488.ロコルの腹の内
ああ、と声にもならない声でか細く息を吐き出す。それはロコルの肺ではなく心から零れた、気持ちが漏れ出た感情の吐息だった。
(届かなかった、か)
今までもそうだった。彼とのファイトの大半において勝利を飾ってきた。白星を数多く積み重ねてきた。けれど彼も負けっぱなしではなく、ごく稀に。そう、ロコルの勝ち数からすれば本当に稀と称して差し支えないほどたまに、勝利することもあった。そしてその勝利の多くが「大事なファイト」でのこと。指導や訓練の一環ではありつつも互いに本気になって勝ちを目指した勝負でこそ彼は一段と──いや、一段などでは及びもつかないくらい急激に強さを増した。
特に、ドミネイションズ・アカデミアの受験前。いよいよ半年間の修行の成果をアキラが試されようとしている直前で行った、巣立ちも兼ねた……免許皆伝を与えることによって彼に自信を持たせる目的で行った、あのファイトが印象深い。自信を持たせると言っても手を抜いて勝たせたところで彼がそんなものを喜ぶはずもないので、無論ロコルは真剣にやった。それまでの真剣勝負が遊びでしかないと思えるほどには真面目に、彼というドミネイターを叩き潰さんと腕を振るった。その手応えは異常の一言。まるで彼の方こそがこれまで真剣ではなかったように、本気になれていなかったかのように。ロコルをしてそう錯覚してしまうくらい──錯覚させられてしまうくらい、その時の彼は飛び抜けて強かった。
一歩届かず、負けた。自分よりもよっぽど疲労困憊になりながらも勝利を喜ぶ彼に、ロコルもまた純粋に喜んだが。心のどこかには戦慄があった。ほんの少しの恐怖も、あるにはあった。きっと彼なら勝てる、勝ってくれると。そう信じたが故の巣立ちのファイトであったが……旅立ちのファイトであったが。けれど彼が行き着く先は、辿り着く先は自分が思うものではない。自分が思うよりもずっと遠くて深い場所なのではないかと、そう感じた。思考ではなく直感でそれを危惧したのはきっと、彼を利用できないかと考えるでもなく考えていることへの忌避感。そして何をするにも打算が付いて回る自分への嫌悪感があったからだろう。
過去を振り返って、今ならわかる。冷静にあの頃の自分と彼を分析することができる。アカデミアに入る前、いくらなんでもまだまだ自分には及んでいないはずの彼が、常識的に考えて万にひとつも勝ち目があれば上々と言えるほどに力量が離れていたはずでありながら、自分から勝利を奪えたこと。あり得ないことを成し遂げた、つまりは「奇跡」を起こした。その片鱗を見たからこそ彼に協力したというのに、いざそれが遺憾なく発露された途端に委縮してしまったのは、兄への恐怖心。それといつか彼が兄のようになってしまうのではないかという恐れから来るものだったのだと、今のロコルにはそれが受け入れられる。
弱かったのだ、自分は。彼は今と変わらずあの時から強くて、そんな彼に自分も強くしてもらった。これは単純なドミネファイトの腕前でなく心の話であり心構えの話だ。ある意味ではあのファイトで自分が負けるのは当然であったと、道理の通ったことだと認められる。心から正しい敗北だったと思える。が、此度はどうだろう。
もちろん、何を言ったところで結果が覆ることはない。今し方の攻防をやり直せるわけでもなし、やり直したとて次こそは勝てるとも言い切れないのだから、まるで益体がないけれども。ただし受け入れ難さはある。強くなった今ならば。強さというものが何か、どうして彼や兄が強いのかわかり始めた今ならば──理解を示せるようになりだした自分であれば、追いつけるのではないかと。彼らと肩を並べるに相応しい自分になれたのではないかと、そう考えていただけに。必ず勝ってみせると決意していただけに、当然だ道理だなどと納得はできない。
勝てる予感はあった。手応えも、以前とは違っていた。思わぬ強さに持っていかれた巣立ちのファイトとは違って、今度のファイトは常に互角だった。なんなら押している場面は自分の方が多いくらいで、全体的に見ればほぼ常に優勢を保っていたとも言える。勝てたのだ。勝てるはずだったのだ。あともう少しで、もうちょっとで今頃は……けれどその少しが、ちょっとが足りなかった。及ばなかった。届かなかった。
勝利の栄光は彼女の指先からすり抜けて行ってしまった。
(『キマッている』ときの、勝つと決めたときのセンパイの強さ。それに立ち向かう困難さ。重々に承知していたつもりっすけどね……打ち勝つ自信も満々にあったんすけど。でも、それでも望んだ結末を引き寄せるには足りなかったっすか)
個人メタの詰め込みや、ドミネユニットを使わないという事前の誓いすらも破って、単にファイト上のことだけでなくファイト外においてもやれるだけのことをやった。嘘偽りなくやり尽くした。そうまでしてでも勝ちたかった。そうまでしないと勝てると思えなかった。どんな小さなことでもどんな大きなことでもとにかく「やらない」という選択肢は選べなかった。僅かたりとも妥協があっては勝利を取りこぼすことになる。ターンが進むごとに加速度的に強まっていくその確信に背中を押され、だからロコルはこのファイト中にも大いに成長を果たした。ただ勝つだけでなく圧倒的に勝つ。勝ち方にまで欲を張れるようにもなった。
圧倒とはライフの差ではなくオーラの差。彼とのファイトでとりわけに重要となるオーラを用いた切り結びにおいて、最後の一合だけでもいいから絶対的に上回ること。もしもの想定が浮かばないくらいに彼のオーラを、運命力を決定的に断ち切ること。それこそがロコルの目標であり、一番の勝ち方だったのだが。それを成し遂げられる予感もまた重々にあったのだが……実際のところは御覧の通り。断ち切るどころか受け切られ、切り返された。今度こそ完璧なクイックチェックを許してしまった。完勝ではなく完敗、それがロコルに与えられた結末だった。
一度目よりも二度目。二度目よりも三度目と、発揮された運命力だけで言えば趨勢があちらに傾いていたことは否定のしようもなく、故にロコルはこの事態を完全敗北と客観的に評せざるを得ない。納得のできるできないは別にして、心の中の荒れようは他にして、そんな状態でも冷静に働く思考では既に結論が出されている。なんと言おうと、何を思おうと自分は勝てなかった。彼の闘志を、戦意を、熱気を、抑えつけることができなかった。逆に抑えつけられてしまったのだから、もう。
「──ターン、エンド……っす」
エンド宣言。それはまるで彼女自身の終わりを告げるような声音だった。先の躍動も嘘のように疲労を抱えて剣を下ろすブレイザーズ──エースユニットの姿も相まって、あたかも彼女の場は敗軍の跡地。空風が吹くようなわびしさがそこにはあった。
疲労困憊の満身創痍。心身の全てを出し切って、なのに押し切ることのできなかったロコルの糸はもう切れている。本当の空っぽで、これ以上は何も出ない。出せるものはないし、できることもない。ただ終わりを告げる以外には、何も。今にも気を失いそうなふらふらの状態で、なのに彼女が立っているのは。とても戦えやしないのに降参せずターンを明け渡したのは。しかとその両目で彼を見つめているのは──言わずもがなドミネイターとしての矜持。
そして何よりも、『次』へ繋げるために必要なことであったからだ。
「俺のターン──」
そして彼のファイナルターンが始まった。
このドミネファイトの、最後の時間が。




