1. 導入と目的
1. 導入
本論では、文芸雑誌「門前成市」を作る目的とその必要性、宣伝戦略、構想について述べる。ちなみに「門前成市」とは、門の前に人が沢山集って市場のようになっている事である。権力や名声を慕って人が集まっている様子の意味もあるらしいが、前者で解釈している。
2. 目的
この目的を端的に言えば、努力が報われる業界の構築である。
昨今のWeb小説業界では読者を得られない原因の一つとして「構造問題論」が提唱されてきたが、中々受け入れられないという現状が続いている。というのも所謂ランキング上位層には、自身の努力によって勝ち得たという確かな実感が存在するのである。そのために、業界では競争が何の問題もなく成立しているように見える。しかし殆どのランキング下位層、一部では底辺層と言い表される事のある層においては、母数が巨大過ぎるが故にそこからの浮上は運要素が大きく、努力しても報われないといった状況が確かに発生しているのである。その結果、上位層は「実力欠如論」により下位層への理解を示さない現状となってしまっている。
一見、「実力欠如論」は正しいように思える。何故なら、浮上できない下位層の全てに明確に努力の結果が見受けられる訳ではないからである。下位層には実力不足とみられる作品も多く存在する。しかしながら、これは論点のすり替えなのである。下位層の全てが実力不足な訳ではない。下位層のうち実力は十分にあるにも関わらず、上位層への浮上が叶わない作品が存在する事が問題なのである。これこそが「構造問題論」なのだが、Twitter上では一部の書籍化作家を含む作家が「実力不足の言い訳」と誤解しており、上位層と下位層での溝が埋まる気配はない。
「構造問題論」を放置するとどうなるか。それは格差の拡大である。経済学においてはこの現象は言及されており、マイケル・サンデルの『実力も運のうち ~実力主義は正義か~』が詳しいものと思われる。これを理解し易くするため、以下、疑似数式を展開して説明する。
実力=努力×運
この等式において、実力は結果と言い換えても差し支えない。結果は努力と運の積である、と換言可能だからである。では、結果は何故努力のみではなく運(ランダム作用素)によって決定されるのか。何故運がゼロであれば実力は無化されてしまうのか。
答えは過剰供給である。またしても経済の話に持ち込むが、産業革命から世界恐慌まで、「セーの法則」なるものが信じられていた。この法則は「供給が需要を生み出す」というもので、労働市場において非自発的失業者(とにかく働きたいけど仕事がない人)が存在する時点で明白に虚構だとは分かるのだが、ケインズ以前にこれを否定する者は居なかった。或いは居たかもしれないが、どちらにせよ「セーの法則」の支持は圧倒的多数であった。
どうしてこのような事態が発生したか。ここで漸く話が戻るのだが、第2次産業革命周辺までは需要が供給を上回っていたのである。この状況においては、確かにセーの法則は成立する。需要が供給よりも大きければ、取引量は供給により決定されるからである。しかし人々の欲求は有限であった。これを経済学では限界効用逓減の法則、またはゴッセンの第一法則と呼ぶのだが、1杯目のビールと10杯目のビールで満足度が異なるように、需要には限界が存在したのである。これを限界革命と呼ぶ。
限界革命は小説業界においても発生したのである。Web小説の黎明期において、読者数すなわち需要は、作品数すなわち供給を大きく上回っていた。そのため作家が増えるにつれて市場は拡大していき、多くの名作が書籍化、漫画化、アニメ化に至った。この時点では努力が報われる理想的市場であったのである。
しかし先述の通り、需要は無限ではない。いつしか作品数たる供給は需要を大きく超えてしまい、逆転現象が発生した。その結果がランキング攻略のテクニカル分析の数々である。本来努力が報われる市場ならば、このような分析は一切必要ない筈である。テクに頼る時点で、自身の作品の努力に対する不信が生じているのである。これは作家側の怠慢や弛緩による、言わばラクして儲けよう的な発想とは違う事を強調しておく。
作家自身の努力が必要条件を満たす条件と一致する訳ではない。もしその努力が例えば「100文字おきに必ずイという文字を使う」というような的外れなものであれば、それは作家側の問題と言えるかもしれない。だが、なろうRawi(通称Rawiたん)などのようなAI分析によってランキングを駆け上がる作品の存在は否定できない。そのような作品が存在するという事は、タイトルやあらすじが評価システムに大きく影響を与えている事を示唆する。
しかし、タイトルやあらすじはストーリーではない。Rawiたん公式も発表している事だが、もしその作品のタイトルが悪ければ、評価は上がらなかったのである。裏を返せば、内容よりもタイトルが評価に直結しているのである。内容が十分なものである以上、問題は作品ではなくタイトルに存在したという事である。読者諸氏がお気づきのように、タイトルは内容を読む前の要素である。タイトルに問題があれば、作品は読まれない。内容の是非を問う前に勝負が決まっているのである。
これが「構造問題論」である。
供給が需要を上回っている現状において、読者は作品選別基準として意識せざるうちにタイトル・あらすじを利用している。その結果がテクニカル分析なのである。
このどこが問題なのだろう、と思われる方もいるかもしれない。先程述べたように、タイトルは内容ではない。タイトルでの選別が進行すれば、タイトルが優れていて内容に劣る作品が、タイトルで劣っており内容が優れている作品よりも獲得読者数が多くなる。
ここで読者数をR、評価率をPとすると、総合評価はその積RPと表せる。前者をR(1)、P(1)、後者をR(2)、P(2)としたときの、積R(1)P(1)とR(2)P(2)の大小を比較してみよう。前者の読者数を100、評価率を1、後者の読者数を10、評価率を7とすると、前者の獲得する総合評価は100、それに対して後者は70となり、質的には後者が勝っていても前者がランキング上位となる。これを一般化すると、次のように表される。
R(1)がR(2)のP(2)/P(1)倍以上大きいとき、前者の積は後者の積を上回る。
この数式について詳しく理解する必要はないが、次の内容は理解して欲しい。「読者数の優劣が存在すると、評価に狂いが生じる」、つまりこの不等式により、評価システムの欠陥が明らかになったのである。
漸く最初の話に戻るが、文芸雑誌「門前成市」の設立目的は、この欠陥により失われる良作に日の目を見せる事である。だから、これを読んだ諸氏は「最良の作品」をどんどん寄稿して欲しい。その代わり、作品に正当な評価が下されるよう、私が頑張るから。
3話まで、毎週水曜20:00に投稿しますね。