120.波瀾の予感、夏休み!
「すみませんアンミツさん。アンミツさんだって夏休み中なのに」
「いえいえ。私たち生活保全官に夏休みというものはありませんから、どうぞお気になさらずに」
今日も今日とて黒スーツをピシッと決めている甘井アンミツは顔を前方へ向けたままそう言った──運転中なので後部座席にいるアキラへ振り向けないのは当然だが、しかしそれでは無作法になると彼女は考えたのだろう。目元がサングラスで隠れていてもバックミラー越しに視線を寄越してきたのがアキラにはわかったので、彼も頭を下げておく。アンミツのこの子供に対するものとは思えない丁寧な接し方にはまったくもって恐れ入る。これでも車中、つまりは公共の場ではないことから普段よりは多少砕けた態度であるくらいだ。
自分のために足代わりとなって自宅まで送ってくれている彼女に色んな意味で申し訳なく思うアキラだが、と言ってもこの車内、何もアンミツとアキラの二人きりというわけではない。後部座席にはもう一人、泉ミオの姿もあった。『自分だけ』のためにアンミツを付き合わせているのではない、という部分だけでも少しは救われた気持ちになっているアキラだが──言うまでもないことだがこの少年、ファイト中以外は基本的にひどく小心者である──そんな彼と反対に、ミオは黒服の人を顎で使っているような現状を何も気にしていないようで。
「ねえねえ、アキラ。あとどれくらいで着くの?」
「あとどれくらい……? えーっと、アンミツさん」
「このままなら十五分から十七分ほどでアキラ様の自宅前に到着いたします」
運転などしないアキラでは家までの道程を訊ねられてもすぐには答えられない。なのでアンミツに助けを求めれば、思った以上に細かい内容が帰ってきた。このままならというのは事故などで道が混んでいなければ、という意味だろう。「だってさ」とアキラがミオに言えば、彼は深く頷く。その仕草には隠しきれない期待があった。
「そっか、もうすぐってことだね。楽しみだなぁ」
「そんなに? 別になんの変哲もない普通の家だよ、若葉家は」
ミオを家につれてくること、そしてしばらくの間(おそらく夏休み期間ずっと)泊まることについては、両親から承諾を得ている。アキラたちよりも一足先に帰っている彼らはきっとミオを歓迎するための準備もしているだろうが、それだって特段大したものではない。少なくとも一千万の費用が見込まれる自宅改造計画をほんのちょっとの出費程度に話すミオのスケール感からすればささやかもいいところの歓迎会となるだろう。それがわかっているだけにあんまり期待を持たせ過ぎるとがっかりさせてしまうのでは、と心配になるアキラ。そんな彼にミオは心外とばかりに頬を膨らませて言った。
「もう。ボクだって何も超豪邸だとかその逆にお化け屋敷だとか、そういうのが待ってるとは思ってないって。なんていうこともない一軒家、なんでしょ? それがいいんじゃないか」
「それがいい?」
見所も何もない、というのがそんなにも楽しみなのかとアキラは首を捻る。まあ、泉家はどこぞの一等地に立つタワーマンションの最上層三階分を買い取る形で自宅としているらしいので、そこに住むミオの立場からすればただの一軒家というのがむしろ珍しい代物に感じるのは当然か。思い返せば一人暮らしの不安もなんのと寮生活を一等に楽しんでいたミオなので、彼からすれば『普通』には憧れに近い感情が向かうのかもしれない……そう考えて納得するアキラに、またミオが「ねえ」と無邪気に声をかける。
「やっぱり夜は両親と一緒に川の字になって寝るの? そういうのテレビとかで見たよ、ボク」
「いや、寝ないかな……自分の部屋があるから。小さかった頃はそうしてたけど」
「あ、そうなんだ」
どこか残念そうにするミオを見て、やっぱりちょっとバイアスかかってるんじゃなかろうかとアキラは不安になった。いわゆるホームドラマのような親子の生活を見たがっているのだとしたら、どのみち期待には応えられないことになる。アキラは小学校低学年の時点で自室を持ち、それ以降は父とも母とも別に眠っている。アキラからすればそれが普通なのだが、ミオが抱く「一般家庭」のイメージはそうではないのだろう。
なまじ彼の父、泉モトハルが鬼の如き教育者であったことから、ミオが他家に抱く幻想は凝り固まっているものと思われる……故にどこまで彼を喜ばせられるかは定かではないが、けれども見世物として一流であることとミオが落ち着けるかどうかはまた別。アキラが望むのは断然に後者であるからして、素朴なパーティーを計画しているらしい両親の電話越しの口振りを思い出し、それもいっそのこと悪くないだろうと──アキラとしては本当にごく普通の招き方でいいとその時には主張したものの──少々大袈裟な父と母にそっと胸中で感謝の念を送っておいた。
「到着いたしました」
特に中身も益体もないお喋りをミオとしている内にあっという間に時間は経ち、車は若葉家の正面にあった。自動で開いたドアからぴょんと弾むように降りたミオに続こうとして、ふとアキラは聞きそびれていたことを思い出してアンミツへと振り返った。
「そういえば、アンミツさんはこの後どうするんですか?」
「近場で宿を取ります。申し付けがあれば以前に教えた番号へおかけください、光よりも早く馳せ参じますので」
「え」
それはつまり、夏休みの約一ヵ月間。付かず離れずの距離で常にアキラを見守り続けるという宣言に他ならなかった。アキラとしてはほとんどの生徒がいなくなる夏休みにアンミツを始めとする生活保全官──通称『黒服の人たち』が何をして過ごすのかを訊いてみたつもりだったので、予想の斜め上の返答に思わずたじろいでしまう。
「一月も俺に付きっ切りってことですか……? でもアンミツさんには他にも担当する生徒がいるはずなんじゃ」
「以前まではそうでした」
以前までは……ということは今は違うのかとアキラが頭上に浮かべた「?」に、アンミツはにこりと微笑んだ。
「重ね重ね、どうかお気になさらず。楽しい夏休みをお過ごしくださいアキラ様」
そう言われてしまっては深く追求することもできない。体よく話を打ち切られてしまったアキラは半ば追い出されるように車を降りて、開いた窓越しにアンミツを見る。
「それでは私はこれで。どのような御用向きでも必ず伺いますので、呼び出しに関しては決してご遠慮なさらぬよう」
「は、はい。何から何までありがとうございます……」
あまりに手厚い待遇に恐縮しきりのアキラへ再び微笑みかけたアンミツは、そのまま車を走らせて道向こうの角へ消えていった。見送る、というよりも呆然とそれを見つめていたアキラの背をとんとんと小さな手が叩く。
「何してるのさ。入らないの? アキラがボクのこと紹介してくれなきゃ困るよ」
「あっとごめん。それじゃ、ようこそ若葉家へ」
──その後。若葉家ではアキラの想像通りのささやかな歓迎会が催され、主賓であるミオはその素朴さに反して大層に感激している様子だった。両親と仲良く会話するアキラを見る目はただ喜んでいるだけでなく、少しばかり複雑な色味も覗かせてはいたが、そこに鬱屈とした感情はなかった。何はともあれミオを自宅に招いたアキラの判断は功を奏したと言えるだろう。
そして一日の終わり。夕食も終えての夜更け過ぎに、若葉家に一人の訪問者があった。「どなた?」とアキラの母より訊ねられたその人物は、鈴の音のように美しく軽やかな声音でこう応えた。
「私の名は、エミル。九蓮華エミルと申します」




