119.侃々諤々の主任たち
「いったい……いつから彼はここまでになってしまったんでしょう?」
エミルが立ち去った学園長室で、誰にともなくそう訊ねたのは三年主任の彼だった。諦観すら垣間見えるその疑問に首を横に振った四年主任の男性の長髪が、ゆらゆらと力なく揺れた。
「わからない。いつ、どこで。それが断言できないほどに緩やかに、しかし着実に。あいつは変質していった……ということだろう」
「あるいは、少しずつ化けの皮が剥がれていった。そういう見方もできるわね」
「ぬ……愛すべき生徒に対してそのような言い方は如何なものか」
歯に衣着せぬ六年主任の女性の物言いに、権林が思わず苦言を呈せば。「ですが」と反論は彼女でなく五年主任の彼から上がった。
「愛すべき生徒はエミルだけではないんです。この学園の全ての生徒がそうだ。……退学届を出した子たちだって、そうだ。そうだったんだ……!」
悔しそうに。心折れた生徒らのアフターケアに務め、しかし一人たりともDAに引き留められなかった彼の血を吐くような言葉に、誰も何も言うことはできなかった。なのでムラクモはそこに触れず、ひとまず話を先へ進めることにする。
「とにかく九蓮華が一生徒の範疇にないことは確かだ。俺たち六名からのプレッシャー、だけでなく。学園長のプレッシャーにも奴は耐えてみせた」
「うむ。最後まで涼しい顔で、のう」
ここまで押し黙っていた学園長が、ぽつりとそう言った。
そう、彼の放つ殺気。ドミネイター特有の戦意が長年の年季によって磨き上げられ、まるで剥き出しの刀身のようになった鋭いそれに中てられながらもエミルは終始余裕の態度を崩さなかった。生徒に圧をかける、という普段では絶対にやらないことを主任各位から頼み込まれて仕方なく腰を上げた──実際にはずっと座ったままだが──学園長としては少々不甲斐なく、それ以上に脅威を覚えた。
「ほんに末恐ろしい子じゃ」
エミルの才能は現時点でも十二分に開花している。その事実を踏まえてもなお『末恐ろしい』。それ以上にかの少年を的確に表す評価はないと学園長には思えた。
「直接向けられているわけでもない私たちですら気を抜けば膝を屈しそうになる重圧。それを直にぶつけられてああも飄々と微笑んでいられる子供が、いったいこの世のどこにいるのかしら。私は九蓮華くんが地獄の住人だと言われても驚かないわよ」
六年主任の相変わらずの言葉選びに、けれど今度は権林も異論を唱えることはできなかった。地獄の住人。その表現はあながち彼の出自を指すものとして誇張のし過ぎとも言い切れないからだ。
「九蓮華家。現代の貴族とも言うべき高家のひとつ。ドミネ界への影響力は日本を中心として高家の中でも一際高い……そんな貴い家名を持ち出されては僕らも迂闊に彼の誓いを疑うことはできませんね」
個人で高家複数を上回る影響力を持つ学園長の手前、部下である彼がそう述べるのは文字通りの手前味噌といった感じだが、さりとて学園長の威光があるからといって高家を軽視することはできない。それはドミネ界隈のバランスを乱す最も愚かな行為のひとつであるからして、その子息であるエミルに対しても他の生徒以上に扱いに注意する必要がDA教師陣にはあった。
何せエミルは厳しいと家外にも知れ渡っている九蓮華の教育プログラムの全項目において基準以上の数値を叩き出した、『史上初』の才児として送り出されているのだから余計に。
「──しかし九蓮華エミルにとって『九蓮華』など大した価値もないものでしょう。それは普段の奴の言動からしても明らか。便利な隠れ蓑程度に思っているのならまだまともで、実際には九蓮華家そのものを見下している節すらある。入学からしばらく奴が猫を被っていたのだとしたら、おそらく意趣返し。それが理由だったと思っていますよ」
あくまで俺の考えですがね、と締めたムラクモに学園長は頷く。彼の推測はきっと正しい。
下級生だった頃のエミルが事前評価の高さの割にごく平凡なドミネイターであったことから、学園長を含め教師たちは拍子抜けした。無論それを態度に出すようなことこそ誰もしなかったが、エミルの嗅覚は鼻聡くそれを暴いたに違いない。そして嘲笑っていたのだ──測れないものを測らんと下らないテストに明け暮れさせた九蓮華の家も、欺く自分にあっさりと騙されたドミネイションズ・アカデミアも。彼にとってはどちらも等しく価値の無いものだと判定された。それが転じての、現在のエミルの行動に繋がっているのだろう。
「して、どうするつもりかの。あれほどの『我』が口頭の注意程度で改善されるとは君らも信じとったわけではあるまい」
そうなってくれれば、と願いはしても。そうなるはずだ、と信じることはしていない──それは無思考も同じ、教師にとって恥ずべき無責任な行いであるからして。故に主任陣を取りまとめる代表として六年主任の彼女は次善策を用意していた。
「話し合いが通じない、となれば。やはりファイトしかないのでしょうね。元よりドミネイターを動かす最もの原動力は勝ちと負けのふたつですから」
しかし、と彼女は厚い唇の下に人差し指を置いて悩ましげにする。
「生徒から教師への挑戦。それは許されていても、教師たちでは生徒である彼にファイトを挑むことができない。特例の措置を取るのも案ではありますが、彼の性格やこれまでの言動を鑑みるに……彼自身が望まないファイトではたとえその結果がどうなろうと、おそらく何も変わらないでしょう。九蓮華くんは九蓮華くんのまま。それで話が終わってしまう」
仮に反省を促してのファイトで負けたとしてもエミルの内面にはさざ波すら起こらない。それが目に見えているだけに、彼女はこう提案する。
「なので若葉くんを使いましょう。この学園で唯一、九蓮華くん以外で『覚醒』に至っている生徒。この餌に九蓮華くんが食い付かないはずがないわ。そうよね、ムラクモくん?」
「……俺は反対だと申し上げたはずですよ。九蓮華と違って若葉にはムラっ気がある。ノっていれば強いがそうでない時のあいつの実力は精々が中の下といったところ。つい数日前にも授業で連敗したところです」
「でも『ドミネイト召喚』を操って泉くんを倒した。それは事実なのでしょう? ムラっ気なんて心配ないわ。ドミネユニットを召喚できる者同士が相対するのならきっと、若葉くんも最高にノることは間違いないでしょうから」
「俺の生徒を餌扱いするなと言っているんだ」
「あら、どうして? 毒を食らわば皿まで。こういった事態も一応は想定の内。私たちには九蓮華くんを生徒として認めた責任と彼を育て上げる責務がある──覚醒者であるのなら若葉くんだって九蓮華くんと同様、ある面での特別扱いは避けられない。これを機会として彼も鍛えてあげるべきよ」
それが覚醒を知るためにもなる、と。本心からそう告げる彼女に、ムラクモは教育者としてのスタンスの違いからくる意見の相違に眩暈すら覚えた。
「若葉は正確にはまだ『覚醒』に至っていない……そもそも本当にそんな現象があるのかすら疑わしいんです。ドミネイト召喚だけでも充分におかしなことだというのに」
「あなたが扱い切れないから、それを生徒にも押し付けたくない? 配慮は立派だけれどそれが本当に若葉くんのためになるかは怪しいわね──」
「そこまでにしておきましょう! 反対意見がある以上若葉を頼るかはしっかり我々で話し合って決めねばならない! 今すぐに判断できることではない──それに今は休学期間! もしも打診するにしても、どのみち夏休みが明けてからということになるのですからな!」
学園長の前で言い争っても意味はない。ということをまさかの権林に気付かされ、六年主任とムラクモは揃って口を閉ざした。そのまま本日は解散の運びになったが、六人の中でもただ一人。ムラクモだけは学園長に呼ばれ部屋に残った。




