Noahの運び物②
キサラギは今日の出来事を思い出す。
二人っきりで街に繰り出して、手の触れる距離で人混みに紛れて、そしてなにより自分の言おうとした言葉をハルヒトの口から直接言ってもらえた。嬉しくて舞い上がって、ついわがままを言っては用もないくせに、ハルヒトを公園に誘って口数少なくベンチで過ごした。そこからはどちらからともなくおもむろに立ち上がり、リニアトレインを目指して二人して歩く。そして行きにも利用した手近な駅に辿り着いたら電子カードに溜まった貨幣で改札をくぐり、二分と経たずにやってきたリニアトレインに乗り込んで、二人は都市の中心に位置する円筒形の建造物「ターミナル」に辿り着く。職業の分類としてはキサラギもハルヒトも公務員という立場で、しかもその職務の特性上、ターミナル内に二人の居住区が設定されている。大きなターミナルの入り口を蛇みたいなカメラの網膜認証で潜り抜け、無機質な通路を抜けて、ハルヒトの「今日はありがとう」という言葉で今日の楽しい時間は終わりを告げた。
キサラギは現在部屋のベッドに腰かけて、端末型デバイスに数時間前からの網膜情報をいくつか抽出している。
今日の思い出を形として残すためだ。
後で写真にするのもいいかもしれない。
だけどやり方がわからないので、今日という日のきっかけをくれたモミジに頼んでみよう。
そう考えているところにブザー音が鳴り響く。
これはキサラギの部屋に訪問者がやって来たという知らせで、キサラギは重い腰を上げてから訪問者が誰であるのかも確認せずに部屋の扉を開ける。自分の部屋にやってくる人間なんて限られているし、最高峰のセキュリティが機能しているターミナル内にまさか侵入者などありえない。そして開かれた扉の前で訪問者は部屋の中へ前のめりに入って一言、
「はやいっしょ!」
なにがはやいのでしょうかと尋ねる間もなく、ターミナル内での唯一の友人であるモミジがすばやく二の句を継いだ。
「帰ってくるのがはやいっての。せっかくのフルでの休日だっていうのに、あんたたちいったい何してたのさ。まだ日も降りてない時間にのこのこと帰ってきて、しかも普通に自分の部屋に戻っていっちゃって」
ウェーブをかけた自慢の髪をせわしなく揺らしながら、モミジはキサラギの顔に自分の顔をずいっと近づける。モミジの呼吸を感じながらキサラギは彼女がなにを言っているのかがよくわからずに背をそらす。
「なにか悪いことでも?」
「ありあり、大ありっしょまったくもう。あの訓練バカのことだからあいつからアクション起こすわけもないし、気の利いた行き先もしゃれの利いた話なんかとも無縁だし、だからこそ色々と話のネタを考えとけって言ったのにどうせそれも役に立たなかったんでしょ。あたしがレクチャーした恋のいろはもどうなったんだか」
やれやれという仕草でモミジは首を横に振る。経験豊富を自称する彼女にはキサラギの対応など見るまでもなく簡単に予想できるものであったのだろう。
だけどキサラギだってなにもできなかったわけではない。
「でも、見かけた公園に先輩を誘うことができたんです」
言葉にしただけでもこれはすごいことだとキサラギは思う。
「ええ! すごいじゃん。それでその後どうしたの?」
「ベンチに座りました」
「それから?」
「帰りました」
「バカ!」
えー。
「恋は駆け引きじゃなくて攻めの姿勢が大事。だけどその前に攻めるための雰囲気が大事なの。あんたはその舞台づくりができたのにそれをみすみす逃したっちゅうわけなのよ」
「ちゅう……」
「次の約束はした?」
「いえ、してないです」
「でしょうね。さっき七階層のトレーニングルームにハルヒトが向かうのが見えたから、偶然を装って適当に次の約束をこぎつけてきなさい——」
——ほらぼさっとしてないではやく部屋出なさいって。
いくつもの指輪をつけた派手な手でモミジはキサラギの背中をぐいぐいと押してくる。部屋の主は自分であるはずなのにどうしてかそそくさと部屋を追い出される理不尽に、キサラギは目立った抵抗もすることなく手に持っていた端末型デバイスをモミジに見せる。当然のようになによこれという顔をするモミジに対し、キサラギは網膜情報の写真の現像をそれこそ視線のみで訴えてみる。
そしてさすがというべきか、
「ああ、だいたいわかったわ。やっとくやっとく。だからはやく行きなさいっての」
「ありがとうござます」
部屋の扉の閉まる音と部屋の扉のオートロックのかかる音を聞きながら、階層移動のためのエレベーターを目指してキサラギは鉄筋がむき出しの廊下を駆け足気味に渡る。その途中でふと——約束っていったいどういったきっかけで結ばれるものなのだろうと、そもそもどういった内容の約束を結べばいいのかがまったくもってわからないと、そう思ってモミジのアドバイスを求めるために振り返るがすでにモミジの姿はそこにない。まっすぐな廊下で姿が見えないということは、彼女はもう自分の部屋へと帰っていったのだろう。
だけどモミジの部屋に行くのもなんだか悪い。
だからこれは試練なのだとキサラギは思う。
モミジの手を借りずに見事ハルヒトとの約束をこぎつけろというキサラギに課せられた試練なのだ。
十秒ほど待ってからやっと降りてきた階層エレベーターに乗って、トレーニングルームのある七階層に行くための「七」のボタンを押して、わずかな浮遊感から解放されるとハルヒトがいると予想される場所にまたも駆け足気味にキサラギは向かう。
いた。
B班の弛まぬ努力の結晶たるコンピューター群、天幕にも利用されている特殊ガラスの壁、戦闘を補助する役割の随行式支援型機甲探査型「ゲンブ」と共に、ハルヒトは投影される仮想敵との立ち回りを演じている。仮想敵の種類は見た限りで最もマイナーな「スパイダー」と呼ばれる八脚型のNoahである。基本の立ち回りとしては、自身の相棒機を囮として外側から回り込んだ瞬間にすばやく銃型デバイスでの有線接続を試みる。あとは元々備えられているNoahの自爆機能を、脳処理でのハッキングにより起動させるだけ。
しかしハルヒトの立ち回りは少し違う。
ハルヒトの相棒機であるゲンブはあくまでも周囲の見回りに徹している。ハルヒトはといえば突進してくるスパイダーを正面に見据え、引くでもなければ横に回避するでもなく、スパイダーが襲いかかってくるその瞬間まで特に身じろぎ一つもしない不動の構えだ。
しかしついにハルヒトは動いた。
初動に鉄のタイルを蹴るとそのまま滑り込むように姿勢を低くする。ハルヒトの右と左に四本ずつタイルを踏んだスパイダーの脚があり、しかしハルヒトは焦ることなく銃型デバイスの銃口をスパイダーの下腹部に向けると、そのまま有線を射出し短時間の機能停止ウイルスをばらまき、動きは止めたものの慣性に従って滑るスパイダーに高速の脳処理ハッキングを仕掛ける。ハッキングの終了までに約五秒、スパイダーの股ぐらをその時にはすでにハルヒトは通り抜けていて、自爆機能を無理やりに起動させられたスパイダーは派手に爆風に乗せた残骸を周囲にまき散らす。
流れるような立ち回りにキサラギは思わず拍手の一つでも送ろうかと思う。
けれど同じ状況であればキサラギも同じ立ち回りを演じたとも思う。
この立ち回りにおける大きな利点が一つあって、それはハッキング中の無防備をスパイダー自身がその足で守ってしまうという皮肉である。これにより相棒機は身軽に動けるし、基本行動である二人組の行動リソースをいくらか空けることも可能である。しかし立ち回りの前提条件はハッキング時間が五秒以内、戦闘を担当するC班の中でもこの条件をクリアしている者はハルヒトとキサラギをおいて他にいない。
「——これはこれはキサラギ嬢。このようなところでいったいなにを?」
物陰に潜んでいたキサラギの後ろから、面長の男が不意に話しかけてくる。
クビキである。
バカ丁寧な言葉遣いとキサラギよりも長い髪が特徴の男で、別段足を痛めているわけでもないのにその手にはいつも黒塗りのステッキが握られている。だからこそ、キサラギは足音に混じるステッキの音で当然クビキの接近には気づいていた。そしてキサラギはすぐさま振り向いてから立てた人差し指を唇に寄せる。
「おっとこれは失礼いたしました」
大仰な仕草でのけぞるクビキは、どうやらキサラギの静かにしてのサインに気づいてくれたようだった。
「それでいったいなにを?」
キサラギと同じようにそろりと物陰に身を潜めたクビキは、ハルヒトのほうへと視線を戻したキサラギにその声も潜めて問いかける。
「タイミングを計っています」
「タイミング、でございますか?」
そう、タイミングだ。
Noahに対しての防衛線だってまずは相手の動向を探り、そこから作戦移行への行動のタイミングを計るのだ。キサラギのおかれている現在の状況もいくつかそれに共通する部分が見られると思うし、なによりも真剣に頑張っているハルヒトの邪魔をすることはしたくはない。別にそんなこと気にしなくてもいいのにと、そうハルヒトは普段の調子で言ってくれるのだろうが、まだ内容も決まっていない約束のために貴重な研鑽の時間を邪魔されることは誰でも嫌に決まっている。
だからタイミングが大事なのだ。
二体目のスパイダーを相手取っている今は絶対にダメだし、ハルヒトの訓練が終わったその瞬間を狙ってもあからさますぎてダメだ。むしろハルヒトの訓練が終わってからがタイミングを計る本番で、クビキがタイミングの意味を考えて後ろで首をひねっているが、キサラギはそんなことはお構いなしにハルヒトの様子を窺い続ける——そんな時にけたたましい音量のサイレンが、ターミナル内の下層全体に鳴り響く。
それと同時に、クビキの持っている端末型デバイスに真っ赤な画面が表示され、
「おっと、これはどうやらNoahが現れたようですね。場所は外部の東南エリアだそうです。キサラギ嬢はたしか今日はお休みだったと記憶しておりますので、のんびりとくつろいでお待ちしていただいて、そのタイミングとやらを逃さないように努めてくださいませ」
「は、はい」
急なサイレンにはやっぱり慣れない。
キサラギは微笑んで立ち上がるクビキを心配するが、自分よりも戦闘歴の長い人間を心配することはなんだか失礼なことであるような気がして、逸れてしまった視線を再びハルヒトのほうに向ける。
しかし訓練をしているはずのハルヒトの姿は、すでにそこから消えていた。