中編 夢の中に引き吊りこまれて
京都市内の住宅街、まるでそこだけ時が止まっているような佇まいの古寺がある。門の両脇には仁王様が侵入者を見張っている。門扉はいつも開いているが、檀家は少なく、文化財もないこの悠輪寺を訪れる者は滅多になかった。
珠蓮はいつものように、仁王様それぞれに一礼してから門をくぐった。Tシャツにジーンズとスニーカー、ラフな服装の十代後半、鋭い目つきがガラ悪そうな青年だ。
正面奥に本堂があり、それを守るように大きな銀杏の木が囲んでいる。右手には石のお地蔵様が微笑み、横に五輪塔が並んでいる。左手は無人の受付、その後ろに庫裡の建物が見えた。
ひっそりしていて人の気配はない。
珠蓮は真っ直ぐ進み、本堂の正面で一旦立ち止まった。建物の周りは、幅3メートルくらいお堀が廻らされている。正面に本堂の入口へと渡る小橋があった。
珠蓮は目を閉じながら小橋を渡った。
急に空気が変わった。
ピンと張りつめた冷気が珠蓮を包んだ。
凍るような冷風が頬を撫でたかと思うと、目を開けた時は周囲の風景が一変していた。
そこは深い森の中。
本堂も塀も消え、銀杏の木々が立ち並ぶ静寂に包まれた森になっていた。
少し離れた所に一際大きな木が聳え立っていた。
樹齢千年は越えようかと言う大銀杏が凛と珠蓮を見下ろしている。その大木に近づき、右手を当てた。
「なんの用だ?」
珠蓮は大銀杏を見上げながら語りかけた。
「やっと来たか」
那由他が高い木の枝からフワリと降りてきた。
銀色に輝くショートの巻き毛、クリッとした二重瞼に碧色の瞳、ふっくらした口元が可愛い、愛嬌たっぷりの16、7歳に見える少女だった。
ここは幽世と現世の狭間で、普通の人間は入ることが出来ない場所。特にこの一画は霊木、大銀杏が守護し、霊気に満ちている場所だ。
那由他はその大銀杏に生命と使命を与えられた元はアルビノの雀だ。
「あの性悪女を捜してるって言うてたよな」
「ああ」
「なんでや? 目的はアンタを鬼にした仇と違たんか?」
珠蓮は500年くらい前、鬼に噛まれた。不死身の身体となった珠蓮は家族を惨殺し、自分をこんな身体にした仇の鬼を捜し続けていた。
「そうだ、でも奴はなりを潜めている。その居場所を性悪女が知ってるみたいなんだ」
「そいつも隠れているみたいやけどな」
「そうなんだ、なかなか姿を現さないんだ」
「けど、わかったで」
「見つけたのか?」
「気配だけな、用心深い奴やしな、どこにいるかはわからんけど、手先になってる奴はわかったで、ケチな小妖怪やけどな」
「どこにいるんや?」
「人間の夢の中」
* * *
撮影関係者の体調不良には枕小僧が関係している。根拠はないが菫は確信していた。
奴がまだこの辺をうろついて撮影関係者の夢に入り込んで悪さをしているのなら、犠牲者はまた出るに違いない。
菫のところへ現れないならイイってものじゃない。関係者に危害を及ぼすなんて許せないと、菫はムカついていた。
この映画には菫の女優としての将来がかかっているのだから。
菫は枕小僧を捜して、深夜、ホテルの廊下をパトロールしていた。
「こんな時間になにしてるんや?」
突然の声に振り向くと、白哉が立っていた。
爽やかな笑顔で菫を見下ろしている。
「あなたこそ、なんでココに?」
「君が心配やし」
妖怪だと知って警戒していても、優しい微笑に菫はドキッとしてしまう。
「君は妖怪を引き付けるみたいやな」
そう言いながら白哉が流した視線の先には、
「アイツ!」
廊下をヨチヨチ歩いている枕小僧を発見、と同時に、菫は猛突進していた。
「ひえっ」
ガッチリ腕を掴まれた枕小僧は恐怖に身を縮めた。
「なにをなさるんでしゅ~~」
泣きそうな顔で菫を見上げながらジタバタする。
「人間に捕まって逃げられへんやて、雑魚にしても弱っち過ぎるやん」
白哉は呆れ果てた目で見下した。
「そうなのでしゅ、わたしはか弱い小妖怪、乱暴はやめてくだしゃい」
ウルウル瞳を上げる枕小僧に、菫は容赦なく握る手に力を込めた。
「あなたのせいなんでしょ、撮影関係者の体調不良は!」
「そ、それは……」
枕小僧は目を泳がせた。
「図星ね、良い夢を食べられても人体に影響はないって言ってたのに、どう言うことよ」
「たいした影響はございましぇんよ、数日、頭がボーっとするくらいで、命に別状はございましぇん」
「その数日が大問題なのよ、スケジュールが滅茶苦茶よ」
「菫ちゃんを困らせるやなんて、懲らしめたらなアカンな」
白哉の睨みに枕小僧は縮みあがった。
「お助けを~~」
そして逃げようとしたのか、ピョンとジャンプした。
枕小僧の手を掴んだままの菫は釣られて身体が浮いた。
「えっ?」
次の瞬間、菫の視界からホテルの廊下が消えた。
* * *
菫はお祭りの真っただ中に立っていた。
ねじリ鉢巻きにはっぴ姿の男衆が汗を飛ばしながら神輿を担いている。
掛け声や歓声で騒々しい。
見物人はみんな着物姿、江戸時代って雰囲気だ。
菫も町娘風の着物姿になっている。そしていつの間にか捕まえていたはずの枕小僧は消えていた。
「ここは、どこ?」
「誰かの夢の中やろうな」
突然の声の主は、いつの間にか菫の肩に乗っていた真っ白な子猫だった。でも、その声は、
「枕小僧に引きずり込まれたんや」
白哉に間違いなかった。
「ええ~~っ」
「心配ない、僕がついてる」
菫が驚きの声を上げたのは、馴れ馴れしく肩に乗っているのが白哉だと分かったからだった。子猫に変化しても男子には違いない。
「なんで馴れ馴れしくくっついてるのよ!」
菫の叫びを無視して、
「でも、誰の夢やろ、センスないなぁ」
白哉は呑気に言った。
「夢の中?」
時代劇好きな山下監督の顔が浮かんだ。
「マズいわ! これが山下監督の夢なら、枕小僧に食べられちゃったら、翌朝は寝込んじゃうってことでしょ、ますます撮影が進まないじゃない」
「アイツも言うてたけど、2~3日やろ」
「それだけじゃないわ、監督はイマジネーションが大事なのよ、夢を盗まれるなんて大問題よ!」
「そうなんか?」
「監督にはベストコンディションでいてもらいたいのよ、これはあたしにとって初めての主演映画なのよ、なんとしても成功させたいのよ、また、妖怪に邪魔されるなんて絶対イヤ!」
「また?」
「2年前、妖怪がらみの事件に巻き込まれて大怪我したのよ、それでオーディションを受けられなくなって」
受けていてもパスしたかは疑問だが、菫が悔しい思いをしたことには違いない。
「枕小僧が監督の夢を食べてしまう前に、連れ出さなきゃ! アイツはどこ?」
「けど、おかしいなぁ、枕小僧は本来臆病な妖怪や、昨日の晩、あんだけ脅されたら、二度と同じ場所に現れへんと思てたのに」
「性懲りもなく来たじゃない」
「そやし解せへんのや」
「そんなこと考えてる暇ないわよ、早く枕小僧を捜してここから連れ出さなきゃ」
「それはそうや、枕小僧に引き込まれた菫ちゃんは、アイツに出してもらわな出られへんしな」
「ええっ、そうなの?」
その時、急に地面が歪みだした。
「なに?」
バランスを崩して倒れそうになった菫を見捨てて、白哉は身軽に着地した。
が、そこに地面はなかった。
突然現れた大きな穴に、二人揃って落ちた。
「キャァァァ」
けたたましい悲鳴をあげた菫だったが、穴はそう深くなかったようで、すぐにお尻から着地した。
痛みがないのは夢の中だからだろうか? と菫は思った。
「どうもないか?」
おデコに乗っかっている白哉子猫が瞳を覗き込んだ。
「ええ」
体を起こそうとした時、
「えっ?」
ドドドドッと地面を蹴る蹄の音。
「伏せて!」
白哉子猫に顔面を押さえられた。
音が静まり、白哉が退いたので、恐る恐る目を開けた時、菫はそこが戦場であるとわかった。
「今度はなによ」
合戦と言った方がピッタリくる、鎧兜をまとった武士を乗せた騎馬と、槍を手にした足軽兵、入り混じって交戦中。
菫と白哉はその真っただ中、身を隠すために掘られていた壕に落ちたのだった。
「こ……これは夢よね、もし死んでも夢だから大丈夫よね」
「どうかなぁ、自分の夢違うやろ? 僕たちは部外者やしなぁ」
「そんなぁ」
思わず立ち上がった菫の目の前に、刀を振りかざす武士がいた。
刃が真っすぐ振り下ろされる。
他人の夢の中で死ぬなんて、イヤっ!
菫は心の中で叫びながら固く目を閉じた。
が、切られた激痛ではなく、また落ちて行く感覚があった。
「キャァァァ!」
まるでジェットコースター、顔が変形しそうな風圧を感じながら菫は落ちて行った。
そして、スピードが緩んだ時、菫はスクーターに乗っていた。
いつの間にかハンドルを握ってちゃんと運転している。
「今度はどこやろ?」
白哉子猫はちゃっかり菫の肩に乗っていた。
そこは異国情緒満載の風景。ヨーロッパのどこかの国、石畳の広場を走っていた。石の階段、上に見える大聖堂、なんとなく見たことのある風景だった。
「えっ?」
階段の端に座っているのは、
「あれ、菫ちゃんソックリやな」
白哉子猫も気付いたようだ。
菫ソックリの顔をした少女は、とても可憐な、同情を誘う、守ってあげたくなるような憂いに満ちた表情だった。でも硬く結んだ口元には強さを感じる、二面性を持つ少女。
似ているけど、自分はあんなに美しくない、と菫は思った。
「菫ちゃん、あれ」
ボーっと見とれていた菫は、白哉子猫の声にハッとして広場の中央の噴水を見た。
そこには枕小僧がいた。
場違いな格好のままヒョコヒョコと歩いている。まだこちらに気付いていない。
菫は方向転換、枕小僧の前に回り込んで、急ブレーキをかけた。
「ひえ~~っ」
枕小僧は情けない悲鳴を上げながら尻餅をついた。
菫は素早くスクーターから飛び降りると、枕小僧に飛び掛かった。
「なになさるんでしゅ~」
「今度は逃がさないわよ」
菫は馬乗りになって体を押さえつけた。
「く、苦しい~」
「殺したらアカンで」
「えっ?」
菫の下敷きになっている枕小僧は、白目をむいて気を失いそうになっていた。
「自覚はないようやけど、菫ちゃんは強い霊力を持ってるんやで、こんな小妖怪はひとたまりもない程の」
菫は慌てて立ち上がり、枕小僧を解放したが、彼はグッタリ横たわったまま。
「大丈夫?」
「し、死ぬかと思いました」
枕小僧は半ベソをかきながら上体を起こした。
「あたしにそんな力が?」
菫は自分の手のひらを見つめた。
少し罪悪感がよぎったが、でも、逃がす訳にはいかない。
枕小僧の耳をつまんだ。
「痛いでしゅ~~」
「ここは山下監督の夢の中なんでしょ?」
「さようでございます。ここは監督さんの夢の中、年のわりにはファンタジーの宝庫でございます」
枕小僧は鼻水を啜りながら言った。
「でも、なぜあなたたちまで入って来れたのですか?」
「お前が菫ちゃんを引きずり込んだんやろ」
「つい……、でもあなた様は」
「僕を誰やと思ってんにゃ? 猫族も夢の中に入れる妖力を持ってるんやで」
「そうでございました、失念しておりました」
「早くここから出しなさい!」
菫は耳を強く引っ張った。
「ひえぇっ!」
* * *
「ここは?」
菫は見覚えのある庭に出た。
暗いが、月明かりに照らされて浮かび上がった花壇は昼間に訪れた柏倉芹邸の庭だった。
「なんでこんなとこへ?」
夢から出て現実世界へ戻ったが、なぜか出発点のホテルの廊下ではない。
「まさか……、次の狙いは柏倉芹なの? 彼女の夢ならさぞエンターテインメントでしょうけど」
「とんでもございましぇん」
枕小僧は地面に額を擦り付けながら泣いていた。
「大丈夫!?」
突然、どこからか現れた女性が、枕小僧に駆け寄った。
「なにがあったの、こんなに泣いて」
女性はキッと菫を睨みつけた。
「そいつが悪さするからよ」
咄嗟に言い訳した菫と目が合った女性は、驚いた様子で、
「あなた、あたしが見えるの?」
「えっ?」
睨んでおいてなに言ってるの? と菫は心の中で突っ込んだ。
若い女性の後ろに隠れた枕小僧が、恐る恐る顔を半分のぞかせた。
「この方は強い霊力をお持ちなのでしゅ、その上、妖怪退治屋のお知り合いもおられるとかで」
「妖怪退治屋?」
「それはもう恐ろしい人たちなんでしゅ、わたしのような雑魚はひとたまりもなく退治されてしまいましゅ」
枕小僧は半ベソをかきながら言った。
「あなたも妖怪なの?」
女性の見た目は人間そのもの、年は二十歳前後、妖怪には見えないが、白哉のように変化しているのかも知れないし……と思うと同時に、菫は白哉がいないことに気付いた。
「妖怪を退治? そんなことが出来るの?」
宙を見ながら呟いた少女の瞳に、微かに希望の光が宿った。
女性は菫に近づき、手を握った。
冷たい?
菫は一瞬、そう感じたような気がしたが、違うような……、握られた感触は形容しがたい不思議な感覚だった。
「あなた、見えるだけじゃなくて、幽体を感じることが出来るのね」
「えっ? 幽体って?」
「あたしは柏倉芹、5年前、18歳で死んだ、今は幽霊よ」
体温は感じられないが柔らかい感触は確かにある。そして恐怖感はない。彼女が幽霊だなんて菫には信じられなかった。
「柏倉芹って、小説家の?」
「その退治屋は幽霊も退治できるのかしら?」
菫の質問には答えず、芹は祈るように尋ねた。
「それは無理でございましゅ、退治屋は妖怪専門でしゅよ、幽霊は神主かお坊さんにお願いするのが筋と言うものでございましゅ」
芹の質問には枕小僧が答えた。
「幽霊の場合、退治ではありましぇんよ、浄霊していただくのでしゅ」
枕小僧は菫を見て、
「菫様のように霊力がおありなら、出来るかもしれましぇんよ」
「あたし?」
芹は菫の手を更にギュッと握った。
「お願い、あたしを成仏させて」
「そう言われても、やり方知らないし」
菫を見つめる芹の表情は、同情を誘う、守ってあげたくなるような憂いに満ちた表情だった。さっき、監督の夢の中で見た菫に似た少女のそれと同じだと菫は思い出した。
そうか!
菫には解った。小説の主人公のくノ一は、芹自身がモデルなんだ。きっとあのくノ一のように過酷な運命を背負って、成仏できずに彷徨っているんだと。
菫が返答に困っていると、いつの間に現れたのか人間の姿の白哉が口を挟んだ。
「それやったら、僕、霊力の強い和尚を知ってるで」
芹は菫の手を握ったまま白哉に視線を移した。
白哉は優しく微笑むと、
「凶暴な退治屋と違て、ちゃんと話を聞いてくれる人間や、なんで彷徨ってるのか知らんけど、あの人やったら成仏させてくれるはずやで」
芹の顔が喜びに輝いた時、
「キャッ!」
悲鳴と共に芹の体が引っ張られた。
彼女の首には糸のようなものが巻き付けられていて、それで引き寄せられたのだ。
首が締まり、苦しそうに喘いだ次の瞬間、芹は消えた。
「芹様~~!」
枕小僧が情けない叫びで追いすがったが、芹の姿は既になかった。
「どうなったの?」
なにが起きたかわからず、唖然としていた菫だったが、
「危ない!」
白哉の叫びにビクッとした。
闇の中、なにかが赤く煌めいた。
次の瞬間、黒い毛で覆われた獣が闇の中から飛び出した。
白哉は菫を押しのけて、黒い獣と対峙すると同時に巨大な白猫に変化した。
真っ白でフサフサした毛が仄かに光っていたので、菫はハッキリ見ることができた。
ピンと立った耳、見開いた瞳は盾に伸び右は青、左は紫の宝石のように煌めいていた。口元から覗く牙はプラチナの輝き、肉球からはみ出した爪も念入りに砥がれた日本刀の切っ先のように青白い輝きを放っていた。
「あれが白哉くんの本当の姿……」
目を見張った菫の目前で、白哉と黒い獣は交戦しはじめた。
ぶつかり合った妖気が弾けて衝撃波となり、至近距離にいた菫を襲った。
「きゃっ!」
吹っ飛ばされた菫だったが、ちょうど枕小僧のお腹の上に尻餅をついてから地面に転がった。
「菫ちゃん!」
白哉の叫びに、赤い眼も菫に向いた。
一瞬、黒い獣の動きが止まった。
白哉は見逃さなかった。
日本刀のような鋭い爪が、黒い獣の首を捕らえた。
赤い眼が最期の輝きを放ったかと思うと、爪に振り抜かれた首が胴体から離れた。
噴き出したどす黒い血液と共に、首が地面に落ちた。
瞬きを忘れた菫の目が、まだ見開いたままの赤い眼の視線と交わった。
恐怖のあまり悲鳴も出ない菫の前の前で、獣の頭部が小さくなり、覆っていた剛毛が消えた。その下からは人間の顔の皮膚が現れた。
その顔は……。
「珠蓮くん……?」
赤かった目は黒くなり、そして閉じられた瞼に隠れたが、
「珠蓮くん!」
菫は珠蓮の頭部に手を伸ばそうとしたが、震えて伸ばしきれない。
「そんな……、珠蓮くんが」
震える菫の肩を見下ろしながら、白哉は人間の姿に戻った。
「知り合いなんか?」
菫は涙でいっぱいの瞳を向けた。
言葉にはならなかったが、悲しみと絶望に満ちた切ない目を見た白哉は察した。不意に現れたので反射的に交戦したが、珠蓮は自分たちを襲ってきたのではなかったのだと……。
「こいつは鬼や、まだ死んでへん」
それを聞いて菫は珠蓮の頭部を見下ろした。
そして今度こそ、両手を伸ばして彼の頭部をそっと包み込んだ。
* * *
「血だらけやんか」
驚きに、細い目をいっぱいに見開いて菫を出迎えてくれたのは、つるつるに輝く頭、柔和な顔をした中年の僧、重賢だった。
「どうもない、この子の血ぃ違うし」
那由他が説明した。
菫は那由他に連れられて、悠輪寺の庫裡へ来ていた。
庫裡の室内は、古めかしい外観とは対照的に、普通のLDKで、フローリングの床、システムキッチンにテーブルセットと洋風だ。
「まあ、座りぃな」
「あの……珠蓮くんは」
「珠蓮の知り合いか?」
重賢は菫をマジマジと見て、
「人間の、お嬢さんやんな?」
「あ、はい、人間です」
そんなことを確認するほど、ここには人でないモノが出入りしているのか? と菫は重賢に不審の目を向けた。
その気持ちを察した重賢は優しく微笑むと、
「拙僧重賢も人間やし、安心しぃ」
「あたし、本山菫と申します、ご迷惑をおかけします」
菫は深々と頭を下げた。
「知り合いにしても、よう生首なんか抱きしめたな、気色悪なかったんか?」
那由他の言葉に菫は恥ずかしそうに目を伏せた。
「あの時はなにも考えられずに、つい……でも切断された首が、ホントにくっつくの?」
「珠蓮は不死身の鬼や、首を切られただけでは死なへん、脳ミソをグチャグチャにするか、心臓をえぐり出して潰さな」
菫の顔から血の気が引いた。
「いったい、なにがあったんや?」
「白哉が珠蓮の首をはねてん」
珠蓮の問いに那由他が答えた。
「ええ?」
「そやし、今、白哉が銀杏の森へ連れて行った」
「銀杏の森?」
菫は不安そうに那由他を見つめた。
「幽世と現世の狭間にある霊気に満ちた場所なんや、そこを守る霊木大銀杏が治癒を早めてくれるし、首もじきにくっつくやろ」
那由他は人懐っこい笑みを浮かべた。
「あたしはその大銀杏の妖精、那由他や」
「妖精?」
「妖精違うやろ、妖怪やろ」
重賢が突っ込んだが、那由他は気にせず、
「ところであんた、何者? 蓮とはどういう関係なん?」
菫は躊躇したが、那由他の吸い込まれるような碧の瞳に引きこまれ、なぜか正直に話さなければならない気がした。
「珠蓮くんは命の恩人なんです、2年前、憑魔に取りつかれた時、命がけで助けてくれたんです」
「そう言えば、そんな話してたなぁ、あの時の娘さんか」
重賢が言った。
「こんな別嬪さんやとは言うてなかったけど」
「へ~、蓮がなぁ」
那由他は意味ありげに菫を見た。
「けど白哉とも知り合いやとは、あんたよっぽど妖怪と縁があるんやな」
「なんでまた、白哉が珠蓮の首をはねたんや?」
重賢は首を傾げた。
「羅刹姫に謀られた」
那由他は深いため息をついた。
「あたしらは羅刹姫の手先になってる枕小僧を追ってて、あの屋敷にたどり着いたんや、案の定、奴を発見して、珠蓮が襲いかかったつもりやったんやけど、いつの間にか相手が白哉になってたって訳」
「なんでそんなことになるんや? 双方気ぃ付かへんかったんか」
「双方間抜けやし」
「そう言えば枕小僧は?」
「逃げた」
「けど逃がす前に、話は聞き出したで、柏倉芹って言う幽霊のために、夢を盗んで届けたたらしい」
「柏倉芹って、人気作家の?」
「重賢も知ってんの?」
「幽霊って?」
「彼女は交通事故で死んだものの、小説家になる夢が未練となり、成仏できずに彷徨ってたとこを、羅刹姫に捕まったらしい」
* * *
「芹様はお気の毒な方なのでございましゅ、お亡くなりになったのでしゅが、小説家になる夢が未練となり、成仏できずに彷徨っておられたのでしゅ」
枕小僧は観念したようにペタンと正座してかしこまっていた。
「そんな時、羅刹姫様と出会われ、あの方の計らいで、小説家としてデビューできることができたのでございましゅ」
「柏倉芹って作家は、最初からこの世のモンではなかったんか?」
那由他は偉そうに腕組みをして、仁王立ちで枕小僧を見下ろしていいた。
「身寄りがなかった芹様は、行方不明になっても誰にも捜されなかったので、幽霊のまま、あの家にこもられて、人知れず小説を書かれていたのでしゅ、外部との接触は、羅刹姫様がマネージャーとして引き受けておられましゅ」
「幽霊の芹は人間の目には映らへんし、表には出られへんって訳や」
「最初は芹様も、夢が叶ったと喜んでおられました。しかし、時が経つにつれて書けなくなってしまったのでしゅ。そこでわたしが登場しましゅ」
「他人から夢を盗んで、芹にアイデアを与えてたんやな」
「ご明察! 夢はアイデアの宝庫でしゅから」
那由他は眉間に皺をよせて考え込んだ。
「ますます解せへん、性悪の羅刹姫が、なんで彷徨ってる芹の霊を助けて、夢まで叶えさせたったんや?」
* * *
「って考えてる間に逃げられたんや」
那由他は悔しそうに言った。
「もう5年も成仏せんと幽霊のままやったら、そろそろ限界やな」
重賢が神妙な面持ちで腕組みした。
「なにが限界なんですか?」
菫が尋ねた。
「長い間、成仏できひんかったら悪霊になってしまうんや。自覚あるん違うかな、書けへんようになったのはそのあたりに原因があるん違うか?」
「……だから浄霊してほしいって言ってたのね」
懇願する芹の顔が浮かんだ。
「もしかして、白哉くんが言ってた霊力の強い和尚さんって、重賢さんですか?」
菫は重賢を見た。人の好さそうな普通のお坊さんにしか見えないが、この人が強い霊力を持ち、浄霊出来る人なのか?
「早く、浄霊してあげなきゃ」
「けど、羅刹姫に拉致されてしもたで」
那由他は言ったが、菫は食い下がった。
「監禁場所はわかってるじゃない、あの家でしょ、助けてあげなきゃ」
訴える菫を、那由他は意外そうに見た。
「なんでそんなに必死なんや? その幽霊と親しいんか?」
「今日初めて会ったんだけど、なんか可哀そうじゃない、ほっとけないわ」
重賢は優しい笑みを浮かべた。
「羅刹姫は狡猾な奴なんや、今行っても、なんか企んでるのは間違いないし、あのおバカ連中みたいに罠にハマるで」
「おバカ連中って……」
那由他はなだめるように菫の頭に手を置くと、
「今日のところは送っていくわ」
「でも……」
菫は一目、珠蓮の無事な姿を見たかった。
「明日になったら珠蓮も復活してるやろうし」
そんな菫の心を見透かした那由他が悪戯っぽく肩をすくめた。
「そんな恰好で再会するのも嫌やろ?」
どす黒い血で汚れた服を見下ろして菫は焦った。
「こんな姿でホテルに帰ったところを誰かに見られたら……」
「大丈夫や、部屋まで直行やし」
「えっ?」
那由他に手を握られた瞬間、二人は消えた。
* * *
大の字に寝転がって、珠蓮は空を見上げていた。
空と言っても本物ではない。ここは幽世と現世の間にある空間、霊木大銀杏が守る霊気に満ちた空間だ。
「悪かったなぁ、お前やと気ぃ付かへんかったんや」
白哉が隣に座った。
「お互い様だ、アイツの罠にはまったんだ」
「もう治ったか?」
「ああ」
珠蓮は首筋を擦った。
傷もなく元通りになっている。
「それにしてもお前、えらい隙つくったな」
「……」
「あの子……まだ待ってるん違うか?」
「早く帰してくれ」
「会わへんのか?」
「ああ」
「お前の生首、抱きしめたんやで、普通は出来ひんで、よっぽどお前のこと」
「そんなはずない! 2年前、たった3日間関わり合っただけなんだ」
珠蓮は寂しそうに目を伏せた。
「成長してた、女らしくなってた」
「生首になっても、ちゃんと見てたんや」
「俺は2年前のまま……、彼女はすぐに俺の年を追い越す」
「それはないやろ、お前いくつや? 500歳くらい違うかったっけ?」
「茶化すなよ、そう言う意味じゃない、俺が不死身の体になったのは18の時だ、俺はそれから年を取らない」
「不便やなぁ、自由に姿を変えられへんとは、僕はどんな姿にでも変化できるけど」
珠蓮は上体を起こし、片膝を抱えた。
「別に羨ましいとは思わないけど」
「また強がりを」
「けどあの子、簡単に引き下がらへんと思うで、気ぃ強そうやしな、お前のことも、幽霊作家のことも、このまま放っとけへんと思うで」
「でも、これ以上巻き込んじゃダメなんだ、こんなことに関わっちゃいけない人なんだ」
「それやったら、那由他に記憶消してもらうしかないで」
「あ……」
珠蓮は呆然と宙を見つめた。
「その手があった」
那由他には他人の記憶を改ざんする能力があるのだ。
「けど、寂しいなぁ」
白哉はやり切れなさそうに目を伏せた。
「僕は生まれつきの妖怪やし、人間と関わるのは道楽やけど、お前は元々人間や、人と関わり合えへんのは辛いやろ」
「もう、慣れたよ」
「菫ちゃん、ちゃんと送ってきたで」
突然、那由他が二人の間に現れた。
「近いっ」
珠蓮はうっとうしそうに顔をそむけた。
「アンタのこと、えらい心配してたで」
「もう帰してしもたんか?」
「うん、ホテルの部屋に直行した、あの汚れた服で道歩けへんやろ」
那由他のもう一つの能力は、幽世と現世に隙間を自在に通って瞬間移動できること。
「もう一度、行ってくれないか?」
「なんで?」
「彼女の記憶を消してほしいんだ」