07.少し成長しました。
「……はぁ」
「ふぅ……」
「あ~ぅ……」
神殿を出た途端、私と両親はそろって深い息をついた。
何だかどっと疲れたよ……。洗礼式ってどんなことをするのかってすごく楽しみにしてたんだけど、いきなり魔石が銀色に光ったり、見知らぬ美少年が出てきたりして、楽しむ時間なんか少しもなかった。
あれから、別室に案内されて、証明書のような紙を渡された。日本で言えば戸籍表だと思う。これで一応、私はここ、え~っとコールドウェル? の国民になったってことなんだろうな。
実感はわかないけど、なんだか一つ大きな仕事をやり遂げた気分はあった。
「リナ、偉かったな」
父さんが大きな手で私の頭を撫でてくれる。
「ちゃんとおとなしくしていてお利口だった。それに、リナが一番可愛かったぞ」
……その最後のセリフはいらないよ、父さん。でも、父さんと母さんが私を守ろうとしてくれたのはすごく伝わったので、私はありがとうの意味を込めてパシパシとごつい頬を叩いた。
「無事に終わってよかったわね、ジャック」
母さんも安心したように笑っている。細い指で頬を撫でられ、私はうひゃっと首を竦めた。
「当たり前だ、俺たちの子だぞ。この国の民に間違いないのに……」
そう言いながら、父さんは少し怒ったように太い眉を顰める。
「冬の夜のような、凛とした美しい黒い髪と瞳を持つリナを、不吉なものと考える奴の方がおかしい」
おぉーい!
父さん、それ重要な情報だから!
(私、やっぱり黒髪だったんだ……)
洗礼式までの短い間でも、一度も見たことがない黒髪の人。パン屋のお客さんの反応ではわからなかったけど、神殿入口にいた神官たちの反応を見ていて……少しだけ、もしかしたらって思っていた。
だって、同じような年ごろの赤ん坊の集団の中、明らかに目が付くなんて変わった外見のせいとしか思えなかった。
私個人としては黒髪も黒い瞳も、日本人として生きていた意識があるから簡単に受け入れられる。むしろ、金髪とか青い髪とかじゃなくて良かったと思っているくらいだし。
でも、この国では少数派……もしかしたら、希少な色かもしれない。それを自覚していないと、また今日みたいなことが起こってしまうかも。
「さて、帰るか」
「ええ。そろそろリナも寝てしまうかもね」
神殿の中でのことはなかったかのように、父さんも母さんも笑いながら家路に向かう。少し遠くには、同じように町中に戻る家族の後ろ姿が見えた。
私は父さんの腕の中からもう一度神殿を振り返る。
(あの男の子……何したんだろう……?)
綺麗な顔で、堂々とした言動で、突然現れたというのにあの場を支配していた。
エーベルハルド。
ちょっと覚えにくい名前だな。
(もう、会うこともないだろうけど……)
確か、宰相の御子って言ってたし、パン屋の娘の私がそんな偉い人に会うなんて今日みたいなイレギュラーなことがない限りはありえない。
ま、私の一番の望みは、健康で平凡な生活だし。
むしろ今日限り会わない方が絶対にいい。
心配しなくても、赤ん坊の意識に嫌でも引きずられている私の記憶力は皆無だ。
そう思うと気楽になって、私は心地良い揺れの中であっという間に眠りに落ちた。
うぅ、寒っ。
私はベッドの上に座り込み、プルっと身を震わせた。
お昼寝から起きたばかりで、カーテンも閉められているせいか部屋の中は薄暗い。
母さんの姿が見えなくてちょっと寂しいけど、私はベッドの上でゆらゆらと体を揺らした。
そう、私はお座りができるようになったのだ!
洗礼式は春の暖かな気候の中であったけど、今はもう秋の終わりでじっとしているとじんわり冷えてくる。
誰か来ないかな。
そう考えていると、元気な足音が聞こえてきた。
「リナッ、ただいま!」
学校に行っていたケインが帰ってきて、両親の寝室にいた私のところにやってくる。
昼寝から起きたばかりの私は、ケインを見て両手を差し出した。
「に~ちゃ」
そうそう! お座りだけじゃないの、話す言葉も少し成長してるの!
例えば、
「か~」
「と~」
「に~」
「ま~ま」
だった言葉が、
「か~ちゃ」
「と~ちゃ」
「に~ちゃ」
「まんま」
……ね? すごい進歩でしょ。
私が《リナ》として生きるようになってから、たぶん半年くらい経ったと思う。
赤ん坊の私は、まだこの世界の時間とか季節の常識がわからないから何とも言えないけど、感覚としてそのくらいの時間は過ぎたはず。
その間、こうして少しおしゃべりもできるようになったし、寝返りも、そしてこうしてお座りもできるようになった。
長かったよ、ここまで……。自分の思うように動かない体をこんなにも恨めしく思ったことはないけど、少し動いただけでも熱が出て寝込んでいた《佳奈》の時の幼いころとは明らかに違うことも感じていた。同じことを何度も繰り返せる体力があるっていうのも嬉しかったし。
結局、人ってない物ねだりをするのよね。
お座りできるまでは思ったより時間はかかったけど、ふふ、その後は結構早かった。
「に~ちゃ、んっ」
私の催促にケインは小さな布靴を履かせてくれた後、両脇を持って床に下ろしてくれる。
「大丈夫か?」
「うん」
しっかり手を繋いでもらえば、なんと、歩くこともできる!
と、言っても、まだ階段は下りれないし、少し歩けば疲れて座り込むことも多いけど、私にとっては大きく世界を広げる第一歩だ。
「に~ちゃ、あい」
ケインに手を繋がれて向かったのはリビング。
わかりやすくそう呼んでるけど、食事をするテーブルがあるだけの部屋。ここは基本的に土足生活みたいで、床は硬い木の板張りだ。
壁も木だけど、一面は石張りで、そこには小さな暖炉が置かれてる。最近は火を入れないと日中も寒くなっているので、目の前の暖炉には既に火がついている状態だった。
「に~ちゃ」
テーブルの前で立ち止まり、私はまたケインを呼ぶ。すると、ケインは子供用の椅子に私を座らせてくれ、その横に自分用の椅子を引っ張ってきた。
「先に絵本読もうか?」
優しく言ってくれているが、私にはわかっている。ケインは私を理由に勉強から逃れようとしている。
「や、に~ちゃ」
「……わかったよ」
(逃がさないよ、ケイン)
季節二つ分で、私はいろんなことを知った。
一つは、ケインの学校のこと。学校というと私は当たり前のように日本の学校のことを思い浮かべたけど、ここでは学校は午前中だけで、昼には家に戻ってくる。昼からはそれぞれの家の手伝いをするのだ。
ケインも学校から帰ってパン屋を手伝ったり、まだ赤ん坊の私の世話をしてくれる。
それはもちろん嬉しいけど、予習復習は大事だと思う。
(店番の時、時々おつり間違えてたし)
パン屋を継ぐのなら、せめて計算はちゃんと覚えておかなくちゃ、将来困るのはケインなんだよ?
だから、私は監視役に立候補した。
学校が終わって帰ってきたケインがパン屋の手伝いに行くまで、少しの間勉強をするのをじっと見ていることにしたのだ。
始めは母さんもケインも笑っていた。赤ん坊の私が必死にお兄ちゃんの真似をしているのだと、ほほえましい感じだったのかもしれない。でも、私はケインの勉強が一定時間終わるまで絶対椅子から離れさせなかったし、強引に終わろうとすると泣いて抗議した。
私の自称監視役が始まってから、ケインの成績はちょっとずつだけど伸びているらしい。そのおかげで、母さんは私の仕事として、ケインの監視役を認めてくれた。
「え~と」
頭を掻きながらケインが始めたのは計算で、その間私はケインが持ってきてくれた絵本を広げる。
「……」
「……」
「……」
「あ、リナ、これはな」
チラチラとこちらを見ていたケインが、嬉々として絵本を覗き込んできた。あ、計算詰まってるのね……。
しかたない。少し気分転換させるために、私はちょうど開いていたページの絵を指さした。
「お~ちゃ?」
「うん、この国の王様の話で……」
絵本には、この国の成り立ちを子供向けに優しく書いてある。他にも、神様の話とか、勇敢な騎士の話とか、この国の絵本は結構種類が豊富みたい。新品じゃなくてお下がりばかりで、時々破れてなくなっているページもあるけど、見ているだけで楽しくなる。
(王様か……)
絵本や、ケインの話から、私は少しずつこの世界の情報を得ていた。
基本的なことで言えば、今私が生きているこの国はコールドウェルという国で、十五の領地からできている。私が住んでいるここは王都、ベルトナールだ。
領地にはそれぞれ領主がいて、ここベルトナールを治めている領主は宰相らしい。国の宰相をしながら、一つの領地、それも王都を治めるなんて大変だろうな。
ケインの話を聞きながら、私は絵本を見下ろす。
(自分で読めたら、もっといろんなことがわかるのに……)
新しい世界に生まれ変わった特典で、この世界の文字が読めたり書けたりすれば本当に楽だろうけど、生憎そんな特典はついていなかった。私はここから、ちゃんと年齢なりの勉強をしなくちゃいけないことが決定している。
幸いっていうか、計算能力は日本時代の知識が残っているので、数字さえ覚えれば何とか行けそうだ。これで家の手伝いは大丈夫だろう。
二十歳までの記憶があるから大変だけど……。
もう一度小学生から始めるつもりで頑張ろう。
あ、でも、私、まだ赤ん坊だけど。
(そこまで考えるのはまだ早いか)