「それなら、別の言い方をするべきだわ」
そうなのか? 女性は、そんなに簡単に傷つく者なのか…。これは気をつけないと、ガナーに嫌われてしまうかもしれないと、内心あせる。
「そうか…、次からは気をつけるよ」
ナハルは、しゅんとして言うと、女の方に振り返って、謝る。
「悪かった。気にしないでくれ」
まだ固まったままだった女は、事態を飲み込めたのか、すごすごと離れていった。
ナハルが、神妙な顔で言うのを見て、アインは驚く。
まあ、なんて素直な方なのでしょう。わがまま王子でも、素直な所はおありになるんだわ。
神妙な顔で反省するナハル様が、可愛い!
「でも、私も、ナハルがそんなに鼻が良いなんて知らなかったから、あまり側に寄らないように今度からは気をつけるわ」
「ガナーの香りは嫌いじゃないよ。とくに、その髪の匂いは好きだな。もっと近くに居たいくらいだ」
「え? 髪? 特に何もつけていないけど…」
「とても甘い香りがする」
ガナーは不思議そうに、アインに尋ねるように見る。アインは、ガナーの髪の香りを知っていた。
「ガナー様、きっと、王家に伝わる香ですよ。枕元に置かれて何時もお休みになるので、髪に香りがうつっていますから」
「ああ、この香り? 王家の秘伝だから、残念だけど分けてあげられないわ」
「僕は、君が側にいてくれれば十分だよ」
ナハルが、ガナーの手を取ろうと、伸ばした手を押しのけて、突然大きな男の後姿が目の前の視界をいっぱいにする。
「ゴホン! 何の話だ」
マハムドが二人の間に割り込んで来たのだった。
ナハルはムッとする。いい雰囲気の所で何時も邪魔をする。まったく邪魔くさい奴だ。
「ナハルは、とても鼻がいいんですって、だから、きつい香水の匂いが苦手なんですって」
「ふん…」
香水を目いっぱいふり撒いてナハルの周りをうろついてやろうかと、一瞬頭をよぎる。
しかし、さっきの態度は、香水のせいか? 何時ものナハルの態度だろう。とマハムドは思う。
だが、此処からのナハルの様子は、なかなか見ものだった。
何故か、顔もろくに見えないナハルばかりが集中的に言い寄られる。
又、別の女が寄って来て声を掛ける。
「お兄さん、おいしいお酒があるの。あっちで一緒に飲まない」
一瞬ナハルは固まる。
側によるなと言ってはいけないなら、なんて言う?
チラリとガナーを見る。
彼女は期待の眼差しでナハルを見ている。此処で失望させてはいけない気がする。
「…い、今は時間が無い。又今度にしてくれ」
とりあえず、当たり障りの無い言葉を言ってみる。
「あら、残念」
女はたいして残念そうでも無く、あっさり引き下がってくれたので、ホッと胸を撫で下ろす。
ガナーに向き直って、確認するように聞いた。
「これでいい?」
「ええ、とても良いと思うわ」
ガナーは、満面の笑顔をくれた。
ガナーにほめられて気を良くする。そうか、これで良いのか。
しかし、皆がみんなそんなにあっさり引いてくれるわけも無く、次々言い寄ってくる女達に四苦八苦しながら逃げ回っている。
しかし、ナハルは、女たちから逃げながらも、決してガナーの側を離れようとしなかった。
何となく足を引きずっているように見えるガナーのエスコートも完璧にこなした。
やっぱり、この間の湖で、足を痛めていたのだろう。
周りに気付かれないように気を使っているようだが、僕だけは気遣ってあげなければと思っていた。
おかげで、さすがのナハルも市場を出るころにはくたくたになっていた。
相手を傷つけずに思いやる事が、どれだけ難しい事か思い知らされた。
旨く断る経験値が圧倒的に足りない。
ナハルは、自分の未熟さが歯がゆかった。
そして今まで、どれだけ回りを傷つけてきたかと反省した。
ガナーは珍しい物を沢山堪能して大満足だった。
右足の違和感も、ナハルが手を貸してくれたので、アインにも気づかれなかった。
本人でさえ忘れていたくらいだ。
マハムドに気づかれたらきっと城に連れ戻されてしまう。この機会を逃したら、陽扉艦を手に入れることは出来ない。
今はまだ、マハムドに知られるわけにはいかない。だから、アインにも黙っている。
でも、ナハルだけは気が付いているみたいだ。
気付いているなら、ナハルに相談してみようかしら?
アルバーン王は、その後どうなったのか…。
だが、知りたいのと半分知りたくない。
もし、足を切断していたら、その事実を知るのが怖い。
四苦八苦してくたくたのナハルと、そのナハルの様子を堪能し、満足のアインと、マハムド、一行は、買い物を終えて町のはずれに差し掛かった。
人家は無く、草が生い茂り、むき出しの大きな岩や、まばらに木が茂り寂しい雰囲気に、細い小道が続いている。
この辺りは確か小さな村が湖に呑み込まれてつぶれた被害があったはずだと、
マハムドは、思い出していた。
この村の住民は、今頃どうなったのかなどと考えていた矢先、がさがさと茂みを揺らして六人ほどの暴漢が現われた。
みすぼらしい姿をした、いかにも貧しさから暴力に頼ってしまっているといった風情の男達だ。
ぼろぼろに敗れて汚れた服は、元の原型さえ分らないようにひどい有様だった。
敗れた衣服から覗く貧相な骨だらけの身体は、傷だらけで、いっそう哀れに思えた。
慣れない手つきで、短刀を握り締め、飢えた目をぎらぎらさせている。
彼らはおそらく湖の増水によって家や、畑を失って路頭に迷う、本来ならエルドの善良な民だった者達だろう。
だが、ガナーに怪我をさせられてはいけないと思ったのだろう、ナハルがいち早く動く。
「ガナー、下がって」
「ナハル…」
ガナーが、心配そうに掛けた声に、ナハルは大丈夫分っていると、頷いて見せた。
それだけで通じた様子で、ガナーは大人しく大きな岩陰にそっと下がる。
アインと、ガナーを下がらせ、ナハルは剣を抜く。
マハムドも、見たことの無いしなやかなそりを持つ美しい剣だ。
前回はじっくり見る余裕が無かったが、光りの雫が、切っ先からこぼれるように光る。
その剣を持つナハルの立ち姿も、見惚れるほど美しいと思ってしまい、慌てて意識を、暴漢にもどしたマハムドだった。
彼らの姿は、見れば見るほど、切なくなる。
マハムドは、倒すのが忍びなくて、苦戦しているうちに、気が付くとナハルは、あっという間に男達を片付けていた。
マハムドがやるべき事は、離宮に使いをやって、兵士が来るまで、彼らをみはっていることだけだったが、それも必用なさそうだった。
ナハルに倒された者達は腕や足が動かない様子で、立ち上がることも出来なそうだった。
「ナハル、これは…」
「大丈夫だ。少しすれば元に戻る」
ナハルと対決した時に自分もそうだった。
しばらく腕がしびれて動かなかったが、時間がたつに連れて感覚は戻ってきた。今はまったく支障がない。
ナハルは、立とうとあがいている男の側に行って手を掴む。
「成れぬ物は、持たぬ方がいい。この手は、武器を持つより、桑を持つ方があっている」
岩陰から様子を見ていたガナーが、少し足を引きずりながら側にきて言う。
「ナハル、食物を荷物からおろしてくれない? 彼らには必用だわ」
「ああ、いいよ」
「マハムド、国庫を開いてくれるように父に手紙を書くわ。隔離宮で、飢えた人々のために炊き出しをするように指示を出して」
「ああ、分った」
ナハルがおろしてくれた昼食用の食事を、ガナーは全て彼らに分け与えた。
男達は相当腹をすかせていたのだろう。アインが、差し出してやると、ひったくるようにして、動く方の手で、がつがつとむさぼる。
「辛い思いをさせてごめんなさい。きっと、湖の水を引かせて農地も、家も取り戻すから、もう少しだけ耐えてくださいね」
ガナーの言葉に、ハッと我に返ったように男達はひれ伏す。
おそらくアザリーの顔も、マハムドの顔も知らないような、ひたすらに畑だけを耕していた農夫たちだろうが、ガナーの様子に、自国の王女らしいと悟ったのだろう。
食物を放り出してひれ伏し、がたがたと震える。
そして、声にもならないようなかすれた声で許しを請う。
ガナーは膝を折って彼らの側にかがむ。
「いいのよ。あなたたちを苦しめているのは、私の力が及ばないから…。でも、もう少しだけ待って。必ず皆を護るから。明日からは、離宮へ行きなさい。皆に食事を配るようにさせるわ」
男達はますます額を地面にすりつけてひれ伏す。
そして、乾いた大地にぱたぽたと涙を落とした。
「マハムド、彼らはこのままそっとしておきましょう。罪に問われたら可哀想だわ」
「ああ、そうだな…」
マハムドは、離宮から、馬を引いて付いてきていた小間使いに、口止めをして、ガナーの手紙と、指示書を持たせて返した。
後日マハムドが、旅の途中で唯一受け取った母からの手紙で、アザリーの希望通り、国王が、国庫を開いたこと、炊き出しが、各地でおこなわれていること知った。
また、アザリー王女が民を助けてくれると皆が口々に言い、湖の増水に怯える者達が救いを信じ、各地での争いも少なくなったと伝えられた。
「さて、我々は出発しよう。ナハル、君は先頭を行ってくれ。私はしんがりを護る」
「ああ、分った」
そういうと、早速ナハルは、ガナーの手を取り馬に乗せる。
マハムドは、またしてもナハルにしてやられて、「しまった」と思うが既に遅い。
だが、良く考えてみれば、ガナーが馬に乗る時、誰かの助けを必要としたことなどあったか?
ナハルが、必要以上にかまいすぎなんじゃないのかと、思えなくも無いが、それでも、ガナーは断りもせずに手を借りている。
本当は、何時もそうしてほしいと思いながら無理をしていたのだろうか?
もし、そうだとしたら、自分は随分と気の利かない男だ。
マハムドは、ガナーの足の不調にまだ気が付いていなかった。
ナハルは、ガナーのことを良く見ていると思う。
気にくわない所もあるが、根本的には間違った事をしない奴だ。
マハムドはため息をつく。
そして、マハムドは暴漢たちの様子を思い出す。
ナハルは、あの時のように剣を止めたのだろう。
大勢の暴漢に襲われて、切ってしまえば簡単なのに、あえてそれをしなかった。
それは、おそらく、今は湖に呑み込まれてしまっているが、やがて畑を取り戻した時は、彼らには、農地に戻ってほしいと願っているからだろう。
たとえそれが、敵国の民であっても。
彼はすばらしく腕が立つ。彼と対決して、自分がいかに井の中の蛙だったか思い知らされた。
その上、彼の地位があれば、大抵のことをしても許されてしまうだろう。
それでも、ナハルは、むやみに人をあやめたりしない。
それに、さっきの市場での彼は、今までの行動を素直に反省して、四苦八苦しながらも、言い寄る女達を傷つけないように努力していた。
最初はわがまま王子だと思っていたマハムドだが、なかなか良い男だと感心した。
ガナーに諭されて素直に反省する辺りは可愛げがある。
「ナハル…。ありがとう。エルドの民を傷つけずにいてくれて」
ガナーは、馬に乗せる為に抱き上げてくれたナハルに、ぎゅっと腕を回して、抱きしめ、改めてお礼を言う。
「人は生きる希望を失くすと、誰でもすさんでしまうものだ」
ナハルは冷静に返して、そのままガナーを馬に乗せた。
目の前で起こっている光景に、頭の中が真っ白になるマハムドは、ハッと我にかえる。
いや、今のは、ガナーの、王女としての行動で、決して、ナハルに抱きついたわけじゃない。自分に言い聞かせる。
その証拠に、二人とも冷静だ。しかしだ、ガナーのハグに対して、冷静すぎるのはなんとなく気に入らない。
ガナーのハグだぞ! 奴は何も感じないのか?
自分なら動揺してしまいそうなのにと、心の片隅で浮かび上がった気持ちに、どうして動揺する必要があるのかと、慌ててうち消す。
いや、自分ではなく、一般の男たちのことだ。
ガナーは男に抱き着いたりしないが、彼女の笑顔を見ただけで、たいていの男は、固まって動けなくなる。
マハムドは、何度もそんな光景を見てきた。そのことを言っているのだと、自分で自分に言い訳する。
動揺する気持ちを悟られまいとして、冷静さを装って言葉を作る。
「ナハル。君は良い奴だ。私からも、礼を言う」
「ガナーを僕にゆだねてくれる君ほどじゃないけどね」
ナハルが、意味深に笑う。「ん?」もしかして、さっきのガナーのハグのことを言っているのか?
さっきは何でもなさそうな態度だったのに?
心なしかナハルの顔が得意顔に見える。
「ガ、ガナーを、君にゆだねてはいない!」
マハムドは、ムッとしてナハルを睨む。
だが、ナハルは、ヒラリと馬にまたがると、ガナーを連ねて既に走り出している。
慌ててアインが後に続こうとしていた。
考えてみれば、先頭をナハル、次がガナー、アイン、マハムドの順に並ぶと、結果的にガナーをゆだねる事になってしまう。
しかも、偽装とはいえ、婚約者の位置までゆずることになっている。
むかむかと腹立たしさが湧き上がってきた。
ほんの少し良い奴だと見直したのに、とたんに油断の出来ない本領を表すナハルに、
マハムドは警戒心でいっぱいになった。
なにもかも、ナハルの思い通りにされている気がしてきた。
やっぱり、マハムドは今日も不機嫌だった。
やっぱり、ナハル最強でしょうか?