211.人か否か、夢か否か
「エミ、ル……?」
起きた変化は決して見た目だけのものではない。外見上よりその中身にこそ劇的な変貌があることは、相対するアキラから見ても明らかに過ぎた。まるでそこにいきなり別人が現われたような。そんな錯覚を受けるほどにこれまでの彼と、目の前の彼とは、あまりに雰囲気がかけ離れていた。
「反省しよう」
「反省……だって?」
それもひどくエミルらしからぬワードに聞こえる。眉をひそめるアキラに、エミルは軽く。軽々しく頷く。
「君を認めた。あのファイトで私たちは互いを確かめ合い、そして私は君を認めたのだ。であるからには、君も同様に私を認めてくれているものだと思っていた──思い込んでいた。それが良くなかったね。未だ君には、君にだけは認められていない。だというのに気の早い話だった。私たちの主張が一向に平行線であるのも当然だ。それはスタンスの違いからくる今だけのもので、遠からず君も私と同じになると……呑気にもそうのんびりしていたことを、猛省する」
「…………」
「一刻も早くに君に示そう、認めさせよう。私を導き、私が導く天意。あるべき形へ世界を変える使命の重み、それを成すに相応しい我が才を。刻み、刺し、打ち込んで埋め込もう。そうして認めざるを得なくしてから、その時に改めて聞こうじゃないか──君の思い描く理想を。反省した私は強いぞ、アキラ君」
何せもう止まらないからね、と。前回のファイトの最終盤で披露された甚大なオーラのそれを遥かに超える質と量で講堂中を満ち満ちとさせるエミル。その規模は運命力を可視化させたものというより、エミルの言葉通りに天から彼の肉体へ「何か」が──この世の常識を超越した未知の力が降り注いでいるとしか思えぬ、異常事態でしかなかった。
圧倒的、という言葉でもまだ足りない。まるで天変地異や伝説上の怪物が人の形にギュッと押し込められたような尋常ならざる存在感。それで行われる威圧は、もはや威圧の内にあらず。
「こ──ここまで、とは。いったい彼は」
「ちっ……九蓮華家め。こんなものを生み出しておいて野放しとはな」
大講堂そのものが壊れてしまいかねない。そう思えるほどの重圧に、泉だけでなく半ばこうなることを予期してもいたムラクモでさえ、想定以上だと冷や汗を止められない。行き過ぎた怪物性。他者の運命が自身の道を遮ることを許さない、絶対の覇道。かつて彼と同じ道を行った者をムラクモは知っている──そしてその先でどうなったかも、本人の口から語って聞かされている。だから彼はなんとしてもこの場をセッティングしたわけだが、しかし。
「これでもしも若葉が負けてしまえば。上級生だけでなく、DA生が一人残らず脱落してしまうだろうな……」
考えるだに心胆の震える恐ろしい予想だが、けれどそれは予想ではなく本当に訪れてしまう未来だ──アキラが敗北すればまず間違いなくそうなる。確信以上に確固たる現実がムラクモには見えている。ともすれば、エミルから姿を隠しながら待機している教師陣にも、人によっては深刻な影響が出てもおかしくない。百戦錬磨にして海千山千のファイト経験を持つこの場の責任者たちですらも、見学するだけで心が折れてもなんら不思議ではない。それくらいにエミルの放つオーラは人知を遥か下に置いてしまっている。
「そう、ですよ。これが兄さま。これが九蓮華エミルなのです」
「! お前……」
泉とムラクモの背後で、ぶつぶつと。うわ言のように言葉を漏らすのはイオリだ。エミルから見限りの宣言を受けて以降、虚ろな目で舞台を見上げているだけだった彼が、唐突に何を言うかと思えば。
「エミル兄さまは正しい。兄さまこそが『絶対』なのです。それを勝つことで証明してきた。負けないから兄さまは正しく、世界の中心なのですよ! 此度もそうなります、兄さまは勝つ。若葉アキラは負ける。若葉アキラに託したお前たちも負ける! 正しくなかったと証明され、そして兄さまは正義であり続けるのです! 兄さまの正すべき暗愚のいなくなった世界で、白だけの世界で兄さまは神となる! そこにお前たちの居場所はない! 兄さまを認めようとしない、認められない愚昧のお前たちは、ここで終わるのです!」
堰を切ったように喚くイオリは、どう見ても普通ではなかった。切れてしまったか、とその原因をほぼほぼ正確に把握しながらもムラクモは、未だにエミルの信奉者たらんとする彼の盲目ぶりに優しくしてやるつもりなど一切なかった。
「切り捨てられたそばからよく言う。お前だって奴の世界に居場所なんてないだろうに」
「そんなことはない! 兄さまをガッカリさせてしまったのは事実だけど、でもイオリは兄さまの弟だ。兄弟姉妹でただ一人、最初から兄さまに従順だったイオリが! こんな簡単に見限られるはずがない、そんなわけがない。きっと兄さまはまたイオリを拾ってくださる。もう一度可愛がってくださるんだ。兄さまの新世界でイオリはまた……!」
「もういいよ、九蓮華イオリ君」
「っ……」
「一応の自己紹介をしておこう。私は……いや、ボクは泉モトハル。かつて君と同じくたった一人に縋りついて、押し付けて、独りよがりの夢を見て。他の一切を見ようとしなかった愚か者さ」
「……、」
メガネをくいと指先で押しながら、どこか遠くを見るように自分を見つめてくる泉の目は酷く心地が悪くて。だというのに何故だかイオリは、複雑な色味を湛えたその眼差しから視線を逸らせなかった。
「同じ失敗をした先人の立場から言わせてもらおう……君のそれは、必ず碌なことにはならないよ。その無責任の報いを受ける時が来る。あるいは、報いすら受けられずに終わってしまうかもしれない。ボクは幸いにも出会いに恵まれてね。そうはならなかったが、そうなりかけた。怖いことをしていたものだと今なら思えるが、当時は何も気付けなかった。君もおそらくそうなんだろう。何を言ったところで、言われたところで無駄だとボクにはよくわかる。だから大人しく見ているといい」
「見ている……?」
「君の『絶対』が覆るところを。若葉君にならそれが可能だ」
「ま──まさかでしょう? 兄さまのこの力を感じておきながら、まだあなたたちはそんな夢物語が現実になると信じているのですか。本気で言っているのなら、そちらこそとんだ夢想家の楽天家ではないですか」
自信に満ちた泉の口振りに気圧されながらも努めて悪態を吐くイオリへ、今度はムラクモが返事をする。
「本気だとも。俺たちも、若葉もな。本気で戦っているんだ。何も想定を超えてくるのは九蓮華の先輩特許じゃあない。むしろそこの度合いで言えば若葉こそがそうだろう──あれは敵が強ければ強いほどに跳ねるタイプでな。つまり誰よりも九蓮華こそがうってつけの相手であるのは確かなんだ」
想定外のエミルの強さが、アキラを更なる高みへと連れていくだろう。そして最後には必ずやアキラがエミルを上回る。ムラクモは徹頭徹尾、始まりから終わりまでそう信じる。そう信じ抜くと決めている、故に。
「泉先生の言う通り、今は黙って見ていろ九蓮華イオリ。御三家の一角が生み落としたあの人外が、ようやく生まれ変わる様を……人に成る様をな」
「生まれ変わる──兄さまが、ただの人に」
呆けて呟いた、イオリのおうむ返しをかき消すように。舞台上からアキラの声が高らかに響き渡った。
「俺のターンだ!!」




