86.人の悪意は怖いです。
新メニュー作りは順調だ。
思った以上に食堂の料理人たちの頭は柔軟で、こちら側の提案を素直に受け入れ、続いて自分たち流のアレンジもしている。貴族院って言う特殊な場所にいるけど、同じ料理人同士、新しいものへの探求心は皆同じみたい。
父さんも、滅多にできない経験だからって、朝から晩まで楽しそうに厨房の中を動き回っている。
始めは私のことを心配していたけど、案外貴族院の中というのは良い意味で閉鎖的で、私のちょっとした言動も外に漏れることはない。
私が父さんに「こんな調理方法はどうかな」って尋ねてみて、それを父さんと食堂の料理長が自分たちなりに形にして行っている流れが出来上がっていた。
そして、あっという間に7日が経った。ちょうど予定の半分、今日から折り返しだ。
唯一、あまり役に立っているとは言えない私は、せめて邪魔はしないようにしようと、もっぱら厨房内の雑用係に徹していた。
でも。
「リナ、味見」
「は~い」
スープ係のリアムとジャスパーは、一番最初に私と関わったせいか、かなり気にしてくれて声を掛けてくれる。大体が味見なんだけど、基本のスープはもう完璧だ。
今は、いろんなアレンジを試していて、私はせっせと味見係をしている。どれも美味しくて、初日のあの味気ないスープの面影なんて全然ないよ。
(リアムさんたちなら、カレーとかも作れそう。……カレーかぁ、食べたいな)
何種類ものスパイスを使うカレーは難易度が高い。《佳奈》だったころはスパイスの効いた料理はちょっとだけ苦手で、カレーもそこまで好きじゃなかった気がするけど、今の健康な身体ならきっと美味しく食べれると思う。
でも、作り方を覚えていなかったら無理な話だけど。
「……ん、おいし~」
味見用の小さな皿に注がれた今日のスープは、クリームシチューだ。ブイヨンと牛乳、そのほかの調味料を上手く使い、少しサラサラしているが、ちゃんとクリームシチューっぽいものができている。
「足りないものはないか?」
「たりないもの?」
私は首を傾げて考える。
ある材料で作ったにしては、本当に上手にできていると思う。とろみはもう少し煮込んだら多少出てくるだろう。
「私、とり肉が好きです」
「……それはお前の好みだろう……」
だって、本当に足りないものが思いつかないんだもん。私が少し口を尖らすと、眉間に皺を寄せていたリアムが少しだけ笑った。
「明日、鶏肉を入れてやる」
「ありがとうございますっ」
ふふ、言ってみるものだなぁ。ずいぶん友好的になったリアムをニコニコして見上げると、浮かんでいた笑みを消したリアムは寸胴鍋に向き合う。図々しかったのかなとちょっと落ち込みそうになったけど、後ろでクスクス笑ったジャスパーが慰めてくれた。
「気にすることないよ。リアムはリナが可愛くて照れているだけだから」
「……おい、手を動かせ」
「はいはい」
相変わらず仲が良いスープ係の2人は、こそこそ何か言い合っている。
話の内容を聞きたい気もするけど、ここは雰囲気を読んでおこう。
でも、楽しいな。貴族院での仕事が、こんなに楽しいものだとは思わなかった。エルさんたちにも出会えたし、ヘアピンまで貰って。
(今日もエルさん、食堂にきてくれるかな)
浮かれていた私は、人の悪意というものが思いがけないところに潜んでいるなんて、少しも警戒していなかった。
昼食の時間が終わり、厨房の中はすぐに夕食の仕込みが始まっていた。
院内にいる人数が少ないのにこんなに早く準備を始めるのは、仕込みと同時に新メニューの開発もするからだ。
父さんはもちろん、ちゃんと戦力に数えられているケインとは違い、私は食堂のホールの掃除を買って出ていた。
掃除専用の職員がいるので床はとても綺麗だ。私ができるのはテーブルの上を拭き、椅子を揃えるくらいだけど、給仕のお兄さんたちからも助かるって言われたので、黙々と掃除を続けていた。案外、こういう単純作業って、熱中すると止まらなくなるんだよね。
ずっと俯いて手を動かしていた私は、
「あなた」
不意に声を掛けられて、慌てて顔を上げた。
(い、いつの間に?)
全然気づかなかったけど、そこには3人の女の子が立っていた。学生服を着ているので、貴族院の生徒だというのはわかる。
「……あ、お昼ですか?」
昼食の時間はとっくに過ぎているけど、3人分くらいなら用意できると思う。
私は愛想よく笑いながら女の子たちに言った。
「何を食べますか?」
でも、女の子たちは何も言わない。3人ともそれなりに可愛い顔をしているけど、私を見下ろす眼差しはちょっと……。
(に、睨まれてる?)
明らかに、好意的ではない視線。でも、私は彼女たちをまったく知らないし、初対面でこんなに睨まれる覚えもなかった。
もちろん、ホールの手伝いをしていると、怪訝そうな目を向けられることはあった。明らかに場違いな子供に対し、貴族の特権意識が作用するのもわからなくはない。でも、その特権意識があるせいで、か弱い者にあからさまな悪意を向けることも貴族らしくないと、案外受け入れられているって思ってた……今までは。
「あっ」
不意に、その中の1人が私の腕を掴んだ。たぶん、13、4歳くらいと思う。中学生くらいの女の子が、幼稚園児くらいの私の腕を掴んで引っ張るのは簡単みたいで、あっという間にホールの外に連れ出されてしまった。
(ま、不味いんじゃない……)
廊下には誰もいない。まだ何もされていない状況で、大声で助けを呼んでもいいのだろうか。
「あなた」
ようやく、その中の1人が声を掛けて来た。一番最初に聞いた声とは別だった。
「エーベルハルド様とはどんな関係なの」
「……え?」
「昨日も、あの方と話をしていたでしょう。わたくしたちには声もかけてくださらないあの方に、あなたのような平民がどう取り入ったの」
声の調子は淡々としたものだけど、私を見下ろす眼差しは酷く険を帯びたものだ。
「子供のくせに……どのような策を講じたの」
重ねて言われたことで、私はようやく状況を理解した。この人たち……エルさんのことが好きなんだ。
薬草園で再会してから、エルさんは1日に一回は食堂に来てくれるようになった。その際エルさんは必ず私を呼んで、変わったことはなかったかと尋ねてくれた。それは、私のことを心配しての言動で、私もエルさんと話すことが嬉しくて、ついつい会話を長引かせることもあった。
エルさんもシュルさんも、そのことに何も言わないから、私は自分が特別なことをされているって意識はなかったけど……目の前の女の子たちの話を聞くと、それはずいぶん傲慢だったかもしれない。
「ご、ごめんなさい」
私は謝った。悪いことをしたとは思わない。エルさんが受け入れてくれている限り、話をすることが悪いだなんて思えなかった。でも、不快に思っている人がいるとしたら。
「……」
でも、その謝罪も、女の子たちには面白くないものだったらしい。
「その髪飾り……エーベルハルド様の目の色と同じね……生意気な」
「……!」
言葉と同時に、伸びてきた手に片方のヘアピンが抜き取られた。その拍子に髪の毛も数本抜けたみたいで、私は小さな苦痛の声を漏らす。
「あなたのような者に、これは不相応だわ」
「か……返して、ください」
「……」
「おねがいします……返して……」
エルさんが私のために作ってくれたヘアピン。不相応というなら身につけないから、返してほしい。
「堕神のような髪の色。不吉なその髪が短くなれば、この髪飾りも必要ないでしょう」
「え……」
少女の一人が手を伸ばしてくる。もう一つのヘアピンまで取られちゃう!
私はその場にしゃがみ込んだ。
「やだ! 近づかないで!」
「きゃぁっ!」
全身が熱くて、体の中で熱の塊がグルグルと回っている。その熱を噴き出したいのに、でもそうするとそのまま倒れてしまいそう。倒れちゃったら、このヘアピン、取られちゃうよ! そんなの、やだ!
私は自分自身を保つために、体の中の熱をもっとたくさん生み出す。頭がクラクラして目が回りそう……。
「あ……ぁ……」
「や、めてっ」
遠くで、悲鳴のような声が聞こえてくる。でも、ダメ。その声に気を取られちゃったら、私の方が倒れてしまうかもしれない。
「リナ!」
(こんな時に、エルさんの声が聞こえるなんて……っ)
私、エルさんに頼ってばかりだ。自分の身は自分で守らないといけないのに、こんな時ばかりエルさんがいてくれたらって思うなんて!
「リナッ!」
だから、止めて!
「リナッ、私の声が聞こえないのかっ!」
……え?
「目を開けなさい、そして、私を見るんだ」
エル、さん?
私の願望で声が聞こえているわけじゃなくて、本当に側にいるの?
確かめなくちゃって思うけど、目を開けて、またあの女の子たちが冷たい目で私を見ていたらって思うと……怖い。
「リナ、聞こえないのか?」
さっきよりも落ち着いた声が耳に届く。そして、熱くてたまらなかったはずの体に、涼やかな水のような冷たいものがその熱を覆うように蠢くのを感じた。
早く、早く確かめないと……。
私はゆっくりと顔を上げ、次の瞬間思い切って目を開けた。
「!」
びっくりするくらい近くに、エルさんの綺麗な顔がある。縋るように伸ばした手が、目の前の腕を掴んで、確かにここに彼がいることを実感した。
(夢じゃ……なかった……)
「リナ」
今度は夢心地じゃない、ちゃんと耳に届く声。その途端、私の目からはボロボロと涙が零れ落ちた。




