374.感謝と問いかけ
「ありがとうございます、エミル先輩」
真っ直ぐな感謝。何も隠さず偽らない、少女からの素直な礼の言葉に、エミルは少しだけ驚いたようにしてから。
「言ったろう、感謝なんてしなくていいんだ。君の気付きは君が自身で成したこと。私がしたのはほんの些細な切っ掛け作りに過ぎない」
それだって余計なことだったろうがね、と肩をすくめて彼は続けた。
「そもそも礼が欲しくて先輩風を吹かせたわけじゃあない。ただやりたくてやっただけの出しゃばりでしかないんだから、畏まった言葉は不要さ」
「なら、わたしも自分がお礼を言いたくて言っているだけですから。あなたがそれを受け取ろうと拒否しようと知ったことではないですね」
「……ふむ、そうなるか」
「それに、これはファイトそのものへの感謝です。勝敗がどうであれば互いに健闘を称え合うのはドミネイターの美学でしょう? わたしにとって良き経験になった点も踏まえて、その礼を述べているに過ぎません」
そこに付随するその他一切の事実や変化について関知したものではありませんよ、と。あくまで『なかったこと』を強調するマコト。その口元に浮かぶ小さな笑みを見て、エミルもまた「はは」と小さく笑った。
「これは一本取られたね。私から言ったことだというのに……慣れない真似をしたせいか、自分で思う以上に気負っていたらしいな」
自らの損得を考えない、他者を思いやるファイト。若人の手を取り見本を示す「指導ファイト」。果てのない野望に燃えていた頃の彼ならそんな行為は天地がひっくり返ろうともしなかっただろう。望んで行うファイトは全て『排除』か『選別』かに目的が別れ、それ以外では実力をひた隠しにした偽るためのファイトしかしてこなかったエミルなので、今でこそ「優しい戦い方」を覚えつつあれどもまだそれに慣れてはいない。殺伐とした世界に身を置くことに慣れ過ぎて、それが当たり前に過ぎて、そうでない今にまだ体が順応しきっていないのだ。
かつての熱を取り戻したマコトに劣らないだけの興奮を、そうさせたエミルの側が抱いているのはそのせいである。そしてそれ以外にも、マコトがただの後輩ではなく御三家である観世の一員であり、しかもイオリが最大限に警戒を示すほどの異端者であるという要素もまたエミルの気負いを後押しした大きな要因であることを忘れてはならない。
つまるところ彼は、ふらりと現れてゆらりと戦った。ただの気紛れでマコトの敵となったように見せかけてその実、マコトの視点からではまったく読み切れないほど。まるでそうとは思えぬほどに「使命感に燃えていた」。かつての自分の後追いをしかねない、ドミネファイトの目的と手段が入れ替わってしまっている異端の少女を、なんとしても救わんと。それができるのは──いや、できる者は他にもいるだろうが。しかしその義務を持ちなおかつ適任なのは自分を置いて他にはいないと、そう盛大に勢い込んでいた。それでいてマコトとのファイトを純粋に楽しむ気持ちは本物だったのだからつくづくエミルという少年は底知れない。それなり以上に『目』の良いマコトであっても彼の内面を見通せないのは当然だった。
一回のファイトで彼の深層にまで届いたのは、手を伸ばせたのはたった一人だけ。おそらくは後にも先にも若葉アキラだけだろう。
「理解者が必要だ。人には、そして一生涯戦いの世界に身を置くと決めたドミネイターならば余計に、信と心を預けられる良き理解者が不可欠。それがわかっているから君は宝妙くんにとっての理解者にならんとしているのだろうが……そこに唯一の関係性を望むエゴがあっては台無しだ。巨大なそれにすっかりと振り回され、自分だけでなく彼女の可能性まで狭めてしまっているのでは尚のことにね。そうして得た唯一に意義なんてない。君自身がその価値を最低にまで貶めてしまうからだ」
「…………」
「忘れてはならないのが、君にだって理解者は要るということ。無茶なやり方で宝妙くんの心を手に入れたところでそれでは彼女は君の理解者足り得ない。本当の価値ある唯一にはなれないんだ──私はそれにとんと気付けなかった。支配することしか頭になかった猛獣は、もう一頭の気高き獣に首笛を食い千切られて息の根を止められて、初めて省みることができたんだ。自らの行いの惨さとその罪深さ。無知を振り翳してそれを強さと勘違っていた醜さを、ようやく知れた。優しくも私を殺してくれた彼は手遅れではないと言ってくれたが、それは彼に倒してもらえたからだ。そうでなければ私は、仮に別の方法で止まれたとしても……きっともうどこにも居場所なんてなかったろう」
君が歩もうとしていたのはそういう道なのだ。そうぽつりとエミルは締めた。だから、とても見過ごしてはおけなかったと。つまりはそういうことなのだろう。
第二の九蓮華エミルになりかねない者を、そうなる前に止めた。元を正せばマコトが自らの道を曲げた原因は怪物だった頃のエミルを直に見てしまったことで、ならばそれをエミル自身が軌道修正してやるのは「責任を取った」のだと言えなくもないだろうが。しかしそうでなくとも彼は、たとえマコトが御三家の者でなくとも確実に、その肩を掴んで引き留めていたことだろう。そこを行けば何もないと、そうドミネファイトを通して教えていただろう──それがその先の景色を一時とはいえ目にした愚者の、愚者であるが故にできる善行であると。
「君は聡明だ。私の変わり様から何か感じるものもあったのだろう……ファイトをする前からね。それが君自身の気付かぬ内に行く末を匂わせたのだ。この道を行けばどうなるものか、と。それだけで我が身を客観視できたのだから私よりもずっと賢いと言える」
「……わかりましたよ先輩。あなたの言いたいことは、よくよくわかりました。それに対する感想や返答を口にすることはあえてしないでおきましょう、何を言っても若輩のたわ言。他人事の同情以上のものにはならないでしょうから」
そんなものはエミルだって聞きたがっていないだろう。そう考えていくつも口を突いて出そうになる言葉をぐっと堪えて頷いたマコトは、「ですがその代わり」と続けて。
「わたしからもひとつだけ聞かせてください」
「うん? 何かな」
「あなたがわたしにやったことは、過去の後悔からくるものですか。それとも昔の行いに少しも引きずられない、まったくの善意からのものですか」
「…………、」
エミルは考える素振りを見せた。償いの一環か、そうでないか。もちろん彼には生まれ変わったが故の責任感というものがあり、それを果たすための義務を背負っているからこそマコトを放っておけなかったのは前述の通りだ。しかしそのためにここまで「優しく」、そして「丁寧」に指導を行ったのはどうしてか。当人からすれば否応なしに切羽詰まってのこととはいえ、一時は可愛い弟へ危害を加えようと真剣に企んだ悪辣なマコトという一人の少女を、潜在的にも顕在的にも間違いなく敵と見做せる相手に対してどうしてこうも……その答えはエミルにも即座に出せるものではなかったようで、沈黙はしばらく続いた。それこそ訊ねた側のマコトが息の詰まりを感じるくらいには短くない時間を挟んで、ようやく彼の口は開かれた。
「その答えは、きっと君の中にある」
「え?」
「いつか君も誰かに、私がやったようなことをしてあげる日がくる。してあげたくなる時がね……その時になれば自ずとわかるはずさ。人が人を助ける意味。そこにある感情の中身や色味がね」
「……なるほど」
あるいはエミルの言葉は、人の行動を一から十まで推し量ることなどできはしないと。そういうことであって仮に「その時」が来たとしても、マコトにもまた己のしたことに完璧な正答を当て嵌められはしないのだと、そう言っているようにも聞こえた。ひょっとすればそう感じたのはマコトの思い違いで、エミルには彼なりの真実が確固としてあるのかもしれないが。そればかりは定かではなかった──どれだけ彼の瞳や表情を見つめようとも、今のマコトにはまだ。




