81.ピンクの少年は何者ですか。
廊下は結構明るい。もちろん、日本のような電気の明るさじゃないけど、怖さを感じることはなかった。視線を向けた窓の外は、だいぶ薄暗くなっている。本館から職員専用棟に行く時に少しだけ外を歩くことになるけど、今ならまだ大丈夫。
私は廊下を走った。《佳奈》だった時は弱い体のせいで、こんなふうに何も気にしないで走ることもできなかったから、大きく振る手足も、せわしない心臓の鼓動も、変な話すごく楽しくてもっと走りたい気分だ。でも、学校の廊下を走るのは、あまりいいことじゃないだろうけど。
機嫌良く廊下を走っていた私だけど、まだ5歳だからそこまで長く走れない。途中で止まって、ハァハァと肩で息を整えていた私は、ふと窓の外に目をやって首を傾げた。
(今……?)
何か、光が過ったみたいなんだけど……? 懐中電灯くらいの光が、ふ~と平行に移動したような気がしたんだけど、ここに懐中電灯があるわけじゃないし……。でも、オーブンの代わりも、コンロの代わりもあるし、懐中電灯の代わりがあってもおかしくないかも。
(でも、こんな時間に外で何をしているんだろう?)
気になるけど、目が届く範囲に外に出るドアはない。しかたなく、私はまた最初の目的である職員専用棟へと向かう。
体感としては5……ん~、10分くらいかな。ようやく外に出るドアのところまで来た時、
「ひゃっ」
不意に外からドアが開いて、私は何かとぶつかってしまった。
「いたぁ……」
ものの見事に弾き飛ばされ、私はそのまま尻もちをつく。いくら幼女のプニプニのお尻でも、打ち付けたらそれなりの衝撃があるんだから……。私は体勢を変えて、打ったお尻を撫でる。その間……ぶつかった相手は何も言わない。
(ちょっとちょっと、いくら貴族様でも、子供が倒れたら声を掛けてくれるものじゃない?)
この場合、どちらが悪いかは置いておいて、幼い者を労わる気持ちがあっても良いと思う。
私は少しだけ恨めし気な気持ちを抱いたまま、ぶつかった人物を見るために顔を上げた。
(……ピンク……?)
一番に目に入ったのは、今まで見たことがない髪の色だった。ピンク色とか……あ、ピンクピンクした派手な色じゃないけど、どう見たってピンク色。それも、
(男がピンクとか……ちょっと違和感があるんだけど……)
ちょっとだけ残念な気持ちのまま、私は相手の顔を見る。
(……無駄にイケメン……)
吊り気味の目元に、通った鼻筋。薄めの唇は引き結ばれたままで、一見してクールな印象だ。身長も結構あるし、嫌味なくらい足は長いし……。
「……其方」
うわっ、喋った。思ったよりも低い声だ。
「堕神か?」
「え?」
「……」
「……」
(だしん?)
言葉の意味がわからなくて首を傾げていると、相手はようやく私の体勢に気づいたらしい。気づくのがちょっと遅いとは思うけど、「すまない」と言いながら、両脇を掴まれて起こしてくれた。ただ、床に下ろしてくれず、足がプラプラとした宙吊りだ。
「……」
細身のくせに、楽々と私を抱えている彼は、自分の目線まで私の顔を上げてじっと見てくる。睨まれたりはしないけど、観察するような眼差しが居心地悪い。
しばらく、私たちは見つめ合っていた。もちろんそこに、甘い雰囲気は一切ない。
(いつまでこのままなんだろう……)
あんまり遅くなると父さんが心配するし、そもそも私はエルさんの部屋を知りたかったわけで、見も知らないピンク少年の相手をしている場合じゃない。
「お、下ろして、ください」
昼間食堂に来ていた学生と同じ制服を着ているから、目の前の彼も貴族だ。今更だけど不機嫌にならないようにそっと声を掛けた。
「下りたいのか?」
「は、はい」
当たり前じゃん! 地に足がついてないと落ち着かないんだもん。
でも、私が同意してもなぜか下ろしてくれない。
「どうして? だいたい、其方は幼子じゃないか。その年でなぜ高等貴族院にいる? まさか、勝手に忍び込んだのか?」
はぁ? 私、ちゃんとエプロンもしてるんですけど! そもそも、貴族が通う学校に、小さい子が勝手に入り込むことができるとか、どれだけセキュリティが甘いんだって話になるよ。
私はしかたなく、なぜここにいるのかを説明する。彼は最後まで黙って聞いていたけど、
「なぜここにいる?」
結局、話はそこに戻った。
「私、イシュメルさんに会いにいくんです」
「イシュメルに? なぜ?」
「聞きたいこと、あって」
「何を?」
……この人、かなり知りたがりっていうか……。外見はすごくクールなのに、結構好奇心旺盛っていうか……あ。
(もしかして、知ってるかも)
同じ学生だし、この人、もしかしてエルさんのことを知っているかもしれない。友達じゃなくても、ちょっと呼び出してもらえるくらいなら……。
「あの、エルさん、しってますか?」
「エルさん?」
おっと、ちゃんとフルネーム言わなくちゃ伝わらないよね。……あれ? エル……違う、エーベル……何だったっけ。
困った。私にとってエルさんはエルさんで、聞いた本名も覚えていたつもりだったけど……覚えたつもりだったみたい。
「あ、あの、エーベル……エルさん、です。キラキラのかみで、ふかい海の色の目の……きれーな人です」
外見だけ言っても伝わらないかもって思ったけど、
「ああ、エーベルハルド・フォン・ベルトナールのことか」
彼はこともなげに言い難い名前を口にした。
覚えていなくても、響きからすっと名前が頭の中に浮かび上がった。
「そ、そうです、その人!」
「知っている。連れて行ってやろう」
「え? ちょ、ちょっと!」
連れて行ってくれるのは嬉しいんだけど、だいたい私、まだあなたのこと何も知らないんですけど!
「お、お名前、おしえてくださいっ」
とりあえず、今一番必要な情報を要求してみた。
彼、ピンク少年の名前は、トラヴィス・フォン・オーランド。
この学校の2年生だって。父親は城で王様に仕えている文官らしい。……そこまでの情報はいらなかったんだけど……身分がしっかりした人なら、きっと悪いことをするような人じゃない……はずだ。
「夏季休暇中、平民が貴族院に入るという噂は聞いたが、まさか本当のことだとは思わなかった」
彼……トラヴィスは、補習で残っているわけじゃなく、家に戻ると社交をしなければならないから残っているんだって。確かに、貴族の社交って面倒臭そうだもんね。
「其方は、エーベルハルド・フォン・ベルトナールとはどこで知り合った? 彼ほどの家柄の貴族が、平民と縁を結ぶのは珍しい」
「えっと……」
改めて聞かれると、私自身明確な出会いというのを覚えていない。それに、会った時間だって考えたらすごく少ないし……。エルさんの迷惑になるかもしれないと思うと、すごく慎重に言葉を選ばないといけない。
そもそも、私とエルさんは友達とは言えないし、かといって他の形を考えてもまったく思い浮かばないよ。
「リナ」
「……」
淡々と名前を呼ばれる。
そう。移動中、私はトラヴィスからいろんな話を聞いたけど、私の情報も彼に知られてしまった。こんなにも聞き上手だとは思わなかった……。もちろん、エルさんとの関係とか、私の加護の話とか、不味そうなことは全部とぼけたつもりだけど、そこまで通じているのかわからない。
(……だいたい、私、こんなに自由に歩き回ってもいいの?)
っていうか、私、ずっと抱っこされた状態なんだけど。
トラヴィスは細身なのに、軽々と私を片腕で抱いている。力持ちなのは、エルさんと同じくらいかも。でも、いつまでも抱っこじゃなくて、私歩きたいんですけど。
トラヴィスは、私では覚えられないような複雑な道のりを歩き、いつの間にか濃い緑の絨毯が敷かれた廊下を歩いていて……。
「……しずか……」
「ここは上級貴族が住む寮だからな」
「じょーきゅー……」
私はただ圧倒されて、雰囲気さえ違う廊下を見渡すしかない。
エルさんに連絡を取りたいとは思ったけど、まさかこうして直接迎えに行くなんて思っていなかった。夕飯にサンドイッチを食べてもらいたいだけなんだけど、嫌だって言われたらどうしよう。
(……エルさんは優しいから、嫌でも来てくれるかもしれないけど……)
「そうだ、トラさん、外でなにしてたんですか?」
あ、私、トラヴィスの名前、「トラさん」にした。もちろん、抵抗はしたんだよ?
でも、
「エーベルハルド・フォン・ベルトナールのことはエルと呼んでいるじゃないか」
なんて、言われてしまった。
回数は少ないとはいえ何度も会って、幼い私が難しい名前を言えなくて「エルさん」と呼ぶのが定着してしまったというのとは違い、今日会ったばかりの少年を愛称で呼ぶのはなかなかハードルが高かった。
それでも、人って順応するもんなのよね。いつの間にか、「トラさん」って言ってるもの。
あ、さっきの私の質問に答えていないよ、トラさん。
「外で、何してたんですか?」
重ねて尋ねると、トラさんは少しだけ笑って窓の外へと視線を向ける。
「探し物だ」
「さがしもの? 落としものですか?」
それだったら、一緒に探すこともできたのに。
今現在、厨房でやることのない私は、人の役に立ちたいと切実に考えているのだ。
「……いや、今日はもう良い」
「え……?」
あっさり却下されて呆気にとられた時、
「そこで何をしている」
「!」
厳しい声音にビクッと震えた私の背中を、意外に優しい手つきでトラヴィスが撫でてくれたけど、心臓がバクバクしているよ。
いったい誰? 幼女を驚かさないでもらいたい!




