196.ひとりきりの道
「もう、いいです。あなたなんて兄さまに呆気なく散らされてしまえばいい。イオリに負けておけばよかったと後悔しながらね!」
吐き捨てるように言うだけ言って、我ながらなんと情けない捨て台詞だろうかと内心で自嘲しながら背を向けたイオリに、アキラは。
「イオリ、またファイトしよう。エミルの弟だとか餌だとか、そういう変なしがらみなんて無しでさ。ただのドミネイターの一人と一人として君と再戦したいんだ……約束してくれるか?」
「……っ、」
この期に及んでまだ。まだ自分にそんな言葉をかけるのか。イオリは返答にも思考にも詰まった。アキラの底抜けの純粋さ。ドミネイターとしての純なる在り方に、彼は返すべきセリフを持たなかった。結果としてイオリは無言で走り去り、舞台を降りることしかできなかった。そうやって逃げた先に待っているのは、逃れようのないもう一人だと知りながらも。
「──負けたね、イオリ」
「兄さま……」
ライトに照らし出されている舞台上から脇へ下りたことでイオリの視力は一時的に利かなくなっている。暗がりに目が慣れるまではうすぼんやりとしか辺りも見えないので慎重に歩を進めたイオリだったが、彼がそこにいることだけは。そしてその表情だけは、どんなに暗くともハッキリとわかった。
笑っている。楽しげに微笑んでいる──そんな柔らかい顔付きの彼を見て、イオリの顔は反対にガチガチに凍り付いた。
「申し訳、ありません」
「うん? 何を謝っているんだい?」
「若葉アキラに敗北してしまって、申し訳ありません。兄さまを遮ってまでファイトしたというのに、彼を退けるには力及ばず……イオリは自分の不甲斐なさを恥じ入るばかりです。どうか、如何様にも罰してください兄さま」
「あはは、罰か。イオリは私がそんなものをわざわざ与えると思っているのか。安心するといい、それは君の誤解だ」
「兄さま……?」
許してくれるのか。絶対に許されないはずの敗北を、この兄が水に流してくれるというのか──やけに機嫌のいい今の彼ならそれもあり得るかもしれない。などと思ってしまったのは、願ってしまったのは。イオリらしくもなく希望に縋り過ぎた甘えた考え方であった。
「何を謝っているのかと訊いたのはね、イオリ。理由の方ではなくて何故そんな無駄なことをしているのかと、そちらの方を不思議に思ったからなんだ。だってそうだろう? 勇み足で挑んで負けて泣いて、そんな子にこれ以上付き合う義理もない。私たちはもう無関係だ。だから負けたって責めたりしないし、罰なんて下さない。イオリ、君にはそれだけの価値もなくなったと。そう知っておくことだよ」
「え……兄、さま?」
愕然と。何を言われたか理解できているのかも怪しい表情で呆けるイオリへ、エミルはやれやれと首を振る。あくまで優しげな顔付きのままでいる彼は、まるで弟思いの良き兄のようにしか見えなかった。
「何を意外そうにしている。言ったろう、君は私ほど強くもなければロコルほど強かでもない。では君の価値とはどこにあるのかと言えば、それは賢しらさ。九蓮華らしいプライドを持ちながらも雌伏や面従腹背を選び取れる計算高さにあった。あった、だ。過去形だよ、わかるね? 今の君にその価値はない。自ら投げ捨ててしまったからね──せっかくの個性を」
「どういう、ことでしょうか……」
「実を言うとね、君が彼に挑むことを進言した時点で。若葉君に自分が勝てるなどと妄想を抱いていた時点で、失格していたんだよ。敵に据えるべきかどうか見誤り、欲に溺れて功を焦る。それは有象無象の凡夫のやることだ。計算高さくらいしか取り立てて見るべきところのない君が、そんな計算違いをしたからには、もはや見限るになんの躊躇いもない。むしろ邪魔だよ。私が創る新世界で君なんかを重用するなどもっての外だ」
だから、君は、いらない。
きっぱりと。使い道のなくなった道具をゴミ袋へ放るような気軽さと冷たさでエミルはそう言った。実の弟を相手に、なんの情けも容赦もなくそう言い付けた。
「私に取り入らんとする懸命で賢明な努力だけは認めていたけれどね。だけどそれで結果が出せないのならそこらの凡人以下だ、構ってやる暇もない。さあイオリ、今すぐ私の前から消えてくれるかい? ──ああいや、せっかくだからそこで見ているといい。私と若葉君。イオリにはない本物の才能を持つ者同士のファイトというものをね。それが兄である私から、弟である君への最後の贈り物となるだろう」
「………………」
「ふふ、ほら。若葉君の勝利に講堂中が沸いているよ。君があられもない負け方をしてくれたおかげで場が整ったんだ。私が振り撒く絶望を、余すことなく彼らが享受する絶好の舞台がね。そこだけは労っておこう──お疲れさま、イオリ」
理想についてこられないものはいらない。無理に引き摺ることはその者にとって最大の不幸にもなる。神に愛された才者。己をそう疑わないエミルでも……否、そんな彼だからこそ。自分の傍におくべきもまた真の才者に限定される。そうわかっている。そうでなければいけないとわかっているのだ。
──生憎とこの弟は、そこに至れる資格を持たなかった。それだけのことだった。
「待て、九蓮華」
イオリの肩を優しく叩いてやって、立ち尽くす彼の横から舞台を目指そうとしたところで呼び止められる。その声が誰であるか、などと考える必要はなかった。この場にいるのは自身とイオリを除けばもう一人、ムラクモしかいないのだから。
「どうしました? さっきまであれ程私の登場を促していたというのに、今更待てとは」
「ファイトの前に、一応は教えておこうと思ってな。お前の息のかかった職員は既に全員暴き出していることを」
「ほう。まあ、この状況からしてそうだろうと察しも付いてはいましたが、よくぞそこまでやれたものですね。決して少なくなかったし、見つけやすくもなかったでしょう? 私の協力者たちは」
「必死にやったさ、お前に異変を知らされてはおじゃんだからな。敵よりもまず味方を見極めて、然るべきタイミングで文字通りの一網打尽とさせてもらった。俺ではなくそちらは泉先生と他の学年主任方の尽力によるものだが……とにかくお前に靡いてしまった連中には約束させたよ。このファイトの結果次第で我が身を振り返ることをな」
「そうですか」
と、大した興味もなさそうに相槌を打つ彼は、きっと言われずとも理解できている。だとしてもムラクモは言わずにはおけなかった。
「九蓮華。これでもうお前には賛同者も協力者もいない……本当に『一人』だ。お前が歩もうとしているのはそういう道なんだぞ。たとえその力でどれだけの人間を従えようと、お前は生涯何も得ない」
「──ふふ」
ムラクモから埋め尽くされた講堂二階席へ、そして舞台へと視線を走らせる。ああ、全てが敵だらけ。誰も自分を応援などしていない。だが、それがどうしたというのか。誰しもがファイト中は一人きり。そこには自分と、倒すべき敵がいるだけ。それこそが最もシンプルで、原初の構図。人に定められた関係性なのだから、その道を邁進するには不足も恐れもない。そう、ムラクモの思う通りに彼はとっくに理解している。これは何もかも承知の上で選ばれた道だった。
「生まれ落ちたその日から、死に旅立つその日まで。人は皆ひとりですよ、ムラクモ先生」
──だから私が導くのだ。
そう告げた彼はもう、舞台の上から。そこで待つ若葉アキラから目を外すことなく階段を上っていく。その後ろ姿が、眩いスポットライトの向こうへ消えていく影の背中が、それを眺めるムラクモにはまるで。まるで如何にも──。




