039. (8/9) - 現実
嗅ぎ慣れない匂いがした。だけど嫌な匂いじゃなくて、食べ物の良い匂いだ。やけに重たい目を開ければ、飛び込んできたのは見慣れない天井。だけど最近のオレにとってはそう変なことじゃない。
今日の宿はこんなだったっけ――ぼんやりとした頭で記憶を辿る。親父と旅をして、しょっちゅう町を移動して、昨日の夜は……思い出そうとした瞬間、心臓を握り潰されるかのような痛みが走った。
「親父ッ――ゲホッゲホッ……!!」
起き上がって大声で親父を呼べば、喉が張り付いた感覚がした。口の中がカラカラでうまく呼吸ができない。オレが涙目になって噎せ続けていると、ひゅうと冷たい風が肌を撫でた。
「お、起きたか」
風と共に大男が現れる。と同時に料理の匂いが強くなった。男は目元しか見えていないけれど、年は親父と同じか、それより少し若いくらいだろう。その後ろには外のような景色が見える。そのことに男が直接外から中へと入ってきたのだと悟ると、オレは慌てて口元に手を当てた。
「あ? あァ、安心しろ。お前にゃもう毒じゃねェよ」
「どういうっ……ゴホッ……」
「喋るな喋るな」
男はそう言うと、外に顔を出して「リタ! 水!」と声を上げた。そしてオレに視線を戻す。そのまま男が出入り口と思しき場所から離れれば、パタンと分厚い布がオレ達のいる場所を外から切り離した。
「水くるまで状況説明してやるよ」
無遠慮にずかずかと歩いてきた男が、ドスンとオレのすぐ隣に腰を下ろす。男は帽子ごと顔を覆うマスクを剥ぎ取りながら、「オレはヒュー」と話し始めた。
「隊商の隊長をやってる。ンでここはうちの隊商の幌馬車の中。ギョルヴィズで雪に埋もれたお前さんを見つけて、まァ気が向いたからここまで連れてきた」
その説明に頭の中が真っ白になった。次に襲ったのは焦燥……それから怒り。咄嗟に声を上げそうになったオレを、「だから喋んなって」とヒューと名乗った男が窘める。
「三日間も眠ってたんだ。急に喋ったらまた噎せるぞ」
三日間――告げられたそれにまた全身が動かなくなる。オレが言葉を探していると、「入るよ」と言って目元以外を隠した女が布を捲って入ってきた。
「はい、水。落ち着いたら体調の確認をさせてね。大丈夫そうなら食事を持ってこよう」
オレは一瞬迷ったものの、女から渡された水を一気に飲み干した。「そんなに急いだら噎せちゃうよ?」女にしては低いその声に、「俺がもう言った」と男が苦笑を零す。
「さて、喋れそうならお前さんのことを――」
「ここはどこだ!? なんで勝手にギョルヴィズから連れてきた!?」
「――あら、そうくる?」
男が驚いたように目を丸くする。まるで意外だとでも言わんばかりの表情に、オレの中にいくつもあった感情は怒りに集約された。
「オレはイースヘルムに行かなきゃいけなかったんだよ!! それをこんな……ギョルヴィズの外なんだろ!? ここはどこだ! どのくらい森から離れた!?」
「ほら言っただろ、ヒュー。そこそこの装備だったってことは、この子はやっぱりイースヘルムに用があったんだ。それをお前は気まぐれで拾ってきちゃって……」
オレの言葉に答えたのは女だった。だけど女が話しているのはオレじゃない。それが無性に腹立たしくて、「無視すんなよ!!」とオレは語気を強めた。
「さっさとオレの質問に答えろよ! ここはどこなんだ! ノヴォーラヴァからどれくらい離れた!?」
「ノヴォーラヴァ?」
今度こそ男が声を発した。怪訝そうに片眉を上げた男は、「お前、ノヴォーラヴァからギョルヴィズに入ったのか」と呟いた。しかしすぐに表情を固くして、「そりゃおかしな話だな」と言った。
「ノヴォーラヴァの西にプレストって町がある。グイで四、五日かかるくらいの距離だ。お前さんを拾ったのはそのプレストの近くだよ」
「は……?」
「だから、お前はノヴォーラヴァから真っ直ぐイースヘルムへ向かわずに、だいぶ西にずれてたってことだ。それを自覚してないんだったら、俺が拾わずともお前はどうせイースヘルムには辿り着けなかった」
男の言葉にまた思考が止まる。プレストなんて町は知らない。西にずれてた。イースヘルムがある方じゃなくて、全然違う方角に。
「ノヴォーラヴァからだったら子供の足でも二日もあればイースヘルムに着く。プレストからだって同じようなモンだ。何日ギョルヴィズにいたのか知らねェが、二つの町の距離を考えれば一週間はくだらないだろう。どれくらい記憶がある?」
「どれくらいって……オレは、五日……いや、六日目で倒れたんじゃ……?」
記憶を辿るも、思い出せるのは延々と続く真っ白な景色だけ。日付の感覚なんてほとんどない。数えたのは五度目の夜まで……いや、それよりも。
この男は今、二日でイースヘルムに着くと言ったのか?
「なんだよそれ……じゃァ五日もかかるはずないじゃん……三日もオレは、無駄に……?」
オレが震える声で言えば、目を細めた女が「食事はどうしてた?」と問いかけてきた。
「食事……?」
「そう、食事。五日目まではしっかり食べてたのかな?」
「いや……食糧は節約して……」
「それでも五日目までは食べていたんだね?」
「あァ……それがなんだよ? 関係ないだろ」
意味の分からない質問をされるせいで腹が立つ。だけど女の色素の薄い目がじっとオレを見つめるから、なんだか嫌な予感がした。
「関係あるよ。ヒューが拾ってきた時の君の衰弱状態を考えると、三日は何も食べてなかったんじゃないかな。水分だけはそこらじゅうに雪があるからきっとどうにかなってたんだね」
「は……?」
「つまり君は五日目以降……最低三日間はほぼ無意識の状態でギョルヴィズを彷徨っていた可能性がある。極限状態では幻覚に襲われることもあるからね、ずっと人里に出てこれなかったってことは、もしかしたら君は錯乱していたのかもしれない」
女は淡々と言うが、それを聞かされるオレは冷静でいられるはずもなかった。だって、女の言うことは現実的に有り得ない。
「何言ってんだよ……? 難しいことはよく分かんねェけど、それって頭おかしくなってたってことだろ? 有り得ねェだろ、ギョルヴィズだぞ!? 他の場所ならともかく、あんなトコで正気を失って生きてられるはずがないだろ!? 火を起こせなきゃ十分着込んでても凍死するぞ!?」
「氷の女神症候群の患者には関係ねェよ」
今度は男がオレに告げる。だけどやっぱり意味が分からない。理解できないまま男を見つめれば、男はオレが自分の言葉を待っていると思ったのか、「そういう病気なんだよ」と話を続けた。
「氷の女神症候群を患っていれば、餓死や事故死はあっても外気の寒さだけで死ぬことはない。それがたとえイースヘルムでも同じ――分かってて向かったんじゃねェのか?」
「待てよ、誰の話をしてるんだ……?」
「あ? お前さんが氷の女神症候群だって話だろ。だからイースヘルムに薬草探しに行ったんじゃねェの?」
怪訝そうに男が問う。オレがどうにか「違う……」と返せば、男は「ああ、なるほど……」と神妙な面持ちを浮かべた。
「ギョルヴィズの中でもらったか。その割にはかなり進行してるように見えたが……」
「それだけ体が弱っていたんだろう。一月で死ぬというのは元が健康な人の場合だからね」
二人の話についていけない。何を話しているのか分からない。そんなオレの様子に気付いたのか、女が「君はあの森で氷の女神症候群に罹ったってことだよ」と説明するように言った。
「オレが……? でも、なんともない……」
自分の胸を押さえる。だけどそこに聞いていたような冷たさはない。いまいち二人の言うことが信じられないでいると、「そりゃ治療したからな」と男がこちらを見た。
「は……?」
「言っただろ、気が向いたって。ついでに治療済みよ」
「治療って……薬か!?」
「それ以外に何があるんだよ」
当然のように言った男に、オレは気付けば詰め寄っていた。
「もう一人分ないか!? 金ならなんとかする! だから親父を……!」
「親父ィ?」
「君、お父さんのためにイースヘルムに向かったのかい?」
二人分の不思議そうな目がオレを見る。だから「ああ」と頷いてみせたのに、女は僅かに表情を曇らせた。
「お父さんは初期の患者?」
「え? ……違う、けど」
「なら最後に会った時の体温は分かる?」
「確か、一〇度ちょっとだって言ってた……」
何を聞きたいのだろう――何故だか全身が冷たくなった。オレは何かを忘れている気がする。何か、大事なことを――オレが必死に思考を巡らせていると、「……少し話を戻そうか」と男が低い声で言った。
「お前さんは少なくとも一週間はギョルヴィズにいた。で、俺が拾ってから更に三日が経ってる。それから……一〇度まで体温が下がった患者は、発症からの時期にもよるが、一週間以上持つことは滅多にない」
「……は」
ああ、これだ。オレが忘れていたこと。状況を理解するのに精一杯で、一番大事なことを忘れていた。
「お前の親父さんは、もう死んでるかもしれない」
男の声に頭を殴られた気がした。でも当然受け入れられるはずもなく、「ッ決めつけんなよ!!」とその言葉を跳ね除ける。
「まだ生きてるかもしれないだろ!? だから薬を用意してくれ! 頼むから……」
オレが懇願すれば男は苦々しい顔をした。そんな男に向かって女が「最後まで責任持ちなよ、ヒュー」と溜息を吐く。そして女はオレに視線を向けると、「お父さんはノヴォーラヴァにいるのかい?」と小首を傾げた。
「……ああ」
「君はつくづく運が良いね。この隊商もノヴォーラヴァに向かっている。今は休憩中だけど、予定通りなら明後日には着くだろう。薬のことはお父さんの状態を確かめてからでもいいんじゃないかな」
「もっと早く……!!」
「それは無理だ。気を急いたところで距離は縮まらないよ」
「でも……それで間に合うのか……?」
今までの話を考えると、あと二日なんて待てるはずもなかった。
「……さあね」
女が目を伏せる。オレは女に文句を言おうとして、だけど何も言うことができなかった。




