08.食への欲求は本能です。
知識が少しずつ増えていくのと同時に、私の食生活も変わってきた。
ずっと母乳だったのが、ようやくパン粥になったんだ。パン粥はその名の通り、温めた牛乳に硬いフランスパンもどきを千切って入れて、ドロドロになるまで煮込んだもの。
牛乳は新鮮だし、煮込んだおかげでパンは柔らかくなったけど、味付けが少量の塩だけなんて……はぁ。
母乳から卒業できたことは嬉しいんだよ? いくら《リナ》として生きることを決めて、家族を家族として受け入れたとはいえ、二十歳の私が自分とそう歳の変わらない女の人の胸を、その……ね? さすがにしばらくは戸惑いの方が大きかったけど、人間食事をしないと死んじゃうから、割り切って飲んでいるうちに慣れてきちゃった。
そのことに自分でも愕然として、でもやっぱり食事はと内心葛藤していただけに、母乳から卒業できたことはすごく嬉しかった。でも、母さんの柔らかな胸の感触は捨てがたかったけど。
それで始まった離乳食。
始めはパン粥でも納得してたのよ? まだ1歳半くらいの私には濃い味は早いだろうし、少しずつ体に慣らして大人の食べ物に変えていくんだろうなって。
……でも、パン粥に変わってからだいぶ経つのに、味にまったく変化はなかった。
毎日毎日、薄い塩味のパン粥。
あ~、塩鮭にご飯と味噌汁だけでもいい! ううん、パンにバターを塗るだけでも!
贅沢を言えばイチゴジャムやピーナッツバター、ブルーベリージャムに、イチジクジャム……あぁ~。
パンがあって、牛乳があって、卵だってあるのに。
砂糖とかハチミツ、ないのかなぁ。それがあれば、フレンチトーストができるんだよ? ただ液体につけて焼くだけでできる美味しいパン料理……。
キッチンは店の厨房と一緒みたいなので、私は食事を作るところを見たことがない。だから、どんな調味料があるのかもわからない。
ここからなんて、私の充実した食生活はかなり遠そうだ。
病弱だった昔の私は、どんなに美味しい料理でもあまり量は食べられなかった。
でも、食べることは好きで、退院して家にいる時はいろんなものを少しずつ食べていたなぁ。
その頃のことを思えば好き嫌いなんか絶対にしないと誓うし、今もパン粥は残していない。
それでも、美味しいものを食べたいという欲求は止められない。
(コンソメとは言わないけど、せめてブイヨン! ブイヨンが効いていれば、もうちょっと食べやすいと思うんだけどな……)
母さんに背負われて店には出るようになったけど、基本的に母さんは厨房に入らない。
パン作りはほとんど父さんで、忙しい時間にお手伝いで来てくれるベリンダおばさんは時々厨房で手伝いをしているけど、母さんは……どうしてだろう?
私をおぶっているから危ないと思われているんだろうか? だったら、ケインの時もそうだったのかな?
だから、母さんの背中から動けない私は厨房の中がどうなっているのかまったくわからない。パンの作り方、早くみたいな。本職の父さんにアドバイスするのも変だけど、もしも、もしも私の持っている知識の中で使えるものがあるとしたら。
(あんドーナツ、作れるかも……)
……あ、涎が出そう。
「よし! リナ、店に行こう!」
「あい」
私が余計な妄想を膨らませている間にも、勉強が終わったらしいケインが満面の笑みを浮かべて椅子から立ち上がった。
ちらりと見たノートらしき紙には一応計算した後はあるけど、ずいぶんそわそわしていたから、ちゃんと検算もしていないんだろう。
ケインはどうやら勉強よりも、パン屋の仕事の方に興味があるみたい。
「に~ちゃ」
「ここでおとなしく待ってろよっ」
ケインは勉強道具を持って部屋を飛び出していく。いったいどれだけ嬉しいんだろう。
私はまだ一人で椅子から下りるのは危ないので、言われた通りケインを待っていた。
「お待たせっ」
(全然待ってないよ)
ケインは私を椅子から下ろし、手を繋いでくれる。
ぽて、ぽて、ぽて。
……ごめんなさい。まだスタスタ歩けないんだもん。
意外に辛抱強いというか、妹大好き少年なのか。ケインは私を急かすことなくゆっくりと狭い廊下を歩き、店に続く階段までやってくる。
「ほら」
そして、今度はしゃがんで背中を向けた。まだ階段をうまく下りられない私を背負ってくれるためだ。
最初は、まだ7歳のケインの背中があまりに小さく思えて怖かった。私を背負っても潰れちゃうんじゃないか、足を踏み外すんじゃないかって。
でも、実際に背中にしがみ付いて、私はその認識を改めることになった。
私の知っている7歳は小学校一年生のイメージだけど、この世界の7歳って……たぶん、プラス2歳くらいは年上な感じ。十分私を支えてくれた。
考えたら、ケインはあの父さんの子供なんだもんな。もしかしたら、同年齢の子より成長がいいのかもしれない。
ケインの背中によじ登り、しっかりと首に腕を回す。握力がないのであまり意味はないような気もするけど、こうしなければバランスがとれない。
「下りるぞ」
ケインは一言告げて、慎重な足取りで階段を下り始めた。
(迷惑かけるね、ケイン)
起き上がれるようになった、寝返りができるようになった、立てるようになった、歩けるようになった。
私自身は自分がとても成長したと思ってる。でも、私にできることはあまりにも少なくて、どうしても周りの手を借りることになるのが心苦しい。
(早く……おっきくなりたい……)
まずは、この階段を下りれるようになることからか。
ケインの背中から見下ろすと、とてつもなく高く見える階段。高所恐怖症じゃなくてよかったよ。
さっそく明日から挑戦してみようと思った。
店に行くと、ちょうど昼の忙しさは過ぎていた。
「母さん」
「勉強、終わったの?」
「うん」
「リナ」
即答するケインを見た後、母さんはその背中にいる私の方を向く。
「に~ちゃ、ばった」
もう少し勉強に身を入れてほしい気もするけど、ケインなりに頑張った方だと思う。
「じゃあ、床の掃除をお願い」
「わかった」
「リナはこっちにいらっしゃい」
私の言いたいことは伝わったのか、ケインの背中から母さんの腕の中に移動した後、母さんはレジ台の引き出しの中に入れてある紐で器用に私を背負う。
そして、母さんは小さな椅子に座り、箱に入れてあるお金を計算し始めた。
(レジスターがないっていうのも大変みたい……)
売っているパンが二種類なので、案外複雑な計算はなく、お釣りの金額もだいたい決まっている。
いろんなものを売っている商店とは違うので比べることもできないが、箱に入れて売り上げを管理するのはちょっと物騒じゃないかな。
(あ、うちには父さんがいるか)
とても優しいけど外見的には強面の父さんがいるから、強盗は入りにくいのかもしれない。
(金庫とかは、もっとお金持ちじゃないと持ってないのかもね)
ふと視線を向けると、ケインが床に散らばっているパン屑を片付けている。硬いパンは、切り分ける時に結構なパン屑を落とすのだ。
……これも、もったいないんだよなぁ
一日ではそこまでの量になってなくても、これが十日、三十日と纏めて考えてみると、結構な量のパン屑になるよね? それだけのパン屑なら、普通にパン粉として売り出したらいいのに……。
……ん?
そこまでぼんやり考えた私は唐突に気づいた。
(フライ、見たことないよっ?)
私の記憶にある限り、うちでの食卓にフライが出てきたことがない。
とんかつとか、エビフライとか、コロッケとか。ちょっと考えるだけでいろいろ出てくる料理が、改めて考えるとまったくメニューに含まれていないのだ。
食事によく出てくるのはスープ。それも野菜を塩で煮込んだ塩野菜スープに、肉。うん、肉。
肉はほとんどがただ焼いているもので、時々煮たものもあったと思う。
パンといい、料理といい、この世界の人たちって食にあまり興味がないのかな。
美味しいものを食べようとか、作りたいとか思わないんだろうか?
さっき考えていたブイヨンだって、少し手間はかかるけど簡単な出汁だ。これをベースにしたらいろんなものも作れるのに……。
「か~ちゃ」
「ん? どうしたの?」
母さんは手を止めた。
「……まんま……」
「ご飯? お腹すいたの?」
「ん~ん」
違うの、母さん。もっと美味しいもの作ろうよ。
私がもっと大きかったら一緒に作れるのに……ううん、せめて話せるようになれば、母さんに作り方を教えて作ってもらえるのに。
立ち上がろうとした母さんを止めて、私はまたその背中で考える。
(赤ん坊が話せるようになるのって……どのくらいなんだろ?)
平均的に考えたら、1歳半から2歳くらいで話せるようになるんだと思うけど……それで考えたら、私は少し遅い?
うちが店をしているせいで、同じ年頃の子がいる家に遊びに連れて行ってもらうことはない。
ケインとは話しているけど、どっちかっていうと私がケインの学校や友達の話を聞く感じだし。
父さんや母さんと話そうにも、二人がゆっくりする時間は私が寝る時間だもんね。
会話が大事なのに、その会話が不足してるってどういうこと?
「か~ちゃ」
私は母さんを呼ぶ。
売り上げの計算は終わったから、決して邪魔にはなってないよね? とにかく、少し私の話し相手になって!
「なあに?」
「リー、まんま、ちゃーう」
「ん?」
母さんは首を傾げた。通じないかな~。単語を並べているだけだけど、必要な情報はちゃんと入れているんだよ。
「まんま、ないない」
「……ご飯はいいのね?」
おっ、当たった!
《ないない》は万国、ううん、万世界共通語かもね。