突然のスコール
少し怖いお話です。ついに、湖の呪いに触れる時が…。
突然のスコール
アザリーの中で、色々な考えが交差して、さっき、はっきり聞けなかったことを確認しようと思った。
「ナハル、地下通路って、湖の下を通る水路の事よね?」
「ああ、かつてのエルメリッド城と、メリド、エルドは、地下を繋ぐ通路があったのは、知っているよね。用途としては、水を運ぶ水路でもあったようだけど、緊急の時は、小船で水路を下った。今は、水が引いてきているから、地下通路は通れるようになっている」
通れるようになっている? 何故そんなことを知っているのだろう?
「もしかして、あなたは地下通路を通って、メリドから、エルドへきたの?」
「そうだよ。湖の周りを迂回したら、七日は掛かるけど、地下通路を通れば、今日中にメリド城につけるよ」
「怖くないの? 湖の呪いは?」
ナハルの話に、もっと他に気にしなければならないことがあるような気がした。
しかし、アザリーは、地下通路を通り抜けるなんて衝撃に思わず、口をついて出てしまったのは、湖の呪いのことだった。
「うん、僕は何度か通っているけど、何も起こってないね」
「何度も! 呪いは嘘なの? 黒い影に囚われたりしないの?」
ガナーは夢の中で何時も襲い掛かって来る黒い影を思い出して青ざめる。
ナハルは、ガナーが、何かを知っているかのように怯えて言うのを、少し不思議に思いながら、その不安を打ち消すように明るく言った。
「黒い影? 襲われたことは無いよ。少なくとも今までは。でも、一日で駆け抜けられる、脚力のある馬でないと無理だね。夕暮れには水が押し寄せてしまう」
湖の呪いにまったく動じていないナハルに、少しホッとした。
もしかしたら、黒い影なんて夢の中だけで、実際には存在しないのかもしれない…。
突然空から水滴が落ちてきた。四人とも一緒に空を見上げる。
南側の空からもくもくと雲が押し寄せている。
これはもしかして…。
ナハルも分かったのだろう、マハムドに声をかけた。
「マハムド、この辺にスコールを避けられる場所は?」
マハムドは、眉間にしわを寄せて考える。
「不味いな…。離宮まではだいぶあるし、少し行ったところに、農具を入れる小屋があったが、間に合うかわからん」
「とりあえず、そこへ急ごう濡れたままでいるわけにもいかないだろ」
「ガナー、急ぐよ。気を付けて」
「ええ、アインも、いくわよ」
ナハルは、アザリーに声をかけてからマハムドに合図する。
マハムドを先頭に馬を急がせるが、やはり途中で大量のスコールにやられてびしょぬれになったしまった。
小屋とはいっても、収穫した農作物を保管できるようになっていたのでかなり大きかった。収穫前の今はがら空きになっている。
小屋の中に逃げ込み、急いで荷物を運びこんだが、すでにびしょぬれだ。
衣服からは、しずくが流れ落ちている。
ブルカは、びしょぬれでずっしり重かった。
アザリーは耐え切れず、ブルカを脱ぎ捨てしまった。
「お嬢様!」
慌ててアインが、アザリーを隠そうとするが、ばっちりナハルに見られてしまった。
ナハルが笑い出す。
「ガナーは、大胆なんだね。」
マハムドが、ナハルの前に立ちはだかって言う。
「ナハル、君も、少しは見ないふりとかできないのか?」
「どうしてさ、婚約者の髪色も知らないなんて可笑しいだろ? いいじゃないか一緒に旅をするんだし、家族も同然だ」
「それなら、君も、そのクーフィーヤを取って、顔を見せたらどうだ?」
「…いいだろう」
ナハルは、スルリと、クーフィーヤを外すと、金色の髪がこぼれ出た。
隠されていた瞳の色もエメラルドグリーンだった。
まさに竜神の生まれ変わりと称される、メリドの第一王子の姿だ。
アインは、驚いて腰を抜かす。
「あなた、…メリドの王子なの?」
「そう、そして君はエルドの王女だろ」
「知ってたの?」
「確信はあった。伝説の乙女なら、エルドの王女である可能性は高い。君は王族でもなければ知らないはずの地下通路を知っていた。」
「あ! 」
アザリーは、うっかり取り乱してしまったことを思い出した。
あの時、どちらも気が付くはずだったのに、うっかり失念してしまっていた。
考えてみれば、ナハルも地下通路を知るものなのだから、王族の可能性は十分あったのに。
「その見事な黒髪は、他の誰のものでもない、伝説の乙女である王女の象徴だ」
マハムドは、ナハルが、顔を見せない時点で怪しいと思っていたが、やっぱりかと、ため息をついた。
「君は、メリドの第一王子の癖にアザリーに、ナイトの誓いを立てたというのか?」
「そうだけど、何か問題があるか?」
「あるだろ! メリドの世継ぎの王子なんだろ? 国を背負っていくものが、敵国の王女に忠誠を誓うなど、国を売る行為だぞ」
「もちろん、国も、民も大切だけど、僕にとっては伝説の乙女の方が大切なんだ。王位継承権など、ほかの王子にくれてやっても構わない」
「馬鹿なことを…!」
「むしろ、僕だからこそ、ガナーを守り切れる。僕の権限で、ガナーに手出しはさせない。君も安心してロック砂丘の泉に行けるだろ」
「…」
確かにナハルの言うことは一理あるが、そんな簡単な話か?
マハムドは、何処から突っ込んだらいいのか、考えあぐねて言葉を失う。
「ねえ、アイン私お腹すいたわ。何か食べたい」
「あ、アザリー様…」
マハムドとナハルが真剣な話をしているにもかかわらず、アザリーは、相変わらずマイペースだ。
その場の雰囲気を変える天才だと言える。
アザリーの無邪気な言葉にナハルは、吹き出し、マハムドも困った顔でアインに指示を出した。
「アイン、食事の用意をしてくれ。さっき運び込んだ荷物の一番上の包みだ」
食事が終わるころにはスコールはすっかり何処かへ行ってしまい、空はきれいに晴れ渡っていた。
外をうかがっていたマハムドが、腕を組んで考えこんでいる。
「マハムド? どうしたの?」
「不味いな…。スコールのおかげで、遠回りと、時間のロスをしてしまった。離宮につくのが夜半になってしまうかもしれない」
「? 夜半になるといけないの」
「離宮は、湖の近くを通って行くだろ」
「そ、それはだめです!」
アインが、驚いたように声を上げた。
「アイン? どうしたの、そんなに興奮して」
「夜の湖は危険なのだそうです」
「どうして?」
「申し訳ありません。アザリー様が気になさると思って、お耳に入れないようにしていたのですが…」
アインは、眉を顰め恐ろしそうに話した。
「夜の湖の近くを通ると、湖の水が突然押し寄せて、水の中に引き込んでしまうそうなんです」
「本当なのマハムド」
「何人かが湖の近くで行方不明になっているという報告は聞いている。櫓の上の兵士も何人か犠牲になった。それからは、夜の物見は、行われなくなった」
マハムドの話にアザリーは、青ざめる。
ナハルが側に来てアザリーの手をそっと握る。
マハムドはそれを横目で不機嫌に見ていたが、何も言わなかった。
アザリーの手を握れる度胸のあるものなど今までいなかったが、しかし、それくらいで目くじらを立てるのは大人げないと常々自分に言い聞かせていた。
なぜなら、アザリーは王女なのだから、そのくらいの挨拶はする。
自分を狭量な婚約者だと言われたくないという、マハムドのプライドだった。
ナハルの大きな温かい手は、アザリーの小さな手をすっぽり包み込んでしまう。
その温かさにホッと安心する。
お陰でナハルが付け足した言葉を冷静に聞くことが出来た。
「メリドでは、夜の湖に、近づくことを禁じている」
「ナハル、あなたそれを知っていたのに、地下通路を通るなんて危険なことをしていたの?」
「うん…。不思議なことに、昼は何も問題がないんだよね。ほら、昼は普通に農地に水を運び込むだろ。夜、特に深夜になると、魔物が起きだすのかな?」
アザリーはあきれる。なんという豪胆なのか、のんきなのか…。
ナハルが言うには、日没後に起る増水は、頻繁に起こってはいるが、この時の水は、人などを引き込むことはないようだ。
しかし、日没後に増水が起こらなかった日は、絶対深夜に湖の近くに近寄ってはいけないという。
湖の水が、突然襲い掛かって、湖の中に引き込んでしまうのだそうだ。
アザリーと、アインは、真っ青になりながらナハルの話を聞いていた。
どっちにしても、日没後は、湖に近づかないに限る。
そんなわけで、彼らは、今日はこの小屋で過ごすことにした。
スコールの後は嘘のように晴れ渡った。
お陰でびしょぬれになった荷物も、ブルカも乾かすことができた。
小屋を観察すると、逃げ込んだ一番広い部屋の両脇に仕切りの付いた部屋が二つづつ付いていたので、一人一部屋づつに分かれて休むことにした。
皆がうとうとと眠りについたころ、外の様子がざわめいているようで、アザリーは、小屋の外へ行ってみると、繋いでいた綱を噛んでいる愛馬のジナーフが見えた。
アザリーは、慌てて馬の側へ行こうとしたが間に合わず、馬は逃げ出してしまった。
「待って! ジナーフ!」
聞こえていないのか何かに呼ばれているように走り出してしまった。
アザリーが、後を追うが、馬は湖に向かっている。
湖に呼ばれている? 恐怖が襲うが、ほっておけば愛馬を失ってしまうかもしれない。
幸い操られたように走る馬は、そんなに早くない。
湖につく前に捕まえられるかもしれないと、アザリーは、必死に走った。
すでに湖は間近に迫っている。
月に照らされた湖は不気味な、どす黒い色に見えた。
ざわざわと波立っている。
アザリーは、恐怖と闘いながら、息を切らせて走る。
もう少し。
ところが、突然湖が盛り上がり、ジナーフに襲いかかった。
アザリーは青ざめて叫んだ!
「ジナーフ! 逃げて!」
しかし、ジナーフには聞こえていなかった。
まるで、触手を伸ばすように水は馬を絡めとり、湖の中に引きこんでしまった。
「ジナーフ!」
叫び声はむなしく響き渡るだけだった。
さらに、
その水は、すぐそばまで来ていたアザリーも一緒に巻き込もうとする。
まるで、絡みつくようにアザリーの足にまとわりついて、水の中に引き込もうとしている。
これが水なの? 足をがんじがらめに縛りあげられたようにまったく動かせない。
ずるずると、湖の中にひこまれていく。
「助けて!」
アザリーは、藁をもつかむ気持ちで側にあった草をつかむが、無駄な抵抗だった。草は、簡単に根から抜けてアザリーを支えることは出来ない。
「ガナー!」
グンと、腰をつかんで引き上げられた。
ナハルだった。
彼はアザリーが馬を追いかけるのを見つけて、急いで自分の馬に乗って、後を追ってきたのだった。
湖は、いくつも波を作って襲い掛かろうとするが、ナハルは巧に避けて湖から離れるため馬を走らせた。
水は、まだアザリーの足にまとわりついている。まるで、意思を持っているようにぎちぎちに絡みついて足がもげそうに重い。
ずっと離れずに、もしかしたら、助けようとしたナハルまで巻き添えに湖に引き込まれてしまうかもしれない。
そんな考えが沸き上がって、アザリーはとっさに、ナハルから離れようとした。
しかし、ナハルは、強い腕でしっかり抱えて離そうとしなかった。
「ナハル離して、あなたまで巻き込まれてしまうわ!」
「君と一緒なら構わないけど、でも、一緒に生きたいから頑張って!」
「え!?」
「僕にしっかり捕まっていて、もう少し離れればきっと大丈夫!」
ナハルの言う通り、その水も、湖から切り離されると、とたんに力がなくなったように、普通の水に戻ってバシャリと下に落ちた。
途端に足は軽くなったが、悲しさが押し寄せてきた。
愛馬のジナーフは、助けることができなかった。
何故? ジナーフだけが湖に呼ばれてしまったのだろうか?
小屋の近くまで来て、やっとナハルが声をかけた。
「ガナー、大丈夫? 足はいたむ?」
幸い足は何ともなかった。逃れるために必死で地面を引っ搔いたせいで、手が傷だらけになっていたくらいだ。
ナハルは、アザリーの足を心配そうにそっと確認して、大丈夫そうだと一安心した。
そして、アザリーの傷だらけの手に気が付く。
「ガナー、手が…」
ナハルがそっと包み込むようにアザリーの手に触れる。
恐ろしさのために硬直していたアザリーは、ナハルに言われて初めて手の痛みを感じた。
余りにも悲惨な状態の自分の手に血の気が引いた。
マハムドとアインが、二人を探し当て駆け寄ってきた。
「アザリー、いったい何があった? どこに行っていたんだ」
「アザリー様、お手に怪我を、早く手当をしませんと」
さすが、アインは、目ざとくアザリーの怪我に気が付く。
「小屋にもっどてから話そう」
ナハルがゆっくり馬を進ませる。徒歩で探していた、マハムドとアインは、小走りで後を追った。
小屋について、ナハルが、アザリーをそっと馬から降ろして抱き上げる。
「ナハル、大丈夫。歩けるわ」
「本当に? 無理していない?」
ナハルは、まだ心配そうに聞くが、アザリーは、気丈に頷いて見せる。
そっと下におろすが、なかなか支える手を放そうとしない。
アザリー自身も、はっきり言って歩けるのか不安だったが、思い切って足を踏み出すと、足は動いた。
普通に歩けた。良かったとホッとする。
ナハルも同じ気持ちだったのだろう。二人顔を見合わせて頷いた。
小屋に入って、真っ先にアザリーの手当てをしたアインは、その手の惨状に驚きを隠せなかった。
「一体何をなさったのですか? 爪も割れて血が出ているし、こんなに切り傷だらけで美しいお手が台無しです」
「それが…」
二人が、さっきの一部始終を話すと、アインは青ざめた顔で震えた。
マハムドも言葉を失っていた。
「大人しいジナーフが手綱をかみ切るなんて信じられないわ」
「ジナーフは、繊細な雌馬でしたから、湖の誘いに抗えなかったのかも知れませんね」
「…」
「マハムド様の馬も、ナハル様の馬も屈強な軍馬ですから、惑わされずはねのけることができたのでしょう」
「私の馬は、よく走るいい馬ですが、老体ですので湖の誘いを聞き取れなかったのかもしれません」
「かわそうなジナーフ…。小屋の中に入れておけば…こんなことにはならなかったのに」
「この小屋は、湖から結構離れているのに、こんなことが起こるとは思わなかった」
マハムドが、ぽつりと言った。
「確かに、湖の異変は、大きくなっているということだろう。側にいるものを引き込むことは今までも何件かあったが、離れているものを誘い出すなんてことは初めてだ」
ナハルも深刻そうに言う。
ナハルも、自分が不在のメリドが気になるだろう。すぐにでも戻りたいはずだ。
「明日、すぐにも伝令を飛ばして、湖の注意を、近隣の国々にも伝えよう」
「ええ、そうね。離宮から、お父様に手紙を書くわ」
「ああ、そうしよう。君も朝までもう少し体を休めておくんだ」
「ええ、そうするわ…」
各々自分のいた場所に戻って、仮眠をとることにした。念のため馬は、真ん中の広い部屋に集めて入れた。
だが、アザリーは、とても眠れなかった。
大切な友達だったジナーフが、こんな形でいなくなってしまうなんて。
守れなかった悔しさと、湖で水に引き込まれそうになった恐ろしさと相まって、震えが止まらなかった。
右足は、氷の中に入れられているように冷たかった。
アザリーは、毛布をかぶり、ただじっと体をこわばらせて震えをこらえる。
震えるアザリーの肩をそっと抱きしめる腕に驚いて振り返ると、ナハルだった。
いつの間にか、ナハルは足音もなく側に来ていたようだ。
「ナハル? どうしたの? いつの間に? 少しも気が付かなかったわ」
ナハルは、何も答えずにアザリーをやさしく抱き寄せる。
「僕が側にいるから、今は泣いてもいいよ」
ナハルのその言葉に、アザリーの張りつめていた糸が切れてしまった。
アザリーは、無意識のうちにナハルにしがみつく。
ナハルは、そっと受け止めて抱きしめてくれた。
少しづつ、こわばった体がほぐれ、体の震えが収まっていくのを感じる。
体の震えが収まると、涙があふれ始めた。失ったジナーフとの思い出が、後から後から蘇って、涙が止まらない。
ナハルはアザリーの声が漏れないように腕の中に抱え込んで抱きしめてくれた。
アザリーの涙が枯れたころ、ナハルが、ぽつりと言う。
「ガナー、今は辛いけど、こんなことが起こらない為に、前に進もう。君は世界を救うことが出来る唯一の存在なんだ」
ナハルが、真剣な目をしてアザリーを見つめて囁いた。
ナハルはきっと、同じような辛い思いをたくさん知っているんだろう。
アザリーは、唇をきゅっと結んで頷いた。
そう、嘆いてなんていられない。
少しでも早く、陽扉艦を探し出さなければ、もっと惨事は起こるだろう。
湖の異変を食い止めるのは、もしかしたら自分にしかできないのかもしれないのだ。
アザリーは、ギュッとこぶしを握った。
その手をナハルは包み込むように握って優しく言う。
「ガナー、二人ならきっとできる。僕はどんなことでも、きっと君を守るよ。何時でも、君の側にいる」
― * ―
マハムドは、翌朝、隣のナハルのいた場所に行ってみて、彼がいないことに気が付いた。
嫌な予感がして、アザリーのいる場所に行こうと仕切りを超えると、アインの寝姿が、見えてしまった。
そうだ、アザリーのところに行くにはアインの側を通り過ぎなければいけないのだから、アインに対して、大変失礼なことだ。
まさか、ここを通り過ぎて、アザリーの所まで行きはしないだろうと思いとどまった。
マハムドは、いけないことをしたような気持ちで、出来るだけアインを見ないように、アインに気づかれないようにこそこそと戻った。
マハムドの常識では、男が、女性の寝所に忍び込むなど、あってはならないことだった。それだけで、ふしだらな女と軽蔑される行為なのだ。
夫以外のものが、女性の寝顔を見ることはタブーだと思っていた。
ナハルの常識は違っていたようだが…。
とりあえず、ナハルは、小屋の外から戻ってきた。
そういえば、中に入れておいた馬たちがいない。ナハルは馬の世話をしてくれたのか…。
ナハルは、朝早くに馬を、草のたくさん生えている場所に連れて行ってつないだ。
馬達は、昨日のスコールで、元気になった草を喜んで食んでいる。
愛馬と、ついでに、アインとマハムドの馬にも、水を与えてやった後、自分のいた場所に戻ってきた。
それまでは、もちろん、アザリーの側にいた。アザリーが安心して寝息を立てるのを見つめて少しだけ仮眠をとった。アザリーの隣で。
マハムドは、ナハルが外から戻ってきたので、そんなことは疑いもしなかったようだ。
馬の世話をしてくれたと、感謝した。
出掛ける直前になって、また、ナハルとマハムドがもめていた。
アザリーをどちらの馬に乗せるかで、言い争っている。
ナハルは、ナイトの自分に義務があると言い。
マハムドは、婚約者の自分が一緒に乗せるべきだと言い張っている。
「アザリー様どうしましょう、ほっておいたら大変なことになってしまうのでは」
アインは、おろおろして気をもんでいる様子だった。
アザリーは、考える。
二人とも立派な大人だし、問題ないのでは? と思う。
それよりも、早く出かけて離宮につきたかった。
アザリーは、アインの馬にまたがり、アインを後ろに乗せる。
「私、先に行ってるわね。話が付いたら、荷物は、二人で持ってきてね」
そう言うと、さっさと走り出してしまった。
残された二人は、一瞬唖然として固まるが、すぐに荷物を馬に積んで後を追いかけてきた。
「ガナーおいて行くなんてひどいよ」
「だって、時間が惜しかったのですもの。少しでも早く前に進みたいの」
「それは僕も賛成だけど。彼がどうしても譲らないから」
「それを言うなら、君もだろう。まったく、わがまま王子は、自分は棚上げか?」
マハムドは、むすっとして不機嫌そうだ。
「わがままも、棚上げも、否定しないけど、僕には旅の間ガナーを守る義務がある。旅に誘った以上、ガナーを安全に守り切らなければいけないと思っている。だから、これから先も、この役目を譲る気はないよ」
「もしもの時は、君を盾にして逃げるから、安心しろ」
「もちろん、ガナーを守るためなら、いくらでも盾になるけど、君までは守らないよ」
「大きなお世話だ。自分の身くらい自分で守れる」
全く、失礼な奴だ! ナハルにはかなわなくても、エルドの勇者なのだ。なめてもらっては困ると憤慨した。
「其れは良かった」
「アインのことは、私が守るから大丈夫よ」
二人の話を聞いていたアザリーは、何を根拠に言うのか、得意そうに言う。
アザリーは、昨夜、自分が人々を守り、絶対にジナーフのようなことは起こさせないと、心に誓ったのだ。
「何を、おっしゃいますか! 私も、自分の身くらい、自分で守れます」
「あら、そう、つまらないわ」
アザリーは、不満そうにすねるが、アインも、一応アザリーの護衛としての腕前はある。主人を守るのがアインの仕事なのだ。
「そういうわけで、ガナーは、安全のため、僕の前に来て」
いつの間にか並んで走っていたと思ったら、ひょいとアザリーを抱き上げて自分の前に乗せてしまう。
アインが慌ててアザリーの離した手綱を握った。
マハムドは、思いもよらないナハルの行動に、言葉もでない。目を白黒させ、口をパクパクして、見ているしかできなかった。
アザリーは、ナハルの側は嫌じゃなかった。側にいると、何故か安心するから、居心地がいい。
彼の膝の上におとなしく収まって、彼の腕に捕まる。
ナハルの言い分には、一理ある。そのうえ、アザリーが、不満を言わないので、皆が暗黙の了解でこのまま進むことになった。
またしてもやられたと思った。
ナハルと言う男は、まったく、素早くて抜け目がない。
マハムドは、自分の思惑の上をいかれ、歯噛みをして悔しがるしかできなかった。
そして、マハムドは、悔し紛れにナハルに嫌味を言う。
「君は、いつ湖の水が引くかわからないこんな時期に、国を開けていていいのか」
「とりあえず、メリドには、戦争を仕掛けようなんて考えは無い。今、メリドはそれどころじゃないんだ。エルドだって同じだろ?」
「それどころじゃないとは、どういうことだ?」
「湖の増水だ。ここ数年、湖の増水による被害が続出している。森が現われる時が近づいているにもかかわらず、湖は夜ごと、増水している。湖の近くの農地は、水没して沼状態だし、人家も、多くの集落が住めなくなった。湖の下で、何かが起こっているのかもしれない。ガナーが、言うように、世界が滅びるくらいの危機感は、メリドの住民は持っている」
ナハルの言葉に、アインは驚く。何時も、アザリーの側にいて、危機を訴えられていたのに、どこか現実として受け取っていなかったことを、深く反省した。
アザリー様の懸念は間違っていなかったのだ。
だが、アインは、いつも矛盾した現実に腑に落ちなくて、思考が追いついていなかった。
龍神の力が失われそうなのに、どうして、洪水が起るのだろうか?
アインが考えこんでいると、アザリーがナハルに尋ねた。
「メリドでは、そんなに被害が大きいの?」
「そうだね、エルドは地形が高いから、被害は少ないようだけど」
「ええ、其処までひどいとは思っていなかったわ」
アザリーは、ため息をつきながら、湖を見つめる。今は、日差しを浴びて輝いている湖が、夜になると真っ黒な姿に代わり人々を飲み込むのかと想像して、昨夜の恐怖がよみがえってくる。
湖は、アザリーにとって複雑な感情を呼び起こす。とても懐かしく切ない思いと、夢の中に出てくる黒い影の恐ろしさだ。
ナハルの話も半信半疑で、民を救ってくれと言う彼に、自分に何が出来るのか分らないまま、少しだけ湖から距離を置いて迂回して進んで行った。
しかし、湖から離れているにもかかわらず、周りを迂回して進むのに連れて、ナハルの言葉が現実として、目に入ってくる。
水没を受けたと思われる、集落や、農地が、荒れ果てた無残な姿をさらし、ジュートや、稲穂が、水溜まりの中で茶色くなって、横たわっている様子を目の当たりにした。
その様子を見てアインは、いつも疑問に思っていたことを思わずぽつりとつぶやいてしまった。
「龍神が、砂漠に枯れない湖を作ったから、龍神の力が失われているなら、かえって、旱魃が起こってもいいはずなのに、洪水が起こっているということは、龍神の力が別の方向に動いているということなんですかね、不思議ですよね。」
「そうだね、おそらく謎は、湖の下にあるはずだ」
ナハルが真面目な顔で答えてくれた。
「申し訳ありません。つい、余計なことを言ってしまいました」
アインは、慌てて、アザリーを見るが、アザリーは、このやり取りを聞いていなかったようだ。
アインは、ホッと胸をなでおろす。
いつも疑問に思っても、アザリーの気持ちを考えると、アインの方から、龍神の話はできなかったのに、こんな深刻なところで、声に出してしまったことを後悔した。
アザリーは、思いつめた表情で、一心に荒れ果てた村の様子を見ていた。
人々が、こんなに辛い目に遭っていたのに、城にこもって、何も知らずにぬくぬくと暮らしていた事が、腹立たしくて悔しい。
青ざめるアザリーに、マハムドは、ためらいがちに声を掛ける。
「アザリー、自然に逆らう事は、誰にも出来ない。自分を責めてはいけない」
「…マハムド…」
マハムドは、何か言おうとしたのだろうが、言葉に出来ずに口をつぐんだ。
「大丈夫だよガナー、君はきっと人々を救うことが出来る。だから、信じて前に進もう」
ナハルの言葉に、アザリーはにっこり笑って答える。
「ええ、ナハル、分かっているわ。嘆いていても、何も戻ってこないもの」
昨夜も、ナハルは同じ言葉で、アザリーを励ましてくれた。その言葉をかみしめる。
ナハルの言うとおりだ。今は嘆いていてもしょうがない。少しでも前に進むしかないのだ。
アザリーは、決意も新たに、まっすぐ前を見つめた。
マハムドは、アザリーを無言で見つめながら、思った。
自分の言葉は、アザリーを救うことが出来ない。
今まで、いったいアザリーの為に何ができていたのだろうか?
アザリーの何がわかっていたのだろうか?
出会ったばかりのナハルに、完璧に負けている。
マハムドは、首を振って、弱気な自分を勇める。
いやいや、自分は、アザリーの婚約者だ、あったばかりのこいつにはまだまだ知らないことが沢山あるはずだ。
自分は、アザリーの好みも、嫌いなものも知っている!
まるで蠅取り紙かゴキブリホイホイにでもかかってしまった…蠅取り紙も、ホイホイも知らない人の方が多いかな…。蠅取り紙は、捕まったら大変なのです。もし見かけることがあっても、決して近寄ってはいけません! ジナーフは、可哀想なことをしました。御冥福を祈ります。