54.絶体絶命のピンチです。
単に入れ違いになっただけなのか、それとも……。変な想像をしそうになって、私は慌てて首を横に振る。
「と~しゃん、まじゅーバルツァルってどんなまじゅー?」
すごく危険なのか、それとも甘大蜂みたいに人に害のない魔獣なの? 私にはわからなくて父さんに聞くと、代わりにヘンリクが答えてくれた。
「バルツァルは幻惑を使うんだ。相手にとって一番大切なものを見せて引き寄せ、そのまま食らうって……聞いたことがある」
くらう……って、食べる? 人間を? そんな恐ろしい生き物が、こんなにも近くの森の中にいるってこと?
私は蒼褪めた。だったら、母さんはもしかして惑わされて? ……まって、そんなこと考えるのも嫌だから!
私が体を震わせていると、父さんは一度硬く目を閉じ、次に私を見て、ケインを見て、もう一度目を閉じてから唸るように言った。
「ケイン……リナを見ていてくれ。父さんは母さんを探しに行ってくる」
私の目の前にあるこぶしは硬く握りしめられていて、細かく震えているのが見える。
母さんのことが心配だけど、私とケインのことも心配だと思っているのがよくわかった。
そして、それはケインも同じ思いだったらしい。
「俺も、探しに行く!」
「ケインッ」
「俺も、母さんが心配なんだ!」
「危ないぞ、ケインッ」
「子供が行くんじゃないっ」
ラウルもヘンリクもそう言って止めるけど、ケインは唇を噛み締めてじっと父さんを見上げてる。その表情は、絶対に諦めないって言っているみたいだ。
(私だって、行けるもんなら行きたいよっ)
もちろん、幼児の私はどう考えたって足手まといだ。
だけど、魔物を退治するのに人手は多く割けられているだろうけど、たった1人のために衛兵や騎士は動いてくれるはずがない。母さんを探す人手は、1人でも多い方がよかった。
だから、私は頷いた。
「リナ、おるしゅばん、しゅる」
「リナ」
「ちゃんと、おうち、いるっ」
だから、母さんを探してきて!
私が必死に父さんを見上げると、父さんは握ったこぶしに更に力を込めた後、ヘンリクに向かって頭を下げる。
「すまない、俺とケインはアンジェを探しに行く。リナのことを頼むっ」
「……わかったよ」
ケインまで行くことに難色を示していたヘンリクも、父さんのその言葉に反論できなかったみたい。
すぐに走り出した2人の背中を見送ると、ヘンリクが腰を屈めて私の顔を覗き込んでくる。
「うちに行こう」
でも、私は頷かなかった。帰ってきた家族を迎える人が家にいないと。
「リナ、おうちにいりゅ」
「でも、1人じゃ……」
「おうち、でないよ」
頑固に言い張ると、ヘンリクも説得を諦めたらしい。
「わかった。でも、何かあったらすぐにうちにおいで。……いや、何かあったら俺が迎えに来るから」
「……ありあと、へんりくに~ちゃ」
ヘンリクだって守らないといけない家族がいるというのに、こんなに私を気遣ってくれている。
(本当にありがとう、お兄ちゃん)
私だって、1人で家にいると言い張るのが我が儘だっていうのはわかってる。父さんだって、私がマーサおばさんのところにいる方が安心だと思う。でも、ここに、うちにいる方が私自身安心できるんだ。
私が家に入ってドアを閉めると、ラウルとヘンリクはようやく家路についた。
たった1人になって、私は落ち着かないまま店の中をウロウロと歩き回る。
ケインの学校がどこにあるのかわからないけど、学校に迎えに行った親は母さん1人じゃないはずだ。母さんだけその魔物に惑わされる可能性ってある?
さっき入ったばかりの情報を一生懸命吟味してみるけど、情報少なすぎるよ……。
「……」
ふと、右手がほんのりと温かくなった。
さっき父さんに呼ばれて慌てて二階から下りてきたので、あの小さな水晶玉を持ったままだったことに今さらながら気づいた。
(エルさん……)
もしも、これがお守りなら、どうか母さんを助けて。母さんのところに私を連れて行って、お願い!
行けないからこそ、そんなことを考えてしまう。
(お願い、神様っ!)
どの神様に祈ったらいいんだろう。
私は水晶玉を強く握りしめたまま、ただただ祈った。
「かみしゃま、おねがい!」
その途端、手の中のものがさっきとは比べ物にならないほど熱くなる。慌てた私は顔を上げたけど、視界がぐにゃりと歪んで、ふっと意識が遠くなった。
お金持ちじゃないけど、健康な体で生まれて、仲のいい家族がいて。私にとってこの不思議な世界での二度目の人生は、そんなに悪いものじゃないって思ってた。
でも、こんな怖い生き物がいるなんて……。平和な日本とは違う、命の危険というものが本当にすぐ側にあるなんて、こんなギリギリになるまで知らなかった。
「……」
ん……頬っぺたがチクチクする。
青臭い匂いがして、風が頬を撫でて。家にいるはずなのに外にいるような感じに、私はまだ頭の中がグルグルしていたけど、一生懸命目を開いてみた。
「……え……?」
目の前に、草があった。
「ここ……」
視線を巡らせれば高い木々があって、どう考えたってここが私の家じゃないってことはわかる。
でも、どうして? 私、家にいたよね? いつの間に外に……っていうか、ここ、どこ?
私はゆっくり立ち上がる。周りには家はなくて、どう考えたって森にしか思えないんだけど……。
「……もり?」
呟いて、私のぼんやりとした意識が急速に覚める。
ギャアアアアア!!!
同時に、家で聞いたあの不気味な鳴き声がさっきよりも大きく聞こえて、私は慌てて近くの木の陰に隠れた。
ど、どうしてかまったくわからないんだけど、私、森に来ているんだよね? どうやって?
空を見上げると、木々の間から真上にある太陽が見える。あれから時間はまったく経っていないみたい。
私は自分に起こったことをどう考えて良いのかわからなかった。
そんな時だ。
「ケイン、こっちに来なさいっ」
「!」
(母さんっ?)
聞き慣れた母さんの声に、私は反射的に身体が動いた。
幼児の私に機敏な動きができるはずがない。それでも私は出来るだけ急いで声が聞こえた方へと走る。
やがて、森の中のぽっかり開けた場所が見えて、差し込む光の中に立っている母さんの姿を見つけた。
「か~しゃん!」
私は叫んだけど、母さんはこっちを向いてくれない。
「ほら、ケイン、そっちは危ないわ!」
「か~しゃん!」
「まって、母さん、すぐにそこに行くから」
どうして? まったく私の声が聞こえないような母さんに、私は混乱した。母さんの視線の先に、当然だけどケインはいない。今頃ケインは父さんと一緒に母さんを探しているはずだもん。じゃあ、母さんは何を見ているの?
「バルツァルは幻惑を使うんだ。相手にとって一番大切なものを見せて引き寄せ、そのまま食らうって……聞いたことがある」
私の頭の中に、さっきのヘンリクの話が蘇る。
幻惑で、一番大切なものを見せる……。母さんはケインを迎えに行っていて、ケインの無事が一番頭の中にあったはず。だったら……。
そこまで考えて、私はまた母さんに向かって走って。母さんが向かう先にいるのはケインじゃない。そこには恐ろしい魔獣がいるかもしれない。
自分では急いだつもりだけど、結構時間が掛かってしまった。それでも、あと数十メートルで母さんに追いつく。
「……あ、何?」
追いかける角度が変わって、私は母さんの真後ろを走る格好になった。そのおかげで、母さんが向かっている先のものが良く見える。そこにいたのはすごく大きな、イノシシのような動物だった。
二つの牙に、額の角。鼻は少し出ていて、四つん這いでも2メートル以上、立ち上がったらきっと4、5メートルはありそうなその動物は、真っ赤になった目をこちらに向けてる。
口から大量に涎を垂らしていて、灰色の硬そうな毛が逆立っている様子を見ると獣臭そうに思えるのに、不思議と漂っているのは甘い匂いだ。
(これって……)
獣……魔獣バルツァルは、私の存在にも気づいているはずだ。無意識に唾を飲み込んだ私は、どうすればこの場から母さんと一緒に逃げられるのかを考える。
この魔獣の討伐にたくさんの人が駆り出されているのは知っているけど、人の気配は今のところまったく感じない。助けを求められる人は近くにいないみたいだし、どう考えたって私と母さんじゃ逃げ足は期待できない。
私が使える魔法は水と、ほんの少しの光の魔法だけで、攻撃なんてまったくわからなかった。
(そもそも、術語を習っていないんだもんっ)
どうしたらいいのか、私は足音を出来るだけ立てないよう、ゆっくり母さんに向かって歩く。その分、魔獣とも接近するので怖くて仕方がないけど、今ここで見つけた母さんを摑まえられないなら意味がない。
「か~しゃん」
小さな声で呼んでみると、魔獣に向かって歩いていた母さんの足が止まった。
(私の声、聞こえてる?)
それなら、もう一度だ。私は更に慎重に足を運ぶ。
「か~しゃん」
今度はもう少し強い声で呼ぶと、
「……リナ?」
母さんは後ろを振り返って私の姿を見てくれた。
ぼんやりと膜を張ったような母さんのうつろな目が、私の姿を捉えてから徐々に大きく見開かれたのがわかる。
(よ、良かった)
とりあえず魔獣に操られているような最悪の状況は避けることができた。私は今にも零れそうになる涙をぐっとこらえて、ゆっくりと口を笑みの形にしたけど。
ギャウア!!
同時に、真っ赤な口中と鋭い牙を見せつけるように、目の前の魔獣が大きく口を開けた。
後2日ほどで、150万PVになります。
そのお礼に、今週末にはまた、番外編を書こうと思っています。




