湖に眠る秘密
盛りだくさんのお話になってしまいました。湖の呪いを知る、こわーいお話です。
湖に眠る秘密
数日後、意識を取り戻した国王は、マタルの作った薬湯のおかげで、元気を取り戻し、政務に復帰した。
マタルは今、アレナス老師の下に預けられ学んでいる。
城の中も、落ち着きを取り戻し、ナハルと、マハムド、ガナーの三人は、湖の問題について話し合っていた。
「アレナス老師の話によれば、洪水の後、何人かの兵士の遺体が、運び出されたが、その遺体は、朽ちる事もなく、石の様に硬く、石造のようだったそうだ」
ガナーは、自分の足にかけられた呪いで、まるで、石造の様に冷たく硬くなっていたことを思い出して,遺体全部がそんな状態だったのだろうと想像した。
マハムドにはその話はしていない。自分の行動の無謀さを叱られそうで、なんとなく話せなかった。
「しかし、ナハル、遺体は、時間がたてば、硬くなるのが普通ではないか?」
「そうなんだけど、普通の死後硬直とは違っていたそうだ。はっきりした事は解らないが、問題は其処じゃない」
「何なの?」
ガナーは、恐る恐る聞いてみる。
「うん、ガナー、怖い話なんだけど、遺体を安置している近くで、不可思議な事件が続発した」
「どんな…?」
「死者の魂が、生きた体をほしがるのだそうだ」
「死者の魂…?」
「うん。普通人は亡くなると、その体から魂が抜け出て、天国へ向かうとされているけど、その遺体から、魂が開放されることは無いらしい。開放されるためには、生きた体と魂を入れ替わる事しかない」
「入れ替わる? 生きていた人の魂が、今度は、変わりに死体の中に取り込まれるって言う事?」
「そう、実際にそんな事が何度かあって、大きな混乱を避けるために、せっかく運び出された遺体は、再び湖に沈められたようだ」
「…」
「死体から入れ替わった人はどうなったの?」
「結局は、すでに精神をやられていて、人ではなくなっていたようだ。その体になじむことなく直ぐに亡くなってしまったそうだ」
「それは、実話なんだな」
「そうだ。実話として、書簡が残されている」
「だから、森が現われた日に、森へ入った人々は、誰一人として戻らないの?」
「そう、信じられないような話だけど、その現実が、信憑性を増すよね」
「しかし、そうなると、仮に、陽扉艦で、湖の水を引かせられたとしても、かえって危険なことになるな」
「ああ、早く湖を取り払って、洪水の不安から民を解放してやりたいし、エルドとの交流も始めたかったが、慎重にことを進めなければ成らないだろうね」
湖がなくなれば、ナハルの側にいられる。と思い込んでいたガナーは、愕然とした。
陽扉艦で、水を引かせられるかどうかも解らなかったが、それでも、きっと出来ると思い込んでいた。
湖がなくなることが、返って危険かもしれないなんて。
三人とも、言葉をなくして考え込んだところに、ナハルは、国王から呼び出しを受けた。
ナハルが、部屋から出て行った直後に、彼の部屋の前で、番兵と、女性の争うような声が聞こえてきた。
「あら、今日もだわ、アイン、様子を見てきてくれない?」
「はい」
「いや、良い、私が行って話しを聞いてくる」
出て行こうとするアインを、マハムドが、慌ててとめた。
ガナーは、何故マハムドが、そんなに慌てているのか不思議に思ったが、彼に任せれば問題ないと、マハムドが、部屋から出て行くのを、見送った。
ナハルが、広間に入ると、王と、王妃を挟んで、重臣たちが揃っていた。
「父上、様態はいかがですか?」
「ああ、もうすっかり良い。そなたに助けられた。礼を言うぞ。そなたこそ、怪我は大丈夫か?」
「お元気になられて、本当に安堵しました。私は、もう何ともありません。腕も今までどうりです」
ナハルは、腕の怪我が消えてしまっている事は、黙っていた。
眠っている間に、無意識に龍神の力を求めてしまったのかもしれないという、不安は付きまとうが、考えないようにしている。
「そうか、良かった。ところで、ダハブ、ロック砂丘の城がイレックの攻撃を受けたようだが、そなたの素早い対応見事であった。その後はどうなっている?」
「はい。父上、城へ戻ってから、小隊をロック砂丘の城へ送りましたが、今日の報告では、イレックの攻撃の様子は見られないようです」
「うむ。後で詳しい報告を聞こう。其れとは別に、娘を連れて戻ったそうだな」
「ガナーと言う歌姫です」
「ふむ。その娘、王子妃の部屋に入れたそうだが、妃にするつもりではあるまいな」
「いいえ。彼女は、時期を見て、送り返すつもりです」
そう答えながら、胸の痛みを覚える。
そうするのが一番良いのだと解っていても、心は嫌だ! と叫んでいる。
「妃にするつもりの無い娘を、何故王子妃の部屋に入れたのか?」
「特別な理由はありません。彼女は、この城になれないので、目の届く所におこうと思っただけです。どうせ、部屋は空いていますので」
何時もの無表情で答えるナハルに、王は、そのことについて何も触れなかった。
「そうか。今日そなたを呼んだのは、他でもない。そなたの誕生日の晩餐会の事だ」
「父上、私は、まだ妃を決めるつもりはありません」
「それは成らん。王子の中で、妃がいないのはそなただけだ。ヤークートを妃と定めてやれば良いではないか。何が気に入らぬのだ」
「ヤークート姫に不満と言うわけでは…」
「他に望む娘がいるのなら、晩餐の席に連れて来るがいい。これは王命である。ダハブ王子よ、晩餐の席で妃を決めるように。皆も異存は無いな。既に各地から、名だたる美姫を呼んである。その中から妃を選ぶがいい」
「父上…」
「ダハブ、メリドの世継ぎは、そなたの他にいない。一刻も早く妃を娶り、世継ぎをもうけて、安心させてくれ。そうでなければ、死んでも死にきれぬ」
「……」
重臣の居並ぶ前で、王命を出されては覆す事はできない。
ナハルは、黙って受けるしかなかった。妃に望むのはガナーだけだ。
ガナーには、少しは、好かれていると思う。
マハムドのことも有るが、もしかしたら、僕を選んでくれるかもしれない。
せっかく、其処まで歩み寄れたのに、お互い国に縛られている。
先延ばしにしてきた、ガナーへの結論。今、下さなければならないのか…。
しかし、手放す事など考えられない。転生してまで求めた妻だ!
ナハルが王子妃の部屋に戻ると、マハムドが、難しい顔をして隣の部屋に引っ張っていった。
「マハムド、一体なんだ?」
「ナハル、君に聴いておきたいことがある」
「何だ?」
「君の寝室には、夜ごと側室用の女が送り込まれているそうだが? 君には、一体何人の側室と子供がいるんだ?」
「僕には、側室も、子供も一人もいない」
「嘘だろう? 毎晩寝室に女をはべらせているのにか」
「僕の母が、僕を身ごもった時、母は父の元を離れ、生家に戻っていた。その時、父の寝室には毎晩女が送り込まれた。父は、母のいない寂しさと、男のプライドから女達を拒まなかった。結果として、僕にはあまり年の違わない七人の弟と十人の妹がいる」
「それが、どういう関係があるんだ?」
「年が違わないせいか、ことある毎に僕と張り合いたがる。少しでも劣れば、龍神に勝ったと大騒ぎをする。回りも、僕に対する期待が大きいから、龍神なのにと落胆する始末だ。だから、僕はどんな些細な事だろうと、弟たちに負けるわけにいかなかった。常にトップの座を護り続けてきたんだ。僕は、僕の子供にそうはさせたくなかったから、最初は、女をなだめて帰していた。そうするうちに、第一王子は、不能だと言う噂になった。挙句の果ては、男色家だなどといわれる。しゃくに障るから、片っ端から女を抱いた。男のプライドにかけて、拒まない事にしたんだ」
「それで、何故子供がいないんだ?」
「簡単だ。女の体の中に、もらさなければ良いだけだ」
「! ……」
平然と言うナハルの言葉に、マハムドは絶句する。
「…そんな事をして、楽しいか?」
マハムドのごく当たり前な質問に、眉を寄せて答える。
「楽しいわけが無い! だから、これは男のプライドなんだ」
マハムドは、ナハルが気の毒になって、ため息を付いた。
「しかし、もし、ガナーの耳に入ったら、どうするつもりだ。君が、隣の部屋で、女を抱いているなんて、ガナーには耐えられないだろう! ガナーを傷つける事は許さないぞ!」
「僕の寝室に女を近づけないように、番兵を置いている。もう、二度と他の女は抱かない。ガナーを傷つけるような事は絶対にしない。たとえ、世継ぎを設ける事が出来なくても」
「ナハル…」
「僕とガナーは、別れなければならないのかもしれない。でも、僕は、ガナー以外の女性を愛せない」
「酷な事を言うようだが、ガナーは、そうは行かないぞ。王家に一番近い私でさえ、ガナーとの結婚がなければ、王位を継ぐことは出来ない。ガナーに世継ぎが出来なければ、エルドの王家は絶えてしまう。いずれ、グリームか、もしくは、イレックに合併されてしまうだろう。そうなったら、民が、どんな悲劇にあうかは、目に見えている」
「……」
「私は、ガナーとの間に子供を作る」
ナハルの表情が、変わる。ゆらりと、エメラルドの瞳が燃え上がる。
彼のこんな、敵意むき出しの表情は、ガナーが、関わる時だけだ。
ナハルは、嫉妬の炎を揺らめかせて、マハムドに、詰め寄る。
ガナーを失いたくない為に龍神の力を使って、この世界を滅ぼしかねない危うさを強く感じる。
「解っている。解っているが、でも、僕は嫉妬に狂って、君を殺してしまうかもしれない」
「いいや、君は私を殺さない。ガナーを苦しめる事を、君は絶対にしない」
「マハムド、…君はひどいやつだ」
「…そうだな」
ナハルと、マハムドは、重い空気を抱え込んだまま、王子妃の部屋に戻る。
「お帰りなさいナハル。王様はお元気でいらした?」
「あ、ああ、父上が、元気になったのも、君のおかげだね。ありがとう」
ガナーの様子が、元気がない。どうしたんだろう。
まさか、女達のことを、知られてしまったのか? 冷や汗を感じた。
「ナハル、陽扉艦は、神通力を持つって言ってたわね。どんな事でもできるの?」
ああそうか、ガナーは、湖のことを気にしていたのか。彼は、ホッと息をついた。
「うん。使い手の意志によって、様々な事が可能になる」
「湖の呪いも解くことが出来る?」
ガナーに触れたい。抱きしめたい気持ちを抑えて、白く細い手をそっと包み込んだ。
「ああ、きっと出来るよ。君は、まだ、陽扉艦を手にしたばかりだ、少しづつ慣れていけば良い」
「でも、…」
もう、国へ帰らなければ成らない。
そう、言葉に出せなくて、口をつぐんだ。
今直ぐ、湖をなくして、呪いを解きたい。
そうすれば、ナハルと離れなくて済むのかもしれないと、思ってしまう、自分の浅はかさを恥ながら俯いて、言葉を探すけれど、旨い言葉が見つからない。
「どうしたの?」
ガナーの小さな手。ああ、ガナーは、手も可愛いなと思いながら、指先をなでていると、ガナーの口から思いがけない言葉が飛び出した。
「何でも無いの。ナハル、今日も、あなたの寝室に、女の人が来てたわ」
ガナーは、話を変えようと、試みる。
「え!」
ナハルと、マハムドは、青くなって、顔を見合わせる。
「あ、あのガナー、さっきのは、…」
マハムドが、慌てて、ごまかそうとするが、
「どうしてマハムドが、そんなに慌ててるの?」
「いや、別に…慌てているわけじゃない」
マハムドは、わざとらしく咳払いをして、平成を保とうとする。
「あ、あの、ガナー、僕は、寝室の前に番兵を置いてる」
ナハルが、何とか言い訳を試みる。
「そうなの? 女の人が、番兵と争っているのが、毎晩聞こえてくるわ」
背筋を冷たい汗が流れる。ますます、取り繕う事が不可能に思えてきた。
「そ、そうだった? 誰も部屋に入れないようにきつく言ってある。君以外の女性は、部屋に入れないように…」
「何なのかしらと思って、アインに様子を見てもらったの」
ナハルと、マハムドのすがるような視線が一斉にアインに注がれる。
「あ、あの…」
言葉に詰まるアインに変わって、ガナーが言葉を続ける。
「ナハルの寝室には、毎晩、女の人が送り込まれていたそうね」
ばれてる! マハムドも、ナハルも、頭を抱え込んだ。
ナハルは、もうだめだろうかと、弱気になりながらも、言い訳を試みる。
「ガナー、それは、昔のことだ、よ…」
ナハルは、必死で考えをめぐらす。
どう、言い訳したら、ガナーに嫌われなくて済むのか? 額から、冷や汗が流れる。
「ナハルが、前に言いってた、大人使用の添い寝でしょう?」
そんな事を覚えていたのかと、ますますあせる。
ナハルは、既に壊滅状態の砦に最後の望みを懸けて、ガナーに問いかける。
「ガナー、…僕のこと幻滅した…?」
「ん? 別にいいんじゃない?」
「ガナー、…いいのか?」
マハムドは思わず口をはさんでしまった。
あっけらかんと言う、ガナーを、二人まじまじと見る。
ホッとするのと同時に、一縷の望みを感じながら、なんだか様子が変だと、二人考え始める。
「こんなに大きくなった男性が、一人で眠れないなんて、隠しておきたいことかもしれないけど。ナハルは寂しがりやなのね。無理をすることはないんじゃない?」
とんでもない事を言われた気がしたが、曖昧な返事しか返せない。何だって?
「い、いや、…」
「ナハルが、添い寝が無いと眠れないなんて気が付かなくて。ごめんなさい。よく眠れてなかった?」
なんだか、勘違いしているらしい?
ガナーは、申し訳なさそうに、ナハルを覗き込む。
「いや、そんな事はないよ。む、昔の事だ。か、過保護にされすぎて、困っているんだ」
とりあえず、話をあわせてみる。
「もっと早く知っていれば、私が添い寝をしてあげたのに」
「…」
「……」
ガナーの、あまりにも無謀な提案に二人とも言葉を失くす。
少し間をおいて我に返ったマハムドが、慌てて声を上げる。
「とんでもない! ガナー、君はそんな、ふしだらな事を口にしてはだめだ!」
「マハムド? ナハルが眠れないのはかわいそうじゃない」
「ガナー、君の気持ちは、ものすごく嬉しいけど、そんな心配はいらないよ。僕は、一人でも大丈夫…じゃないけど、一人でもちゃんと眠れる」
その大胆な発言も、ガナーが、意味がわかっているなら、受け入れたいところではあるが、どう見ても、解っていないだろう。
惜しい気がしながらも、断るしかなかった。
「そう? ほら、ガナムでも、添い寝をしてくれようとしてたでしょ」
聞き捨てなら無いセリフに、マハムドが、目をむいてつめ寄る。
「何だって、ナハル、君は、ガナーにそんな事を」
「い、いや、あれは、冗談だって、本気でそんな事を考えていたわけじゃ…」
「マハムド? どうしてそんなに怒るの? 私も、つい最近まで、アインと一緒に眠ってもらってたわ。ねえ、アイン」
「あ、は、はい。そうですわ!」
アインが、顔を引きつらせて、一生懸命肯定する。
こんなかばわれ方は、嬉しくない。
ナハルは、ますます情けない気持ちになった。
「ああ、食事の準備が出来たようだ。隣の部屋に移ろう」
ナシートが、部屋に入ってきたのを幸いと、マハムドが、話を終わらせる。
三人で夕食のテーブルを囲んだ。
グリームまでは、敷物の上に座る食事だったが、メリドに入ってからは、椅子とテーブルの生活方式になっている。
ガナーは、この生活が気に入っていた。
敷物の上に座るより、立ったり、座ったりが、遥かに楽で、アインの手を借りなくても一人で容易に出来る。
それでも、ナハルは、ガナーの手を取り、椅子を引いてくれる。
メリド城の、王子妃の部屋を与えられた時には、ガナーのために、すでに沢山用意されていたドレスの中から、西洋風のドレスを今夜は選んだ。
マハムドも、似合うと言ってくれたし、気に入ったようだった。
ナハルはどうだろうかと、少し気に成る。
いつもなら、真っ先にほめてくれるナハルなのに、今日は重い空気を背負っている。
マハムドと二人で話をしていたようだが、なにやら難しい顔をして入ってきたのだった。
二人で話していた内容は、おそらく、ナハルの寝室の前で、もめていた女の人のことだろうと思った。
さすがに、ガナーでも、男女で、寝室を共にする意味くらいは、知っている。
だが、毎晩別の女性で、愛もなく、夫婦と同じ契りを交わすなどとは思わないガナーは、ただ一緒に眠るだけと思っていた。
この間は、大人使用の添い寝なんて、意味深に言うから、あせったけど、何だ、考えすぎだったのね。と思うガナーだった。
ナハルは、罪の意識が、チクリと胸を刺す。 それと同時に、まだばれていない。心から良かったと、安堵した。
しかし、ガナーの誤解は、男として、顔から火が出るくらいの屈辱である。
ガナーに、そんな男だと思われるくらいなら、いっそばれた方がましかもしれない。
いや、しかし、本当のことがバレてしまったら、無垢な彼女は、きっと、軽蔑するだろう。
もしかしたら口も利いてくれなくなるかもしれない。
ガナーに嫌われてしまう。それだけは、絶対に避けたい。どんな事をしても。
そして、涙を呑んで、屈辱を受ける事にした。
その日から、ナハルは、宮殿の入り口にも、番兵を置き、ナハルの寝室に送り込まれる女性が、決して、ガナーの目に触れることがないようにした。
食後の紅茶を飲みながら、マハムドが、切り出す。
「ガナー、湖のことは、直ぐには結論が出ない以上、何時までもメリドにいるわけにも行かないだろう。早急に国へ帰ろう」
ガナー自身も、気に成っていた事だった。
父に、無断でエルドを発って、既に一月あまりが過ぎようとしていた。
マハムドから、こまめに報告はしているようだが、エルドの様子は、解らない。一方通行の状態なのだ。
エルドで何か、問題が起きていたらと、さすがに心配に成る。
「…そうね…」
「もう少し…い、いや…」
ナハルは、ガナーを引きとめようとした言葉を、無理やり呑み込んだ。
そして、言いたくない言葉をつむぎだす。
「そうだね。早急に、君を送り返す準備をしよう。僕も、一緒にエルドまで送って行くよ。君との、ナイトの契約は、それ以上は、果たせなくなってしまうけど、でも、離れていても、契約は有効だから、何かあったら、僕を頼ってほしい」
ナハルの言葉は、別れを突きつけられたようで苦しかった。
もう、側にいることも、そのエメラルドの瞳を見ることも、許されないの?
優しく微笑むナハルのエメラルドの瞳が、私のものなら良いのに…。叶わない願いを心の奥にしまいこむしかなかった。
「ありが…とう」
ガナーが、震える声をやっと絞り出して、うつむいたとたん、瞳から涙が零れ落ちた。
ナハルは、ガナーの肩に伸ばしかけた手をぎゅっと握り締めて、止める。
抱きしめてしまったら、二度と離せない。
マハムドが、側にいようと、ガナーを奪ってしまいそうだった。
「僕は、もう、休むよ。お休み」
何時もの、お休みのキスも出来ずに、そのまま、ガナーに、背を向けて部屋を出た。
残されたマハムドは、うろたえる。
昔から、ガナーの涙には弱い。もっとも、彼女は、めったにマハムドの前で泣かない。
だから、余計に泣かれると、如何して良いのか解らない。
見かねたアインが、ガナーに、声をかけた。
「ガナー様、そろそろお休みになられてはいかがですか? 又、明日考えれば、もっと良い考えも浮かぶかもしれませんわ」
「アイン、…そうね」
マハムドは、なすすべもなく、悪者の気分だった。
何もしてやることも出来ない自分がなさけなかった。
ガナーは、何を思ったのか、思いついたように言う。
「アイン、陽扉艦を持ってきてくれない?」
「陽扉艦ですか?あまりお側に置かれては、ナハル様に影響が出るのではありませんか?」
「そうね、少し離れたお部屋を貸していただけるよう、ナシートに頼んでくれない」
「はい、かしこまりました。ですが、あまり無茶はなさいませんように」
「解ったわ。アイン」
ナシートが用意してくれた部屋で、ガナーは、一人、陽扉艦を手にとって眺める。
陽扉艦は、光を点滅させていた。こんな事は、今まで無かったはずだ。意識を集中して陽扉艦を覗き込む。
「大変だわ!」
ナハルは、ベッドに、体を横たえても、眠ることが出来なかった。
ガナーを送り返してしまったら、もう、ガナーは自分のものにならない。
晩餐の席で、妃を決めなければならない。
けれど、その席にガナーはいない。
湖で隔たれたエルドが、ひどく遠く感じる。ガナーを手放したくない!
ガナーがほしい! 隣で眠る、ガナーの元に行きたい気持ちを必死で抑える。
送り返す話をした時に、こぼしたガナーの涙を思い出すと、たまらなく愛しくて、抱きしめてあげられない自分が悔しい。
不意に、ドアをノックする音が耳に入った。ハッとして飛び起きる。
「ナハル、起きてる?」
ガナーの声だ! そう思うと、何も考えられなくなった。駆け寄って、ドアを開けると、ガナーの姿が目にはいった。
無意識の内に、ガナーを引き寄せ抱きしめる。
柔らかい身体と甘い花の香り。もう、止まらない。ガナーを抱き上げて、ベッドに運んだ。
「ナハル?」
ナハルは、ガナーをベッドの上に降ろすと、上に覆いかぶさるようにして、ガナーの頬を優しく撫でる。
なんだか、何時ものナハルと雰囲気が違う。何かをためらうような、でも、吸い込まれるような熱いまなざしに魅入られる。
ナハルの影が落ちてきて、そっと触れる…。 優しい口づけをした。懐かしい気がする滑らかな、唇の感触…。触れては離れ、又触れる。繰り返されるその唇の感触に、思考が支配されていく。
優しい口づけは、次第に熱を持ち、熱く深く重ねられていく。
何も考えられない。熱い吐息だけを感じる。
上着の肩が、するりと外された事に気が付いて、ハッと我に返る。
こんな事をしている場合じゃない!
ガナーは、急いで、飛び起きて、脱がされかけた上着の下には、薄手のブラウスで、素肌の輪郭が透けた生めかしい状態のまま、ナハルに訴えかけるように言う。
「ナハル、森が現われるわ!」
「え?」
いきなり、夢から引き戻され、あまりにも、唐突な、ガナーの言葉に、一瞬、何のことかと思った。
「陽扉艦に触れると、視界が広がるの。中心が光っていて、手に取ったら、見えたの。湖の水が引いているわ。森が現われるのよ」
「え、今から?」
「そう、擢翠艦を取り出すのは、今しかないわ」
「ガナー、でも、危険だ。森に入って、帰ってきた人はいないんだよ」
「でも、陽扉艦があるわ」
一瞬ナハルの頭によぎったのは、もし、湖がなくなって、エルメリッド王国の復活が叶えば、ガナーを失わなくても良いのではないかと。
しかし、直ぐにその考えを打ち消す。あまりにも、リスクが高すぎる。
「だけど、陽扉艦にどんな力があるのかも解っていない。危険を回避できるかわからない」
「…だから、二人で行きたいの。…一緒に行ってくれる?」
ガナーの言葉に、さっき、涙をこぼした彼女を、抱きしめてあげられなかった悔しさを思い出す。
ガナーも自分と同じように、苦しんでいたのだ。
もし、二人の道が分かれなくてすむのなら…。
たとえどんなに危険なことであっても、試してみたい。
ナハルは、少し気まずい気持ちで、目をそらしながら、ガナーの上着を直し、突っ走ってしまいそうになった自分を恥ながら、ナシートを呼んだ。
「ナシート、僕と、ガナーに馬を用意してくれ」
「どちらにお出かけになるのですか?」
ナシートは、こんな時間にと、不審そうな顔をして訊いた。
「深夜のデートだよ。こんな時間じゃないと、ガナーと二人きりで出かけられないからね。必ず戻ると、皆に伝えておいてくれ」
急いで着替えたナハルと、ガナーは、馬に乗って湖へ向かう。
「ガナー、まだ、水は引き始めたばかりみたいだ。進めないよ」
「ナハル、こっち」
ガナーは、水が引き始めた湖のほとりを、
南に向かって進んでいく。
「何があるの?」
「エルメリッド城から、メリド城への地下通路よ」
「え? 直通の通路があるの?」
「ええ、湖の下に隠れているの。水を運ぶ水路ね。でも人が通れるくらい大きいから、今なら通れるわ」
ガナーが、ランプをかざすと、大きく口を開けた、水路の入り口が目に入った。
二人で、水路の中に馬を進める。少し、水は残っていたが、その水は、エルメリッド城の方向に向かって流れが出来ている。
水が、引いている証拠だった。
ガナーは、陽扉艦を巾着に入れて首から提げていたが、真っ暗闇になると、その姿が淡く輝いて、暗闇に浮かび上がって見えた。
ナハルは、ランプの灯りをかざして先に進んだ。
ガナーも、道が見えているのだろう、遅れることなく付いて来た。
水路の先は、エメラルドの湖に続いていた。二人が、出口に付いたころには、すでに日が高くなっていて、森は、すっかりその姿を地上に現していた。
「ガナー、大丈夫? 疲れただろう。あまり時間もないけど、少し休もうか?」
「ううん、平気」
ナハルは、馬から降りて、ガナーの馬から、だきかかえてガナーを降ろした。
甘い香り。ガナーの髪の香りがする。堪え切れずに、熱く重ねた口づけの余韻が蘇る。
その柔らかい体を抱きしめて、離せなくなりそうな自分を必死で抑え地面に降ろした。
ガナーは、階段を上がって、エメラルドの湖に向かって歩み寄る。
「ナハル、エメラルドの湖だわ」
目の前に広がるのは、かつての輝きをたたえた、本来の美しきエメラルドの湖。
その周りを、エメラルドの森といわれる、美しい緑の葉が茂る木々が聳え立ち、湖面にその姿を映し出している。
前世で二人で過ごした、懐かしい風景が、記憶を鮮明に蘇らせる。
「懐かしいな。湖に、ボートを浮かべて、君と二人で舟遊びをしたね。君に口づけしたくなると、ボートを木陰につけて、唇を重ねた」
ガナーは、思い出したように、クスッと笑う。
「あなたが、木陰にボートを着けると、小鳥や、リスたちが、集まってきたわ」
「そうだった。僕のライバルは、小鳥や、リスだった。君を独り占めできなくなって、君の膝枕で、君の歌を聞いた」
其処まで話して、二人顔を見合わせる。
「これ、…前世の記憶…?」
「湖を見たら、いろんな記憶が、浮かんできた…。ガナー、君も?」
ガナーは、遠くを見るような瞳で頷く。
龍神ナハルエルメリートと暮らした、遠い幸せな記憶が、幾つも浮かび上がる。
時は流れ、エルドの王女として、再び生を受けた。
長い長い時を、寂しさを抱いて過ごした。
そして、ナハルと出会い、何時からか、心の中を拭きぬける寂しさを感じなくなった。
気の遠くなるような長い時の中で、何時でも、消える事のない想い。失われた半身を捜し求めていた。
死が二人を分かつまで。
その定めにより、引き離された二人の魂は、互いを求め合う強い絆に導かれて、再びめぐり会えた。
求め続けていた半身を取り戻せた喜びをかみ締める。
ナハルに抱き寄せられ、彼の胸に頬を寄せる。
そうすることが、とても自然な気がする。
ガナーの頬に手を添えて見つめる。口づけても許されるだろうか? 唇に触れたい衝動に、抗いながら、…けれどこらえきれなくなってしまう。
「君を愛している」
近づくナハルの金色の髪がサラリと、ガナーの頬に落ちる。
ガナーは、静かに目を閉じた。震える心を抑えて、そっと唇を重ねる。
欲望のままに、強引に奪ってしまった、あの時の口づけとは違う。
そっと触れた唇は、温かくて、心を振るわせる。
そのぬくもりが、過去の記憶を掘り起こす。 愛しい愛しい存在。何にも変え難く、心を占領する。手放す事など、できるはずが無い! 藍潮、私の全て!
お互いを、なくては成らない存在と改めて確信した二人は、離れずに済む方法を探して、歩き出す。
どんな困難が待っていても、この手は離せない。
森の木々の中に、エルメリッド城の庭園が広がる。庭園を横切って、神殿に向かうと、でこぼこした石だろうか、色とりどりの布を被っているようなものが、あたり一面に散らばっていた。
まるで、足の踏み場も無いほど折り重なったように続いていた。
「何? 鎧の残骸みたい」
ガナーが、不振顔で言うと、ナハルは、無表情ながら、言葉に出すのをためらっているようだった。
「…」
「…? どうしたの?」
「あんまり、熟視しない方がいいと思う」
ナハルが、そういった次の瞬間、ガナーが悲鳴を上げて、しりもちをついた。
「きゃあ!」
「ガナー? 大丈夫?」
ナハルがガナーを抱き起そうとして手を引くが、ガナーはいきなりナハルにしがみついて、叫んだ。
「あ、足を掴んでる!」
「何だって!」
ナハルが足元を見ると、石のように見えたものから手が伸びて、ガナーの足を掴んでいた。
ナハルが、剣を抜いてその手を打つと、砂の塊のように、もろく崩れ落ちた。
ガナーが、さらに悲鳴を上げて、ナハルにしがみ付く。石の塊のように思っていたものから、黒い影が伸びて襲い掛かってこようとしていた。
一面に広がっているのは 無残な、朽ちた死体だった。
その姿は、見るに耐えないおぞましい有様だった。
腕や、足の無い者。ひどいのは、半分にかけた頭から脳みそが、こぼれかかっている。腐敗せずに色や形が人のもので、余計に恐怖を感じた。
その一人一人から、黒い影が浮かびあがって集まってくる。
「ガナー、足は大丈夫? ちゃんと動く?」
足には冷たい感覚が残っている。しかし、それだけだ。動かそうと思えば普通に動く。
「はい」
そう言いながらも、震えが止まらない。
動く死体の上にしりもちをついた。一瞬だが、死体の中にうずもれた。その感触は、冷たい石のようだった。ぞわぞわと不気味さが沸き上がってきて止まらない。
掴まれた足が、また、湖の時の様にそこから固まって石の様になって行ったらどうしよう。
怖くて、気が狂いそうだった。
かつて、森が現われた日に、森に入った人々は、皆この、動く死体に襲われて、彼らの仲間に成ってしまったのだろうか。このままでは、二人とも、同じ運命?
「神殿の中に入ってみよう。中までは、入ってこないかもしれない」
青ざめるガナーを、ナハルが促す。
二人で、神殿の中に逃げ込む。ドアを開け、中に入ると、さすがに死体は無かった。
彼らは、神殿の中には、入ってこれないようだ。
ホッと、息をつくが、直ぐに緊張が走る。
祭壇の前に立つ女性の姿が、目に入ってきたからだ。
ナハルが、ガナーをサッと、後ろに隠す。
しかし、その女性は、ピクリとも動かない。
「ナハル…あれは…」
「百年前の、エルーラ女王?」
「擢翠艦! 手に持っているわ」
「本当だ! しかし、外の死体と同じ雰囲気がある」
ガナーが、擢翠艦に近づこうとすると、黒い影が、沸きあがってきて、ガナーに襲い掛かろうとする。
「ガナー、離れて!」
ナハルが、慌てて、ガナーを引き寄せる。
「これって、アレナス老師が言っていた、生きた体をほしがるって言うあれ?」
「おそらく。朽ちた体に縛られた魂は、生きた体の持ち主と入れ替わる事で、解放されると」
「あの影に捕まったら、あの、ぼろぼろの死体に縛られるって言う事?」
「エルーラ女王の魂は、君の体を狙っているようだ」
「近づかなければ、大丈夫かしら? でも、擢翠艦は、あそこにあるのに」
「僕が行って来る。君は隠れていて」
「ナハルが捕まっちゃう」
「大丈夫、彼女がほしいのは、僕より君だ」
「ナハル、陽扉艦は役に立たない? 陽扉艦で掛けられた呪いなら、陽扉艦で、呪いを溶けるかもしれないわ」
「…できるかもしれないけど、ガナー、この呪いを解くには、源命艦の力が無いと、無理だと思う」
「源命艦も近くにあるかもしれないわ」
「探す時間がない。源命艦があったとしても、簡単にはいかないだろう」
「とにかく考えるのは後だ、とりあえず擢翠艦を手に入れて一刻も早く帰ろう」
「…気をつけてね」
せめてナハルの援護に祈りの歌を歌おうと声を出す間もなく、ナハルが、ガナーの側を離れると直ぐに黒い影が、するりと、ナハルをすり抜けて、ガナーに向かってくる。
それに気づいたナハルは、急いで引き返すと、ガナーを抱えて飛びのく。
「ガナー危ない」
黒い影は、触手のように伸びて、必用にガナーを狙う。ジナーフが湖に捕まったあの時と同じだった。
あの影に捕まってしまったら、永遠に、石と化した死体に取り込まれてしまうのだろう。
神殿の中を必死で逃げ回る二人に、ゴゴゴーという、地鳴りのような音が聞こえてきた。
息を切らせて、ガナーが言う。
「ナハル、音がする」
「ガナー、湖へ戻ろう! 水が戻るのかもしれない」
「外に出るの? でも、外にも沢山いるわ!」
「神殿の地下から、湖に出られたはずだ」
「擢翠艦は?」
「今は無理だ。あきらめよう。他の方法を探す」
黒い影から、ガナーをかばいながら、地下へ向かう出口へ急ぐ。
「ガナー、急いで、こっちだ」
「はい」
擢翠艦は、もう、あきらめるしかなった。それどころか、影に捕まりそうで、とても近寄れない。
持っていた陽扉艦も役立てることが出来なかった。
ナハルに、手を引かれるままに、急いで階段を駆け下りると、来た時と反対の方向に、水が流れ始めていた。
馬たちは、かろうじて、水に逆らい、主人の来るのを待ち続けていた。
ナハルは、ガナーを抱えたまま馬に飛び乗ると、手綱をとり、水の中を馬を走らせる。
ガナーの馬アスルも、後についてきた。
水は、直ぐに馬の足を取ってしまうが、ナハルは、上手に馬を泳がせて水の流れに任せる。
流れに乗って、一気に出口へと押し流された。
びしょぬれになって、城に戻った二人を、マハムド、アイン、ナシートの三人は、安どの表情で迎えた。
ガナーが、着替えて部屋に入ると、マハムドが、待っていた。
二人が、戻ったときは、安堵の顔だった、マハムドだが、さすがに空気がぴりぴりしているのを感じる。
相当怒っている。ガナーは、頷いて素直に謝る。
「マハムド、心配かけてごめんなさい」
「まずは、何処に行って、何をしてきたのか、話してもらいたい」
「…あ、あの…」
「アインによれば、昨夜の内に出かけたらしいが、帰ってきたのは、夕暮れだ。こんな、年に一度の、湖が現われた日に、一体何処へ行っていたんだ?」
「マハムド…」
「マハムド、ガナーを攻めないでやってくれ」
隣の部屋から入ってきたナハルが、ガナーの言葉をさえぎる。
「良いだろう。では、ナハル。君から話して貰おうか。君になら、遠慮なく怒りをぶつけられる」
「単刀直入に言うなら、擢翠艦を取りに、エルメリッド城の神殿に行って来た」
「何だって!」
マハムドは、青くなって、何時も冷静な彼らしくなく声を荒げる。
「自分の立場を解っているのか! ガナー、君にもしもの事が在ったら、エルドの民が、どうなるのか、わからないはずはないだろう!」
「ごめんなさい。擢翠艦があれば、湖も、元通りになると思ったの。陽扉艦があるから、湖の増水を、遅らせるくらいは出来ると、安易に考えていたわ。…でも、…結局何も出来なかった。…それどころか、ナハルまで、危険にさらしてしまって。…私…」
ガナーは、震える唇をかみ締める。それ以上は声にならなかった。
ガナーの涙に、かんかんに怒っていたはずのマハムドが、うろたえる。
彼は今まで、こんなにぼろぼろに泣くガナーを見たことがなかった。
「ガナー…」
ナハルが、ガナーを抱き寄せる。
「ナハル、ごめんなさい」
「行くと決めたのは僕だ。君を危険にさらして、怖い思いをさせてしまったのも、僕だよ。それでも、試してみたかったんだ。ごめんね。もう、泣かないで。お願いだ」
ナハルの言葉に、マハムドは、眉を寄せる。
陽扉艦を持っていたなら、龍神の宝が、三つそろっていたのではなかったのか?
その可能性に思い至って、もしもの時は、龍神になって、ガナーを護ろうと考えていたのではないかと、考えがよぎるが、これ以上ガナーを動揺させたくなくて、言葉をつぐんでいた。
「とにかく、マハムド、全部僕の責任だ。ガナーを叱らないでやってくれ。ガナーは、何があっても、必ず僕が護ってみせるから」
マハムドは、ため息をついて、額に手を当てる。
ナハルの言葉には返事をせずに、不機嫌に言う。
「アイン、食事を運んでくれ。この二人は、おそらく今朝から、何も食べていないはずだ」
「は、はい!」
おろおろしていた、アインは、マハムドの怒りが、収まったようなので、ひとまずホッとする。
ナシートと一緒に、食事の支度に部屋を出て行った。
「それで、擢翠艦を見つけられたのか?」
「神殿で、エルーラ女王と思える亡霊が持っていた。アレナス老師の言う、生きた体をほしがる死体と成って」
「呪いは、実在すると言う事か…」
マハムドが、不審げに訊く。ナハルは、湖の中でのことを話した。
「残念ながら、何も太刀打ち出来ずに、逃げ戻るのが精一杯だったよ」
ガナーは、心底落ち込んでいた。
擢翠艦を湖の中から取り出せれば、全てがうまくいくように思っていた。
湖の呪いも、消せると思っていたのに、擢翠艦は、取り出すことが出来なかった。
それどころか、逆に襲われそうになって、逃げ帰ってきたのだった。情けなくて悔しい。
翌日の朝早い時間に、オリバー将軍が、来ていると、ナシートが知らせに来た。
ガナーの部屋で食事を済ませたナハルが、部屋に戻ると、難しい顔のオリバー将軍が待っていた。
「王子、昨日は、一体どちらへ行っていらしたのですか? ナシートは、深夜のデートなどといっていましたが、森が現われたと言うのに、一向に戻られず、どれだけ心配したか…」
「すまない。オリバー。どうしても抜け出したい現実に、抗ってみたかったんだ」
「…それで、成果はあったのですか?」
「いや、惨敗だった。何も出来ずに、逃げ帰ってきたと言う有様だ」
「それは、残念でした。自分をお連れ下されば、加勢できましたものを、自業自得ですな」
「いや、お前には、まだこの国で働いてもらいたいからな。連れて行かなくて良かったと思っている」
「王子! 自分は、王子以外の君主に使える気はありません!」
「解っている。オリバー、そう怒るな。無事に帰ってきただろう」
「一体、どちらに行っていらしたんですか?」
「千載一遇のチャンスだったから、エルメリッド城の様子を見て来た」
オリバー将軍は、言葉を失って、頭を抱える。
「なんと言う無茶なことを…」
しかし、オリバー将軍は、それ以上何も言わなかった。
ただ、ポツリと一言。こぼすように聞いた。
「ガナー様を、どうなさるおつもりですか」
「ガナーは、…怱々、国を開けられないだろう…、送り返さなければな…。近日中に出発できるように用意しておけ」
「ですが王子、それでは、晩餐の宴はどうなさるおつもりですか」
「出来れば、ガナーを送って、それまでに戻って来たいと思っているんだ」
実の所、そのままどこかに出かけて、晩餐会をすっぽかしたいくらいだ。
「では、ヤークート姫をお妃様になさるのですか? 苦労して探し出された、伝説の乙女はどうされるのです?」
「伝説の乙女は、湖の異変を押さえられる者だ。何処の国の者でもかまわないが、妃は、国を存続する為の者。メリドの王家に嫁ぎ、世継ぎを儲けなければ成らない。役目が違うだろう?」
納得できない、ありきたりな模範解答を口にしながら、心が死んでいくような気がする。
「それでよろしいのですか?」
「父上や母上が、私が、国を出ることを許すと思うか?」
「其れは不可能です」
「ガナーを愛している。でも、彼女も、私以上に国を出ることを、許されない立場だ。おそらく、エルドには、彼女以外に世継ぎがいない」
オリバー将軍は、真剣な顔をして、思い切ったように言う。
「王子、エルメリッド王国を復活させたら良いではないですか」
ナハルが、心の中で、何度も打ち消してきたエルメリッド王国の復活を、オリバー将軍は口にする。
「エルメリッド王国か…湖に二分されてしまっているのだぞ」
それは、可能な事だろうか?
何度も考えたが、沢山の民や、臣下を巻き込むのだ。個人の感情で、そんな重大事項を左右していいわけが無い。
何より、敵対してきた国同士の合併など、うまくいくわけがないと、思いとどまってきた。
戸惑いながら、ナハルは、エルメリッド城の様子をオリバー将軍に話した。
「そうですか。そんな事が…」
「結局、擢翠艦を取り出せずに、逃げ帰ったと言うわけだ」
「では、龍神の力をお使いになったら良いのではないですか」
当たり前のことのように、オリバー将軍が言う。
そんなに簡単なことだったろうかと、自分に問いかけてみたが、解らない。
嫉妬に狂って龍神となれば、それは、世界を破壊しかねない危険な怪物だ。
そうなる事だけは避けたいと、不安を抱えていた。
「私に神通力でも使えというのか? 私は、何の力も無い普通の人間だ」
「いいえ、王子は、秘めた力を使おうとしないだけです。今までは、其処まであなたを本気にさせるものがなかっただけです」
オリバー将軍の言葉に、ナハルは眉を顰め、危険な現実を教えることにした。
「オリバー、これを見ろ」
ナハルは、上着を脱いで、シャツの袖を
めくってみせる。其処には、本来あるはずの矢傷は見当たらず、怪我一つ無い。
「……」
オリバー将軍は、言葉を失って、ダハブ王子の腕を凝視していた。
「私は、ガナーを失いたくなくて、眠っている間に龍神の力を欲してしまったのかもしれない。ガナーの歌声に鎮められたが、あのまま龍神となっていたら、怒りの感情に任せて私は何をしたか解らない」
「王子…」
「龍神の力は、とても危険だ」
「それは、ガナー様が、お側にいないときの場合でしょう? ガナー様が、お側にいらして、ガナー様のために使われる力なら、問題は無いのではないですか?」
オリバー将軍に掛かると、深刻に考えていた自分が、間違っていたような気に成ってくるから不思議だ。
オリバー将軍は、自分の主人が害になるなどと言うことは微塵も思っていなかった。
龍神の神話を頑なに信じている。自分の主人は、その龍神の生まれ変わりなのだと誇りを持っていた。
オリバー将軍の言うように、ガナーが側にいるなら、嫉妬に狂うことも無いのかもしれない…。
前世の時のように、ガナーを護って生きられるのだろうか?
「お前は、私が、龍神の化身だと信じているのだな」
「信じています。幼いころから王子を見続けてきた自分には、解ります。こう見えても、人を見る目は確かです」
前世の記憶はある。三つの、龍神の力となる水晶が、手元にあれば、可能かもしれない。
…三つそろえるには…どうしたら…いや、その前に、オリバー将軍の知らないことがある。
龍神として、力を使って、眠りについてしまったら、何時、目覚められるのか、百年、二百年掛かるかもしれない。
目覚めた時には、ガナーはいない。輪廻転生のわだちからもはずれ、二度とガナーに会うことも出来なくなってしまうかもしれない…。
いや、まて…、頭が混乱していたが、龍神になることは、別の問題だ。
龍神にならないで、ガナーも手放さずに済む方法がある?
エルメリッド王国を復活させるか、ガナーを手放し、怪物になるか、二つに一つと言う事か?
ガナーを手放してしまった場合、嫉妬に狂って化け物になる可能性は高いかもしれない。それくらいなら、エルメリッド王国の復活の方がいいのではないか?
そんな単純な問題だったかと、おかしくなる。いや、エルメリッド王国の復活は、そんな単純な問題ではないが、二者択一と言われたら、最初から、答えは決まっている。
これは、個人のわがままで、人々を振り回す事になると解ってはいる。
だが、逆に、今のままのメリド、エルドでいいともいえない。
湖の問題も、このままで良いはずが無い。
全てをクリアにして、元通りの、エルメリッド王国になるなら、人々にとっても、幸福な生活が送れるはずだ。
どんなに困難な問題が襲い掛かっても、ガナーを失わずに済むなら、ガナーと二人で強力し合って立ち向かっていける。
気持ちが吹っ切れたら、すっきりした。
そうしたら、出来る気がしてきた。
やってやる!
「ありがとう。オリバー。そうだな、あきらめられるわけが無いなら、出来る限りのことはやってみなければ。そうだ、湖の下見に行こう」
「はい、馬の用意をしてまいります」
「頼む。私も後から行く」
「はい。」
オリバー将軍と入れ替えに、マハムドが入ってきた。
「ナハル、ちょっと良いか?」
「マハムド」
「ナハル、我々は…」
マハムドが、言いかけたとき、ドアをノックする音がした。
「ダハブ王子、ヤークートです」
「ヤークートか、入れ」
マハムドは、急いで隣の部屋に隠れる。
「ダハブ王子、お帰りになったのにお顔を見せてくださらないから、寂しかったわ」
ヤークート姫は、部屋に入るなりナハルに抱き付く。彼女がまとわりつくのは、何時もの事なので、拒むのも面倒だからしたい様にさせている。
しかし、ガナーのことを思い出す。ガナーは、もっと柔らかくて、触れるだけで安らぐ。
何だろう? この違いは…。
ガナーに触れると、もっと触れたい。腕の中に抱きしめたい。そんな思いが胸をざわめかせる。
そういえば、ガナーを前にすると、常にそんな思いと戦っていたような気がする。
それが、ヤークートに対しては、何も感じない。
それどころか、不快にさえ感じる。早く離れてくれないかと、引き剥がしたい衝動をこらえる。
そうか、こんなにも違うものなんだと実感する。もう、ガナーでなければだめなんだ。
「ねえ、ダハブ王子…」
彼女が、言いかけた言葉を遮って、ナハルは、言った。
「ヤークート、悪いけど出かけるんだ。下でオリバーを待たせている」
「まあ、どちらへいらっしゃるの?」
「湖の様子を見てくる。今夜も、増水するようなら、指令を出さなければいけないからね」
「森が現われたのですもの、しばらくは、増水は無いわ。それに、何も、あなたが直接行かなくても、下のものに調べさせればよろしいのに」
「湖の異変は、敏感なんだ。きちんと自分の目で見て把握しておかないと」
「それでは、帰ったら、私の部屋によってくださいます?」
「悪いけどダメだ。アレナスの所へ寄る予定だから」
「では、何時来てくださいますの?」
「解らない。時間が空いたら連絡する。ナシート、ヤークート姫をお送りしろ」
「はい。ヤークート様、参りましょう」
ナシートがドアを開けて促すと、ヤークート姫はしぶしぶ出て行った。
「ヤークート姫は、君の妃になる女だったな。なかなかの美人だ。あんなに無下にしていいのか?」
隣の部屋からマハムドが出て来て言った。
「マハムド、話がある。訊いてくれ」
「良いだろう。浮気現場の目撃者として、じっくり言い訳を聞こうじゃないか」
「浮気なんかじゃない!」
「私の目の前で、べたべたと抱き合っていたくせによく言う」
「僕は抱いてない! 彼女がまとわりつくのは子供のころからだ。変な意味は無い。違うんだ。こんな話じゃなくて、ガナーのことだ」
常に無表情のナハルが、何時に無く真剣な眼差しでマハムドを見る。
「ガナーのこと?」
「マハムド、僕は、エルメリッド王国を復活させて見せる。だから、エルメリッド王国の復活が成ったとき、君の大切な、アザリー王女を、僕に譲ってくれ」
「! …本気か?」
「もちろん本気だ。僕の誕生日に、祝いの晩餐が開かれる」
「知っている。城中その話で持ちきりだ。君が、ヤークート姫を妃に選ぶだろうと、皆が言っている」
「僕は、ヤークートとは結婚しない」
「だが、王命なんだろう?」
「父上は、気に入った娘がいるなら、連れてきて良いとおっしゃった」
「? …」
「マハムド、アザリー王女と一緒に、出席してくれないか?」
「それは、危険だ」
「国が、正式に招待した賓客だ。めったな事はできないはずだ。国の信頼に関わる」
「それに、君とアザリーは、父上の命の恩人でもある。その君達に危害を加えることはしないだろう」
「その席で、アザリーを妃に選ぶのか」
「そうだ。翌日、エルドに向かって出発する。僕は、エルドの王に、彼女との結婚を申し込むつもりだ」
「両方から反対を受けるかもしれないぞ」
「どんなに大変でも、ガナーを失わずに済むなら、やってやるさ」
ナハルの決意は本物のようだと、マハムドは思った。こんなに熱くなっているナハルを見るのは初めてで、いつもの無表情な彼とはまるで別人のようだった。
ナハルのガナーへの思いも十分知っている。旅の間に思い知らされてしまったから。
二人を引き離すことなど誰にも出来ないだろう。
「元々、君が作った国だ。出来ない事はないはずだ。だが、一番肝心な所を間違えている」
「何が違う?」
「告白する相手は、私ではない」
「マハムド、良いのか?」
「断られたら、やけ酒にくらい付き合ってやる。告白して砕けて来い」
「それは、励ましてるつもりか?」
「いや、脅しているだけだ」
「何だ、それが君の、最後のあがきか」
「悪いか!」
「ありがとう。マハムド。」
ナハルはマハムドの思いを知っているだけに、潔く譲ってくれた彼に心から感謝した。
マハムドは、少し照れたようにそっぽを向いて話をそらした。
「それより、湖を見に行くって? 私も一緒に行こう」
その日の夕刻、ナハルは正装をして、少し緊張の表情で、ガナーのもとへやってきた。
「ナハル、メリドの正装ね。すてきだわ! 今夜は、晩餐でもあるの?」
「いや、君に大事な話があるんだ。まず、これを受け取って」
ナハルは、ガナーの前で片膝を付、真っ赤なバラの花束と宝石箱を手渡す。
「綺麗なバラ。ありがとう。これは?」
「エメラルドのチョーカーだ」
花と一緒に、体に身につける輪になるもの、つまり、指輪やブレスレット、ネックレス、チョーカー、アンクレットなどを送るのは、結婚の申し込みの慣わしだった。
「それって、…」
「そう、アザリー・アイシオ・イウサール王女。私と結婚してください」
「…無理だわ…」
ガナーは、悲しそうにうつむいてため息をつく。
ナハルと結婚して、ずっと、側にいられたら、どんなに嬉しいだろう。
けれど、そんな事は、どう考えても無理な事だった。
エルドには、私以外に世継ぎがいない。
「無理じゃなかったら、結婚してくれる?」
彼は、熱い瞳で、ガナーを見上げる。
「…?」
「僕は、君と離れ離れの人生なんて、耐えられない。もし、君が、僕と過ごす人生を望まないと言っても、君をどこかに連れ去ってしまうかもしれないくらいに。もし、君が、僕と共に過ごす人生を望んでくれるなら、無理な事も可能にしてみせる。だから、僕の側にいて」
エメラルドの真剣な瞳に見つめられ、戸惑う。
「…ナハル…」
ナハルが何かを決意したように感じ、ガナーは、返事を戸惑っていた。
「マハムドは、許してくれたよ」
「マハムドが?」
ガナーは、驚いて聞き返した。そんな無理なことを一番反対しそうなマハムドが許すなんてありえないことだった。
「うん。僕は、マハムドに、エルメリッド王国を復活させて見せるから、君を譲ってほしいと言ったんだ」
「エルメリッド王国を?」
ガナーは、思いがけない言葉に驚く。
そんな事が、本当に可能なのかしら?
呪いの湖に隔たれた、今だ和解も出来ていないエルド、メリドなのに…。
そんなことが可能なのだろうか? とても無謀ななことに思える。
でも、ナハルの真剣なまなざしは、きっと成し遂げて見せると、確信に満ちていた。
ナハルが、実現させるというなら、どんなに、困難な道のりでも、支えて、ついていきたい。ガナーの心は、最初から決まってる。
「君は、僕のために其処までする気は無い?僕よりマハムドの方がいい?」
ナハルが、心配そうに覗き込むから、なんだかくすぐったいような気がする。
「あなたの、…瞳を望んでもいいの?」
ガナーは、恐る恐る確認するように聞く。
「もちろん。僕の瞳は、君だけのものだよ。どんなに困難でも、きっと成し遂げて、世界も民も、全てを守って見せるから、ずっと何時でも僕の側にいて」
ナハルが、ガナーの手を握り、その手に口付ける。ナハルの決意を、ガナーは頼もしく思った。
何よりも、ナハルの側にいられる未来を、ガナー自身が一番望んでいたのだから。
目と目が合うと、急に恥ずかしくなって、頬が高揚する。
ナハルが、思い出したように、箱の中からチョーカーを取り出す。
「これを、受け取ってくれるね?」
「はい。ナハルエルメリート様」
ナハルは、ガナーの隣に座り、首にチョーカーをつけて後ろで留めがねを止める。
「これで、君はもう僕のものだよ。一生大切にする。君を愛し続けると約束する」
留め金を止めた手を、そのまま滑らせて両手で頬包む。
首筋まで届いてしまう優しくて大きな手。
そして、目の前に迫る、切なく揺らめくエメラルドの瞳を、そっと閉じて、唇を重ねる。
重ねた唇から伝わる温もり。花びらのように柔らかい感触に酔う。
今まで、こんな感覚を味わった事がなかった。
愛しくて、愛しくて、大切な宝物のように、壊さないように、そっと腕の中に包み込んで抱きしめた。
「アザリー、愛してる」
髪に頬を寄せて囁く。言葉では、足りない、胸の奥が締め付けられるようにうずく。
決して離さない。僕だけのガナー。誰にも渡さない。
そう思うと、心の中の迷いが綺麗に消えていく。突き進むだけだ。
「これをつけて、誕生日の晩餐に、マハムドと一緒に出席してほしい」
「ばんさん?」
「実は、父上の命令で、晩餐の席で妃を選ばなければならなくなったんだ」
ナハルが、ヤークート姫を妃に選ぶだろうと、噂されているのは、アインから聞いて知っていた。
仕方が無いと思いながらも、自分が、エルドの世継ぎで無ければと、思わずにいられなかった。
ただ、ナハルとの絆は、何があっても、決して壊れないと信じられた。
だから、彼が、誰を妃に選んでも、心はつながっていられる。
そんなふうに漠然と思い込んでいたが、色々な事を知るうちに、もやもやと、辛い気持ちになっていた。
「…知って、いるわ」
ガナーは、ナハルから目をそらして俯く。
「君がいなければ、僕は妃を選べない」
「……」
ガナーは、絶句する。妃に、ヤークート姫を選ぶと聞かされると思っていた。
まさか、晩餐会で、公にするつもりなの?
何時の間にそんな話になっていたのか。
口づけの余韻に浸る間も無く、事態は進んでいく。
「ドレスを間に合わせなければいけないから、至急、採寸をさせて。後で来させるけどいい?」
「え、ええ…? ドレス…?」
心構えも何もまだ出来ていない。
ナハルは、ヤークート姫を妃に選ぶのだろうと思っていたのに、いきなりエルメリッド王国の復活だの、誕生日の晩餐で妃に選ぶだの、頭が追いついていかない。
ガナーは、他にも考えなければならないことが山ほどあった。ナハルに話さなければならないことも。
「ナハル、あの…」
「ん? 何?」
「そんなに長くは、いられないわ」
「解ってる。僕の誕生日は、この月の最終日だから、次の日には、エルドに向かって出発するようにする」
「え? 最終日?」
「ああ、そう、僕らは、同じ日に生まれたらしいね。マハムドから聞いたよ。やっぱり共に歩く運命なんだね。君の父上に結婚の許しをもらえたら、そのまま君を連れて帰りたいな。少しも離れて居たくない」
ガナーの瞳を、じっと見つめたら、もっとほしくなった。
無意識の内に手が、ガナーの頬に伸びる。
顔を持ち上げて唇が触れたと思った瞬間、アインが慌てた様子で、部屋に入ってきた。
ガナーは、ビックリして離れようとしたが、ナハルは、離してくれなかった。
アインは、気まずそうに隣の部屋に戻る。
そのまま、離れずに唇を深く重ねて熱く口付ける。
一度目は、触れるだけの口づけで我慢した。でも、もっとほしくて、離したくない。
わきあがる欲望を、途中でなんか止められない。ガナーを腕の中に閉じ込めて、熱い口づけに陶酔する。
恥ずかしい気持ちは、直ぐになくなってしまった。唇をこじ開けられて、深く交わる口づけに、何も考えられなくなったからだ。
熱く求められるのは二度目だけれど、あの時の熱く、激しい口づけと、少し違う。
ゆっくりつながって、体の中で、何かが目覚めていく。その何かに支配されて、崩れそうに成った所で、やっと唇が離れた。
ガナーは、頬を染めて息を乱している。 ナハルは、口づけの余韻に満足して、アイン呼んだ。
申し訳なさそうに部屋にはいってきたアインは、手に陽扉艦を持っていた。
「陽扉艦がどうかしたのか?」
「はい。あの、ナシートさんが、見つけて、中心が、赤く点滅しているようなのです。慌ててしまって…申し訳ありません」
「いや、お前が入ってきても、止めない時は止めないから気にしなくて良い」
平然と言うナハルに、ガナーは、頬を染めてポツリとつぶやく。
「それは…恥ずかしいので困ります…」
「恥ずかしくないよ。恋人同士なら自然な事だ。そう思うだろ、アイン」
ナハルが、アインに話を振る。
アインは、思わず同意しそうになって、これではいけないと、思いなおす。
「そうですが、ガナー様は、まだ、そういったことに、なれていませんので、お手柔らかにお願いしたいと…」
「解った」
「ありがとうございます」
「直ぐになれるようにしてあげるよ」
「え、それは逆療法ですか?」
「……」
「冗談だよ、ガナー、そんなに引かないで」
いや、本気に聞こえるし、やりそうだと、アインはひそかに思う。
アインの懸念をよそに、彼は、陽扉艦に気を取られていた。手にとってかざして見る。
「本当だ。中心が赤く点滅している。森が現われた時と同じか?」
「見せて?」
ガナーは、陽扉艦を手にとって覗き込む。
「湖が、ざわついたようになっているのが、見える。増水するのかもしれないわ」
「なるほど。擢翠艦の力に反応しているのか」
湖の中で、動かなくなった体の中にありながら、エルーラ女王は、擢翆艦に呼び掛けて水を呼んでいるのだろう。
「止めないと、沢山の被害が…」
ナハルは、アインに、マハムドを呼んでくるよう指示してナシートを呼んだ。
「ダハブ様、やはり何か問題がありましたか?」
「ナシート、湖の様子はどうなっている?」
「はい、まだ、増水が始まったと言う知らせは入っていません」
「そうか。だが、増水があるかもしれない。始まったら直ぐに知らせてくれ」
「はい。かしこまりました」
ナシートと入れ替えにマハムドが入って来た。
マハムドは、ナハルの服装と、ガナーの首に付けられたチョーカーを見て、一瞬寂しそうな顔をする。
そして、直ぐに微笑んで、ガナーの側に歩み寄った。
「彼の求婚を受けたのだね。おめでとう」
ガナーは、ナハルの顔を見る。
彼が、ニッコリ微笑んでくれたので、ポッと頬を染めて、マハムドに視線を戻した。
「ありがとう。マハムド」
「今夜は、やけ酒じゃなくて、祝い酒と行きたいところだが、そうも行かないようだ」
「陽扉艦が、光ってるって?」
「ああ、これだ」
マハムドに、陽扉艦を手渡す。マハムドは、手にとって掲げるようにして覗き込む。
「赤い光が点滅している」
「ガナーは、増水が起こる前兆じゃないかと言うんだが、僕もそう思う」
「陽扉艦を使って、増水を抑えるのか?」
ガナーは、不安そうに俯く。
湖の中で、擢翠艦を操っていた影が、怖いのだろうと、ナハルは思った。
「ガナー、湖の増水だけなら、陽扉艦が無くても押さえられる。何度もやって
きたんだ。今までどおり、湖の側に行って、直接歌いかければいい」
「でも、ナハル。陽扉艦を使えるようになりたいの。今のままでは、エルーラ女王の呪いに勝てない」
「気持ちは、解るけど、湖の下の亡霊に戦いを挑むのは危険だ。別の方法を考えた方がいいと思う」
「どうして?」
「今日、アレナス老師のところで聴いただろう? マハムド」
「ああ、擢翠艦と、源命艦が、長い間近くにあったことが問題だと言っていたな」
「どういうこと?」
「源命艦は、擢翠艦に常に力を送り続けてきたわけだ。そうしているうちに、徐々に擢翠艦に取り込まれつつあるのではないかと懸念される」
「そう、エルーラ女王は、何百年もの間、擢翠艦を操り続けてきたようなものだろ」
「取り込まれそうになって、源命艦は、救いを求めていたの? それで、陽扉艦が必要だったってこと?」
「源命艦の力が、引き戻されるなら、バランスが保たれる」
「もし、源命艦が、擢翠艦に取り込まれてしまったらどうなるの?」
「おそらく陽扉艦は、力を失うか、擢翠艦に取り込まれるかだろう。そして、エルーラ女王が、龍神となる可能性も考えられる」
「亡霊が、龍神になるの! そんな事になったら大変だわ!世界が呪いに包まれてしまう!」
慌しくドアをノックする音が響いた。
「ダハブ様、ナシートです」
「入れ」
ナシートは、部屋に入ると直ぐに湖に異変が見られると報告をした。
部屋の中が、一気に緊張した空気に包まれる。
「もう、時間がないわ。ナハル、私やってみます」
「ガナー、…大丈夫?」
「ナハル、側にいて」
「解った」
ガナーは、陽扉艦を右手に取るナハルが、そっと、左の手を握った。
ガナーの髪と瞳が、緑色に輝き、身体を金色の光が包む源命艦の波動を受け取った印だ。
静かなレクイエムのような歌声が、部屋の中にこだまする。ガナーの歌声は、陽扉艦の中心の光を鎮められると思えたときだった。
金色の光は、見る見るナハルを覆っていく。 気が付いたガナーが、慌ててナハルの手を振りほどく。
「ダメ! ナハル!」
ガナーが、手を振りほどくと、彼を包んでいた光は、少しずつ引いているようだが、彼は動かない。
ガナーは、震えながらナハルをみている。
マハムドは、何があったのか解らずに呆然としていた。
ナハルを包んでいた光が、全て消えうせると、彼は、ハッとしたように我にかえった。
「ナハル…が…、消えてしまう…かと…思っ…」
ガナーは、震えながら、泣きじゃくる。
「大丈夫だよ、ガナー。僕は君を置いて何処にも行かない。泣かないで」
ナハルは、ガナーを抱き寄せながら、考え込む。思った以上に、龍神になるのは容易いのかも知れない。
マハムドも、そう思ったようだ。
「ナハル、やはり君も、陽扉艦を扱えるのか?」
夢の中の記憶は曖昧で、何をしたのか覚えていないが、確認してしまったら、明確な手段を知ってしまうかもしれない。そんな手段など知りたくも無い。
「…解らない…。今のは、ガナーを媒体にして、源命艦の波動に触れたのだと思う。僕だけで、陽扉艦を持っても、何も変わらなかった」
「源命艦の力を受け取ったなら、君は、龍神になってしまうのか?」
「…それは、…三つの宝が揃わなければならないはずだが…」
「源命艦は、全ての力の源なのだろう。源命艦だけでも、十分なのじゃないのか?男では、波動が合いすぎるから、女にしか、龍神の宝が使えないと言っていただろう」
「源命艦は、力の源でも、与える事しかできないから、残りの二つが無いとだめだ」
「ナハル、もし、龍神になってしまったら、ナハルは、…どうなるの?」
ガナーが、何時も、心の中に気がかりだった疑問を、恐る恐る口にした。
「ガナー心配しているの? 大丈夫だよ。僕は変わらない」
ナハルは、何でもないことのようにさらりと言って、別の事を口にした。
ガナーが側にいるなら、僕は決して怪物にはならない!
「それより、もしかしたら、湖を元に戻せるかもしれない」
彼の言葉に、ガナーは、驚いて顔を上げる
「陽扉艦は、エルーラ女王の魂を沈め、眠らせることが出来るかもしれない。ガナーの歌は、何時も、癒しの歌なんだ。そして、源名艦と、擢翠艦を切り離す事ができれば」
「そうか、彼女が眠ってくれれば、源命艦に働きかける事もなくなるわけか」
「そう、そうすれば、湖に水を呼び込むものが無くなる。そうして水の無くなった神殿から、擢翠艦を取り出して、呪いを解くことができれば、エルメリッド王国は復活できる」
陽扉艦で、呪いを解くなんて簡単に言うが、そんなに簡単に出来るものなのかと、マハムドは気に成る。
しかし、これ以上ガナーを動揺させたくなくて、口をつぐんだ。
ナハルは、ガナーの髪を撫でながら、顔を覗き込む。
「見てごらんガナー、陽扉艦の赤い光が消えた。おそらく、湖の増水は押さえられただろう。君のおかげだよ」
ガナーは、半泣きのまま笑顔を作って頷く。
ナハルは、たまらず、腕の中に抱え込んで強く抱きしめた。
本当は、ナハルも、不安を感じていた。
いつか、龍神になってしまうような時が来たら、自分を保てるだろうか。
前世の記憶は、おぼろげにしか残っていない。
不安そうな二人を、気遣うように、マハムドが、言う。
「アイン、陽扉艦を元の場所にもどしてくれ、それと、ナシートに、ダハブ王子の部屋に、遅くなったが、夕食を用意してもらってくれ」
「はい」
「私は、夕食の準備が出来るまで、叔父上に手紙を書かなければ。ガナーの帰国が遅れる原因をでっち上げなければ成らないからな」
マハムドが、ちらりとナハルを見る。
ナハルは、さっき、ガナーの問いに、何かを隠しているような気がした。マハムドは、気にかかるものを感じながら部屋を出る。
悔しー! 擢翆艦持ち出せなかった。でも、ナハルは、ついに決意を決めたようです。