047. 壊れた天秤 (1/5) - 消えない閊え
「――いくらお前でも氷をぶん殴るのはただの馬鹿だぞ」
揺れる幌馬車の中、ヒューの右手の手当てをしながら男が言う。男は少し長い白髪混じりの茶髪を後ろに束ね、鋭い目つきをしていた。
「うるせェな、仕方ねェだろ」
「仕方なくねェよ。顔がもう嫌なら野郎の肩でも殴っときゃよかったんだ。逗留所の雪の下はクソ固い氷になってんのに、いくら手袋してるっつってもお前の馬鹿力で殴ったら手の方がぶっ壊れるに決まってるだろうが」
そう男に指摘され、ヒューは居心地悪そうに視線を逸らした。それを見た男は呆れたように溜息を吐いて、「そういうとこはガキのままだな、お前」とヒューを見つめた。
「ハルゼが拾ってきたクソガキが。見た目ばっか年食って中身は全然成長してやしねェ」
「……うるせェっつってんだろ、クソジジイ」
「悪口の語彙も育ってねェなァ。お前がそんなんだからイヒカが未だに馬鹿だのハゲだのしか言えねェんだよ。あいつの方がお前よりもちぃっとばかし頭の出来はいいだろうに」
「その辺にしてあげなよ、デンゼル」
近くに座っていたトーズが苦笑いしながら二人の間に身を乗り出す。暖かい幌馬車の中、必要最低限の防寒着しか身に着けていない彼は柔和な顔つきをしていた。年頃はリタに近く、人懐っこそうな顔立ちの分、彼よりも年下に見える。
そんなトーズに諌められ、男――デンゼルは肩を竦めると、「トーズの方がよっぽど大人じゃねェか」とヒューの手を包帯の上から叩いた。
「ほら終わり。ったく、俺は獣医なんだよ。どいつもこいつも人間の怪我診させやがって……お前ら全員サルか何かか?」
「ヒューはゴリラだと思う」
「黙れヘタレ」
「俺の方が先輩なのに……」
ヒューの言葉に、トーズがううっと顔を歪める。それを見たデンゼルは「先輩っつったら俺の方がそうだぞ」と不満そうに言った。
「いいんだよ、俺が隊長だ。お前らはただの平、偉いのは俺」
「ヒュー、俺一応副隊長……」
「グレイの方がよっぽど働いてるけどな」
「うわぁああん!」
トーズの悲痛な泣き声が幌の中に響く。だがヒューは気にした様子もなく彼からデンゼルへと視線を移すと、「リタは?」と口を開いた。
「あいつの怪我、どうだったんだ」
「撃ったのはグレイだぞ? 上手い具合に骨も血管も無事だよ。安静にしときゃ二週間もあれば傷はほぼ塞がる。ま、中が治り切るまでにはもうちょい時間がかかるがな」
「後遺症は」
「動かす分には残らないだろうさ。痛みに関してはまだ分からん」
「そうか……」
低い声で相槌を打ちながら視線を落としたヒューに、デンゼルが重たい溜息を吐いた。
「面倒なのはお前だよ、ヒュー。リタとイヒカから逃げるだなんて大男のクセに繊細すぎやしねェか?」
「あ? 逃げてねェよ。俺はこれのためにこっち乗っただけだ」
右手を見せながらヒューが言う。今しがた手当ての終わったばかりの彼の右手は、骨こそ折れていなかったがいくつも酷い打撲ができていた。包帯で隠れているものの、部位によっては関節が分からないくらいに腫れている。
その傷の手当てをした張本人であるデンゼルは呆れたような目をすると、「他の奴ら向こうに移しといて何言ってんだ」と零した。
「あっちに今何人乗ってる? 随分むさ苦しそうだったぞ」
この隊商には人間が乗ることを想定した幌馬車は二台だけしかない。そのうち一台を三人で使っているせいで、残りの者達はもう一台の方に押し込められているのだ。しかも今回は次の町が遠いせいで荷物も多い。
デンゼルの言うむさ苦しい光景を想像して、ヒューは気まずそうに目を逸らした。
「……俺がいたら他の奴らは怖がるだろ」
「うん、今のヒュー怖い」
「黙れトーズ」
「ほら怖いじゃん!」
鋭い目に睨まれ、ひい、とトーズが自分の肩を抱く。
「トーズに当たってやるなよ。ヘタレでもここじゃ誰よりもお前と付き合いが長いだろ」
「でも俺はヒューよりデンゼルの方が長いよ」
「ガキ二人って意味だ。俺を入れるんじゃねェ、ヘタレ野郎が」
「ええ……」
「デンゼルはどっちの味方なの……?」トーズが悲しげに呟くも、デンゼルが言葉を返すことはなかった。それにトーズは更にううっと顔を顰め、「みんなして俺をいじめるんだ!」と大袈裟に嘆く。「黙っとけトーズ」デンゼルは冷たい声でそれだけ言って、ヒューへと視線を戻した。
「ま、次の休憩の後は元の配置に戻せ。んでイヒカに怖がられて泣いてこい」
「は? なんで俺が泣くんだよ」
「お前イヒカに弱いだろ。あいつに嫌われたら傷つくんじゃねェの?」
「抜かせ。ンなワケねェだろ」
ヒューが不機嫌そうに言えば、すっかり調子を取り戻したらしいトーズがにんまりと笑みを浮かべた。
「弱いじゃん。昔イヒカと喧嘩するたびに落ち込んでたくせに」
「トーズ」
「はい、黙ります!」
それから次の休憩までの間に何度も同じような会話を繰り返し、ヒューの纏う雰囲気は少しずついつものものへと戻っていった。
§ § §
コールを発ってから一日が経とうとしていた。形だけはいつもどおりと言えるものを取り戻した隊商は、ゆっくりと街道を進み続けている。
次の街までは四日かかるというヒューの言葉どおり、コールから離れれば離れるほど人の住む気配は遠くなっていった。昼の休憩を挟み、夜になった頃、道幅が広くなっている場所まで辿り着いた隊商はそこで幌馬車を停めて夜を明かすことになった。
食事と各々の仕事を済ませれば、あっという間に夜は更けていく。今起きているのは今日の見張りを務めるジルと、外の焚き火の前で一人静かに酒を飲むヒューだけだ。
しんと静まり返った真冬の草原。しかしこの季節に草むらはなく、あるのは分厚く積もった雪の塊だけ。森は遠く、周囲をよく見渡せる。当然周りからもここはよく見えたが、幌馬車の上で気を配るジルが警告用の銃を手に取る素振りはない。
パチパチと薪の燃える音が響く。時折混ざるのは瓶の中で酒が揺れる音。ヒューとジルの間には距離があり、二人が会話をすることはない。それぞれの立てる音を意識の端で捉えながら、ゆっくりと時間が過ぎていく。
するとそこに、新たな音が加わった。幌馬車の幌を捲る小さな音。その下の雪をギュッ、ギュッと踏み締める足音。ヒューもジルも仲間のものだと分かっているからか、警戒する様子はない。足音の主もそれが分かっているかのように足を運び、やがてヒューの後ろに人影が現れた。
「寝れねェのか」
ヒューが後ろの気配に声をかける。その声に人影は小さく息を吐くと、「……そんな感じ」と言ってヒューの横に腰を下ろした。
「直に座んなよ、濡れるぞ」
「すぐ戻るからいい」
ヒューの注意に口を尖らせたのはイヒカだった。周囲に人がいないからか、マフラーどころかコートすら羽織っていない。極寒とも言える気温の中でそれは異様な光景だったが、今ここにいるのは寒さを感じない人間だけ、誰も眉を顰めることはない。
「何か用があるんだろ?」
隣に座るイヒカにヒューが問いかける。問われたイヒカは少し気まずそうに目を伏せると、「本当なのか?」と躊躇いがちに口を開いた。
「ヒューがその……悪い奴だって」
「……そうだな」
返された答えにイヒカが顔を歪める。その顔を勢い良く隣へと向けて、「でも……!」と語気を強めた。
「ヒューはオレを助けてくれただろ!? 私情で薬使うのは避けてるのに、自分の金でオレのために薬を用意してくれたじゃねェか!!」
琥珀色の目の端に、焚き火の橙色が揺れる。それを横目で見たヒューはすぐに視線を前へと戻すと、手に持っていた酒瓶から一口、熱を飲み込んだ。
「一つの善行で過去の悪行が全部帳消しになるなんてことはねェよ。第一、お前からしたら迷惑だったんだろ? 善行にすらなってねェ」
「ッ……でも、」
「ガロワの言ってたことは事実だ。あいつといた頃の俺は自分でも引くくらいクソ野郎でな、自分の邪魔する奴は誰彼構わず殺してた。……仲間だった奴でもな」
イヒカが小さく息を呑む。その音を聞きながら、ヒューがまた酒瓶に口をつける。
「真っ当な生き方なんて知らねェ、知る気すらねェ。ま、ただの勘違い野郎だったんだよ、俺は。ちょっと身体がデカいくらいで自分が強ェと思い込んで、あくせく働かなくても奪えばいいって他人を蔑ろにして……だからお前を助けた時、本当に助けを求められているのかどうかすら考えられなかった。考えようともしなかった」
「ガロワって奴に唆されてやってたワケじゃ……」
「ねェな。あいつは俺の噂を聞いて俺ンとこ来たんだ」
ヒューが言い切ると、イヒカは「……そっか」と焚き火に顔を向けた。隣からはヒューが上着のポケットを漁る音がする。そうして彼が出したのは手のひらより少し大きい木製のケースで、それの中身を知っているイヒカは僅かに視線を落とした。
キィ、と小さな音を立ててケースの蓋が開けられる。中にあったのは葉巻だ。隙間なく詰まったそこから、一本がヒューの手によって取り出される。蓋の裏に嵌められていたシガーカッターがサクリと音を立て、葉巻の先端を切り落とす。
ヒューは蓋を閉めたケースをポケットにしまうと、焚き火の中から細い枝を一本引っ張り出して、口に咥えた葉巻へと近付けた。
葉巻の吸い始め特有の、小さな煙の塊がヒューの口から零れ出る。しかしそれはすぐに落ち着いて、彼が口から葉巻を離すと同時に周囲が白く滲んだ。
「軽蔑するか?」
感情の読めない表情でヒューが言う。「……ああ」とイヒカが低く唸れば、「だろうな」とヒューは自嘲するように口端を上げた。
「……なァ、それ頂戴」
「あ?」
「葉巻」
「やるか馬鹿。高級品だぞ」
「じゃァ酒」
「ふざけんな、こっちも良いヤツだ」
「……ずりィ」
イヒカが膝を抱える。「ガキが何言ってんだ」ヒューが溜息を吐きながら反対の手に持っていた酒を口に含めば、「そういうトコ」とイヒカが睨みつけた。
「煙草も酒も、あれば楽なんだろ?」
「ンな魔法の薬じゃねェよ。誰がそんなこと言ったんだ」
「ヒュー」
「あ? 言った覚えねェぞ」
「見てれば分かる」
顔を顰めたイヒカは、視線を再び焚き火へと戻した。
「酒は毎日飲んでるけど、煙草は滅多にやらないだろ。よっぽど機嫌が良い時か、悪い時だけだ」
「……どいつもこいつも人を観察してンじゃねェよ」
きまり悪そうにヒューが顔を背ける。そのまま葉巻に口をつけようとして、ふと何かに気付いたように苦い表情を浮かべながら酒を呷った。
「無理すんなよ。つーか良い酒っていうのも一人で飲む時は機嫌が良くない」
「お前俺のこと見すぎだろ……」
「当たり前だろ、ヒューから学ばなきゃいけなかったんだから」
その言葉にヒューが目を見開く。未だ焚き火を見つめたままの青年にはかつての幼さはほとんど残っていない。それを見ていると急に後ろめたさを感じて、ヒューは慌てて酒を飲むふりをして視線を逸らした。
「――なら、これを欲しがるお前は機嫌が悪いのか」
なるべく落ち着いた声音を心がけて、ヒューが静かに問う。葉巻にゆっくりと口をつける。口内に残ったアルコールの匂いが、葉巻の香りに打ち消される。
「そんなとこ」
ヒューの纏う煙を少しだけ吸い込んで、イヒカは躊躇いがちに口を開いた。
「さっきの話ってさ、オレも隊商として盗賊を殺すこともあるけど……もしかしたらあの中にヒューもいたかもしれないってことだろ?」
温度のないイヒカの声に、ヒューは「ああ」と迷わず返した。それを聞いたイヒカは膝に顔を埋めると、深く息を吸った。次に息を吐き出せば、空気の抜ける大きな音がヒューの耳にも届く。
出会った頃よりもだいぶ立派になった彼の肩にヒューが目を細めていると、イヒカが「オレさ、」と言いながら半分だけ顔を上げた。
「ああいう賊のことは人間だって思わないようにしてるんだ。じゃないといくら許可されてるからって、軍人でもないのにあんなにたくさん人を殺すのはおかしい……そう思って、何もできなくなるから……」
くぐもった声が空気に溶ける。パチパチと火の爆ぜる音が、やけに大きく響く。
「昔は殺すの嫌がってたクセに、急に吹っ切れたのはそういうことか」
ヒューが葉巻に口をつける。先端がじりじりと燃えて、吐く息と共にその場が白く覆われた。
「そうだよ。駄目な考え方なんだろうなっていうのは分かってる。だけどさ、アイツらが氷の病の人を……オレの家族を殺したんだって思うとすっきりするんだよ。あの連中にだって家族がいるかもしれないのに、相手は人間じゃなくて、病そのものだって思って殴ると嬉しいとすら思う。……普通の人から見たら、オレだって軽蔑されるはずだ」
イヒカの目に反射する橙色が強くなる。膝から完全に顔を上げた彼は右手でバンダナごと額をなぞり、ぐっと拳を握り締めた。
「……随分歪んじまったなァ、お前」
そう悲しそうに言って、ヒューはゴクリ、ゴクリと酒を喉に流し込んだ。喉が焼け付くように熱くなり、鼻からツンとした刺激が抜けていく。
口から離して視界に入った酒瓶には、もうあまり中身は残っていなかった。
「……シェイと同じじゃ駄目だったのか?」
ぽそりと、イヒカが問いかける。
「あ?」
「シェイの時みたく、一緒に薬草採りに行って、それでリタに薬作ってもらうんじゃ駄目だったのか?」
縋るような目がヒューに向けられる。イヒカがガロワを助けたいと思う理由はない。それなのにこんなことを言うのは、きっと――脳裏に浮かんだその答えに、ヒューはきっぱりと首を振った。
「駄目だ、イースヘルムに行く予定がねェ。もし行くんだとしても、あいつにあそこを教えたくない。リタのこともな」
「……なんで」
「もし知れば金儲けに利用する。それこそ利益のために何するか分かったモンじゃねェ。〝銀狼を殺して、リタに無理矢理薬を作らせる〟みたいな発想を平気で実行に移せる奴なんだよ、あいつは」
「……ならヒューは、もしアイツを助けられても助けなかったってことか?」
きゅっと、イヒカの口が真一文字に結ばれる。
「だろうな。薬の金を出してやる……それ以外の方法であいつを助けようとは思いもしなかった」
「じゃァ、あの時オレに――」
「お前は関係ねェ。あれは正直持て余してた金なんだ。それをあそこでお前に使うと決めたのは俺だ。お前が責任を感じる必要はねェよ」
ヒューが力強い声で言えば、イヒカは「……そっか」と声を落とした。そのまま揺れる炎をぼんやりと見つめる彼を横目で見ながら、ヒューは残り少ない酒を一舐めした。
足りない分を補うように葉巻を吸う。少なくなった酒を惜しむようにその容器を自分の隣に置いて、ふうと紫煙を吐き出した。
「ハルゼっていうんだっけ、先代の隊長」
ヒューが雪の中に置いた酒から手を離した時、不意にイヒカが口を開いた。ヒューがやや驚きながらも「ああ」と返せば、先程まで険しい表情を浮かべていたイヒカは顔の力を抜いて、「いつか会ってみたいな」とヒューを見上げた。
「だってさ、クソ野郎だったヒューを自腹切ってまで他人を助けようとする奴に変えた人なんだろ?」
「……そうだな」
ヒューの顔からも少しだけ力が抜ける。それを見たイヒカは笑ったまま目を伏せて、「……オレはどうなんのかな」と独り言のように呟いた。
「とりあえず吊るされるだろうな」
「は……?」
返された答えに、イヒカが怪訝な顔をヒューに向ける。
「俺も昔はよく吊るされたんだよ。馬車の外っ側に逆さまで」
「あ、マジな話なの?」
「マジに決まってンだろ。メシとクソ以外その状態で移動させられてな。しかも絶妙に頭に血が上りきらないように縛られるモンだから気絶すらできねェ。そんな状態でも賊はやってくるモンだから何発流れ弾食らったかも分からねェしな。ほら、ここもそう」
ぐいとヒューが右腕の袖を捲くる。そこから現れた一センチほどの古く丸い傷跡に、イヒカは顔を思い切り引き攣らせた。
「なァ、その人正気?」
「それに答えるにはまず正気とは何かを考える必要がある」
「えぇ……」
明らかに引いた様子のイヒカにヒューは笑うと、「ま、あの人が今の状況見たら俺ァまた吊るされるんだろうな」と言って、思い出したように重たい溜息を吐いた。
「今からヒューがちゃんとすればいいんじゃね?」
「……何もなくても俺は多分吊るされる」
「なんでだよ」
「知るかよ。もはやあのババアの癖だ」
「……やっぱ正気じゃねェじゃん」
イヒカが呆れたように言えば、そこで会話は止まった。気の抜けた沈黙が訪れる。だがそれはどんどん重くなって、二人の顔も少しずつ暗くなっていった。
嫌な沈黙に耐えかねたイヒカは気を逸らすように辺りを見渡したが、何も見つけられなかった。そして諦めたような顔をして、ぐっと眉間に力を入れる。「この話はしたくなかったんだけどさ……」その声色の暗さに、ヒューも引き摺られるように顔を強張らせた。
「リタは大丈夫かな。結構空気吸っちゃったから……考えないようにしたくても、どうしても頭から離れなくて……」
イヒカの言葉に、ヒューは葉巻を口に押し当てた。
「……こればっかりは運次第だ。ほんの数秒で毒を吸う時もあれば、外で長時間口元晒してたのに罹らなかったってこともある。最期の吐息は目に見えねェからな、どこにあるかすら分からねェ」
「ガロワって奴は近くで仲間が死んだって……」
「近くっつーのが本当かどうかも怪しいけどな。第一近くだろうが遠くだろうが、結局風向きやら何やらで変わる」
言い終わると同時にヒューが咥えた葉巻は、もうかなり短くなっていた。それに気付いた彼は小さく息を吐いて、「ほらイヒカ、」と急かすような声を上げた。
「お前はもう寝ろ。見張りでもねェんだから」
自分を追い払うようなその言葉が気に触ったのか、イヒカがむっと眉根を寄せる。
「それはヒューもだろ」
「俺はいいんだよ、大人だ」
「オレだって大人だ」
「残念、十代は大人とは言いませんー」
「ッ、あと一年だろ!」
「その一年が分かれ目よ」
イヒカは歯を食いしばるように顔を歪ませて、「クッソ腹立つ!!」と言いながら勢い良く立ち上がった。長時間雪の上に座っていた尻の布地は低い体温でほんのりと濡れており、それを見たヒューが「おねしょか?」とからかうように笑う。
「うるさ! ヒューのクソジジイ!!」
「はいはい、おやすみ坊や」
「ぼッ……!? バーカ!!」
ドシドシと荒い足音を立ててイヒカが幌馬車へと帰っていく。そんな彼に幌馬車の上からジルが「うるさい」と文句を言えば、イヒカは上に向かって中指を立て幌の中へと入っていった。
「……確かに語彙が育ってねェな」
苦笑いしたヒューは残った葉巻を思い切り吸い込んで、煙を吐き終わると雪の中に置いてあった酒へと手を伸ばした。