258.人の価値、ドミネイションズの価値
すぅ、と深く息を吸い込む。咀嚼するように味わい、ゆっくりと吐き出して、また吸う。そうしてアキラはなんとか呼吸を整え、膝に手をつきながら立ち上がる。体が重い。頭もだ。足元だけでなく視界も不安定で、さっきまで見えていたエミルの顔も霞の向こうにあるようにぼんやりとしてきた。これは、この状態には、覚えがある。前回のエミルとのファイトにおける最終盤面。エターナルによって最後の一撃が放たれる直前の、心身ともに極限まで追い詰められたあの時とそっくりだ。
肉体的な苦しみはあれ以上と言っていい。敗北が決定していたあの時だってここまで足が激しく震えてはいなかった、顔を上げることすらこうまで辛くはなかった。エミルに勝つため。ただそのために積み上げた無茶無謀の代償はそれだけ大きく深刻であるということだろう。そうしなければ勝機を見出せなかった己の力不足こそが、こうなった最大の要因。こんなにも苦しんでいる直接の原因。エミルの技量や追い詰め方よりもつまりは「自己責任」だと評したほうが正しいと、そこはアキラ自身も認めるところだ。
「ふー…………」
だが肉体的にはそうだとして、では精神的にはどうだろう? あの時以上に辛いか否か。……比べるべくもない、体に反して心は軽い。今にも飛んでいきそうなほど、どこまでも飛んでいけそうなほど。羽ばたく翼を授かったように軽く、清々しい。当然だ、敗北から逃れられなかったあの時と違って今は勝利に手を伸ばさんとしている最中。天秤にかけるまでもなく当時と現在のアキラの心境はまるで異なっている──まったく違う方向を向いている。ただトドメを刺されることを待つばかりだった、それしかできなかったあの時と、その先へ進んだこの瞬間と。まさか同じはずがない、心が落ち込むはずもない。
「…………よし」
どんなに体が辛くても、重くても、キツくても。けれど心はそうじゃない。羽ばたいている、飛び上がろうとしている。栄光の勝利を掴まんとしている……ならば下を向きはしない。いつまでも蹲ってはいられない。霞む視界でもしっかりと相手を見据え、カードをプレイする。ファイトをする。ドミネファイトをするのだ。前を向くこと。前へ向かうこと。それだけは、どれだけエミルから苦痛を与えられようと、どれだけの無茶に心身が疲れ果てようとも。けれど決してやめることはない、歩みを止めることはない。何故ならそれこそが。
「──俺の目指す、理想のドミネイター。……今日、お前は何度となく『感謝』と口にしたが。俺からもお前に感謝するぜ」
「ほう。いったい何に対する感謝かな」
「ようやく、実感が湧いたんだ。手応えが掴めた……怖がって、自分を誤魔化して、長く遠回りして。そんな俺でも理想に近づけてはいるって。一歩ずつでもそこに向かえているって、お前とのファイトがそう教えてくれた。この苦難に感謝する。それを与えてくれたエミル、お前っていう強敵に感謝する。これを乗り越えた時、俺は確実に成長するだろうと。理想のドミネイターにまた一歩近づけると、信じられるから」
「だから感謝か。なるほど、共感できるよ。心からね」
人の真価は逆境にこそ表れる。追い詰めてみなければその者の持つ本当の価値は見えないし、測れない。エミルはそう思っており、世の真理のひとつであると疑わず。故にこそ彼は「カード狩りの死神」などという都市伝説染みた噂話を全国に広めることとなったのだが、それはともかく。この持論はもちろんのことアキラに対しても適用される。
若葉家を訪問しての初対面時。顔を見合わせた瞬間に感じるものはあった。持ち前の『目』による観察によって戦わずして直感していた──直観していた。モノが違う、と。他の有象無象とは明らかに違う。だが、何が? いったい彼は何を持っている? 抱いた疑問と、また外れてしまうかもしれない期待。欲張りの解消のために一も二もなく誘ったファイトで、若葉アキラは示してくれた。今度ばかりは期待外れではない。欲に浮かされた願望などではないと、応えてくれたのだ。
鏡映しの天凛。そうと気付いた際の喜びを、歓喜を、どのようにも表現はしきれない。だからこそ是が非でも欲して、新世界の要に据えることに躍起になったもので。どのような形で自分と彼との間に決着がつくにせよ、おそらくそればかりは叶わない夢だと諦めた今になっても。それでもただ勝ちだけは欲しいと、譲れないと、いつ振りかの純粋なファイトになっても。
それでも理想は眩しいのだ。
エミルの目にも、アキラの目にも。
「困りものだなアキラ君。お互い、理想が高すぎて。覚醒の兆しを手にしてなお容易には届かないそこへ、だけど手を伸ばす。欲し続ける。私たちにはそれが諦められない。凡百とは違う唯一を持つからこそ諦めてはいけない。と、知っている。他ならぬ私たちこそが多くに諦めさせてきている存在なのだから当然だ」
「勝ち負け、だもんな。お前が言ったようにドミネファイトの本質は……闘争であるという一点に集約される。優劣が付くこと。どちらかが膝を付くこと。どちらかが、上に立つこと。戦いである以上それは必至で、生存競争は必須だ。その過酷さに打ち勝つ強さだって俺が想う理想の内にある……それは確かだよ」
ぼやける目を擦って、流れる汗を拭って。必死に平常を保ちながら、装いながら気を整えて、言葉を紡ぐ。思い返すはこれまでのファイトの数々。ドミネイションズは闘争の手段。その通り、アキラとて戦ってきた──多くを負けさせてきた。
アカデミアの授業では負けることも多かったが大事な場面では尽く勝ちを収めた。それは畢竟、評価を勝ち取ると共に負けた相手の評価を落とさせる行為。どちらかが得ればどちらかが失う。確かなその現実をアキラはどこまで直視できたいただろう……どこまで受け止めていただろう。わかっていたはずなのだ、最初から。回り道の末に歩み始めたドミネイターへの道。最初の難関がアカデミアへの受験であったのだから、そこで大勢のライバルを蹴落としたのだから。その時点でドミネファイトが持つシビアさ。「楽しい」だけでは済まない、済まされない厳しさを、アキラはとうに理解していた。
けれどもそれと同時に、彼が理解していたことはもうひとつあって。
「ドミネユニットは、俺たちの一側面でしかない。それだけで人を語ることはできない」
「なんだって?」
「それと同じだ。勝ち負けはファイトの本質だけど、それだけじゃない。別の側面だってある。人もドミネイションズも変わらない。どこを見るか、どこを見たいかだ。そうじゃないか?」
「…………、」
問われて、エミルはその言葉を反芻する。どこを見るか──どこを見たいか。エターナルが、アルセリアが必ずしも自分たちの『全て』ではないように。なかったように、争いの手段であるドミネイションズカードもまたそればかりが存在意義ではない……それだけが価値ではない。そうなのだろうか?
そうなのかもしれない、とエミルは頷く。
「結局のところ見方次第。考え方次第、ということか。私が推し量ってきた人の価値も、ほんの一部を覗いただけの性急に過ぎる結論だった……まったくもって誤った判断だった、のかもしれない。──だとしても」
「ああ、だとしてもだ。ドミネイションズが生んだ過ちならドミネイションズで拭わなければならない。お前の間違いは、お前自身で正さなくちゃならない。俺はただその手伝いをするだけだ──この一撃でな」
ファイナルアタックだ。
アキラがそう宣言し、そしてガールが地を蹴った。




