043. 再会の棘 (3/6) - 皮一枚の拘束
静まり返ったセルツェの町を、ヒューはゆっくりと歩いていた。この町には大通りに沿った地下道はあるが、大きな街のように地上の細い道にまで対応したものはない。だから昼間であれば路地には人の姿を見つけることができるものの、ほとんどの人間が寝静まっているこんな夜更けではそれすらなかった。
たった一人の道。星の見えない夜空、そこからはらはらと落ちる小粒の雪。
外を歩くヒューの口元は、帽子と繋がったマスクでしっかりと覆い隠されていた。コートも手袋も全て身に着けている。酔いは覚めても身体はまだ熱を持っており、寒さを感じない彼には暑く感じられる格好だったが、それでもヒューは襟を緩めることすらしなかった。
時折周囲に気を配り、自分以外の人間がいないことを確認する。そうしてわざと目的地まで遠回りになる道に入ろうとして、ヒューは「……意味ねェか」と呟いた。
結局、ヒューは真っ直ぐに目的地へと向かった。この町の馬車の逗留所だ。自分達のもの以外にも、いくつか他の隊商の馬車が停められている。ヒューはそこでもう一度周囲を確認して、一際大きい幌馬車の元へと歩いていった。
ヒューが足を止めたのは、三台ある隊商の幌馬車のうちの一つ、その後部にある出入り口の前。幌として寒さに強い獣の分厚い毛皮が重ねられたそれは、木で作られた壁よりもよっぽど防寒性能が高い。ヒューは音もなくその毛皮を捲ると、靴裏についた雪も落とさないまま真っ暗なその先へ歩を進めた。
ミシ、ミシ、と僅かに床板の軋む音がする。しかしそれほど奥には進まない。大量の荷物が積まれているからだ。
足を止めたヒューが見つめる先には金属製の箱があった。金庫に近い見た目をしていて、周囲の荷物の箱が木製ということもあって異様な雰囲気を放っている。
その箱と、しばし見つめ合う。勿論箱がヒューを見ることはないし、彼が見ているのは実際のところその中身の方だ。けれど鉄の箱がそれを直接見ることを阻む。箱自体に組み込まれた鍵はダイヤル式で、その解除番号はヒューの頭の中にしかない。
開けようと思えばいつでも開けられる――ヒューは拳を握り締めた。分厚い手袋の感触に息を吐く。また握り締め、息を吐く。
それを何度も繰り返しながらヒューが箱を見つめていると、真っ暗な幌馬車の中に弱い光が差し込んだ。
「ヒュー?」
光の方から顔を出したのはグレイだった。十分に着込んでいるが、その肩や帽子には雪がかかっている。
「意外と早かったですね、一人で酒場に残ってると聞いていましたが。何か気になることでも?」
「……ちょっとな」
ヒューの低い声に、グレイは目を細めた。
「ヘルグラータの保管箱が気になるということは、氷の病絡みですか?」
感情の読み取れない声でグレイが言う。優しげとも取れるし、ナイフの切っ先のように冷たく鋭利だと表現することもできる。
その声を聞いたヒューの肩には一瞬だけピクリと力が入った。一方でマスクの下では口端が持ち上がる。グレイにそれらは見えていないはずなのに、彼の纏う雰囲気がほんの少し硬くなる。
「よく分かるな」
それは先の問いに対するものか、それとも今の自分に対するものか。ヒュー自身も分からないまま低い声で言えば、「ずっと気配は探っていましたから」と相変わらず感情のない声音でグレイが返した。
「戻ってきたあなたがずっとそれを見ていたことくらい知っていますよ」
「……お前のそういうところ好きだよ」
「ありがとうございます。でもちょっと気持ち悪いですね」
「あ?」
ヒューは半身をずらして不機嫌そうにグレイを睨んだ。だが睨まれたグレイ本人は全く気にした様子はなく、「怒らないでくださいよ」といくらか鋭さのなくなった声で言いながら肩を竦める。彼に持たれたままの幌が小さく揺れ、同時に幌馬車の中にできたグレイの影も微かに動いた。
「私の〝そういうところ〟というのは、私があなたのことも警戒したことでしょう?」
「他に何があるんだよ」
「何もなくていいですよ。私が気持ち悪いのは、まるで自分を疑ってくれと言わんばかりのあなたの態度です」
「……そうか」
ヒューが視線を落とせば、そこにはグレイの影があった。影とヒューの足の間には少しだけ隙間がある。一歩踏み出せば踏める距離。ブーツの裏についた雪が音もなく解けて、床板にできた染みがじりじりとその距離を詰める。
「私は、あなたを拘束すべきですか?」
グレイの問いに、ヒューは足元を濡らす水を見たままマスクの下で再び笑みを浮かべた。そしてゆっくりと瞬きし、「……いや、いい」と目線を前に移動する。自分の足近くから、グレイの方へ。だがグレイ自身のことはまだ目に映さず、その影だけを見続ける。
「古い知り合いに会ってな。そいつが氷の病で薬を必要としてるんだ」
「……調達すると言ったんですか?」
「まさか。買う気がないなら無理だって断ったよ」
そう言ってヒューはやっと視線を上げると、困ったように笑いながらグレイの方へと歩き出した。それが幌馬車の外に出るためのものだと察したグレイは幌を持ったまま身体をずらし、出てきたヒューに道を譲る。
ヒューが外に出ると、彼の足元からザク、と雪を踏みつける音が鳴った。そのまま数歩歩いて、足を止める。幌を閉じたグレイはヒューの方へと向き直ると、「断って終わらなかったんですか?」と静かに問いかけた。
「終わったっちゃァ、終わった。けどその話が出たの、俺がそいつに隊商やってるって言っちまった後なんだよな」
相変わらず苦笑を浮かべ、ヒューがグレイへと顔を向ける。
「ならここにいることは知られているわけですね」
「そういうこと。尾行はされてねェが、まァそんなの意味ねェだろうし」
「ここのヘルグラータのことは?」
「知らないはずだ、俺もそこまでは言ってない。だが銀狼が扱ってるってことは知ってたから、俺とは関係なくうちの馬車に手を出してくる可能性はある」
「そこまで知っているなら、治療薬の略奪行為が死罪だということも知っているのでは? 現行犯なら我々は防衛のためその場で相手の殺害が可能だということも」
「ンなモン知ってるさ。でも何の意味もねェ」
「そんなに危険な人なんですか?」
グレイの問いにヒューが動きを止める。考えるように目を伏せて、「そうだな」と口を開いた。
「略奪でも殺しでも何でもする奴だ。良心がないこたァねェが、自分と仲間以外がどうなっても本気で気にしないような人間でな。ついでに元軍人でかなり腕も立つし悪知恵も働く。……病で落ち込むようなタチでもねェし、そもそもまだその影響もほぼ出てないだろう」
最後は独り言のように言って、ヒューはそこで言葉を切った。ゆっくりと、その眉間に力が入っていく。時折何かを誤魔化すように視線を彷徨わせる彼の姿に、グレイは小さく溜息を吐いた。
「しばらくヒューの当番も私がやりますよ、見張り。あなたが安心できるまで」
グレイの言葉にヒューははたと瞳の動きを止め、驚いたような表情を浮かべた。そして「あー……」と意味のない声を発しながら気まずそうに顔を歪める。しかしどこか納得したような雰囲気を出しながら、「……悪いな」とグレイに目を向けた。
「いえ。相手にしたくないんでしょう?」
「流石にあいつを直接殺すのは勘弁だわ。……大事な奴なんだよ」
困ったようにヒューの眉尻が下がる。「ですが薬がなければ……」グレイが言えば、ヒューは「分かってる」と小さく返した。
「奴の頼みを断れば俺が殺すようなモンだ。……だけどさァ、やっぱ自分で殺るのとは違うんだよ。奴に向けて引き金を引くことを想像すると手が震えそうになるのに、奴が氷になるところを考えるとほっとするんだ」
目を細めたヒューに、グレイが「ヒュー、それは……」と顔を顰めた。
「ああ。俺は多分、あいつに死んで欲しいと思ってる。自分で殺す気概もねェくせにな」
言いながら、ヒューはゆっくりと視線をずらした。そこは幌馬車の影。巨大な木の塊に阻まれ、明かりの届かない場所。何も見つけることのできないその影の、更にその先を見るような目をしながら、ヒューは「ふざけてるよな」と自嘲するように言った。
「恨みじゃねェ、隊商のためでもねェ。ただ、俺が……――」
その言葉の先を、ヒューが口にすることはなかった。