惹かれあう絆に導かれて
傷心のアザリーにロマンスの慰めを…
惹かれあう絆に導かれて
二日目の宿は、エルド城から南に位置する離宮の一つに滞在した。
離宮へは、昼過ぎころに着いた。
アザリーは、さっそく父王に手紙を書いて伝令に託した。
そのあと、マハムドが、ジナーフの変わりの馬を見せてくれた。
アザリーに、馬を送るときに候補に考えていた馬の一頭で、ジナーフの次にいい馬だと言った。
「ジナーフは、白くてきれいな馬だったから、君に合うと思ったが、この馬も、なかなか綺麗で行儀のいい子だ」
「本当に、栗色の毛並みが輝いているみたいにとてもきれい。それに、スタイルもいいわ」
「君が、離宮に来た時に役に立つかと思って、置いておいてよかった」
「ありがとうマハムド。名前はなんていうの」
「アスルだ」
「ふふ、はちみつ色だからね。アスル、私はアザリーよ、仲良くしてね」
アスルは、ふんふんと、鼻先をアザリーに近づけてきた。
気に入ってくれたようだ。
打ち合わせを兼ねた夕食を終えて、アザリーは、ベランダに出て、月を眺めた。
今日は満月で夜空に煌々と輝いていた。
「良い月夜だね」
不意に下から声が聞こえた。
声の主は、ナハルだった。
深くかぶったクーフィーヤの前を持ち上げて見上げている。
「ナハルも、月を見に来たの?」
「そう、月夜に惹かれて出てきたら、もっと美しい女神に見せられて、目が離せなくなってしまった」
そういうナハルこそ、月に照らされて輝くように美しかった。
この人は、なんて美しいのかしら。美しいことは其れだけで、人の心を癒してくれると、アインが何時も言うが、確かにそうかもしれない。
「アインの口癖が、分るような気がするわ…」
「え? 何?」
「ううん、何でもないの」
ガナーは、クスッと笑って答えた。
「君は月から舞い降りた女神のようだね」
「あなたは、夜空に輝くシリウスね。誰よりも輝いているわ」
「では、僕にあなたの足元を照らす役割をください。夜の暗闇も、払いのけてあげるから降りてきて、一緒に散歩しない?」
「夜のお庭を?」
「うん。今日は、月夜だし、夜風が気持ち良いよ。待っていて、今迎えに行くから」
テラスの横に繋がる階段を駆け上がってくると、アザリーの手を取る。
側に控えていたアインに声を掛けた。
「アイン、少しだけガナーを借りるよ」
なるほど、これは、私についてくるなと言う暗黙のお指図。
アインは、一瞬のうちに考えを巡らす。
大丈夫かしら? ナハル様は、敵国メリドの王子様ではあるが、アザリー様にナイトの誓いをしていらっしゃるし、…今まで、見てきた限りでは、危害を加えるとは思えなかった。
ジナーフの件では、アザリー様の命の恩人と言える行いだったし…。
アザリー様には、マハムド様と言う、れっきとした婚約者がいる身ではあるが、
奥手のアザリー様が、暴走するとも思えなかった。
だが、しかし、ナハル様は、虎視眈々(こしたんたん)と、マハムド様にとって代わることを狙っている様子が、まるわかりだった。
ナハル様自身その欲望を隠してもいないほどに。
ここで私が、目をつむるのは、マハムド様に対する裏切りになるのでは…?
しかし、主人に誠実なアインは、アザリー様は、ナハル様とご一緒の方が幸せなのではないかと、昨日、今日、と見ていて思ってしまっていた。
ナハル様は、本当に良くアザリー様を見ていらっしゃる。
マハムド様は、ある意味、真面目過ぎて常識の範囲でしか、アザリー様を分かってくださらないことが多い。
常に、常識の範囲を超えられるのが、アザリー様だというのに。
アザリー様は、やはり今日は元気がなかった。
おそらくマハムド様では、アザリー様を元気づけることはおできにならないだろうと思う。
もしかしたら、私がここで目をつむって、ナハル様とのお時間を作ってさしあげれば、アザリー様をより元気づけてくださるかもしれない。
今のアザリー様には、ナハル様が必要なのではないだろうか?
そこまで考えたアインは、アザリーをナハルに預けることにした。
「はい。お気を付けていってらっしゃいませ」
アインは、さりげなくガナーに上着をかけて、無言の威嚇だけしておく。
ナハルは、それを感じ取って、苦笑いした。
彼に手を取られて階段をゆっくりと下りる。
アザリーのペースを崩さないタイミング。
彼は、エスコートもとても上手だ。
手を引かれて庭園に出ると、夜風が、頬にここちよく吹いていった。
暗い夜の雰囲気も、わくわくして、開放感があった。
石畳の散歩道を、月を見上げながら二人であるいていたときだった。
ナハルの足元が急に沈んだ。梃子の原理で、アザリーはふわりと持ち上げられる。
「きゃあ!」
アザリーは、バランスを崩して、ナハルに寄り掛かってしまう。
足元が、急に沈んでバランスを崩していたナハルも、アザリーを抱きとめたが、支えきれずに二人して、芝の上に転がった。
「ガナー、大丈夫?」
「ええ、ナハルは?」
「僕は平気」
「あ!」
アザリーが、急に声を上げて脱力する。
「どうしたの?」
「今日、離宮に付いた時に、遊歩道を修理しているから気をつけるように言われていたのを、すっかり忘れていたわ」
アザリーの言葉に、ナハルが笑い出す。
「アハハ、僕らは、月の罠にはまったのか」
「ごめんなさい」
アザリーが、起き上がろうとすると、ナハルの腕に引き寄せられた。
アザリーは、再び、ナハルの上に倒れれ込むことになる。
「こんなおまけ付きの罠なら、大歓迎だな」
「ナハル?」
「…ごめん、ガナー、もう少しだけこのままでいて。こうしていると、落ち着くんだ」
頬を寄せたナハルの胸から、規則正しい心臓の鼓動が聞こえる。
ナハルの腕の中は如何してこんなに心地いいのだろう。
男の人と言うのは、ほんとうは皆こんななのかしら?
アザリーは、今までマハムド以外の男性が苦手だった。
何か話しかけても、アザリーの美しさに硬直してしまい、答えが返ってきたことがなかったからだ。
アザリーは、目を閉じて鼓動に耳を傾けていると、ナハルが、ポツリと言った。
「君に会いたかった…。僕は、…ずっと、寂しかった…」
「君が側にいると、満たされる。寂しさが、消えていく…」
ナハルの言葉がわかる気がした。
アザリー自身も、胸の中を冷たいが風吹き抜けるような寂しさをいつも感じていたから…。
それが、ナハルの側にいるとなぜか隙間風の吹く場所が埋められたように満たされる。
「ええ、…わたしも…」
アザリーはナハルの胸の上で、目を閉じて、ドクン、ドクン…と二人の心臓の音が重なっていくのを聞いていた。
翌朝アザリーは、ベッドの上で目が覚めた。 不思議な気がして、辺りを見回す。
天蓋付きの離宮の、自分のベッドだ。
もちろんナハルはいないし、一人だった。
夕べ、ナハルと散歩して、芝の上に転んだ所までは覚えている。
その後の記憶が無い。
「アザリー様、お目覚めになられましたか?」
アインが、着替えをもってはいってきた。
「アイン、私、何時部屋に戻ったのかしら?」
「昨夜、月を見ながら眠ってしまったそうで、ナハル様がはこんでくださいました」
「…」
ああ、とんでもない失態をしてしまった。
言葉も無い。
恥ずかしい気持ちを抑えて、わざと平気な顔を作り、ベットから出ようとして、アザリーは、右足に違和感を覚えた。
昨夜転んだ時にひねったのだろうか…?
ひねったにしては足に感覚がないような気がする…。
何だろう…?
ゾクリと背中を伝うような恐怖が一瞬脳裡をよぎるが、あえて考えないようにその考えを押し込めた。
きっと気のせいだ! 直ぐに元通りになるはず。
固まっているアザリーにアインは顔色を窺うように声をかけた。
「支度をして、サロンに生きましょう。お二人ともすでにお待ちになっていらっしゃいます」
アインは、主人が失態をしてしまった事で反省しているのだと思ったので、何時も感のいいアインだが、アザリーの足の違和感にまでは気が付かなかった。
アインとサロンに向かう。
ドアを開けると、直ぐにナハルの姿が目に入った。
ナハルは、窓辺に腰かけて外を見ていたが、アザリーに気が付いて振り向いた。
その姿に、ふとよぎる懐かしい記憶…。
美しく輝くような、…懐かしい笑顔…?
何だろう?
寂しかったと言った、夕べの彼。
何かが、思い出せない…?
「おはよう、ガナー、夕べは良く眠れた?」
ナハルが側に来て声を掛けると、止まっていた景色が突然動き出したような気がした。
アザリーは、夢から引き戻されたように少し戸惑いながら答える。
「ええ、気が付いたら、朝になっていたわ。眠っている私を運んでくださって、ありがとう」
「うん、幸せそうに眠っていたから、起こすのもしのびなくてね」
「とても安心して眠れたわ。ナハルって不思議ね」
アザリーは、無邪気な笑顔で、ナハルを見つめる。
ああ、アザリー様、又やってらっしゃる!
無自覚なのだろうけど、あの笑顔と、その無防備なセリフは、結構罪つくりだとアインは思う。
これでは、さすがのナハル様でも、ひとたまりも無いだろう。
アザリー様から、目が離せなくなっていらっしゃる。
「…そう、僕も夕べは、とても楽しかったよ」
おお、さすがナハル様、動じず、お言葉を返していらっしゃる。
「一体、何の話だ?」
今来たばかりのマハムドが、二人のやり取りをききがじって、聞き捨てならならない会話に割り込んできた。
まずい! マハムド様には、当然黙っていられない内容のお話ですわ。
昨夜アザリーの為に、ナハルと二人だけで送り出したことは後悔していないが、アインは、ひやりとして、アザリーをどうやってかばおうかあせる。
「あのね、夕べ、月があんまり綺麗だったので、…」
あ、アザリー様、そんな本当のことを、そのまま…!
アインが、あせってアザリーの言葉を止めなければと思ったところで、ナハルが言葉を繋げた。
「そう、月を眺めに出たら、偶然、ガナーと遭ったんだ。それで、二人で月を見ているうちに、ガナーが眠ってしまって、僕が部屋まで運んだと言うわけ」
さすが、ナハル様、ナイスホローです。しっかり、アザリー様の名誉をお守りになられた。
疚しいことがあるわけではないと思うが、それでもマハムド様にはいい気はしないだろう。
下手に嘘をつくよりも、半分くらい本当のことでやんわりと誤魔化した方が後々困らずに済む。
アインは、心の中で、ナハルに拍手して、自分もその場にいたかのように、慌てて話をあわせる。
「そ、そうなんです。きっと、慣れない旅でお疲れになっていらしたのですわ。起こさないよう、ナハル様が、運んでくださったのです」
話を聞いて、マハムドは、ため息をつく。
アザリーらしいと言えばらしいが、もう少し警戒心と言うものをもてないのか。こいつの前で眠るのは、これで二度目だぞ! 二度も寝顔を晒すとは!
悔しくてナハルに詰め寄る。
「アザリーに変な真似してないだろうな」
マハムドが、冷ややかな声で言う。
「まさか、眠ってる女性に欲情はしないよ。何の反応もしてくれないなんて、おもしろくもない」
そういう問題なのか? マハムドの目が点になる。何か違うと思いながら、返す言葉がなくなってしまった。
まあ、何かあれば、アインがほっておくはずも無い。問題は無かったのだろうとは思う。
マハムドは、アインが一緒だったのだと疑う様子も無く、納得してくれた。
後ろめたい気持ちはあるものの、アインはホッと息をつく。
でも、おそらく自分が側にいなかったとしても、ナハル様は、アザリー様の許し無しに手をお出しになるような事はなさらないだろう。
きっと大丈夫と、アインは思う。
あんなに美しい方が、間違った事をするはずが無いと、アインはナハルを妄信していた。
アザリーは、二人の会話を聞きながら考えていた。
ナハルは、ナイトだから、私に欲情しないのか…。
ところで、欲情ってどういう意味だったかしら。
ぼんやりとしか解らないけれど、アインがよく言う、男は狼と言うあれだろうか?
そうか、ナハルは、狼にならないのね!
納得するアザリーを観察しながら、アインは、ため息をつく。
ああ、アザリー様、きっと解ってらっしゃらないわ。
三日目の朝、ジナーフの変わりに一緒に旅をすることになった、はちみつ色の馬アスルは、荷物を載せても嫌がらず、大人しくアザリーの支持に従う。
これなら問題はないだろうと、マハムドは、満足だった。
アザリーは、少し寂しそうに、アスルを撫でてやる。
アザリーの心の中は、恐ろしさでいっぱいだった。
襲い掛かる水に飲み込まれるジナーフ。
そして、足に絡みついた、氷の様に冷たい水。
ジナーフの様に湖に引き込まれる恐怖。
必死にあがいても、抗えずに体は湖に引き込まれて行った。
あの時、ナハルが来てくれなかったら…。
思い出すと、余計に右足が凍り付くように冷たい気がした。
恐ろしくて今にも気が狂いそうになるのを必死に耐えて平静を装っていた。
今も、黒く不気味に光る水が目の前にあるように見える。
「ガナー、アスルと仲良くなれた?」
耳元で聞こえた声に、アザリーの視界が戻った。
アザリーは、かろうじて笑顔を作り答えながら、ナハルの声にホッとする自分に戸惑う。
「ナハル、大丈夫そうよ。とってもいい子だわ」
「そうか、良かった。僕もアスルと仲良くなろうと思って、人参をもってきたんだ。」
「ほら、アスルお食べ」
ナハルが人参を食べさせると、アスルは、嬉しそうにほおばる。
「僕も仲良くなっておかないと、ガナーの側に行ったときに邪魔されたら困るからね」
「ナハルは、馬にも優しいのね」
「ぼくは、ガナーに関係するものには優しいよ」
「私には、まったく優しくないが?」
マハムドが、二人の間に割り込んでくる。
「ただし、可愛いものに限る」
「…」
マハムドは、ムッとして言葉を失くす。
その様子にガナーが笑い出した。
三人の様子を遠巻きに見ていたアインは、ホッと、胸をなでおろす。ナハル様がいてくださって良かった。
アインは、ジナーフを失ったアザリーが、こんなふうに笑えると思っていなかった。
アザリーの手を見ただけで、どんな恐ろしいことが起こっていたのか、たやすく想像できてしまう。
アインは、ブルッと身震いをしてしまった。
しばらくは立ち直れないのではないかと懸念していたのだが、ナハル様のお陰で笑っていらっしゃる。
マハムド様にはできないことだろうなと、少し複雑な気持ちになった。
アザリーを気遣い湖から少し離れた道のりで、馬を走らせた。
しかし、湖から離れているにもかかわらず、洪水の傷跡はたびたび目に入ってきた。
その様子を見るたびアザリーは胸を痛めている様子だった。
ジナーフが湖に引き込まれてしまった事も加えて、湖の存在が大きくアザリーの心にのしかかってくる。
アザリーにとって、この旅は現実を突きつけられる辛い旅になるだろう。
アインは、後姿を見ながら、言葉もかけられないまま、うつろな顔で、廃屋となった家々を見つめるアザリーを見守っていた。
もしかしたら、この家の者たちにも、あの夜のような恐ろしい出来事があったかもしれない。
想像しただけで、直ぐにでも逃げ去りたい気持ちで一杯だった。
アインの中に、湖は恐ろしいものだと刻み付けられていった。
ナハルが、時々振り返って声をかけている様子だった。そのたび、アザリーは、決意を固めたように頷いて見せていた。
アザリーは、何度も、頭の中に広がる黒い湖に沈みそうになるのを、ナハルの声に助けられた。
そのたびに恐怖と闘い前に進むのだと自分にい聞かせて奮い立たせた。
風は、心地よく頬を撫でて過ぎて行き、彼らは、今日の日程の半分ほどを制覇していた。
ナハルが、馬を止めて振り返る。
「この辺りで、休憩を入れようと思うが、マハムド、どう思う?」
大きな木がとても涼しそうな木陰を作っていて、下は柔らかそうな草が茂っている。
絨毯を敷けばとても、座り心地がいよさそうだった。
「ああ、ちょうどいいと思う。太陽も、真上に上っているし、少し休憩して、食事をとろう」
ナハルは馬から下りて、アザリーが馬から降りるのに手を貸しながら囁いた。
「ガナー、君は、水害に苦しむ人々を救う事ができるよ」
アザリーは、ハッとしてナハルを見る。
ニッコリ微笑んで頷く。
彼の言葉が、落ち込んでいたアザリーの心に光りを差し込んでくれる。
落ち込んでばかりいるより、一日も早く陽扉艦を見つけたい。
そしたら人々も、龍神も助けられるかもしれない。
伝説の乙女だといってくれたナハルの言葉は、自分の可能性に希望をくれた。
アインは、側で聞きながら感動する。ナハル様ステキ! たった一言で、アザリー様を元気にする事ができるなんて。
やっぱり、あれだけ美しい方は、何もかも、すべてが完璧なのだわ!
ナハルが手を差し出すと、アザリーは、まったく警戒する様子もなく、手をのばして彼の首に腕を回す。
そう、まるで幼子が、親に抱きかかえられた時に、ためらいも無く抱き付く。そんな感じだった。
それは、信頼を寄せられているようで、好感が持てた。護ってあげたい気持ちにさせられる。
彼は、腰に手を回して抱きかかえるようにして馬から下ろす。
アザリーは甘い花の香りがするゾクリとして、欲望をくすぐられる。
そんなナハルとは裏腹に、彼女は、地面に下ろすと、ニッコリと、嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
なんて無邪気な笑顔なんだろう。思わず見惚れてしまう。
この笑顔の為なら、命を投げ出せ、と言われても従ってしまいそうだと、アザリーに魅入られてしまっている自分にあきれる。
しかし、よく考えると、あまりにも無防備で、自分を、男として意識していないのが気に入らない。
そのまま引き寄せて、ぎゅっと、抱きしめてみる。その感触にドキッ! とした。
しまった! 罠にはまったかも知れない。
抜け出せなくなりそうだ。
無邪気で無防備な内面とは裏腹に、触れてしまったその体は、熟れた大人の女性のものだった。
細くて華奢な身体は、柔らかくて抱き心地がいい。
甘い花の香りが鼻をくすぐる。離したくない! もっと、抱きしめたい!
そんな欲望が心の奥底からむくむくとわきあがってくる。
しかし、すかさず、マハムドが駆け寄り、アザリーを引き剥がした。
「アザリーに気安くふれるな! 私の我慢にも限度がある」
邪魔が入ったと、マハムドを恨めしく思いながらも、内心はホッとしていた。
彼が邪魔しなければどうなっていたのか、正直な所分らなかった。
あのまま、ガナーを草の上に押し倒してしまったかもしれない…。その勢いで止まらなくなってしまったかも…。
考えただけで、血の気が引く思いがした。
こんなに、自分を制御できなくなったのは初めてだった。
「馬から下ろしてくれただけじゃない。何をそんなに怒っているの」
アザリーは、クスクス笑いながら、彼を見ている。
やっぱり、まったく意識されていない?
抱きしめたのに、まったく何も感じてくれないのか?
動揺しているのは自分だけ?
戦いを挑んだ相手にコテンパンに返り討ちにあった気分だ。
マハムドよりも、ナハルのほうから、不機嫌オーラがでる。
ナハルは、マハムドに八つ当たり気味に不機嫌に言い放つ。
「婚約者を抱きしめるのは自然な行為だと思うけどね」
「まだそんな芝居をする必用など無い!」
「君に指図されるいわれは無いね」
「何だと!」
「ねえ、早く荷物を降ろしてくれない? ナハルは、火をおこしてね」
けんか腰の二人に、まったく動じる様子も無いアザリーは、当たり前のように二人に仕事を振り分ける。
二人は、しぶしぶ動き出した。
アインは、そんな三人を遠巻きに見て、笑いをこらえていた。
しかし、この輝くほどに美しい三人を見ているのは、実に楽しい。
その上このやり取り。
美しい、敵国の世継ぎの王子と、婚約者を軽く手玉に取るアザリー様が頼もしく見える。
マハムド様には気の毒な気がするけれど、ナハル様、なかなかおやりになるし、アザリー様にも、このくらいの刺激があっても良いのではないか?
ニマニマと蚊帳の外から見守るアインだった。
マハムドが、荷物を降ろしてくれた。
ナハルが、火をおこしている間に、アインとアザリーとで、バスケットから、ナンや、チーズ、ガバブをとりだした。
火であぶり、とろりと溶けたチーズを、あぶったガバブと摘みたてのサブジと一緒に、ナンに包んで食べる。
お酒も入って、皆が穏やかな顔になった。
アザリーは、実は、さっきは少し驚いた。
確かに、故意に抱きしめられたような気がした。
アザリーだって、さすがに、男性に抱きしめられたら警戒する。
なのに、彼に対しては、少しも警戒心が沸かない。どうしてだろう。
きっとナハルは、ナイトの誓いがあるから警戒心が沸かないのだわ。それに優しくしてくれる。
さっきも、人々を助ける事ができると、優しい言葉をくれて、慰めてくれた。
ナハルを見ると、彼もこっちを見ていたのか目が合う。
ナハルは、今はクーフィーヤの前を持ち上げて顔を見せていた。
そのエメラルドの瞳で、優しく微笑んでくれるから、微笑み返す。
それだけで、とても満ち足りた気持ちになった。そう、ナハルがそばにいるだけで心の中を吹き抜けていた風が、今は止んでいる…。
マハムドは、苛立ちを蓄積していた。なぜなら、二人が頻繁に見詰め合って、微笑を交わしているのを目にするからだった。
スラリとして、細身のクセに、自分より背が高いし、何故か目につく。
アザリーも、奴のほうばかり見ている。
奴ときたら、無表情で、無関心そうなくせに、アザリーを見るときだけは、優しく微笑んで見せる。
あれでは、あからさまに、好きだと言っているようなものだ。婚約者の自分の前で、堂々とそんな態度を取るのも気に入らない。
とにかく、何もかもが気に入らない。眉間の皺が深くなるばかりのマハムドだった。
出発の時もナハルはアザリーが馬に乗るのを手伝ってくれた。そういえば、最初に離宮を出る時にも、もしかして、ナハルは何か気が付いているのだろうか…?
そう考えると足の違和感がどんどん不安になってくる。
これが湖に関係していたとしたら…?
「呪いを受けたアルバーン王の足が動かなくなった」ナハルの言葉が頭に浮かんだ。
マハムドに対して罪悪感のアインですが。当事者の二人は何も感じてなさそう。