87.知らない間に原因になっていました。
な、涙が、止まらない……。
自分でもびっくりするほど溢れ出てくるものは止めようと思っても止まるものではなく、私は無造作に手の甲で拭おうとした。
「止めなさい」
でも、その手は止められてしまい、なぜかそのまま抱き上げられ、頭を軽く肩へと押し当てられた。
(ちょ、ちょっと、エルさんの服が汚れちゃうっ)
涙だけでなく、もしかしたら鼻水まで流れちゃってるかもしれないのに、エルさんの服を汚すことなんてできないよ。そう思って顔を上げようとしたけど、頭を押さえている手の力は緩まない。まるで、顔を上げないようにって言われているように感じて、私は身体に力が入ったまま、その体勢を維持することにした。
「其方たち。これはどういうことだ」
体が密着しているせいか、エルさんの声が私の体に低く響く。私に向けられた声じゃないけど、すごく怖くて体が震えた。
「エ、エーベルハルド様、わたくしたちはただ、教えて差し上げていただけです」
「教える? 何を?」
「平民が身の程を弁えず、宰相様のご子息にすり寄っているのです。この者のことを思って諫めて差し上げているだけですわ」
女の子たちが口々にエルさんに訴えている。彼女たちの言うことを聞いていると、私が身分不相応にエルさんに近づいてるってことだけど、私、そんなことしていない! 確かに、ここに来たらエルさんに会えるかもしれないって思っていたし、薬草園で再会してからは、美味しい食事を食べてほしくて積極的に誘ってもいたけど、それはエルさんの身分のことなんて関係ないもん!
でも、そんな私の行動は、彼女たちにとってはあまり良いものではないってことを、今ここで知ってしまった……。
私が、エルさんと話すのも駄目なの……?
平民だから、貴族のエルさんと関わることは駄目? せっかく貰ったヘアピンも、受け取るべきじゃないってことなの?
「見苦しい」
自問自答しているうちに深く落ち込んでいった私の耳に、冷たく響くエルさんの声が聞こえた。
「彼女たちは院が依頼して来ていただいた方々だ。学生の私たちよりこの場では上だと認識しなければならない」
「な、何をおっしゃって……エーベルハルド様」
「そもそも、幼子に対し多数で囲い込み、手を出すなど、貴族の淑女にあるまじき振る舞い。このことは院側に報告をさせてもらう」
「お待ちくださいっ、わたくしたちはただ、エーベルハルド様の外聞をお守りするためにしただけですっ」
「そうですわっ、エーベルハルド様が平民の幼子に過ぎた慈悲を与えているなどと、おぞましい噂が広まる前にわたくしたちがっ」
彼女たちは必死に訴えている。そのどれもが、エルさんのため、私が悪いってばかりで、聞いていると悲しくてたまらない。私、この人たちに何もしていないのに、この人たちは私に対して隠しようのない悪意を抱いている。自分が知らない間に憎まれているのが怖いし、どうしたらいいのか……。
「そこまでにするように」
でも、エルさんはきっぱりと彼女たちの言葉を止めた。
「私の外聞のことを、其方たちが気にする必要はない。話は終わりだ」
そう言い捨てて、エルさんは歩き出す。抱っこされたままの私は、顔を肩口に押し付けた状態のまま、くぐもった声で言った。
「ごめんなさい……」
「君が謝る必要はどこにもない」
「でも……」
「その顔では戻れないだろう」
確かに、かなり泣いてしまったので、目元が腫れぼったくなっている。父さん、きっと心配するだろうな……。
そう思うと、私はこのまま戻るとは言えなかった。
エルさんに抱っこされた状態で連れていかれたのは薬草園だった。
考えてみると、ここっていつも人の気配がないもんね。人の目を避けるのには絶好の場所かもしれない。
エルさんはそのまま奥へ歩を進める。薬草園に入って、私はようやく顔を上げることができた。すぐ近くに見えるエルさんの横顔はどこか硬くて、ちょっと話しかけづらい。少し離れたところにはシュルさんもいて、私が視線を向けると苦笑したけど何も言わなかった。
普段陽気な彼が口を噤んでいる様子に、いつもとは違う空気がのしかかってきて、私も口を開くことができなかった。
しばらく歩くと、薬草園の真ん中に小さな休憩所のような場所があった。屋根があって、木の椅子が置いてあるそこに足を踏み入れたエルさんは、ようやく私を椅子の上に下ろしてくれる。
「……」
エルさんは椅子に座った私の前に腰を下ろし、下から顔を覗き込んできた。床板をはっているとはいえ、膝を付ける格好にさせたことが申し訳なくて、私は慌ててエルさんに言った。
「エルさん、立ってっ」
「……」
「エルさんっ」
思わず腕を掴んで揺すると、ようやくエルさんが口を開いた。
「治癒」
目元に手を翳されて呟かれた言葉。すると、それまで泣いて腫れぼったかった目元がすっきりした。もしかして、癒してもらった?
「……エルさん」
「……すまない」
ありがとうって言う前に、エルさんに謝罪された。私は助けてもらった立場で、エルさんが謝ることなんて何もないのに、どうして?
ちょ、ちょっと、シュルさん、助けて!
この場に唯一いる第三者のシュルさんに助けを求めるように視線を向けたけど、彼は軽く肩を竦めただけだ。エルさんの謝罪を撤回させるつもりはないらしい。
「あの生徒たちが君に理不尽な行為を行った要因は私にもある」
「え……」
エルさんが原因って? 確かに、彼女たちはエルさんの名前を出していたけど、だからと言ってエルさんが命じたわけでもないし、むしろ助けてくれたのに。
問うように見つめても、エルさんは何も言わない。この間をどうしたらいいのかどんどん焦ってくると、それまで黙っていたシュルさんが、謝罪を受け取ってやってほしいって言ってきた。
でも、理由がないまま謝ってもらっても困るもん。私が口を引き結んでいると、しかたがなさそうにシュルさんが説明してくれた。
それによると、さっきの彼女たちは常日頃からエルさんの周りにいて、どうにかして縁を繋げたいと思っていたらしい。でも、エルさんの方が身分が高くて、なかなか話しかけることもできなくて、そんな時に私がひょこって現れた。
え……でも、私、食堂以外でエルさんと会ってないし、それだって新しいメニューの感想を聞いていただけのつもりだ。あ、薬草園でも会ったけど、あれは他に人はいなかったはず……よね?
納得がいかないのが伝わったのか、シュルさんはふぅっと溜め息をついた。
「こいつは、院内でも単独行動だから。特に、女性を側に寄せることはないんだ」
「……でも、私……」
5歳の私を女性だってエルさんが考えているはずがないのに、周りの目は違うっていうの?
「髪留め」
「え?」
「リナの安全のためとはいえ、自身の色の魔石を使ったこいつが悪い」
エルさんの色? シュルさんの話を聞いた私は、ハッとして残ったもう一つの髪留めを外した。それを見てみると、確かに飾りの石の色はエルさんの目の色だ。私は綺麗だって単純に喜んだけど、彼女たちには別の意味があったってこと?
私はエルさんを見つめる。エルさんも私を見ていて、
「私が迂闊だった」
そう、小さな声で呟いた。
あぁ……そっか。生意気にもエルさんと話をして、その上彼の色の石を使った髪飾りを貰った。
貰った場面を直接見られてはないけど、食堂での私たちの様子を見て、簡単に想像はついたのかもしれない。
……それって、やっぱりエルさんのせいじゃないよ。私の用心が足りなかったんだ。
ヘアピンを取られ、一方的に責められた場所から離れたせいか、私の中にあった恐怖心は少しずつ薄れてきた。その代わりに心を占めたのは、エルさんに対する申し訳なさだ。
結局、私が迂闊なせいで、エルさんに迷惑を掛けただけだもん。
必ず身につけているようにって言われたあの石を忘れてしまったせいで、エルさんはわざわざヘアピンを贈ってくれた。あれがなかったら、彼女たちも直接的な攻撃はしなかったかもしれないのに。
(私が……私のせいで……)
あ……また、胸がグルグルする。感情が高ぶって、目が熱くなってきた。
「リナッ」
「!」
鋭い声で名前を呼ばれ、私はハッとした。
「感情を波立たせるな。……落ち着いて、深く呼吸をしなさい」
「……」
エルさんの声に誘われるように、私は何度も深呼吸を繰り返す。そうすると、さっきまで胸の中をグルグルとしていた熱が収まってくるのがわかった。興奮しちゃったから、知恵熱でも出たのかな。
「リナ」
「はい」
名前を呼ばれて、今度は落ち着いて返事ができた。すると、エルさんは困ったように眉間に皺を寄せる。
「……君の魔力はいったいどのくらいある? 一度調べてみたい」
調べてみたいと言いながら、その雰囲気は決定事項の感じだ。でも、魔力を調べるって何となく怖いし、そもそも、私ここではあんまりエルさんに近づかない方がいいんじゃない?
「でも、見られたら……」
「そうだな、人目のない時を利用するとなると……早朝か深夜か」
「と、父さんが、ダメっていうと思います」
エルさんたちのことは好意的に思っているはずの父さんだけど、やっぱり貴族と関わり合うのはいい顔をしないはずだ。
私がそう言うと、エルさんは考えるように一度目を閉じ、しばらくして私を見た。その目には不可能なんて考えない自信の色が見える。
「内密にしておける問題でもない。正しく告げることにしよう」
私のことなのに、どうやら決定権はないらしい。私は手にしたヘアピンを握りしめると、エルさんの顔をじっと見つめた。
せっかく貰ったヘアピン……1つになっちゃったよ……。




